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藍玉の章 ~アクアマリン~
2.足りない心
しおりを挟む驚き立ちつくすマーレに向かって、パーウォーは近くの長椅子に座るようにうながした。
「あ、助けてくれてありがとう。えーと、パーウォーさん、でいいのかな?」
「どういたしまして。ええ、それでけっこうよ。改めまして。ワタシはパーウォー、海の魔法使いよ」
パーウォーが誇らしげに胸を反らし答えると、ぱあっと顔を輝かせたマーレがガラス張りの背の低い卓子に両手をつき身を乗り出した。
「うわぁ、初めて見たよ、本物の魔法使い! 僕もあちこち旅してきたけど、魔法使いには会ったことなかったなぁ」
――魔法使い
それはこの世界で、最も希少な種族。
かつておとぎ話の中で活躍していた彼らは、人間との戦争をきっかけに一度この世界から姿を消した。
それから長い時を経て、この世界には新たな魔法使いたちが誕生した。しかし彼らは、いつ、どこに、どうやって生まれてくるのか……そのすべてが謎に包まれていた。
新しい魔法使いたちは、基本一代限り。たとえ魔法使い同士で番ったとしても、その子供が魔法使いとして生まれてくるわけではない。ある日突然、種族問わず生まれてくる。それが現在の魔法使いという種族なのだ。
「そりゃそうでしょうよ。ワタシたち魔法使いは特殊だし、そもそも他の種族に比べて圧倒的に数が少ないもの。その魔法使いの中でも稀有なこのワタシに会えたなんて、マーレちゃんは相当運がよかったのよ」
興奮するマーレに気をよくしたパーウォーが得意気に鼻を鳴らした。
「うん、知ってる。だって、運と見た目と逃げ足が僕の取り柄だもん。へー、それにしても本当に初めて見たよ、魔法使い。ねえ、魔法使いってみんなパーウォーさんみたいな恰好してるの? それって魔法使いの装束とかなの?」
目を輝かせながら子供のように質問してくるマーレに、パーウォーから思わずといった笑みがこぼれる。今までのパーウォーを見た者の大半の反応は、ぎょっとする、呆然とする、恐れおののくだったからだ。
「マーレちゃん、アンタ人から変わってるって言われない?」
「うーん、どうだろう? それよりその服、ねえ、それって魔法使いの装束なの?」
「やっぱり変わってるわよ、アンタ。で、えーと、この服? これはワタシの個人的な趣味よ。魔法使いだって人間や石人と同じ。それぞれ趣味だって違うし、主義主張だって異なるもの」
パーウォーの答えに満足したのか、マーレは長椅子に座り直すと、今度は部屋の中をきょろきょろと観察し始めた。その儚げで優美な外見に反する落ち着きのない子供っぽさに、パーウォーから苦笑いがこぼれる。
「ちょっとは落ち着きなさいな。で、マーレちゃん。本題に入ってもいいかしら?」
「本題?」
「……アンタねぇ。最初に言ったでしょ、助ける代わりに代償もらうって」
「ああ! そういえば言ってたねぇ。じゃあさ、何あげればいい?」
どこまでも軽い調子で答えるマーレに、パーウォーは思わず頭を抱えてしまった。この子、よく今まで一人で生きてこられたな、と。
「マーレちゃん、取引を持ちかけたワタシから言うのもなんだけど……アンタ、もっと警戒心ってもの持ちなさいよ!」
「ええ、なんで怒られるの!? だって、パーウォーさんならそんな酷いことしないでしょ? 僕の勘がそういってるもん」
まるで当たり前のように返され、思わず絶句するパーウォー。
自分のこの姿と悪名高い魔法使いという種族に、なぜそこまで信頼を寄せられるのかと。パーウォーは目の前のマーレの思考回路が本気でわからなかった。
「勘ってアンタ……。まあいいわ。じゃ、代償の件だけど――」
パーウォーの求めた代償、それは彼の着せ替え人形になることだった。
「パーウォーさーん、次、どれ着ればいいのー?」
「次はこっちよ。この前掛け裾一式着てちょうだい」
色とりどりの線帯や縁飾てんこ盛りのいくつもの女性用の服が広げられた部屋の中、マーレののんびりした声と事務的なパーウォーの声が響く。
着せ替え人形――それはすなわち、パーウォーの趣味に付き合うということだった。
「でもさぁ、なんでこんなにいっぱい女の子の服あるの? パーウォーさんが着るにはちょっと小さいみたいだし……何に使うの?」
「女の子の服じゃないわよ。ここにあるのは全部男の子に向けて作った服。こういうかわいい服が着たい男の子のための服だもの」
着替えたマーレをひとしきり眺めた後、細かい調整を始めるパーウォー。
「ふーん。でもこんなにたくさん、いったいどうするの?」
「今度、お店を開こうと思ってるのよ。表向きは女の子向けのお店として、その実男の子向けのお店を、ね。はい、次はこの民族衣装一式。で、その次はこっちの襟の詰まった正装」
いくつもの服を着せられては脱がされ、そろそろ日が沈もうかという頃、ようやくマーレは着せ替え人形から解放された。へとへとになり思わず座り込んでしまったマーレに、パーウォーが「お疲れ様」と冷たい水の入った杯を差し出す。
「あー、もうお腹ペコペコだったんだよ。ありがとう、パーウォーさん」
薄桃色の泡のように膨らんだ裾を着たまま、渡された水をごくごくと一気飲みするマーレ。パーウォーはそれをただ呆れたように眺めていた。
「しっかしアンタ、よくなんのためらいもなく着たわねぇ。普通、そういう趣味持ってない子たちは嫌がるわよ。マーレちゃんからは、そういうの感じなかったんだけど……」
「えー、だって服着るだけじゃん。ほら僕、この通り顔はいいでしょ? 大抵のものは似合うからさ、女物でも男物でもどっちだっていいんだよ」
そう言ってドレスのすそをちょんと持ち上げ、にっこりと笑うマーレ。その堂々とした姿にかえって清々しさを感じてしまい、パーウォーは思わず吹き出してしまった。
「マーレちゃん、アンタほんっと面白い! 気に入ったわ。そんなマーレちゃんに、ワタシからのプレゼント」
パーウォーはマーレの手を取ると、その手のひらの上に緑色の木目模様の石を置いた。
「孔雀石?」
「そ、孔雀石。ワタシのシンボルよ。マーレちゃん、もしこの先、アナタにとって何かとても困ったことが起きたなら……その石で、ワタシを呼びなさい。一度だけ助けてあげる」
嚙み含めるように、マーレの瞳をまっすぐ見つめながらパーウォーが言った。そんなパーウォーに、マーレはへらりとした笑みを返す。
「ありがとう。パーウォーさんはさ、やっぱりいい人だね。僕の勘、百発百中だ」
「調子に乗るんじゃないの。確かにマーレちゃんは稀に見る幸運の持ち主で勘もいいのかもしれないけど……過信はダメ。いつか、足をすくわれるわよ」
パーウォーはマーレの額を軽く小突くと、少しだけ眉を寄せて忠告した。けれどマーレは全く懲りた様子もなく、相も変わらずふわふわと「大丈夫だよぉ」などと笑っている。
パーウォーはそんなマーレにため息をつくと、力なく首を振った。
「これはお節介な魔法使いからの忠告。マーレちゃん、今はまだそれでも何とかなるかもしれないけど……そのままじゃいつか、本当に大切なものが出来た時、きっと困ることになると思うわ」
困ったような憐れむような、なんとも言えない微妙な表情を浮かべ忠告するパーウォーに、さすがのマーレも少しだけ考える。しかしパーウォーの心配をよそに、マーレはすぐに「パーウォーさんてば心配性!」と笑いだした。
「マーレちゃん」
パーウォーの真剣な様子にさすがのマーレも真顔に戻り、小首をかしげると、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎだした。
「大切なもの……そうだね、それならきっと……半身が見つかったら…………うん、半身が見つかったら、わかる気がするんだ」
パーウォーは諦めたようにため息をつくと、その深い青の瞳に悲しみを滲ませた。
「アナタのお気楽で何にも囚われないところ、ワタシはとても好きよ。けれど、だからって考えることを放棄してしまうのはダメ。失って、後悔してからじゃ遅いの。だから本当に……お願い」
悲しみに満ちたパーウォーの言葉に、マーレはもう一度だけ真剣に考えてみる。
今まで――極夜国にいた時から、世界を放浪する現在まで――マーレは本当に、心底困ったことなど一度もなかった。いつだってなんとかなっていたし、誰かがなんとかしてくれたからだ。
ある者はマーレの姿に好意を抱き、ある者はその歌声に魅了され、またある者はそのどこまでもこだわりのない平等さに救われて……
そんな人たちに助けられ、マーレは今の今まで生きてきた。誰にも執着せず、誰かが執着を露わにする前にその地を後にして。そうやって、生きてきた。それがマーレの培った、平穏無事に生きるための処世術だったからだ。
「パーウォーさん……僕、やっぱりわからないんだ。大切なものって、なんだろう? 僕は誰にもそこまでの執着を抱けないし、誰かに囚われてもいいなんて思えたこともない。今まで、誰かに強く興味を持ったことがないんだ。だから、よくわからない。大切なものって……何かを犠牲にしてもいいくらいの大切なもの。それがどんなものか、どんな感情なのか……僕にはわからないんだ」
にこにこと笑いながら、うすら寒いことを楽しそうに語るマーレ。そんなマーレに、パーウォーは知らず知らずのうちに眉をひそめていた。
「でもね、だから探してるんだ。自分のすべてをかけて執着できる相手……半身を。僕は知りたいんだ、執着って感情を。足りない僕の心を満たしてくれるかもしれない、その感情を」
まるで恋する乙女のような熱っぽい瞳で、滔々と語るマーレ。その危うい雰囲気は、パーウォーがかつて心の奥にしまい込んだ大切な記憶を大いに刺激し、彼のお節介の血をたぎらせた。
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