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黒玉の章 ~ジェット~
17.牡丹一華の毒
しおりを挟む緋色の花に見入るミオソティスの手に、ロートゥスの冷たい手がそっと添えられた。
「嫉妬も痛みも、ほとんどの人はそんな辛い気持ち、好き好んで抱きたくはないでしょう。でもね、人は綺麗な心だけで生きていくことはできない。他者と関われば関わるほど、その違いを感じれば感じるほど、幸せな気持ちも辛い気持ちも経験する。でもね、その辛い気持ちを知っているからこそ、人は人に優しくできる。わたくしは、そう思うの」
――辛い気持ちを知っているからこそ、人は人に優しくできる。
ロートゥスの言葉に、ミオソティスは目の前にかかっていた霧が晴れていくような気がした。オルロフに出会う前の自分では、きっと今のロートゥスの言葉は理解できなかっただろう、と。
恋も、嫉妬も、独占欲も――何も知らなかった、綺麗なだけの薄っぺらだった自分では。
「なぜ、私があの頃の自分に戻りたくないと思ったのか……わかりました」
ミオソティスは顔を上げ、今度こそまっすぐにロートゥスを見つめる。
「何も知らなかった私は、きっと今までにたくさんの人を無意識に傷つけてきたのだと思います。嫌っているはずの忘却の力に胡坐をかいて。どうせ忘れられてしまうからと相手の気持ちを慮ることもなく、他人と関わる努力を放棄して…………」
ひざの上で両手を握りしめ、うつむきそうになる顔を必死に上げて、ミオソティスは今までの自分の行いを告白した。他人の痛みがわからなかった、無垢で残酷な子供だった自分の愚行を。
するとロートゥスは、「そうね」と頷き、ミオソティスの目を静かに見つめ返した。
「確かに、この国にはあなたにとって辛い慣習があるわ。でもね、もしもあなたが本当に誰かと絆を結びたいと思っていたのなら、その人に守護石をさらせない理由を話せばよかったのよ。もちろん人によっては拒否されるし、きっと何度も傷つくと思う。でも、それでも本当に欲するのなら、傷つく事を覚悟で行動を起こすべきだった」
自分でも薄々自覚していた事をはっきりと言葉にされ、ミオソティスは思わず苦笑いを浮かべる。
「……はい。まさに仰る通りです。今思えば、私は傷つくことから無意識で逃げていたのだと思います。家族は無条件に愛してくれたから、私はそれに甘え、努力することを放棄していました。…………だからですか? ロートゥス様が本心では、私のことを快く思っていなかったのは」
ミオソティスは確信をもって、強くロートゥスを見つめた。するとロートゥスは一瞬驚いた後、ふわりと美しい微笑みを浮かべた。
「途中までは完璧に騙せていると思っていたのだけれど。ふふ、わたくしもまだまだね」
ころころと、さもおかしそうに笑うロートゥス。
あの温室で涙していた儚い月下美人の姿はもうそこにはなく、今、ミオソティスの目の前で微笑んでいるのは何度か垣間見えていた、美しいが毒を持つ犬泪夫藍だった。
「ロートゥス様……今までのあなたの言葉、そのすべてが偽りだったとは思えません。だからこそ、わからないのです。あなたは私に、何を求めているのですか?」
ミオソティスの問いかけに、ロートゥスの笑いが止まる。
「別に、あなたに何かを求めはしないわ。わたくしは、欲しいものは自分で手に入れるもの。それにね、もうすぐ手に入るから」
ロートゥスの意味深長な言葉を図りかね、ミオソティスは沈黙する。対してロートゥスは満足そうに微笑み、持っていた扇子で口もとを隠すと、またミオソティスにはわからないことを喋りだした。
「わたくしね、新雪を踏み荒らすのが好きなの。雪を掘り起こして、下から泥を引きずり出す。そして真っ白なそれを泥で汚すの。そうするとね、とても安心するのよ。ああ、私と同じだ。って」
ロートゥスはくすくすと笑いながら、まるで詠うように独白を続ける。
その様は夢と現の狭間をゆらゆらと揺蕩っているようで、話が通じない相手と対峙する恐怖を、ミオソティスは今改めて感じていた。
「オルロフ様のことはずっとずっと、それこそ出会った頃からずっとお慕いしてきたわ。一目見て、この人こそわたくしの半身だと思ったの。だから何度も想いを伝えたし、振り向かせようと努力もしたわ。でもね、返ってきたのは親愛の情だけ。オルロフ様はいつまで経っても、わたくしのことを女性としては見てくれなかったの」
ぱたんと扇子を閉じると今度こそはっきりと、ロートゥスは昏く澱んだ瞳をミオソティスに向ける。
「受け入れてもらえないのは悲しかったけれど、それでも、オルロフ様は誰のものでもなかったわ。だからわたくしは…………。でも、あなたが現れてしまった」
瞬間、ミオソティスの背に冷たいものがはしった。
曇り硝子のような瞳をしたロートゥスには、先ほどまでの愛嬌はもはや微塵も感じられない。口もとだけが笑みの形を作り、それはひどく不均衡な表情だった。
「ねえ、知ってる? 牡丹一華の花言葉」
くすくすと笑いながら、ロートゥスはミオソティスの手の中の赤い花を弄んだ。どんどん話題が支離滅裂になっていくロートゥスに、ミオソティスはいよいよ危機感を募らせる。
「アネモネの花言葉、ですか? 確か、恋の苦しみ、清純無垢、見捨てられた。他には……」
それでも律儀にロートゥスの問いに答え、ミオソティスは知っているアネモネの花言葉を並べてゆく。それを聞いていたロートゥスは不意に声を上げて笑いだした。そして――
「嫉妬のための無実の犠牲」
と、まるで歌うように楽しげに口にした。
瞬間、アネモネは茶色くカラカラに枯れ果て、それと同時に、抗いがたい強烈な睡魔がミオソティスに襲い掛かってきた。まるで底なし沼の泥の中に引きずり込まれるような重く、息が詰まりそうなどろりとした睡魔。
「ロートゥス、さま? これは……いった、い…………」
朦朧とする意識のせいで体に力が入らず、ミオソティスは糸の切れた人形のように椅子から崩れ落ちる。そして暗くなる視界の中、ミオソティスが最後に見たロートゥスの顔は――
満面の笑みで涕泣するという、ひどく矛盾した表情だった。
「ごめんなさい。ふふ……さようなら」
その言葉を最後に、ミオソティスは泥のような眠りの中に深く深く沈んでいった。
※ ※ ※ ※
ミオソティスがコランダム公爵家で倒れてから数時間経った現在、しかし彼女は一向に目を覚ます様子なく、昏々と眠り続けていた。
眠る娘に寄り添い涙する母、落涙する妻を震える手で抱き寄せる父、姉の手を握りしめ祈る妹。フォシル家は今、深い悲しみに包まれていた。
沈痛な雰囲気に支配されたミオソティスの部屋。そこへ、使用人が慌てた様子で駆け込んできた。
眉をひそめる主人――ミオソティスの父――に使用人は一瞬だけ躊躇したが、そのまま主人のそばへ行くと来客の旨を伝える。主人はその客の名を聞いた瞬間驚きに目を見開き、慌てて玄関へと駆けて行った。
そして数分後、来客――オルロフ――がやって来た。
「単刀直入に言う。今回のこと、『百花の魔法使い』が関わっている」
部屋に入って来るなり開口一番、オルロフは挨拶も抜きに本題を切り出した。
――百花の魔法使い――
オルロフがその二つ名を口にした途端、伯爵夫人は眩暈を起こし、伯爵は倒れた妻を抱きとめながら絶句した。青ざめたアルビジアは、目だけで「本当に?」とオルロフに問いかける。
百花の魔法使い――それはここファーブラ国の辺境に位置する極夜国にまでその悪名を轟かせる、人の形をした災厄。
元々魔法使いという生き物たちはとても厄介な種族で、その性質は石人以上に自由奔放。浮世離れはもちろん、迷惑なまでに好奇心旺盛な者が多い。それに加え彼らの持つ『魔法』という力は、オルロフのような魔術師たちが使う『魔術』とは違って、ありえないような奇跡を起こす。個人差があるとはいえ、魔法使いたちの魔法の力は非常に強大で、しかも厄介。唯一の救いは、おとぎ話の時代とは違って、現在はその絶対数が非常に少なくなっていたことだろう。
件の百花の魔法使い、彼は世界中のあちこちに出没しては他人の厄介ごとに首を突っ込み、小さな事件を大事件にするという、どこまでも迷惑極まりない魔法使いだった。本人に悪意はないらしいのだが、関わる事態を片っ端からややこしくする天才、もとい天災と言われて恐れられているのが現状だ。
「ここに来る前、コランダム公爵家に行ってきた。結果から言うと今回のこれは、ヤツの魔法で操られたロートゥスの仕業だった」
百花の魔法使いの固有魔法は、生花に込められた花言葉を鍵に奇跡を起こす。そんな、世の夢見る乙女たちが喜びそうなかわいらしい魔法だ。
しかし、かわいらしいなどと言えるのは、使う者次第。少ない魔力なら気休め程度のおまじないだろうが、生憎と百花の魔法使いの魔力は、魔法使いの中でも最強の部類。しかもそれに――制御がものすごく下手くそ――という笑えないおまけが付く。強すぎるまじない、それは花言葉の意味の良否を問わず、もはや呪いと化していた。しかも、花言葉の選択が微妙という残念さ。
これが彼が、天災と呼ばれるゆえんである。
「ロートゥス様を操っていたのが百花の魔法使いだというのは、本当に間違いないのですか?」
「残念だが間違いない。ロートゥスのもとに、ヤツの作った呪物があった」
一縷の望みにすがるように問うたアルビジアに対し、オルロフは茶色く枯れ果てた黄水仙を差し出した。
「すでに呪いの効力は失っている。そしてミオソティスにかけられた呪いだが、呪物は赤いアネモネ、キーワードは“嫉妬のための無実の犠牲”だそうだ」
アルビジアは「黄水仙に赤いアネモネ……」と呟くと、物言いたげな瞳でオルロフを見た。その視線に居心地の悪さを感じたオルロフの眉間に少しだけしわが寄る。
「何だ? 何か言いたいことがあるのならはっきり言え。気持ち悪い」
するとアルビジアは深いため息をつきボソッと一言、「この鈍感ヘタレ王子が」と吐き捨てた。
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