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藍玉の章 ~アクアマリン~
10.追想の人魚姫2
しおりを挟む初恋という熱病に浮かされたエスコルチアは、美しい魚の尾ひれと人よりはるかに長い寿命を捨て、ただの人間になることを望んだ。
けれど、望んだところでそんなこと、普通に考えればできるわけがない。そう、普通は…………
そんな無茶を通せる存在、それが――魔法使い。
望みに見合った代償と引き換えに奇跡を起こす、稀有の存在。
満月のひんやりとした光の下、エスコルチアは歌う。
若者へのとめどない想いを、今のままでは添い遂げることができない悲しみを。歌声に魔力を乗せ、切々と歌う。まるで、誰かへと訴えかけるように。毎日、毎日。
そしてそれは、ある日唐突に現れた。
「何が望み?」
浅瀬の岩に腰かけ歌っていたエスコルチアの隣に、いつの間にやら現れた黒い影。それは、淡々と彼女に問う。
「何が望み? 何か望むことがあるから、こうやって私を呼んだんだろう?」
音を聞くことのできないエスコルチアに語りかけるのは、夕焼けの色をまとった獣人。パーウォーと同じく、いや、それよりも、もっとはっきりとした思考を伝えてくるのは――
「私は朱の魔法使いサンディークス。さあ、きみの望みを聞かせて」
ようやく目の前に現れた魔法使い。エスコルチアはその僥倖に歓喜した。
『人間になりたい! 人間になって、あの人の、クエルクスの隣に立ちたい! クエルクスと魂を分かち合い、死がふたりを分かつまで共にいたい。私は、人間になりたい!!』
エスコルチアの心の叫びに、サンディークスは不思議そうな顔を返す。
「本当にそんなのでいいの? 音が聞こえるようになりたいとか、寿命を延ばしたいとか、そういうのじゃなくて?」
エスコルチアはその問いに頭を振ると、瞳に力を込めてサンディークスを見据えた。
『私は、人間になりたい。海の上の世界で、あの人と共に生きていきたい。私の望みは、それだけ』
揺るぐことない強いエスコルチアの意思に、サンディークスは呆れ顔を浮かべた。そして鼻から軽く息を吐きだすと、「まあ、いいか」とうなずく。
「いいよ。代償さえ支払ってくれるのなら、きみを人間にしてあげる」
サンディークスの返答に、エスコルチアはぶどう色の瞳を輝かせ、白い頬をばら色に染めあげた。けれどサンディークスは、そんなエスコルチアを見てあきれたように鼻を鳴らす。
「きみを人間にする代償、それはきみの歌声だよ」
サンディークスの示した代償に、エスコルチアの顔から一瞬にして喜びが消えさる。不安と戸惑いに揺れるエスコルチアへ、サンディークスは淡々と説明を続けた。
「一度人間になってしまえば、もう二度と人魚には戻れない。それにね、きみを完全に人間にするには、もう一つ条件があるんだ」
サンディークスの言葉に、こくりと息をのむエスコルチア。そんな彼女の様子などおかまいなしに、サンディークスはやはり淡々と続ける。
「人間がきみのことを、この世界の誰よりも一番、心の底から愛するようにならなければならない。そしてたとえ死が二人を引き裂いたとしても、互いに愛を捧げ続けることを神に誓わなければいけない。そこで初めて、相手からきみに人間の魂が分けてもらえるんだ。……ねえ、きみにそれができる? 音も歌も失ってしまったきみを、その人間が愛すると思う?」
悪気ない、あくまでただの確認として問うサンディークス。それは、エスコルチアのばら色に染まっていた頬を月の光のように白くした。うつむき、微かに震える彼女に、サンディークスはなおも告げる。
「それにね、もしもその人間の心がきみから離れてしまったら、きみは次の朝には海の泡になって消えてしまう。きみは人間にもなれず、欲しいものも手に入らず、すべてを失って消えるんだ。人間の心はとても儚く、そして移ろいやすい。ねえ、それでもきみは望むの?」
淡々と事実を並べるサンディークス。その言葉には同情も侮蔑もなく、ただ思ったことを口にしているだけ。
「答えが出たら、明日の晩またここへ来るといい。きみが望むというのなら、私はそれを叶えよう。朱の魔法使いサンディークスの名にかけ、きみの望みを叶えることを誓う」
魔法使いの宣誓をすると、サンディークスはエスコルチアの手を取り、小さな赤い石を握らせた。そして立ち上がると、サンディークスは持っていた木の杖を一振りする。すると、彼の目の前に赤く塗られた木の扉が現れた。
「いちおう、説明はしたからね。じゃあ、いい答えを待っているよ」
ふっと目を細め笑うような表情を作ると、サンディークスは扉の向こうへと消えていった。そして扉が閉まった瞬間、すべては煙のように消え去り……
戻ってきた静寂の中、エスコルチアは一人ぼうっと海を眺めていた。
――これは、夢? もしかして私、いつの間にか眠ってた?
あまりにも都合のよい魔法使いの登場に、エスコルチアは一瞬、これは自分の願望が見せた夢なのではないか……そんな風に自分の認識を疑ってしまった。けれど、エスコルチアの手の中には確かに小さな赤い石が残っており、これが夢ではないことを主張していて。
エスコルチアがサンディークスと取引していたその頃、城ではパーウォーがイライラと落ち着かない様子で彼女の帰りを待っていた。
今、彼の胸の内を占めるのは、いいようのない不安と焦燥。エスコルチアがふらふらと出かけるのは今に始まったことではないというのに、今夜のパーウォーの胸の内は、まるで嵐の海のように荒れ狂っていた。
眉間にしわを寄せ、よく透き通った琥珀でできた窓から海の上を眺めてはため息をつく。そして部屋の中をうろうろと泳ぎ回り、また窓へと戻ってきては遥か遠い海の上を睨みつける。パーウォーはこの一連の動作を飽きることなく、延々と繰り返していた。
黒かった海が少しずつ青さを取り戻し、やがて夜が明けようかという頃、ようやくエスコルチアは帰ってきた。
「コル! どこ行ってたの? 大丈夫? もう、何があったのよ」
帰ってきたら開口一番文句を言ってやろうと待ち構えていたパーウォー。けれど、エスコルチアの血の気の引いた白い貝殻のような顔を見た瞬間、そんな考えは吹き飛んでしまっていた。
彼女はいつも通り笑いかけたつもりだったのだろうが、それはパーウォーには泣いているようにしか見えなくて。今もエスコルチアから伝わってくるのは、大きな歓喜と……ひとさじの悲しみ。
「コル、コル、何を悲しんでいるの? ねえ、海の上で一体、何があったの? ……もしかして、人間に何か、された?」
少しの沈黙の後、ふいに剣呑な雰囲気を放ち始めたパーウォーに、エスコルチアは慌てて首を振ると否定の意を伝えた。
「コル……アナタ、いったい何をしようとしているの? ねえ、一人で、何を決めてしまったの?」
パーウォーの問いを、エスコルチアは今日も曖昧な笑みで流した。けれどパーウォーも、先ほどの蒼白なエスコルチアの顔を見た後では、いつものようにそう簡単には引けない。そうやってどちらも引かないまま、じりじりとした沈黙だけが降り積もっていく。
「…………コル、お願いよ。お願いだから、一人で無茶なことをしないで。心配なの。いつかアナタが、消えてしまうんじゃないかって。全部一人で決めて、どこかへ行ってしまうんじゃないかって」
――置いてかないで。ワタシを、一人にしないで……
パーウォーから伝わってくる心に、エスコルチアの決意が少しだけ揺れる。けれど、パーウォーの気持ちに応えることのできないエスコルチアには、その心を受け止めることはできなかった。できもしないくせに無責任に受け止めてしまったら、きっとエスコルチアもパーウォーも、どちらも不幸になる。
『ごめん、ごめんなさい』
エスコルチアから伝わってくる悲しみに、罪悪感に……パーウォーはゆるゆると首を振った。
「ワタシには、コルしかいないの。でも……」
エスコルチアの肩に額をつけ、パーウォーは震える声で訴えた。一人になることに怯える弟を、エスコルチアは強く抱きしめる。そしてもう一度、やはり『ごめんなさい』と伝えた。
「本当はね、ずっと前からわかってた。ワタシのこの気持ちは、コルを困らせるものだって。……でも、それでも。簡単には、諦められなくて。ワタシは……コルしか知らないから」
生まれてからずっと、城の奥に閉じ込められていたパーウォー。きれいな狭い世界しか知らなくて、対等に接してくれるのはエスコルチアだけで。
「でも、もういいから。弟としてで、いいから。もう、コルのこと困らせない。だから、全部一人で抱え込まないで。……黙っていなく、ならないで」
パーウォーの優しい決意に、エスコルチアも覚悟を決めた。それがパーウォーの心を、一時的にひどく傷つけるだろうということはわかってはいたが。けれど、このまま黙っていなくなるのは、もっと深く彼を傷つけてしまうから。だから、エスコルチアは包み隠さず、全てを伝えることを決めた。
血のつながりはないけれど大切な家族、愛しい弟。その初めての恋、それは想いを向けられた自分が幕を閉じるべきだろう、と。
『私ね、初めて恋をしたの。彼と一緒にいると、泣きたくなるほど幸せな気持ちになるの』
エスコルチアの心の声に、パーウォーの眉が苦し気に寄せられる。大切な弟にそんな顔をさせてしまったことに、エスコルチアの胸をちくちくとした痛みが襲う。けれど、けじめをつけるため、二人が前に進むため。エスコルチアはその痛みを押さえつけ、なおも気持ちを伝えた。
『私は彼と生きる。もう、決めたの。私は、人間になる』
エスコルチアの決意にパーウォーは顔を上げると、彼女の顔を真っ正面からまじまじと見つめた。
「コル……アナタそれ、本気で言ってるの? 人間になるって、そもそもどうやって――」
『魔法使い』
「魔法使い? 何言ってるの、そんなの簡単に会えるはずないじゃない。会えたところで、そいつらがそんな簡単に願いを叶えてくれるかなんてわからないのよ」
まだ自分が魔法使いだと知らなかったパーウォーは、エスコルチアの言っていることがただの無茶にしか思えなかった。
けれどエスコルチアは、苦虫を噛み潰したような顔のパーウォーに「大丈夫」と微笑む。
『もう、会ったの。彼は言ったわ。代償を支払えば、私を人間にしてくれるって』
「代償? 待って、代償ってなに!? コル、もう返事してしまったの?」
慌てるパーウォーにエスコルチアは苦笑いを浮かべると、ゆるゆると首を横に振る。けれどすぐに口元を引き締めると、エスコルチアは再びパーウォーをまっすぐと見つめた。
『明日の夜。もう一度、彼……朱の魔法使いサンディークスに会うわ。そして私は、人間になる』
けれど翌朝、エスコルチアはマルガリートゥム王の指示によって急遽幽閉されることとなった。
今まで彼女がどこをふらふらしていてもまったく気にもとめなかった王は、突如その外出を禁じたうえ、はめ殺しの窓しかない部屋に閉じ込め、ご丁寧に扉の前に見張りまでつけた。そのあまりに唐突な変わりように、王宮の中にはさざ波のような不安が広がっていった。
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