帝国軍人の専属娼婦

カスミ

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序章 Hotel Royale

第4話 Night in blue

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橙色の間接照明だけが灯る薄暗い部屋。
響くのは、規則的に軋むベッドの乾いた音と、2人の息遣いだけ。
指先で、唇で触れられる度に、脳が溶けていくような感覚がした。
優しく、時に激しく与えられる快楽は、確実に思考を蝕んでいく。
これは、そこには何の感情もない、ただの無機質な性行為に過ぎないはず。
そう理解している頭の中と、まるで愛されているかのような体。
その落差に目眩さえしそうだった。


「……こんな抱かれ方、ずるい。」


その言葉に、見下ろしてきた温度の欠片もない青い瞳は、美しいとすら感じる。

「これは、お前への罰だ」

「え……?」

「娼婦として生きることを選んだお前は、もう好きな男に抱かれることもないかもしれない。だから恋人のように抱いて、これから先、どんな男に抱かれても、私のことを思い出すようにしてやる。」

それは愛を囁かれているようにも、絶望の淵に突き落とされるようにも聞こえる、残酷で、甘美な響き。

「貴方は悪魔みたいな人ね。人の生き血を啜って生きる悪魔……。」

アヤメがそう言うと、ヤマトは唇の片端を持ち上げて笑った。
あの夜、男を殺した時に見せたその笑い方を見ていると、なぜか、この男になら殺されてもいいというような、安心感にも似た感情がふっと湧いてきた。それは心の内から出てきた無意識のものなのか、この男との思考を蝕まれる情事ゆえなのか。
アヤメはヤマトの手を取ると自らの首筋にその指を掛けさせる。



「貴方なら、私を殺してくれるかしら。」







うつ伏せのままシーツに包まるアヤメは、ヤマトが服装を整えていく姿をなんとなく目で追っていた。
無駄なものが一切ない引き締まった身体と、隙のない軍服姿は思わず見惚れてしまう。

「……私、軍人さんって好きですよ。強くて、かっこよくて。」

ヤマトがぴたりと動きを止めて、振り返った。

「……本当にそう思うか?」 

その表情もそうだが、相変わらず抑揚のない淡々とした声は、感情を読み取ることを許さない。
ヤマトがベッドに腰掛けると、静かに呟いた。

「私は時々、自分を頭のおかしい、ただの人殺しなんじゃないかと思うことがある。」

「どうして……」

アヤメは思わず体を起こした。
この男は、軍人としての信念を持って行動しているのだろうと思っていた。その為には人を殺すことさえ厭わないのだろうと。
そこに迷いはなさそうなのに、そんな風に思いを巡らせていることに意外に感じた。

「お前も見ただろう。任務と言えど、私は人を殺すことなんて何とも思っていない。どうかしている。この軍服を脱げば、私はただの人殺しだ。」 

「……。」

する、という衣摺れの音さえ耳障りな程の静寂。
アヤメはヤマトの横に座ると、顔を覗き込むようにしてキスをした。
唇が離れ、表情を伺うとヤマトは少し驚いたようにゆっくりと瞬きをしていた。

「貴方はとても気品があって、誇り高い人……。その誇りを失わない限り、
貴方は高潔な帝国軍人でいられる……。そう思いますよ?」

アヤメはそう言って微笑んだが、それはとてもぎこちないものだった。

「お前は……」

ヤマトが唇を開いたときだった。
ドンドンドン!と連続して扉を叩く音が部屋に響いた。
それはアヤメが恐怖すら感じるほどに只ならぬ雰囲気。
ヤマトはアヤメに服を着るよう促すと、扉の前に立って「はい」と返事をする。

「私よ。下の階が大変なことになってるの。」 

ヤマトは声の主にピンと来なかったが、扉を開くとエリザと言っただろうか、アヤメの娼館の女主人がいた。
随分と憔悴した様子だ。

「お邪魔して悪いわね。でも総帥が大変なの……」

「総帥が?」

ヤマトが怪訝そうに眉を顰める。





エリザの話では、何者かが総帥とその他の客を人質にクラブ内に立て籠もっているとのことだった。
総帥一人ならともかく、他の客や従業員がいるとなると、さすがに放っておくわけにはいかない。
クラブのある中層階まで階段で降りてきたヤマトは、踊り場の影からロビーの様子を伺う。なるほど、クラブの入り口の扉は閉じられ、その脇には2人の見張りの男が立つ。中の様子が分からない中で、正面突破するにはリスクがありすぎる。
どこか侵入できるような場所があればいいが、さてどうするか……。

「どうですか?」

唐突に背後から掛けられたその声に、ヤマトが肩をびくっと震わせた。振り返ると、なぜかアヤメの方が目を丸くして驚いていた。

「なぜついてきた……。あの女と部屋で待っていろと言っただろ。」

ヤマトが小声ながら強い語気でそう言うと、アヤメは首を傾げた。

「あら……?案外、冷たいんですね。優しいのはベッドの中だけですか?」

「……。」

何か言いかけたヤマトだったが、ここで言い争いをしても仕方ないと悟ったのだろう。寸前で言葉を飲み込んだようだ。神経質そうに目を強く瞑ると、眼鏡のずれを直した。
アヤメはヤマトの肩越しにロビーの方を見る。

「見張りがいますね。どうするんですか?」

「さぁな。犯人たちの目的が分からないからな……。まぁどうせロクなことじゃないだろうが。私1人で正面から突破もできるが、そうなると総帥はともかく他の客を巻き込むのは面倒だ。」

「……。」

その時、2人のすぐ目の前を、肩まである長髪の男が横切った。とっさに身を隠そうとしたが、「……あ。」と呟いたアヤメに男が気づいたようで、「おい、そこで何してんだ!」と男が声を上げた。
小さく舌打ちしたヤマトはサーベルに手をかける。
殺すしかない。
が、男の次の言葉に一瞬、それを躊躇ってしまった。

「お前、アヤメじゃねぇか。こんなところで何してんだ?」

知り合いか?
振り返りアヤメの表情を窺うと、彼女は花のように艶やかな唇で微笑んだ。
しかしそれは自分に向けられたものではなかったようだ。

「……丁度いいところに。ここに軍人さんが紛れ込んでいるみたいよ?」

「……!」

どうやらこれは罠だったようだ。


いつからだ?
いやたぶん、最初から。







煌びやかなクラブの佇まいと相反して、重苦しい空気が漂っている。
十数人はいただろうか、麻薬組織の残党たちがクラブ内に乱入してくると、客や従業員は身動きが取れないようにロープで拘束され、壁際に集められた。ドレスを着た従業員の女たちは震えている。客の太った中年の男が「お前たち、こんなことをして何になるんだ?!」と騒ぎ立てたが、無精髭を生やした体格のいい男に剣を向けられて威嚇されると、後ずさりした。

「なぁに、お前らの命まで取る気はねぇよ。……ま、それもあそこにいらっしゃる帝国軍総帥閣下の出方次第だけどなぁ?」

男はわざと仰々しく言った。

「て、帝国軍の総帥だって……?」

その方向にはソファに腰をかけた、上等なスーツを着た品の良さそうな男しかいない。出で立ちからは想像できないだろうが、彼は確かに帝国軍の総帥なのだ。
そのマクシミリアン自身は拘束されることはなかったが、ソファの後ろに立つ男に刃を向けられている。
対面するソファに座る、腕が悪趣味な刺青だらけの男は、テーブルの酒を瓶ごと一気に煽ると口を開いた。

「オレの名前はB.B。お前らに壊滅させられた麻薬組織のNo.2だ。」

組織の壊滅は完璧ではないだろうとは思っていたが、組織のNo.2の情報すら警察は掴んでいなかったことになる。それに残党のこの人数。警察の詰めの甘さにマクシミリアンは若干の苛立ちを覚えたが、今ここでそんなことを考えていても仕方ない。

「目的は何だ?」

B.Bと名乗った男は「話が早いねぇ総帥サマは」と前置きすると「軍に拘束されているボスを解放しろ。それから警察に捕まった仲間の解放だ」と要求した。 
おおよそ、そんなところだろうと想像はしていたが、マクシミリアンは穏やかな口調で「できないな」と言う。


「お前ができなくても、させるんだよ。軍と警察には既に連絡済みだ。」



……無駄だと思うが。



心の中だけでそう呟いたマクシミリアンは、黒と鳶色の混じった髪をかき上げた。
B.Bは前のめりになってマクシミリアンの顔をまじまじと眺める。

「お前、先の戦争を回避させた功績で総帥にまで登りつめたらしいな?」

「経歴まで知ってるとは、光栄だな。それが何か?」

B.Bはニヤッと笑うと、立ち上がり、クラブ全体に聞こえるように声を張り上げた。

「おい、聞けお前ら!ここの帝国軍の総帥様は先の戦争を回避させたことですっかり英雄気取りだ!だがこのご時世はどうだ?!仕事はねぇ、金持ちばかりが得している世の中で、いつまた隣国に侵略されるかもとビクビク怯えてるだけの世の中だと思わねぇか?!」

組織の男たちは頷いたり、拍手をする者もいたが、客や従業員は誰しもが押し黙ったままだった。

彼らも口には出さないが理解しているのだ。
そして肌で感じている。
この時代に漂う、重苦しく鬱屈した空気を。

「オレたちの組織はそんな世の中の救世主だったんだぜ?拠り所を求めてクスリに走る奴ら……。オレたちはそんな奴らのためにクスリを作り、そして売る!そこには雇用も生まれるし、皆ハッピーってワケだ。だが!お前らが規制しやがった!」

麻薬は依存度も高く、確実に心と体を蝕むものだ。それを金の為に売り捌くというのは、身勝手としか思えない。

「くだらねぇ!お前らはこのご時世をオレたちのせいにしてるかもしれねぇが、世間からしたらお前らの方がよっぽど諸悪の根源だぜ。戦争を回避してもこんな世の中なら、いっそ戦争しちまえばよかったんだ」

「……。」

マクシミリアンの暗く曇った灰色の瞳は、B.Bの顔を捉えた。
その一瞬の静寂を切り裂くように、バン、と扉が開かれ、長髪の男が入ってきた。

「兄貴!軍人が紛れ込んでましたぜ!それとアヤメのヤツが一緒だ!」

その言葉にマクシミリアンが目線だけ動かすと、後ろ手に縛られたヤマトが連れて来られるのが見えた。いつも携えているサーベルは奪われたようだ。
あの娼婦の女も一緒だったが、なぜかこちらは拘束されている様子はない。
マクシミリアンが状況を把握するのに2秒も掛からなかった。
 B.Bが振り返って手を挙げる。

「よう、アヤメじゃねえか……。久しぶりだなぁ。お前、ベネディクトの所を追い出されたって本当かよ?」

「本当よ。だから貴方の所に来たの。……ねぇ、いいでしょ?」

アヤメはそう猫撫で声を出す。

「いいぜぇ。だがわかってんだろうな?」

アヤメの体を舐めるように眺めながら、下卑た笑みを浮かべた。しかしアヤメは、そんなことは全く意に介さない様子で艶やかに笑う。

「ふふっ。勿論よ」

マクシミリアンは目を細めた。
エリザに紹介された時、まるで処女のように怯えるような仕草を見せていたこの娼婦の女。
それが今はどうだ。
この怪しい色香、男なら誰でも惑わされるだろう。
もっと知りたい。
もっと触れてみたい。
そしてその結果、ボロボロになるまで傷つけられてもいいとすら思わされるだろう。
改めて、女性の恐ろしさ、二面性を見せつけられた気がした。

しかし変に頭が回るのだろう、マクシミリアンの後ろに立つ男はアヤメを疑っているようだ。

「兄貴、いいんですか?この女を追ってたヤツが死んだんですぜ?この女は信用できない。」 

「黙ってろ!女1人で男を殺せるわけがねぇだろ。なぁ?ほらこっちに来いよ、アヤメ。」

そう呼ばれてB.Bの方に向かおうとするアヤメの背中に、ヤマトが問いかける。

「お前、全部嘘だったのか……」

その目には軽蔑と怒りの色が入り混じっていた。振り返ったアヤメは形のいい唇で微笑んで、そっとヤマトの頰を撫でる。

「ごめんなさいね?私、こういう女なの。でも、貴方との夜はとても良かった……これは嘘じゃない。」

ヤマトにだけ聞こえるように囁くと、その手が徐々に下に降りてきて、ヤマトの胸あたりをまさぐった。

「……これは没収ね」

アヤメはヤマトの軍服の内ポケットから、護身用の折り畳み式ナイフと黒革製の隊員証を取り上げた。
隊員証は帝国軍人の身分証明に使われ、中には顔写真や名前、所属部隊が記載されている。ソファから立ち上がってこちらにやってきたB.Bは、アヤメからそれを手渡されると、隊員証内の写真とヤマトの顔を見比べて笑った。

「よう兄ちゃん。お前、写真より実物の方が色男じゃねぇか。ふふふ……、何なに?名前はヤマト・ヴィルトール。所属は……、特別武装治安維持部隊、隊長……」

初め、優位に立てている余裕からか上機嫌な笑みを浮かべていたが、ヤマトの身分が明らかになるにつれ、その表情は徐々に険しくなる。

「……聞いたことがあるぞ。治安維持部隊の軍人で、クソみてぇに凶暴で利口な犬を連れてるやつがいるってな……。」

それは明らかにヤマトの事なのだが、アヤメがちらっと表情を盗み見ても、動じている様子はない。いや、そもそもこの男はどんな状況に陥っても顔色1つ変えないような男なのだが。

「ついこの間、この女を追っていたヤツが河川敷で殺されていた。そいつと一緒だったもう1人は入院中だ。冗談みてぇな話だが、犬に殺されかけたってずっとうなされてんだが。……お前、何か知らねぇか?」

ヤマトがふっと薄ら笑いを浮かべる。

「さぁな……。いつどこで誰を殺したかなんて、いちいち覚えているわけがないだろう?貴様らのようなクズは次から次へと蛆虫のように湧いてくるんだからな……。」

次の瞬間、B.Bの拳がヤマトの顔を捉えた。ゴッ、という鈍い音が響き、ヤマトは前のめりに床に倒れこむ。アヤメは思わず目を伏せた。

「ぐっ……」

「育ちが良さそうな割に口の悪さは一級品じゃねぇか。隊長サンはよぉ。えぇ?」

B.Bは屈んで、ヤマトの黒い髪を掴んで顔を上げさせる。

「ヴィルトールってことは、お前、あのヴィルトール家の倅か?なんで資産家の息子が軍人なんてやってんのか知らねぇが、お前には人質としての価値がありそうだ。」

「……。」

ヤマトが無言で唇の端を持ち上げて笑ってみせた。
それは嘲笑の意味が込められた笑み。
この男はこういう、わざと人の勘に障るような笑い方が天才的に似合う。

それはB.Bも例外ではなかったようで、顔を顰めた。

「……何、ニヤニヤ笑ってやがるんだ。気色悪い。」

「いや……?おめでたいのはその見た目だけじゃなく頭の中身もだな、と思っただけだ。」

「何だと、テメェ…!」

ヤマトの髪をさらに掴んだ時、
「あ、兄貴……!軍から連絡が…!」
と、今度は随分若い男が入ってきた。
B.Bは舌打ちして乱暴にヤマトを解放する。

「どうなった」
「そ、それが……、軍は全く応じないと…」
「何だと……?」

軍の頂点である総帥を人質にされておいて、要求に応じないとはどういうことだ。

理解できないでいると、マクシミリアンは当然だ、と静かに言い放つ。

「我々は外部の如何なる脅しや要求にも応じない。なぜなら我々帝国軍は帝国防衛の最後の砦。何者の干渉も受けない。……それが例え、総帥である私の命が掛かっていようと、な。」

口元に笑みを浮かべて続けた。

「そのような選択をしてくれた帝国軍の部下たちを改めて誇りに思う。彼らの誇りを守る為なら、私は喜んで死のうじゃないか。」

そう言うと、マクシミリアンはヤマトに向かってウインクをしてみせた。


そうだ。
彼はこういう男なのだ。
昔からそうだ。
理想の為なら、死ぬことなど構わない。
自分の上官になる人間は、なぜいつもこうなのだ。
あの人もそうだった。


あの人も。


……あの人も?
 

どうして。


どうしていつも自分を置いていくんだ。


死ぬべきなのは僕だ。



「……。」




これまでずっとヤマトの様子を見ていたアヤメの目に、うな垂れるように顔を伏せるヤマトの姿が映った。
一方、要求が通らなかったB.Bの苛立ちは火を見るより明らかだった。

「この、クソ野郎共がぁぁああああ!!」

彼は腰をかけていたソファを持ち上げると、帝都を一望できる掃出しの硝子窓に向かって投げつけた。クラブの従業員の女たちが悲鳴を上げた。
硝子は派手な音を立てて飛散し、ソファは宙に放り出される。下に誰もいないことを祈るのみだ。
割れた硝子窓からの強風が、一気に室内を吹き抜ける。
その風が、沸点に達した怒りの温度を下げたのだろうか。深呼吸して息を整えたB.Bは、ゆっくりと振り返って人質を見回しながら言った。


「こいつらを1人ずつ飛び降りさせる。」
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