貴石奇譚

貴様二太郎

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藍玉の章 ~アクアマリン~

 9.追想の人魚姫1

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 青く透き通った、深い深い海の底。人魚たちが暮らす国――

 海底都市マルガリートゥム

 生きた人間は決して辿り着くことのできない、美しく揺らめく水底みなそこの都。
 白亜の城を中心に、上へ下へと広がる城下町。それら全てを、わずかに差し込む光が青く染め上げる。

 そんな人魚たちの国にある日、一人の魔法使いが生まれた。
 桃色蛋白石ピンクオパールのような珊瑚色の鱗に金の髪、深い海のような青い瞳に整った顔立ち――パーウォーと名付けられたその子供は、魔法使いとしては破格の力を持って生まれてきた。けれど、今はまだ赤子の身。彼がそんな力を持っているとは、周りの者は誰も気づいておらず……

 海藻の森の中、赤子のパーウォーが一人泣いていた。周りには親どころか、人影一つない。
 なぜ、一人ではまだ何もできない幼子が森に捨て置かれているのか。なぜ、誰も彼に近寄ろうとしないのか。
 その原因は、パーウォーが魔法使いの力と引き換えに失ってしまったものにあった。

 ――――音感

 パーウォーは、人魚としては致命的な欠陥を持って生まれてきてしまった。
 歌に魔力を乗せ力を使う人魚たちにとって、歌えないなどありえないことだった。人間の赤子が泣くように、人魚の赤子は美しい声でさえずる。人魚という生き物は、生まれた瞬間から歌い始めるのだ。
 しかし、パーウォーは歌が歌えなかった。正確には――心地よい旋律――を奏でることができなかったのだ。
 赤子のパーウォーが歌った途端、周囲の人魚たちは皆反射的に耳をふさぎ逃げだす。脳を揺さぶる歌、それは親にも例外ではなく。他の人魚たちのように逃げられないパーウォーの両親は、その聞くにえない我が子の歌に追い詰められ、見る間に疲弊していった。
 そしてついにある日、とうとう耐えきれなくなったパーウォーの両親は、彼を町から離れた海藻の森に捨ててしまったのだ。
 
 森の中、火がついたように嘆き歌うパーウォー。その人の気持ちを逆撫でするかのような歌声に彼の強い魔力が加わり、いつしか森はゆらゆらと奇妙な円舞えんぶを始めていた。

 そんな異様な森の中、一人軽やかな歌を口ずさみながら泳ぐ美しい人魚の少女がいた。
 真珠色の鱗は仄暗ほのぐらい森の中でも白色蛋白石ホワイトオパールのように輝き、白銀の髪は羽衣ほごろものように彼女と踊る。
 揺らめく森を歌いながら進む少女。やがて彼女は、嘆き歌う小さなパーウォーを見つけた。薫衣草ラベンダー色の瞳を見開き慌ててそばに行くと、少女はえいっとばかりにパーウォーを抱き上げた。
 少女が勢いよく抱き上げたことによりパーウォーが驚き、歌が止まった。そして少女は嬉しそうな笑顔を浮かべると、子守歌のつもりなのか、パーウォーを抱えたまま歌い始めた。パーウォーの方はといえば、少女の歌がよほど気に入ったのか、すっかりと上機嫌になり、きゃっきゃと笑い声を上げ始めた。

 捨てられていたパーウォーを拾ったのは、マルガリートゥム王の十三番目の娘――末の人魚姫、エスコルチアだった。
 パーウォーの悪魔のような歌声に、嫌な顔一つ見せないエスコルチア。それは彼女が聖人のような人格だったから……というわけではない。単に彼女が音を聞くことができない、つまり聴力を持っていなかったからだった。そのおかげでパーウォーは命を救われ、エスコルチアに保護されることとなった。
 もちろん王もただの子供を、しかも壊滅的な歌が原因で捨てられた子供を、普通ならばそこまで手厚く保護することはない。エスコルチアの腕の中で眠るパーウォーを見て、その規格外の魔力と大きな欠点を見て、彼が魔法使いだと確信したからこその保護だった。

 パーウォーは城の中――それも最奥の女の園で、王とエスコルチアの庇護のもと、ひっそりと隠されるようにして育てられた。美しい女たち、美しい庭園、美しい歌声……とにもかくにも様々な美しいものに囲まれて、パーウォーはすくすくと成長していった。
 ただし、その壊滅的な歌のせいで、エスコルチア以外の人魚たちからは見向きもされなかったが。


 エスコルチアに拾われてから十三年。パーウォーは美しい少年へと成長していた。金の髪に海色の瞳、特にしなやかな身体と珊瑚色の尻尾は少年期特有の危うさと倒錯的な美しさを醸し出し、男女問わず見る者を魅了してしまう始末。
 ただし彼が喋った途端、皆なんとも言えない顔をする。それは城の奥深くで女だけに囲まれて、彼女たちのみから言葉を学んだ弊害へいがいだった。そして歌った瞬間、皆が一斉に逃げ出すのは相変わらずだった。

「コル! アナタ、また一人でお城を抜け出したわね!」

 毎度聞き流されるとわかっていても、パーウォーはつい声を荒げないではいられなかった。目の前で柔らかく薄い布をまとってご満悦なエスコルチア。そんな彼女を見て、パーウォーは深いため息をもらす。
 城の奥深く軟禁されているパーウォーと違い、エスコルチアは外出が許された十五の誕生日以降、毎日のように城を抜け出してはふらふらとしていた。そして珍しいもの、きれいなものを持って帰ってきては、外へ出ることを禁じられているパーウォーへと与えるのだ。案の定、エスコルチアはパーウォーにその美しい布を差し出してきた。

「……ありがとう」

 にこにこと満面の笑みで、楽しそうにパーウォーを飾り立てるエスコルチア。その嬉しそうな顔に、パーウォーの顔もつい緩んでしまう。

「コルは本当に人間の使うものが好きよね。こんな布、ここじゃ何の役にも立たないし、すぐにボロボロになっちゃうのに」

 嫌味などどこ吹く風。エスコルチアは飾り立てたパーウォーを眺めると、満足そうに笑った。そして、その喜びを歌にのせる。
 エスコルチアは口がきけないわけではない。聞こえないから、言葉を覚えることができなかっただけ。けれど、歌は歌える。それは、人魚に備わった本能だったから。

 パーウォーは、そんなエスコルチアの歌が一番好きだった。彼女より美しい歌を歌う人魚はもちろんいたが、パーウォーにとっては、彼女の歌は他の誰のものより好ましかった。幼いころから子守歌として聞き馴染んでいたこともあるが、なにより彼女の歌は、パーウォーの心を温かいもので満たす。

「ねえ、コルは海の上の世界に憧れているの?」

 パーウォーの問いかけに首をかしげると、エスコルチアは少しだけ何かを考える様子で宙を見つめた。そしてパーウォーに視線を戻すと、にっこりと笑ってうなずいた。
 音のない世界で生きるエスコルチア。けれど、パーウォーの声だけは別だった。パーウォーの声だけは――正確には言葉というより考えが――彼女に届く。
 その当時のパーウォーには知るよしもなかったことだが、それは彼が無意識に使っていた魔法使いの力のおかげだった。まだコントロールなどできない未熟な魔法だったが、そのおかげでパーウォーはエスコルチアに気持ちを伝え、また彼女の気持ちを知ることができていたのだ。

「地上って、そんなにいいところなの? コルの姉姫たちもみんな十五の誕生日に海の上へ行ったみたいだけど、結局は海の中の方がいいって言ってたわ。ねえ、コルは十五の誕生日に何を見たの? なんで、そんなに地上に憧れるの?」

 口を尖らせ眉間にしわを寄せ、パーウォーは面白くなさそうにエスコルチアに問う。この小さな潮だまりの中のような生活で、パーウォーの唯一のよりどころはエスコルチアだけだというのに。それなのに彼女は誕生日以降、毎日のように城から出て行ってしまう。パーウォーを一人残して。

「ねえ、コル。海の上の何が、アナタの心をそんな風にとらえて放さないの?」

 何度も何度も、エスコルチアが海の上へ行くたびに繰り返された問い。それに彼女はいつも困ったような笑みを浮かべるだけで、決して答えてはくれなかった。パーウォーはそれがとても不満で、そして悲しかった。いつか泡のように消えてしまいそうな彼女が怖くて、その華奢な身体を抱きしめ囁く。

「コル、エスコルチア……ワタシはアナタが、好き。家族としてではなく、一人の女性として……好き。だからお願い、どこにも行かないで。ワタシを一人に、しないで」

 ゆらゆら揺蕩う薄布に包まれ、少年は少女を抱きしめ懇願する。けれど少女は悲しそうに困ったように微笑むだけで、決して首を縦には振ってくれなかった。ただ「ごめんね」とだけ伝え、抱きしめる少年の頭をなでていた。


 十五の誕生日を迎えたエスコルチアは初めて海の上に出て――そして、人間に恋をした。
 温かな赤茶の髪に瑞々しい緑の瞳をした、とても気の良い若木のような若者だった。初めての海の上に夢中になり、気づいた時には潮だまりに取り残されていたエスコルチア。そんな彼女を、若者は笑いながら海へと運んでくれた。人魚である彼女を見ても嫌な顔をせず、困っているなら当然だとばかりに助けてくれた。
 それからエスコルチアは毎日海の上に通い、若者と逢瀬を重ねた。パーウォーと違い何を思っているのか全く分からなかったが、それでも身振り手振りで懸命に気持ちを伝えてくる若者が愛おしく、エスコルチアはその初恋にすっかりと溺れてしまった。
 パーウォーが寂しがっていることもわかっていた。そして自分に対して、家族ではない想いを抱いていることも伝わってきていた。けれど、それでもエスコルチアは、日々大きくなっていく若者への想いが止められなかった。

 そして小さな初恋の物語は、悲劇の坂を転がりおちていく――
  
 
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