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黒玉の章 ~ジェット~
22.勿忘草をあなたに
しおりを挟むどこで何をしていたのか、オルロフの身に着けている服はかなりくたびれており、まるで長い旅から帰ってきたばかりの旅人のようだった。
「どうした? あんだけ威勢よく俺の悪口を言ってたのに、急に黙り込んだりして。……さては、久しぶりに見た男前過ぎる俺の姿に見惚れて口もきけないのか」
この二月、ミオソティスが色々と悩んで、泣いて、探していたというのに、当の尋ね人はこの有様。消える前とのそのあまりの変わりなさに無性に腹が立ってきて、ミオソティスは思い切りそっぽを向いてやった。
「どちら様ですか? 私の知り合いには、あなたみたいな自信過剰で傲岸不遜で無神経な人はいません。いたとしても、もう忘れました」
「それは困ったな。俺の方は、お前みたいな泣き虫で猪突猛進で意地っ張りな娘を探してたんだが。まあ、お前が忘れたとしても、俺は忘れないけどな」
オルロフが何の気なしに放った言葉は、ミオソティスの胸を痛いほど締め付けた。
――俺は忘れないけどな
忘れない――それはミオソティスにとって希求であり、奇跡だった。
もっとも、それも少し前までのミオソティスにとっては、だったが。
それでも、あの穏やかで凪いではいたが諦めていた日々に希望を見せてくれたオルロフの言葉は、やはりミオソティスにとっては特別で、泣きたいほど嬉しかった。
うっかり涙がこぼれそうになったミオソティスは、慌ててうつむく。オルロフはそんなミオソティスを見て少し困ったように笑うと、持っていた大きな革袋をおもむろに地面に置いた。そして、中からガラス瓶を一つ取り出す。そしてそれを大切そうにひとなでした後、ひざを抱えうつむいたままのミオソティスに向き合い、視線を合わせるようにひざまずいた。
「ミオソティス」
けれど――。ミオソティスには、それが自分の名前だと一瞬認識できなかった。思わずぽかんとオルロフを見るミオソティス。束の間の静寂の後、ミオソティスはこれでもかと目を見開くと、今度はオルロフを思い切り凝視した。
「名前……初めて、呼ばれた」
ミオソティスは今まで、「こいつ」とか「お前」とか「お子様」とか、とにかくオルロフにまともに名前を呼ばれた覚えがなかった。だからミオソティスは、もしかしたらこのオルロフは寂しさのあまり、自分が生み出した都合の良い幻影なのではないかとさえ思い始めていたのだ。
「いや、まあ……その、初めてじゃないんだけどな」
信じられないものを見るようなミオソティスの顔に、オルロフは今までの自分の行いを顧みて、自業自得だなと思いながら苦笑する。けれど、ここで引いてしまっては先へ進めない。何のためのこの二月の苦労かと自らを奮い立たせると、オルロフは先ほどよりはっきりとした声でミオソティスの名を口にした。
「ミオソティス。……これを、受け取ってほしい」
オルロフが差し出したのは、ガラス瓶の中で薄青の可憐な花を咲かせる勿忘草だった。それにミオソティスは驚愕の表情を浮かべると、瓶の中の勿忘草とオルロフを忙しく交互に見た。
「勿忘草……ですよね? どうしたんですか、これ」
ミオソティスの知っている勿忘草は春の花。こんな寒い季節に咲いているわけがないのだ。
「百花の魔法使いの野郎から奪っ……譲ってもらったんだ。ああ、これにはあいつの魔法はかかってないから安心してくれ。瓶の方に中の物を保存する魔法がかかってるんだ。もちろん、それも別のヤツの魔法だ。だから、この花は本当にただの花で、何の仕掛けもない」
オルロフはミオソティスを安心させようと、立て板に水の勢いでまくしたてる。そしてコルク栓を開けると、勿忘草をそっと取り出した。
花の育たない不毛の地に住む石人にとって、生花というものは宝石よりも珍しいもの。だから石人たちは、求婚の際には花を贈る習慣がある。
「ミオソティス。どうか、この花を受け取ってほしい」
ひざまずき、花を差し出す真剣な表情のオルロフ。ミオソティスは、不覚にもそれに見惚れてしまった。先ほどまで感じていた腹立たしさなどもはや跡形なく、今、ミオソティスの胸を占めるのは、狂おしいほどの多幸感。
「これは、お前の花だ。そしてお前に捧げる、俺の心」
刹那、ミオソティスの頭の中に花を差し出すオルロフの姿が過った。真っ暗な場所で、青い花とオルロフだけが淡く光っていて――
『思い出せ。これは、お前の花だ。そしてお前に捧げる、俺の心』
優しい既視感に、ミオソティスの黒玉の瞳から涙がこぼれおちた。
「私が忘れてしまった……私の、花。勿忘草……私の名前の、花!」
ミオソティスは思い出した。
全てを飲み込んでしまうような真っ暗な夢の中、そんなところにまで助けに来てくれた、意地悪で優しい人。花なんか興味ないと言っていたのに、ミオソティスの好きな花をちゃんと覚えていてくれた人。口が悪くて、余計な一言が多くて、でも約束は必ず守ってくれる人。ミオソティスの、大切な人。そして――
ミオソティスに、真実の愛を捧げると言ってくれた人。
差し出された勿忘草を受け取ると、ミオソティスは出会った時のように押し倒す勢いでオルロフに飛びついた。オルロフはそんなミオソティスを今度はしっかりと抱きとめ、こちらもまた逃がさないとばかりに確と抱きしめる。
「オルロフ様の心、確かに受け取りました。……もう、返しませんよ?」
「おう、取っとけ。一度受け取ったら返品不可だ。ああ、それと今まで気づかなかったんだが、俺は思いの外粘着質な性質らしい。すまないが覚悟しといてくれ」
「望むところです。私も、一度好きになったものは手放さない性質ですから。オルロフ様の方こそ、覚悟しておいた方がいいですよ」
「言ってろ」
白くけぶる森の中、たわいのない言葉を交わす二人の笑い声が霧の中に吸い込まれてゆく。
そしてほんの束の間、二人の間に沈黙が降りた。
「…………本当のことを言うとな、受け入れてもらえるなんて思ってなかった」
突然のオルロフの告白に、ミオソティスは驚いて目を丸くする。
「だってよ、力の消えた今のお前なら、誰だって選べるだろう? 俺じゃなくたって、それこそあの夜会で楽しそうに踊っていたあの男だって。もう、お前の記憶は消えないんだ。だったら、俺は必要ないんじゃないか……そう、思ったんだ」
いつでも無駄に自信にあふれて憎まれ口をきいていたオルロフとは思えないその言葉に、ミオソティスはなんだか親近感を覚えてしまった。ああ、この人でもこんな風に思うんだな、と。
「ふふ、でもそれだと私、オルロフ様の力だけが目当ての打算女みたいですね。……まあ、確かに最初はそうでしたけど」
「わかってはいても、あまり面白くはないな。でも、今は違うんだよな?」
ムッとするオルロフにミオソティスは冗談めかして返すと、くすくすとおかしそうに笑った。
「だから最初は、って言ったじゃないですか。でもオルロフ様だって初めの頃、私のこと痴女だとかちんちくりんだとか散々でしたよ。お互い様です」
「あの時は悪かったよ。でもそれにしてもなぁ……俺がまさか、こんなお子様になぁ…………」
「あら、こんなお子様に愛を乞うたのは、一体どこの誰なんでしょうね? そのお方がその心境に至った経緯、ぜひお聞かせ願いたいわ」
これみよがしにため息をついてみせるオルロフ、それに皮肉で返すミオソティス。そんななんてことのない軽口の応酬がとても幸せで、ミオソティスはオルロフの瞳の妖しいきらめきを見逃してしまっていた。
「いいだろう。じゃあ今から、全部話してやるよ。ただし、途中棄権は受け付けないからな」
言うが早いか、オルロフはミオソティスを背後から抱きしめ素早く腹に腕を回すと、彼女が逃げられないように自分の両脚の間に囲い込む。こういうことに全く免疫がないミオソティスは、言葉もきけないほど緊張でガチガチに固まってしまい、オルロフにされるがままだ。
「そうだな、きっかけは……そう、二度目に会った時の、あの呆け顔。まず、最初はあれにやられたんだ。そうそう、女に押し倒されるっていう貴重な経験もしたな。あとは、すぐ挑発に乗って顔真っ赤にして怒ったり、そうかと思えは突然へりくだったり、とにかく忙しくて見ていて飽きない。ああそうだ! 夜会の時、あれは一体どういう了見だ? まったく、あの時は目のやり場に困ったぞ。あんなに肌を露出させて、一体誰を誘おうとしてたんだ? それから――――」
怒涛の勢いで語り始めたオルロフ。その目は愉しげに細められ、明らかにミオソティスをからかっていた。相思相愛なら問題ない。とすっかり開き直ってしまった彼には、もはや意地を張る必要もない。そして今、ここにはアルビジアというお目付け役もいない。だから、オルロフは自らの気持ちの赴くまま、我慢することをやめた。
「もう、もういいです! わかりました、私が悪かったですから。だから、もう少し離れてくだ――」
「却下。途中棄権は受け付けないって言っただろ? いいから、最後まで聞け」
羞恥と混乱で慌てふためくミオソティスの希望を即座に却下すると、オルロフは腕の拘束を更に強めた。そして真っ赤に染まってしまったミオソティスの耳元に口を寄せると、先ほどより少し低い、硬い声で話を再開する。
「お前が人間たちに襲われているのを見た時、本当に生きた心地がしなかった。お前を失うかもしれないって思った瞬間、まるで心臓に氷をぶち込まれたかと思うほどの痛みを感じたんだ。それまではお前のことはロートゥスと同じ、からかい甲斐のある妹分だと思ってた。いや、そう思おうとしてたんだ」
ふと肩に感じた温かな重み、その正体を確認しようとミオソティスは無意識に首を動かしてしまった。
刹那、ミオソティス唇が何か柔らかいものに当たる。思わず目を見張ったミオソティスの視界には、ミオソティスほどではないが、やはり驚いているオルロフの顔が触れそうなほど近くにあった。
振り返ろうとして動かしたミオソティスの顔が、こちらもミオソティスの肩からちょうど顔を上げようとしたオルロフの顔をかすめたのだ。
「ごめんなさい!! その、悪気はなかったの。ちょっとうっかりしてて……」
耳まで赤くして慌てて言い訳をするミオソティスに対しオルロフの方はといえば、瞳に愉悦の色を浮かべ、それはそれは楽しそうに微笑んでいた。
「駄目だな、やり直し」
「や、やり直しって……何を?」
「とぼけるな。ほら、今度はちゃんと位置を確認しろよ」
そう言って自分の唇を指さすオルロフに、ミオソティスはこれ以上ないくらい顔を赤くして、「バカじゃないの!?」と言い放った。するとオルロフは「仕方ないな」とつぶやいたその次の瞬間、自分の唇でミオソティスの唇をふさいでしまった。
初めて感じる、自分以外の唇の感触。
あのどこもかしこも硬そうなオルロフにも、こんなに柔らかい場所があったんだな。などというよくわからないことが頭をよぎり、結果、色々と驚き過ぎたミオソティスの頭は考えることを放棄した。オルロフから伝わってくる熱は、ミオソティスの頭をドロドロに溶かしてしまって――
離れる温もりにわずかな寂寥感を覚えて、ミオソティスはその感情のままオルロフを見上げる。
「完全に、俺の負けだ」
潤んだ瞳、濡れた唇、紅潮したまろく柔らかい頬……。その姿はオルロフにとって有り得ないほど蠱惑的で、彼の理性をこれでもかと揺さぶってきた。気を抜くと暴走しそうな己を無理やり鎮め、オルロフは抱きしめていたミオソティスを反転させて向き合う。
「ミオソティス、あの時の約束がまだ有効なら、どうか果たさせてくれ」
「約束……?」
「ああ。言っただろ、俺を口説き落とせたら結婚してやるって」
『本当に失礼だわ! しかもとんだ自惚れ屋ね。いいわ、見てらっしゃい。今に貴方の方から私に愛を請わせてみせるから!!』
『はは、楽しみにしてるぞ、ちんちくりん。もし万が一、お前が俺の心を捕らえることができたその時は、潔く結婚でもなんでもしてやるよ』
ミオソティスの頭の中で、出会ったばかりの頃のオルロフと自分の、売り言葉に買い言葉の会話が再生された。あの頃のオルロフは口を開けばちんちくりんだの痴女だの、ミオソティスに対する扱いは散々だったはずだ。それを思い出して、ミオソティスは思わずふき出してしまった。
そして気が済むまで笑った後、ミオソティスはオルロフを見て笑顔でうなずく。するとオルロフは居住まいを正し改めてミオソティスを見つめ、勿忘草を持つ小さく柔らかい手を取った。
「ミオソティス、俺の半身。この勿忘草に誓って、生涯あなただけに真実の愛を捧げることを約束する。もしあなたが俺のことを忘れてしまったとしても、俺はあなたを忘れない。だから、どうか俺と結婚してほしい」
希うような、すがるような――確かな熱をはらんだ瞳でオルロフはミオソティスを見つめた。ミオソティスはそんなオルロフにふわりと微笑むと、ほんの一瞬、唇をかすめるような口づけを落とした。
「オルロフ、私の半身。私もこの勿忘草に誓って、決してあなたのことを忘れないと約束します。求婚、喜んでお受けします」
夜の国、霧に包まれたガラスの森の中。貴石の恋人たちは勿忘草に愛を誓う。
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