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序章 Hotel Royale
第5話 Rhapsody
しおりを挟む意識が水の底に沈んでいく。
深く、暗く。
あの人がいつものように悪戯っぽく笑って、乱暴に頭を撫でてくる。
いつまでも子供扱いするその手が不満だ。
だけど、今となっては懐かしい。
「オレたちの後ろを任せられるのはお前だけだからな。頼んだぞ」
だめだ。
行かないで。
死ぬのは僕だけでいい。
だから、
だからーーーーーー………
満月が夜の帝都を照らす。
ホテル・エルリアが麻薬組織の残党に占拠されたとの知らせを受け、ホテル周辺には警察や軍の関係者が集まってきた。夜中だと言うのに、そこに騒ぎを聞きつけた野次馬たちが加わり、ホテル周辺は異様な雰囲気に包まれている。
「10分毎だ。軍が交渉に応じないなら、こいつら一人ずつここから飛び降りさせる。」
割れた窓からB.Bが身を乗り出し、その様子を見て満足気に笑う。
麻薬組織のリーダーを解放しろという要求に答えないことで自分たちの命が脅かされるのだから、クラブの客や従業員の女たちが、この場にいるヤマトとマクシミリアンに対し怒りをぶつけるのは当然だろう。
「大人しくあいつらの言うことを聞けよ!」
「なんで軍は言うことを聞かないのよ?!あたしたち殺されちゃうじゃない!」
皆、思い思いの感情を吐き出した。
ヤマトは黙って聞いているように装い、長髪の男が自分に対する注意が逸れているのを、目線だけ動かして確認する。後ろ手に縛られた手首を動かしてみるが、やはり簡単には解けないようだ。
ふとバニラの香水が香り、背後から首に腕を回された。
「この軍人さんも殺すの?いい男なのに勿体無いわ。」
まるで戯れる猫のようにヤマトに抱きつくアヤメを見て、B.Bはあからさまに不満そうな顔をする。
「おい、そいつから離れろよ。それにそいつはまだ殺さねぇよ。利用価値があるからな」
「ですって。よかったですね。」
そう言いながら顔を覗き込んできたアヤメを、ヤマトはじろりと睨みつけた。
「……さすがに聞き捨てならないな。」
口を開いたのはマクシミリアンだった。
私一人の命で済ましておけばよかったものを、と呟き、背後にいる見張りの男の制止を聞くこともなく煙草を咥えると火をつけた。
「……お前はさっき、戦争をしていればよかったと言ったな?」
肺に含んだ煙を吐き切る。
「それがどうした?」
「それでどれだけの人が死ぬか分かっているのか?お前は死ぬ覚悟はあったのか?」
B.Bは片眉を吊り上げて怪訝な顔をする。その静かな声に、先程まで怒りの声を上げていた者たちまで聞き入ってしまう。
「我々は国民の誰一人として血を流させるわけにはいかなかった。その為なら、自分の命を捨ててもいい覚悟だったんだ。」
「おい。こいつ、頭でもおかしくなったみたいだぜ?」
人質を一人ずつ殺すと言ったことに対し、マクシミリアンの発言はいささか的外れなもので、B.Bが指をさして笑い声を上げた。それにつられて仲間の男たちもゲラゲラと下品に笑い始める。
だがヤマトだけは気づいていた。
彼の静かな怒り。
滅多に表に出すことはないが、確実に怒りの炎が立ち上るのが分かる。
「もう10年も前になる。これは一部の者しか知らない軍事機密だが、先の戦争はただの交渉で回避されたわけではない。人を殺し、裏切られ、仲間を失い、生きる為には人の血さえ啜り……それでも、この国を守るために戦った。」
そこには怒りや悲しみといった感情は存在しない、ただ淡々と事実のみを話す、抑揚のない声。
そんな話し方をする男を、アヤメは他に知っていた。
あぁ、そうか。
同じなのだ。
「最終的に和平交渉に持ち込んだが、結果として当時の私の部隊の隊員はほとんど死んだ。戻ってきたのは、たった2人。そのうちの1人が、そこの男だ。」
細い指先が指す方向に視線が注がれる。
灰色の瞳が真っ直ぐにヤマトを捉えた。
「そうだったな?ヤマト」
「……。」
今でも身を焦がす、あの灼熱の時間。
呼吸ができなかった。
白い花。
土の匂い。
残された者の涙。
今でも瞼の裏に焼きついている。
「だから私たちは、私たちが命を懸けて守ったこの国を乱す輩には強烈に嫌悪感を覚えるんだ。」
「綺麗事言ってんじゃねぇ!お前らも所詮、人殺しだろ!」
「お前たちは人間ではない。私たちが作り上げた平和という舞台に上がっておきながら、台本通りに踊れないのは役者失格。それに、人間でないものを殺しても私の良心は痛まない。……このようにな。」
マクシミリアンは煙草を咥えたまま立ち上がると、隠し持っていたナイフで一閃、後ろにいた見張りの男の喉を掻き切った。
男はソファの後ろに倒れ、血の泡を吹きながらバタバタと悶え苦しむ。
突然のことで女たちが悲鳴を上げ、ヤマトですら思わず息を呑んだ。
これだ。
これがこの男だ。
顔色ひとつ変えず、息をするように人を殺すこの男。
かつて恐怖を抱いていたほどだ。
音を立てることなく一瞬で人を殺すこの技術、鮮やかとしか表現できない。
今や総帥となり前線に出ることはなくなったとはいえ、その腕は衰えていないようだ。
マクシミリアンは血のついたナイフを、まるで懐かしい本でも手に取ったときのようにまじまじと眺めながら呟く。
「……歳だな。どうも肉を切る感触が苦手になってきた。」
「てめぇ……!」
「彼らを巻き込むという発言。我々帝国軍に対する宣戦布告と受け取る。」
再びソファに座り、煙草を灰皿に押し付けた。
「全員殺せ。ヤマト。」
「了解。」
総帥の命令を受け、ゆっくりと立ち上がるヤマト。先程まで後ろ手に縛られていたはずの手に握られているナイフを見て、長髪の男が目を見開いた。
「こいつ、いつの間に?!」
ヤマトがその首にナイフを突き立てると男は悲鳴を上げる。引き抜くと同時に噴き出す鮮血に、一瞥をくれることもなくヤマトは走り出した。
B.Bが「誰かそいつを止めろ!」と叫ぶと、1人の男が立ちはだかる。
が、跳躍したヤマトの膝が男の顔面をまともに捉え、ゴッという音を立てながら地面に叩きつけられた。
身軽に着地したヤマトは、マクシミリアンの方に背を向ける。
「お怪我は」
「おや、嬉しいね。お前が心配してくれるのか?」
こちらを振り返りもしないヤマトの背中を見上げた。
「最初から思っていたのですが、この状況で随分と余裕ですね。」
「そうだ。お前はいつだって私の期待を裏切らないからな。よく帰ってきた、ヤマト。」
何かに気づいたように肩越しに振向くその横顔は、相変わらず表情に乏しい。
「……貴方が命令したから、僕はそれに従った。それだけです。」
そう言うと胸ポケットから取り出した小さくて細長い銀製の笛を吹くような仕草をしたが、誰の耳にも何も聞こえなかった。
正確には、人間の耳には聞こえなかった。
その頃、ホテルの外で待機していた2匹の犬がピクリと反応した。
出動してきた軍の若い隊員が、こちらに向かってしきりに吠える犬に気づく。
「レックスとフライだ。……隊長が呼んでいるのか?」
近寄ると、付いて来いと言わんばかりにホテル内に入り、2匹は駿馬のように階段を駆け上がっていった。
特にすることもなく、クラブの扉前で暇そうにあくびをしていた見張りの男は、人間のものではない息遣いと足音が近づいてくることに気がついた。
が、時すでに遅し。
「な、なんだこの犬?!うわっ!」
レックスが右腕に噛み付くと、その隙にフライが体当たりで扉をこじ開け、クラブ内に転がり込んできた。
「フライ!私のサーベルを取り返してこい!こいつら全員、噛み殺しても構わない!」
ヤマトのその発言に誰しもが耳を疑った。犬が人間を殺すなんて、そんなことがあり得るのか。
しかしその犬の黒々とした目つきは猛獣のように鋭く、牙を剥くその姿は、十分に説得力のある話だった。
フライは男たちを翻弄するように、するすると足元を抜けていくと、主人の持ち物を所有する人間の元に駆ける。
ぎょっとした太った男は、「く、来るなぁ!」と逃げようとするが、逃げられるはずもない。足元に噛みつかれると前のめりに倒れた。
ヤマトはその隙に人質たちの縄を解いていって、逃げるように促す。
それに気づいた見張りの男が
「勝手に逃げてんじゃねえぞ、お前ら?!」
と、人質を連れ戻そうとするが、レックスに吠えられて近づくことすらできない。
そうしている内に、フライがサーベルを咥えて戻ってきた。
「いい子だ……、よくやった。」
黒の軍服にサーベルを構えるその姿は、それだけで威圧感を与える。
そして足元にまとわりつくような、ジメジメとした嫌な殺気に、男たちは怖気付いた。
「どうした?私がそんなに怖いか?」
ヤマトが唇の片端を持ち上げて挑発する。
「なにビビってんだ?!たった一人だぞ!ぶっ殺せ!」
B.Bの一声で男たちがヤマトに向かってきた。振り下ろしてきた剣をヤマトはサーベルで弾く。高くて乾いた金属音。体勢を崩した男の鎖骨辺りを刺すと、蹴り倒した。そのまま振り返ると頭上から振り下された両腕を横に薙ぎ払う。鮮血が弧を描くと、ヤマトがふっと鼻で笑った。
「雑魚が」
マクシミリアンの目には、10年前のヤマトの姿が重なって見えていた。
まだ少年に近かったあの頃。
冷めた生意気な目に宿していた、激情の光。
今もそれは変わっていない。
「ここにヤマトを引き入れた時点でお前たちの敗北は決定していた。15の頃から私の元で遊撃戦に参加していたその男に、お前らごときが敵うわけがない。」
私はお前に多くのものを与えた。
そして同時に、お前から多くのものを奪い、お前を壊した。
それはいつか私の罪として、お前に裁かれる日がくるのだろう。
部下たちがバタバタと倒れていくのを見て、B.Bは理解が追いつかなかった。
どうしてだ。
どうしてこうなった?
ヤマトの手に握られていたナイフ。
あれは元々あの男のものだ。
アヤメが奪ってきたナイフ。
……アヤメ?
そういえば、あの時あの男に抱きついていた。
「この人も殺すの?」と。
「アヤメ!裏切りやがったな!」
怒りで血液が沸騰しそうなB.Bに反して、アヤメは腕を組んで冷めた笑みを浮かべていた。
「私は初めから誰の味方でもないわ……。終わりよ、全部。」
「このクソ女……!」
アヤメの細い首を掴んで、割れた窓の向こう側に体を持ち上げた。
勿論、手を離せば下に真っ逆さまなのだが、アヤメは動じる様子もなかった。
「やめろ!」
気づいたヤマトが駆け寄り、今にも飛び掛かりそうな勢いで唸るレックスとフライを手を上げて制した。
B.Bはヤマトの背後の惨状を見て眉間に皺を寄せる。
「……よくもやってくれたじゃねえか。ええ、おい?ただのお飾りの隊長じゃなかったようだな。」
「彼女に手を出すな。」
「なんだぁ?この女に惚れたのかよ?こいつはなぁ、親に捨てられ、身体を売るしか能のない、嘘つきな淫売女だぞ。」
そう吐き捨てるように言うと、下品な笑い声を上げた。
「だから何だ。どんな女であれ、手出しはさせない。」
「ご立派なことだぜ、隊長さんよ。ならお前がここから飛び降りろ。さもなくばこの女をここから落とす」
「貴様……」
ヤマトが眼鏡の奥の目を細める。卑劣さに吐き気すら覚えるほどだった。
「私に構うことないわ、軍人さん。」
こんな状況でも、アヤメの声は凛としていて、その赤い瞳はB.Bをじっと見つめている。
「……殺せばいいわ。この国で薬に関ることは重罪。捕まればどうせ私も貴方も死が待ってるんだから。」
「いいや、死ぬのはお前だけだ。」
「試してみるといいわ。地獄で待っててあげる。」
そう言うと、ヤマトの方を見て微笑んだ。
「私を殺してくれるのは、貴方だと思ってた……。」
アヤメの首からB.Bの指が離れる。
支えを失った身体は重力のままに落ちていく。
「っ……!」
それは、ほとんど本能に近い反応。
「待て、ヤマト!」
マクシミリアンが静止するより早く、脊髄反射で地面を蹴ったヤマトはアヤメの後を追って自らも夜の闇に飛び降りた。
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