Great Factory シーズン1

まなびー

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迷厩舎の日常

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「おい!!! ちゅ~ん!!!」



 栗東トレセン内にて突如響く怒号。その瞬間慌てて「ちゅん」と呼ばれている所属厩舎の騎手が慌てて怒号の主のところへやってきた。



「は、はい、なんでしょうか?」

「はいなんでしょうかじゃねーやろ! オマエ今のマンドレイクの追切はなんや~! ワシは3ハロン40秒ジャストで走れ言ってたのに1.2秒も遅れやがって! こんなヘタレな追い切りでオマエはレース勝てると思ってんのか? あぁ?」

「えっ、この馬は確か使い詰めだったんでは……」

「はぁ? なに寝ぼけたこと言っとんのや! 自分の所属する厩舎の馬1頭の状況も把握できんでどないするんや~! マンドレイクは休み明けの馬やで! レース感覚開いててただでさえレース勘戻ってるかどうかもわかれへんのに最終追切で緩めるアホがどこにおるんや~! 馬の名前間違えて調教するってそんなんでオマエは騎手つとまるのか? あぁ?」

「す、すいません……」

「ったくオマエはプロ意識のかけらもないやっちゃなぁ。せやから先週のレースだって真向かいの厩舎に勝ち星持ってかれるんや! マンドレイクはオマエのせいで今週はレース出せんわ! 調教し直しや! ぼさっとしてねーで次はテンテンの15-15に行って来んかい! ほんまトロいやっちゃなぁ!」

「は、はい~~!!!」



ちゅんは慌てて飛んでいった。



「ったくなんでワシんところのスタッフは使えんのばっかなんや……」



 怒号の主は頭を抱えて嘆いていた。



 いきなりの説教の会話だったがこの怒号の主の名は押切知良おしきりともかず調教師・30歳。背丈は177センチの痩せ型で上下常に黒いレザーを着て、先がやたら長く尖っている黒いブーツを履き、首と手首には白銀のアクセサリーを装着している。これだけでも十分危険な匂いを漂わせているのだが、さらに拍車をかけてるのがスキンヘッドに近い坊主頭に超ガラの悪いサングラスを常にかけていること。この格好になったのは調教師になってからであるが、なぜそこまでイメチェンをしたのかは未だに謎である。押切は2000年に先代が病死した際に厩舎を引き継いだが、4年経っても満足に勝ち星を挙げられずトレーナーのリーディングは毎年最下位争いばかりで馬房を減らされそうになる危機に陥っている。今年も馬房が減らされるか否かの瀬戸際に立たされていて本人は常にピリピリしている。悩みの種としてまずスタッフの殆どがなんらかの形でポカを起こすのが日常茶飯事で、特に今年入ってきた新人騎手の「ちゅん」が所属されてからいろんなポカに拍車がかかったわけである。

 この「ちゅん」の本名は鈴木中すずきあたるで「ちゅん」というネーミングは押切が彼のフルネームの名前部分の「中」の字を見て麻雀牌の字牌「中」をなぞらえて名づけたものであった。背丈は173センチと騎手の中では1.2を争う高さだが、腕は「逃げ」の戦法がいささかできるくらいで「先行」「差し」「追込」戦法はからっきしダメというまだまだ駆け出しの新人騎手である。性格はおっとりしているためレースの時に位置取りにモタついて勝てないまま終わって押切に説教されるというパターンが定番になっている。だが、ちゅんにとって騎乗ミスよりさらに騎手として致命的なところがあった。それは太りやすい体質である。騎手という職業は騎乗で結果を出すだけでなく自分自身の体重管理も仕事の1つである。ちゅんは大の甘党で騎手学校時代何度も重量オーバーで退学になりそうになっていた過去がある。プロになってからも検量室で重量オーバーで失格になったことも何回かあった。体重管理でびっしり指導してくれそうな人として騎手学校の配慮から超強面の押切調教師の厩舎に配属されたのである。



 押切に怒鳴られた後のちゅんはテンテンの15-15の追切の最中だった。15-15とは「軽め」の調教のことで1ハロンを15秒前後の間隔で流すように馬を走らせることである。5ハロンの距離を15-15で走っている馬を押切は双眼鏡で様子を見ていた。押切のそばで谷口厩務員がタイムを測定していたが、谷口はタイムを見てちゅんが一定間隔で走らせていないことがわかった。



「せ、先生……」

「なんや、谷口」

「このタイムを見てください……。15-15のタイムではないんですけど……」

「あぁ?」



 怪訝そうに谷口が記録したタイムを見てみると左から順番に



 14.7 - 18.3 - 13.8 - 16.6 - 13.1



 というふうになっていた。この瞬間押切は再び頭に血が昇った。



「あのアホンダラ!!! 15-15の追切もロクにできへんのか!!!」



 ちゅんが追切を終了させたのを確認して押切はちゅんの携帯に電話をかけてちゅんが出たのと同時に「今すぐ来い!」と一喝して切った。この厩舎ではおなじみの通話時間2秒の呼び出しである。しばらくしてちゅんが慌てて押切の元にやってきた。



「あの~、何かありました?」

「オマエなんやこのタイムは! どないなっとんのやぁ! ワシは15-15やれ言ったんやで! 2ハロン目以降はタイムめっちゃバラバラやんけ! なんで等間隔で走れへんのや~!」

「その~、1ハロン目でちょっと速いかなあと思って微調整して2ハロン目の時には今度はちょっと遅いかなあと思いまして……」

「オマエは加減にもほどがあるわ~! 微調整で5秒もタイムが前後するなんて聞いたことあれへんわ! ヘタにスピード調整するもんやからテンテンがヘバって調子崩してもーたやないか~! オマエは何頭馬をヘバらせれば気が済むんや~! あぁ?」

「い、いや……ちゃんと追切してるはずなんですけどねえ……」

「はぁ? どこがちゃんとしてるんやぁ! オマエの場合は調教やなくて馬壊しやんけ~! こんなずさんな調教をオーナー達に知られたらワシんところの馬みんな転厩させられるわ~! 馬転厩されたらワシらみんな路頭に迷って食っていけなくなるんやで! わかっとんのかぁ!」

「は、はい……それはもちろん……」

「わかっとんのやったらきちんと仕上げんかアホンダラァ! ぼさっとしてねーでさっさと次の調教に行かんか~! 亀! 小橋! 準備しろ! 3頭併せや!」



 押切の激で二人の調教助手が準備を始めた。亀と呼ばれてる調教助手は亀島という名前でちゅんが入る数ヶ月前に入ってきたスタッフで、小橋のほうは厩務員の免許と調教助手の免許をダブルで持っている「持ち乗り」可能なスタッフである。亀島はアスカコーネル、小橋はアスカルーブルにそれぞれ乗って2頭の真ん中を走るのがちゅんが乗るユーロチャペルである。この調教の方針は真ん中のユーロチャペルの馬込み嫌いを解消させることであり、アスカ2頭はユーロが走る両サイドを固めて調教師が指示したハロン分を走るというものである。こうすることで真ん中の馬がレースで馬込みに入っても自分の競馬ができるようにするというのがこの追切の狙いである。



 押切に指示された3頭の馬はトラックCコースを走っていた。内ラチ沿いに小橋が乗るアスカルーブル、外側に亀島が乗るアスカコーネル。2頭の馬の間のスペースの間ににちゅんが乗るユーロチャペルが迫ってきた。



「併せやったらアホのちゅんでもできるやろ……。ペース配分する調教助手どもが二人もおるんやから……」



ブツブツと小言を言いながら押切は3頭併せの様子を双眼鏡で見ていた。



 ちゅんが乗るユーロチャペルはアスカ2頭の間をひるんだ様子で走っていた。ちゅんはユーロチャペルの走る気を起こすために手綱をしごいた。ちょうどその時コーナーに差し掛かるところだった。亀島・小橋の二人はコーナーを計算してきちっと「手前替え」をして曲がる体勢を整えていたが、ちゅんは馬のやる気を出させるのに手一杯で「手前替え」を忘れていた。そのためコーナーに差し掛かってユーロチャペルは外を走っていたアスカコーネルに接触してちゅんと亀島は落馬した。



「うわぁ!」



 ちゅんの落馬による不注意な叫び声で内側を走っていたアスカルーブルは驚いてしまい急に暴れだして鞍上の小橋を振り落として暴走した。これによりトラック内に3頭放馬という大変危険な状態に陥った。



「あんのアホンダラ共がぁ!!!!」



 双眼鏡で調教の様子を見ていた押切は再び激高して持っていた双眼鏡を地面に思いっきり叩きつけた。叩きつけられた双眼鏡は無残にも木っ端微塵に砕け散った。



 トラックCコースは3頭の放馬によりパニック状態であった。100以上の厩舎が共同で使っている施設で放馬が起こると競走馬同士の接触事故が起こり鞍上の乗り手や競走馬の怪我は免れない。最悪の場合、人は落馬で事故死、競走馬は馬体のいずれかに故障を発生させて予後不良になることもある。1頭でも厄介なのにそれが3頭もいるためトレセン開設以来の前代未聞の大惨事になる可能性大であった。緊急事態に気づいた他厩舎のスタッフが追切中の競走馬がいないのを確認して白い布状のロープを張った。ロープに向かって興奮してかなりのスピードでアスカルーブルが走ってきたが、まだ興奮がおさまらずロープを飛び越えてそのまま走り去って行った。ちなみにロープを使う時の注意として競走馬の脚を引っ掛けるなどして無理に動きを止めるのは怪我の元になるので厳禁である。しばらくしてアスカコーネルとユーロチャペルが走ってきたがアスカコーネルはロープを見て反転して逆走を開始した。ユーロチャペルは追切の時に元々走る気力を失っていたためかロープの前で立ち止まった。



「ウチのスタッフがご迷惑をかけて大変申し訳ありませんでした…」



 ユーロチャペルを捕まえてくれた他厩舎のスタッフに深々と頭を下げて謝罪をした後、自厩舎の競走馬を速やかに馬房に連れて行った小倉橋厩務員がいた。彼は押切が最も信頼する厩務員で真の意味での大黒柱である。廃業寸前の押切厩舎を小倉橋だけが実質上支えているといっても過言ではなかった。例えば押切厩舎の誰かのポカで他厩舎になんらかの迷惑をかけた場合はいつも小倉橋が謝罪に行っている。普通なら全責任を背負う調教師が自ら謝罪に行くものだが、日頃の素行やガラの悪い押切では周辺の他厩舎の人達との人間関係悪化の可能性が圧倒的に高いからである。他厩舎からのクレームは小倉橋が相手だとなぜか強いことが言えなくなるという。小倉橋は想像もつきにくいほどのとてつもない人徳のオーラを持ってる人物である。そのため他厩舎の人達からは「小倉橋さん、いつも大変ねえ~」「あなたのほうが調教師だったらよかったのに……」などいろいろと同情的な言葉を言われるがどんな状況でも小倉橋は常に平静にふるまっていた。



 再びトラックCコースに話は戻るが、暴走していたアスカルーブルは3000M近くの距離を走っていたためかさすがにバテて脚が止まり近くにいた他厩舎スタッフに捕まって御用となる。これで残りは逆走しているアスカコーネルだけである。この競走馬の逆走というのが最も厄介で、もし追切中の競走馬と逆走してる競走馬が正面衝突となったら競走馬自体はもちろんのこと生身の体の鞍上の騎手はまずタダでは済まない。幸いアスカコーネルは他厩舎のスタッフ達の的確な行動と判断で走るのを観念して御用となった。アスカ2頭を自厩舎まで連れて行ったのはもちろん小倉橋であった。



 押切厩舎内の詰め所は度重なる調教ミスや不祥事により不穏な空気が流れていた。さきほどの放馬の事件も他厩舎のスタッフや競走馬が大事に至らなかったのはよかったが、押切自身の立場は悪化する一方である。押切自身は詰め所のど真ん中の位置で両腕を組んで仁王立ちして、怒り心頭のオーラが漂っているため誰も近づけない状態だった。そこに落馬して手当てを済ませてきた亀島・小橋・ちゅんの3人が押切に報告にやってきた。



「このアホンダラ共がぁ!!!! このワシの顔に泥塗りやがって~~!!! オマエら他厩舎の管理馬やスタッフ大怪我させたらヘタすると始末書どころじゃすまへんでぇ! ワシら廃業やで!!! わかっとんのか!!!!」



3人の姿が押切の視界に入った途端、通常の10倍くらいの怒号の雷が炸裂した。



「す、すいません……」



ちゅんは今にも泣きそうな顔をしていた。



「なんで途中で引っかかって落ちるんや? オマエは併せもできへんのか? あぁ?」

「い、いや……あの~、なかなか走る気を起こさなくて追っつけていたんですけど途中で亀さんと小橋さんが右にカーブしてそのまま亀さんの馬と接触しまして……」

「はぁ? オマエが手前替えしてへんからやろ~が~! ユーロチャペルは2歳馬でまだまだコーナーリング不器用なやっちゃで~! その馬をコントロールするんが騎手の役目やろ~が! そんなんできへんで騎手免許持ってるってのがワシは信じられんわ!!!」



立て続けの説教にちゅんは泣きべそ顔で滅入っていた。



「ちゅんもちゅんやがオマエらもオマエらや~! ペースメーカーの古馬2頭が怯む2歳馬のペース考えんで自分たちのペースで走ってどないするんや~! ヒヨッコのちゅんが豪腕追いなんてできるわけあれへんやろ~! 騎手の技量考えて走らんか~! なんのための調教助手なんやオマエらは~~!」



ちゅんの次に亀島・小橋の二人にも押切は食ってかかった。調教助手の二人はさすがにちゅんよりは大人なので泣きべそ面ではないが、お通夜みたいな状態でただ黙って押切の説教を聞くのみだった。似たような内容の小言が1時間ほど続いた。



「チッ、ったくオマエらはホンマにロクな仕事せんやっちゃなぁ。はよ持ち場に戻れや! オマエらの顔見てるとヘドが出るわ!」 



押切の最後の一言が終わって滅入った3人がトボトボと現場に戻って行った。



「おい、ちゅん……」



押切は最後に詰め所から出ようとしたちゅんを呼び止めた。



「は、はい…」

「オマエ今週のレースのために体重調整したろうなぁ~?」

「あっ、たっ多分大丈夫だと思います…」

「ホンマかいな?んじゃオマエこの体重計乗ってみぃ~」



 怪訝そうに睨んでくる押切の前でちゅんは恐る恐る体重計に乗った。体重計は54.5キログラムと表示された。この瞬間再び押切の頭に血が昇った。



「オイ! これどないなっとんのやぁ! オマエ2歳の未勝利戦のカンカン(斥量)54キロやで! しかもオマエ30勝もしてへん見習いやからそこから-3キロやで! 重量オーバーで乗れへんやんけ~! どないするんやぁ!!!」

「あ、あれ…おかしいなぁ~、食事のカロリー計算したんですけど……」

「はぁ? 計算したやてぇ?」



押切はちゅんの心理を見透かしたかのようにすぐ近くにあったゴミ箱を逆さにした。するとスイーツの袋がいくつか落ちてきた。それらを拾い上げてちゅんの顔に突きつけた。



「オマエなんやこれ? シュークリームにティラミスにチョコバナナだと……。まさかさっき食ったんじゃないだろうなぁ?」



押切はちゅんが隠れてスイーツを食べる癖があることを熟知してるがあえて問い詰めるという行動に出る。



「い、いや……そ、それは……」



ちゅんの表情はみるみるうちに青くなっていった。



「どうなんや~! 食ったんか食ってへんのかどっちや~!」



「すっ、スイマセン…。お腹がすいてちょっとつまんだだけなんですが…」



ちゅんは押切の凄みに押されて白状した。



「ちょっとつまむで3つもスイーツ食うアホがどこにおるんやぁ~! 顔色カメレオンみたいに変色させてヘタレな言い訳しおって! ワシはオマエのことはなんでもお見通しや~!!!」



「ひぃ!!!」



 ちゅんの恐怖は極限状態を極めていた。この厩舎の名物超特注のサウナ風呂があるからである。ちゅんは体重調整ミスるたびに長時間下手すると丸2日間この地獄のサウナ風呂に放り込まれる。



「サウナや! サウナ風呂行ってこい! 木曜の追切は亀と小橋にやらせる! オマエはレース当日までサウナ風呂入ってろ!!!」

「ひぃ! そ、そんなぁ!!!」



 押切からサウナ指令が出たのと同時にちゅんの背後から全身黒づくめの屈強なSPが二人やってきて、ちゅんの両足両腕をロックしてサウナ風呂へと拉致して行った。



「うわ~、助けて!!!」



 ちゅんは悲鳴を上げながらも抵抗して離れようとするが、屈強な二人に手足をキッチリとロックされていて全くビクとも動けない。サウナ風呂に到着して入口を開けたのと同時にちゅんは服を着せられたまま灼熱のサウナ風呂に放り込まれた。



「自業自得やアホンダラ~! はよ出たかったらさっさと体重減らすんやな!」



 押切は最後の捨て台詞を言ってSP二人に見張りを任せた後、現場に戻っていった。ちなみにこのSP二人は押切厩舎のスタッフの間では全くの謎の人物で名前や出身も不明。事実を知ってるのは押切のみである。



 このように押切厩舎内は常に珍騒動だらけであるが、この厩舎の快進撃は次章に出てくるとあるキーマンに委ねられることになる。








《押切厩舎スタッフ一覧》



調教師  押切

厩務員  小倉橋・大林・谷口・古村・渡部・増本・外岡

調教助手 小橋・亀島

所属騎手 鈴木中



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