帝国軍人の専属娼婦

カスミ

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第二章 Dance in the dark -闇のサーカス-

第17話 Dahlia pool

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アヤメとリヒトは、小男と両腕のないバレリーナ姿の少女に連れられて天井近くに架けられた金属網の足場を歩いていた。
4人分の乾いた足音が静かに響く。
下に何があるのかは真っ暗で見えないが、さきほど登ってきた階段のことを考えると、相当の高さがあるだろう。
手すりを掴みながら恐る恐る進むアヤメに、リヒトは時折「大丈夫っすか?」と気遣いを見せた。

足場を渡り合え今度は階段を降りると、サーカスの舞台袖だろうか。
人よりも大きなゴム製のボールや、規格外の長さの竹馬、ピアノやラッパなどの楽器、サーカスの小道具なようなものが積まれた場所に出た。
そのどれも古ぼけていて埃っぽいが、やけに仰々しいカーテンの向こう側に一歩足を踏み入れると、途端に華やかな舞台が広がっていそうな雰囲気もする。

「リヒト君、あれって……。」

アヤメが声を潜めた。
赤い瞳の先は、舞台の方向とは逆を見つめている。

鏡が置かれた部屋。
わずかに開いた薄いカーテンの隙間から見える鏡。近づいて覗いてみると、一面の鏡が置かれていると思っていたが、そこ自体が正多面体の鏡張りの部屋だった。
その一面だけに貼られた、一枚の絵のようなもの。
違う、誰かの写真だ。
何かで黒く塗りつぶされている。
じっと目を凝らし、背筋がぞっとした。


血のついた指で汚されたヤマトの写真だった。


「なんで、こんなところに隊長の写真が……。」


わざわざこんなところに貼っておくことに、ヤマトに対する愛憎入り混じった歪んだ感情がひしひしと伝わってくる。
写真はどうやら、ホテル・エルリアの事件が新聞で報道された時のもののようだ。
ここにヤマトの写真を貼った人物は、この報道で彼のことを知ったのだろうか?
もしそうだとしたら、この写真一枚からヤマトがどこの所属の軍人なのかということまで辿り着くのは簡単だ。新聞社を装って軍に問い合わせすればいいのだから。
そこまでする理由はただ一つ。

「まさか、あいつの狙いは隊長なのか……?」

アヤメが小さく頷いた。
自分がここに連れられてきた意味を、どうやらアヤメのほうは分かっていたようだ。
そうすると、軍人が7人も殺された事件も、娼婦が殺された事件も、今回のことと無関係ではなさそうだ。
そんな事件をヤマトの身の回りで起こせば、ヤマトが出てくることは、分かりきった上で凶行に及んでいるのだ。
リヒトの中で、やり場のない怒りと焦りのようなものが湧いてきて、それはジョージとジェリーにぶつけられた。

「おい!ここで一体何が起こってるんだよ!?ここは一体、なんなんだ?!」

敵意にも似た目つきで睨むと、シェリーは再び少女らしからぬ憂いを帯びた瞳でふっと俯いた。


「……ここはもともと私たちみたいな人を集めて興行している、見世物小屋だったの。」


見世物小屋。
日常では目にすることのできない、異形の者たちを披露する興行。
中には悪趣味だと批判する者もいるが、それが彼らの唯一の生活の糧となっているのだ。
それを非難する権利が誰にあるだろうか?

「ジョージはピアノがとても上手なのよ。遠い国の宮廷音楽家だったの。」

小男が古ぼけたピアノの前に座り、鍵盤を弾くと、軽快なメロディーが奏でられた。
この殺伐とした場所が、一気に華やかなものに変えてしまったかのような音色。
その音楽に合わせて少女の踵が上下する。

「私は生まれつき腕がなくて、親に捨てられて、ここで育てられたの。」

体の重心がぶれることなく、爪先だけでクルクルと回転する様は本物のバレリーナのようで、見事なものだった。
重力を感じさせないその身体の動き。
そこにあったはずのしなやかな腕がないかわりに、羽が生えているようだった。

「こんな見た目のくせにって思われるかもしれないけど、前はもっとたくさんの人がいて、みんなで楽しくやっていたの……。だけど今はもう、私たちだけ。」

シェリーが部屋の隅に敷かれた布を、足を使って器用に取り払うと、地下へ通じる階段が現れた。

「あともう1人友達を紹介するわね。とても力持ちだけど、優しいのよ。……おいで。」

その呼びかけに、ざっ、ざっ、と重苦しい足音を立てながら現れた者を見て、アヤメは「えっ」と声を上げた。
通常の倍くらいあろうかというその巨体。
頭から首まで麻袋を被った、広場でピエロといたあの大男だ。

「あっ、お前……!さっきはよくも…」

リヒトが思わずサーベルに手をかけると、シェリーが立ちはだかった。

「待って!グリムはいい子なのよ?!」

「い、いい子ってなぁ……こんなデカイのを可愛いものみたいに言うなよ……。アヤメさんはこいつに連れてこられたんだぞ?」

「それは……ごめんなさい。でも、本当にいい子なのよ。体は大きいし、言葉は喋れないけど、心優しい子なの。悪いことするのは全部、あいつらのせい……。あいつらが来て変わってしまったの……。」

「あいつら?」

「双子のピエロだ。」

ピアノを弾く手をやめたジョージが言った。

「双子……?じゃああんなのがもう1人いるっていうのか?何者なんだよ。」

「お互いの事をスペードとダイヤと呼んでいるが、本名もそれ以外のことも何も知らない。今はあの2人がここを仕切っている。」

「あいつらが来てから、ここでたくさんの人が殺されているのよ!きっとあなた達も殺されるわ……!」

シェリーが涙を流しながら訴える。
ぽたぽたと地面に落ちる大粒の涙。
これまで彼女が今まで見てきたもの、体験してきたことの恐ろしさが溢れ出るように。

——軍人を7人も殺したあんなイカれた野郎に隊長を会わせるわけにはいかねぇ。
けど、アヤメさんがここにいたら隊長が追ってくるだろうな。
その前に早くここから出ないと……。

リヒトが思案している最中、大男はシェリーを慰めるようにその背中を撫でている。

「……おい、お前らも行くぞ。」

だが、リヒトの言葉にジョージとシェリーは微動だにせず、黙ったままだ。

「ダメ、出られないの……。」

「なんでだよ?」

「だって、私たちはこんな見た目なのよ?ここでしか生きていけない……。」

両腕のない少女に、小男と、大男。

人と違うということは、何かと好奇の目に晒されることになる。
彼らはずっとそうして生きてきて、ここで生きる道を選んだのだろう。
いや、そうすることしかできなかったのかもしれない。

「ボウズ。お前は自分が恵まれているだけで、自分が知らない世界がこの世にはあるということを学ぶべきだ。」

「恵まれている……、そうかも知れねぇな。だけどよ、だからってお前らは自分の環境を変えようとは思わねぇのか?一生こんな暗いところで生きていたいのかよ?」

リヒトの言葉は若さゆえの傲慢に聞こえるかもしれないが、彼はただ純粋に、救いたいだけだ。
その気持ちが、アヤメには伝わってきた。
押し黙ったままのシェリーの顔を、アヤメが覗き込む。

「私は子供の頃からこの目の色のせいで、気味悪いってずっと皆に言われてきたの。だから、外の世界が怖いってあなたの気持ち、少しだけ分かる。」

幼い頃の記憶。
周囲や自分の母親にすら嫌われた、血のように赤い瞳。

「こんな私を受け入れてくれる人なんて、誰もいないって思ってた。だけど、この目を綺麗って言ってくれて、私を必要としてくれてる人がいた。今でも誰かにこの目のことを馬鹿にされることはあるけど、私にはその人がいるから、気にしないようにしてるの。」

ヤマトの専属娼婦として側にいられる、そのことだけでもアヤメにとっては充分だった。

「私も綺麗事なんて言うつもりはないし、嫌いよ。それに、外の世界には悪い人もたくさんいる。……だけど、そうじゃない人もいるの。そうよね?リヒト君。」

「あぁ。オレがお前をこんなところから連れ出してやる。」

エメラルドのような瞳がシェリーを真っ直ぐに見つめる。
彼の言葉には、必ずやり遂げてみせるという強い意志と、それが不可能かもしれないことでも、できると信じさせる力がある。
シェリーは、リヒトを信じたい心と、今まで他人から受けてきた言葉や仕打ちの狭間で葛藤し、戸惑いながら、ジョージとグリムを見つめる。

「私、どうしたら……?」

「……お前の好きにしなさい。私たちはどんな扱いを受けても慣れているから大丈夫だ。外の世界でお前が傷つくことがあっても、それもまた経験。私たちはお前を見守っていくだけだ。」

その眼差しは、本当の親のような慈愛に満ちている。


「さぁ、行くぞ。」


リヒトが舞台のカーテンを開くと、円形の舞台上に出た。
薄暗かったが、舞台をすり鉢状に取り囲むような観客席が見える。
それはリヒトが子供の頃に連れて行ってもらったサーカスの光景そのものだった。

舞台の向こう、観客席の下に出口が見えた。僅かに光が漏れている。
リヒトが一歩踏み出すと、バン、と照明が照らされた。


「よーお、『小人のジョージ』。白うさぎちゃんを連れてお散歩かい?まるで童話の世界だな。」


頭上からの声にはっと顔を上げると、
空中ブランコに脚だけ掛けて、蝙蝠のようにぶら下がっている男がいた。 


あのピエロだ。
……いや、正確には双子の片割れ。
くそ、もう見つかったのかよ、とリヒトは舌打ちした。

「……これ以上、無関係な人を巻き込むな。」

ジョージが諫めるような口調で言うと、ピエロは不満そうに吐き捨てた。

「黙ってろよ。此処でしか居場所がない出来損ないのやつらが。」

「……。」

ジョージが押し黙り、シェリーも怯えた様子で俯いて震えている。

「おい!黙って聞いてりゃ、お前ムカつくんだろよ!ふざけたことばっかり言ってんじゃねぇぞ!降りてこい!」

「なんだ?お前。ここはガキが入れるような場所じゃねえんだよ。」

ピエロはブランコから両足を外すと、器用に空中で身体を翻し、舞台上に着地した。

銀色の髪。
痩せた身体に、胸元がフリルになった白いシャツを身につけている。
そして白塗りの、唇が真っ赤に裂けたような禍々しいメイクは、本当に広場で対峙したピエロと別人なのかと疑わしくなるくらい、区別がつかない。
それはまるで鏡写しの人間みたいな不気味さ。
それでも、何か2人を区別する決め手みたいなものがあるのだろう。
「ボウズ、あれはスペードのほうだ。気を付けろ。残虐さでは兄のダイヤに勝るぞ。」
ジョージがリヒトに警告した。

「ンなことどっちでもいいんだよ。あいつを殺せばお前らは自由だ。」

「威勢の良いガキじゃねぇか。だがお前の相手はこいつで十分だ。」

ピエロが指を鳴らすと舞台の中央が丸く開き、そこから金属の檻がせりあがってきた。
檻の中で、地鳴りのような低い唸り声を上げながら、1匹の獣が黒く蠢いている。

「ふっふふふふ、どうやら腹を空かせているようだぜ……。」

檻だけが鎖によって空中へと回収されると、その獣はゆっくりとリヒトたちの方を振り返る。
その獣は、獅子の体に鋭い爪を持ち、そして、人間の男のような顔をしていた。


「な、なんだこいつ……?!」


醜悪としか表現できない姿に、リヒトは息を呑んだ。


「さぁ、ショーの開幕だぜ。」


ピエロが鞭をしならせた。
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