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蒸着水晶の章 ~オーラクリスタル~
3.水晶の瞳
しおりを挟むとっぷりと日も暮れ、空がすっかりと鴨頭草色に染め上げられた頃。
「……メス……て」
微睡みと覚醒の間を揺蕩うヘルメスを、心地よい囁きが揺さぶる。
「ヘルメス」
しっとりと落ち着いた呼び声にうながされ、ヘルメスはゆるゆると瞳を開いた。
「……おはよ、ウンディーネ」
「おはよう。ふふ、世間一般では『こんばんは』の時間だけれどね」
のろのろとベッドから起き上がると、ヘルメスは大きく伸びをした。
「あー寝た寝た、すっきりした。ウンディーネが来たってことは準備、終わったんだね」
「ええ。あとはヘルメスだけよ」
「そっか、ありがと。じゃ、行こうか」
ヘルメスは愛用の外套をひっかけると、ウンディーネを伴い工房を出た。
今夜は新月。
都会と違い、街灯などろくに整備されていない田舎町のアルブスは、今夜も濃い闇に包まれていた。昼間は太陽の光を反射して輝く白い家々も、月のない夜は闇に塗りつぶされる。ましてや今は深夜。町は深い眠りの中。
そんな真っ暗な町の中を、ヘルメスはなんの躊躇もなく進んでいく。ランプも持たずに、まるで昼間と変わらないかのように。
坂を下り終わると石畳はそこで途切れ、その先には白い砂浜が広がっていた。
ヘルメスは砂浜に降りると、またもや迷いなく進んでいく。しばらく行くと、砂浜は断崖絶壁によって途切れていた。
「ウンディーネ、お願い」
「任せて」
答えるが早いか、ウンディーネはヘルメスを抱えると、何のためらいも見せずに夜の海に飛び込んだ。
しかしヘルメスは溺れることも、ましてや濡れネズミになることもなかった。そう、ウンディーネは水の精霊。彼女にとって水を扱うということは、人が呼吸をするようなものだ。
ヘルメスを大きな泡で包み、彼女は水の中を進む。やがて断崖絶壁の下の部分に洞穴が見えてきた。二人は当たり前のようにその洞穴に侵入する。
やがて洞穴は唐突に終わりをつげ、二人は再び海の中に出た。しかしここは全体的に水位が低く、すぐに波打ち際にたどり着いた。
四方を断崖絶壁に囲まれた小さな砂浜。滅多なことでは人が入り込むことのないこの場所は、実はヘルメスの第二の工房として使われていた。水の精霊を扱えるヘルメスだからこそ来られる、まさに秘密基地。
「お、ようやく来たな」
「待ちくたびれたよー」
「ボクらはいつでも準備できてるよー」
突如海面から現れたヘルメスを、グノーム、ザラマンデル、シルフが当然のように迎える。
「おまたせ、みんな。グノーム、ここまでご苦労様。それからザラマンデル、シルフ、あとシルフの友達のみんな。きみたちはしばらく休む間もないけど、頼りにしてるから。それとウンディーネ、きみにはいざという時のフォローを頼むよ」
ヘルメスは精霊たちに指示を飛ばすと、倒れている籠をロープで引っ張り起こし乗り込んだ。
グノームとウンディーネはひとまず指輪と耳飾りの中に戻り、籠の中にはひっきりなしに炎を吐き出すザラマンデルとその炎を風で煽るシルフ、そして籠の周りにはシルフの仲間のシルフィードたちが舞う。
すべての準備が整うと、ヘルメス特製精霊式熱気球(仮)は、真っ暗な空に向かってするりと滑りだした。
今月の金欠の原因――それがこの熱気球。ヘルメスが趣味で作っていたこれが、まさかこんな形で使われることになるとは本人にも予想外のことだった。
「本当は球皮の色、橙色と黄色だったんだけどなぁ……」
ヘルメスは籠の縁で頬杖をつきながら独り言つ。
今回闇夜に紛れて飛ばすため、取り寄せていた橙色や黄色の布をわざわざ全て黒に染めなおしたのだ。本来の色ならば、さぞ青空に映えていたことだろう。
「ま、いっか。またそのうち作ろ」
この精霊式熱気球、実はヘルメス本人にはあまりやることがない。高度はザラマンデルとシルフが、行き先はシルフの友人のシルフィードたちが調整してくれるからだ。
元々ヘルメスが作ろうとしていたのは、ごく普通の熱気球。しかし予算の都合上、今回はまだ燃焼装置や計器類まで揃えられなかったのだ。そこに急遽この気球が必要となったため、苦肉の策として装置の代わりを精霊たちにやってもらうこととなった。
そんな働き者の精霊たちのおかげで気球は順調すぎるほど順調に進み、あっという間にアワリティアの屋敷、リコリスが閉じ込められている搭に到着した。
「すぐ戻るからもう少しだけ頑張って、ザラマンデル。シルフィード、誰かシルフと交代お願い。シルフ、行くよ」
精霊たちが一斉に動き出すと、ヘルメスは塔の屋根にむかって飛び降りた。
シルフの力で音をたてずにふわりと着地すると、ヘルメスは迷うことなく煙突から侵入する。そしてするすると器用に降り、これまたシルフの力で音もなく暖炉の中に着地した。
こんな月のない真っ暗な夜、明かりのついていない部屋は普通の人間には歩くこともままならない。しかしヘルメスは先ほどと同じくやはり迷うことなく、リコリスの眠るベッドへと一直線に向かう。
「リコリス……リコリス、起きて」
ヘルメスは眠っているリコリスの肩を小さく揺らす。すると微かに身動ぎした後、リコリスはゆっくりと目を開けた。
「……へる、めす? 夢?」
リコリスは寝起きのぼうっとした顔でヘルメスを見つめる。そんな彼女の目の前に手を差し出すと、ヘルメスはまるで挨拶でもするかのような軽い調子で言った。
「行こう、リコリス」
リコリスの方はいまだ状況が掴めず、ヘルメスの顔と差し出された手を何度も交互に見ては首をかしげる。
「言ったでしょ、『待ってて』って。だから来たよ。……きみを、攫いに」
ヘルメスの言葉にリコリスは今度こそ目を見開き、信じられないという顔でヘルメスを凝視した。
「……本当、に? ここから、わたし、出られる? 自由、なれる?」
「なれるよ。ううん、きみのことは僕が必ず自由にしてみせる。だから、一緒に行こう?」
どこか悲しげなヘルメスの笑顔、リコリスはそれにほんの少しだけ違和感を覚えた。けれどこの牢獄から連れ出してくれるという言葉の前には、そんな些細な違和感など瞬く間にかき消される。
リコリスはヘルメスの手を取ると、何度も何度もうなずいた。ぽろぽろと大粒の涙をこぼしながら。
ヘルメスは持ってきた縄をリコリスの胴体に巻き付け、ほどけないよう固く結ぶ。そしてシルフの力で自分だけ先に煙突の上へ出ると、リコリスに繋がる縄を引き上げ始めた。シルフの手助けもあり、ほどなくリコリスも無事屋根の上に顔を出す。
「ヘルメス、顔、真っ黒」
「リコリスだって真っ黒だよ」
二人は互いに互いの顔を指さすと、次の瞬間、同時に笑いだした。
足場の悪い急傾斜の屋根の上で笑い転げる二人。そんな二人に呆れ顔のシルフがため息をもらす。
「ヘルメス、いつまで笑い転げてるのさ。いい加減こんなとこおさらばしようよ。きみたちの笑い声、ボクは好きだよ。けどね、時と場合を考えてほしいかな。ボクの力で誤魔化すのも限界があるんだから」
風を操りヘルメスたちのたてる音をかき消していたシルフが、半眼で二人を見下ろす。
「ごめんなさい」
「ごめん、なさい」
しょんぼりとうなだれる二人に、シルフは「仕方ないなぁ」と笑うと気球を呼びに行った。そして二人きりになったところで、ヘルメスは空を見上げたままリコリスの方を見ずに話し始めた。
「リコリス。きみ、やっぱり精霊たちが見えるの?」
「精霊……? 飛んでた、人? だったら、見える」
「そっか。うん、やっぱりなー」
一人納得するヘルメスを不思議そうに見つめるリコリス。そんな彼女に、ヘルメスは相変わらず夜空を見上げたまま話しかける。
「あのね、普通の人間には精霊たちの姿って見えないんだって。子供の頃は見える人も、大人になるころにはほとんどが見えなくなる。大人になっても見えるって人って、かなり珍しいんだ。ま、そういう人は大半が精霊師になるみたい。でもね、それはあくまで普通の人間の場合」
そう言ってリコリスを見たヘルメスの瞳は悲しげで、まるでリコリスを通して誰か違う人を見ているようだった。そんなヘルメスの様子に微かな不安を覚えたリコリスは、大事に抱えていたボロボロのぬいぐるみを無意識に強く抱きしめていた。
「ねえ、リコリス。きみは……石人、だよね?」
「違う! わたし、人間。知らない、いしびとなんて」
ムキになって言い返してきたリコリスに、ヘルメスは悲しそうに、そして静かに告げた。
「でもね、普通の人間は何十年も生きてたら……老人に、なってる。老いて、しわくちゃになってるよ」
リコリスはとっさに言い返す言葉が見つからず、くちびるを噛んでうつむいた。
そしてふと脳裏をよぎったのは、死んでしまった母の顔。
リコリスが四十歳を迎えた冬の日、母は死んだ。とても寒かったその日の朝、リコリスが目を覚ました時にはもう、母は動かなくなっていた。綺麗だった顔にはいくつもの深い皺が刻まれていて、体は細く小さくなっていた。
本当は、リコリスも知っていた。母とは違う、自分は人間ではない、と。けれど同時に、リコリスは認めたくもなかった。母の話でしか知らない、リコリスと母を捨てた石人の父ではなく、優しい母と同じ人間でいたかったから。
「だって、お母さん……人間だった」
二人の間にどうしようもなく気まずい雰囲気が立ち込めたその時、丁度気球が降りてきた。
「お待たせー……って、どうしたのさ二人とも」
能天気なシルフの声にヘルメスは「なんでもないよ」と笑って答えると、少しだけためらいがちにリコリスへと手を差し出した。
「ごめんね、リコリス。きみを悲しませるつもりはなかったんだ」
「わたしも、ごめんなさい。ヘルメス、悪くないのに……」
ほんの少しの間に、出会ったばかりの頃よりよそよそしい空気になってしまった二人を、精霊たちはただ不思議そうに眺めていた。
帰りの気球の中で、ヘルメスはリコリスに話しかける機会を作ろうと、ちらちらと彼女の様子をうかがっていた。当のリコリスといえば、流れる風景を無言でじっと見つめるその姿は、まるでヘルメスを拒絶しているかのようで……。
どうしたものかとヘルメスが思案に暮れていたその時、リコリスから「くしゅん」という小さな音がした。
そういえば、とヘルメスはリコリスを改め見る。
夏とはいえ、上空を飛ぶ気球は薄手の寝間着しか着ていないリコリスには寒かったのだろう。両腕で自分の体を抱えるその姿は、雄弁に寒いと語っていた。
「ごめん! 寒かったよね、僕、全然気づかなくて」
ヘルメスは自分の着ていた外套を脱ぐと、慌ててリコリスをそれで包み込んだ。
「わたし、大丈夫。それよりヘルメス、寒い」
「大丈夫大丈夫、僕は頑丈だから。それより、リコリスの方が心配だよ。だって、あの塔から出たことないんでしょ? それなのにいきなりこんな寒い思い……させ…………っくしょん!!」
「やっぱり寒い! ヘルメス、着て」
「駄目だよ! それはリコリスが着てて。それにほら、もうすぐ到着だか……らっくしょん!」
二人が外套の押し付け合いをしている間に気球は秘密基地に到着し、無事着陸した。
「はい、手。気をつけてね」
ヘルメスに導かれ気球から降りたリコリスは、改めて初めて触れる塔の外の世界に固まっていた。
足裏に感じる砂の感触、潮の匂いを含んだ風、絶え間なく寄せては返す白い波……それらは窓のガラス越しではない、本の挿絵ではない、生まれて初めて自分の体で直接触れる世界。
「リコリス、泣いてるの?」
ヘルメスに言われるまで、リコリスは自分が泣いていたことに気づいていなかった。次々とこぼれ落ちる涙に、リコリスは驚き、戸惑う。
「なんで? 悲しくない、のに……」
そんなリコリスに慈しむような眼差しを向けると、ヘルメスは笑った。
「涙ってのはさ、悲しい時だけに出るものじゃないからね。嬉しい時にも、感動した時にも、こう、何かしらに心が動かされた時に流れるもの……って僕は思ってる」
「心が、動かされた、時?」
「うん。僕もね、つい最近、今のきみみたいに突然涙があふれてきて止まらなくなったことがあったんだ。…………リコリス、きみと会った、あの日だよ」
ヘルメスはリコリスに向き合うと、顔の右半分を隠していた髪の毛をおもむろにかきあげた。
そこにあったのは古い火傷痕と――青みを帯びた、透き通る瞳。
「僕もリコリスと同じ。半分人間で……半分石人。いわゆる『亜人』なんだ」
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