暁のホザンナ

青柳ジュウゴ

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碧落の森の中で - 7 -

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「貴女は本当に……目を離したらすぐにこれだ」

 天使の嫌味を聞こえないふりをする。
 面倒ごとを呼び込んでいる自覚はあるが、だからといって誰も好き好んでやってるわけではない。ルアードに渡されたタオルでがしがしと乱雑に髪を拭きながらじろりと見やる、暖炉の前に座り込んで暖を取っているのだが天使は相変わらず口うるさい。じいと物言いたげにこちらを見る男の視線は居心地が悪くて好きではない。

「……頬が青白いではありませんか」
「貴様には関係ないだろうが」

 すげなく返す。
 捕らえた猫は捕縛の縄で首を繋いでおいた。突然窓から飛び込んできた子猫にも驚いたようだったが、まずは乾かして! と小屋へと戻ったこちらにルアードが絶叫したのである。顔色を見た途端、なんで冷たい井戸水そのまま被ってんの! と盛大に文句を言われたのも正直納得いかない。関係のない事だろうが。

 ぱちぱちと焚かれ続ける暖炉の炎は暖かい。髪は大分乾いたようだったが衣服はそう簡単にはいかなかった。べたりと張り付いた布は確かに気持ちが悪いが、脱ぐわけにもいかない。コートは多少は乾いただろうか、いやしかし、だからと言って素肌にコートだけを羽織るのは流石に躊躇われた。一人ならまだしも男ばかりのこの場では憚れる。
 くしゅ、と。小さくくしゃみが出て慌てて口を覆う。
 途端、そら見たことかと言わんばかりでいる表情の天使にあーあーと胸中で悪態をついた。ルアードも大概規格外のお節介だが、天使も同様だ。何故天敵である悪魔を気遣うのか皆目見当もつかない。

「天使のものなど嫌かもしれませんが、私が天界で着ていた衣類があります。宿の女将さんが洗ってくださっているので汚れてもいません。着替えたらどうですか」

 完全なる善意であろう、呆れたような表情で真白い布を差し出してくる。
 触れるのも躊躇うような綺麗な布である、清らかな天使を体現していると言っても過言ではないそれに触れるのはあまりにも抵抗があった。大体着替えろ、だと? 体格差をそのおつむで考えた事はないのか。

「いらん」
「ですが」
「しつこい」

 どうしたって食い下がる。まるで押し問答である。
 一見穏やかに柔らかに告げてくるものの、その実えらく強情だ。
「それよりもまずはこちらだろう」
 男の腕を押しのけて、小屋の隅でぶるぶると震えている猫の方を見やった。目が合った瞬間、ヒッと猫が大仰なくらい身をすくみ上がらせる。あまりにも人間臭いそれは通常の猫のそれではない。ふいとあからさまに視線を逸らされた、取り繕う事さえできないあたり小物である。

「お前がアンカーだな?」

 低く問えば、鮮やかなオレンジの毛並みの猫はびゃっと小さく跳ねる。

「アンカー?」

 食器を片付けていたルアードが不思議そうに口にした。
 アーネストはテーブルについてまだパンを齧っている。相変わらず興味のなさそうな事だ。

「極めて低級な悪魔――天使もか、力を持たない弱い個体はそれ故に力の干渉を受けない奴いるんだ」

 小屋の周囲に張られた結界を難なく突破してきたのは、いわゆる不干渉者だからだ。零にいくら数を掛けた所で零なのと同じように、術によるあらゆる外部刺激を無効にする者。僅かな霊力は持つものの発現する力は微々たるものでしかなく、しかし術の干渉を跳ねのける為強化も出来ない。当然、物理攻撃には滅法弱い。

「空間を移動するために必要な者、とでも言いましょうか」

 天使がすかさず補足を入れる。
 大した力を持たぬ低級者など上級者にとっては取るに足りない存在であるが、ほぼ唯一の使い方が〝アンカー〟であった。魔界からこちらを襲撃してきた悪魔がやって来たのも恐らくこの低級悪魔が関わっている。

 空間転移。空間を裂き、現在地から任意の場所へと繋げ移動する事が可能な術。
 使用霊力が莫大である上、術の構築は難解であるに加え制約がある。正確な転移先の座標が必要なのだ。見知らぬ場所、適当な場所へは原則移動出来ない。適当に目星をつけて移動することもまったくの不可能ではないが、その分代償が大きい。肉体を砕かれるか、魂が砕かれるか、またはそのどちらもか。最悪死に至る。無傷では済まない。空間を違える異世界であるのであれば猶更だ。

「移動者の持つ霊力量が大きければ大きな程、空間転移には霊的にも肉体的にも莫大な負荷がかかる。ですので正確な場所の座標が必要なのです。空間を裂くわけですから、指定が狂うと亜空間に放り出されたり肉体が引き千切られたりするんです。ですが、――ごくごく微量の力しか持たない低級者は移動時の負荷をほぼ受けず、アンカー、錨の役割として送り込まれる」

 そちらの猫さんのように。
 天使が言いながら猫型悪魔をみやる、猫は今にも卒倒しそうだ。

「おおかたナハシュ・ザハヴの力を辿って私の居場所を突き止めたんだろうよ」

 震える猫の姿を無感動に見ながら、はあ、と。幾度目かもわからない溜息を一つ。最初はいつだったか、記憶の中を探れば容易く思い起こされるのは薄暗い室内だった。街であの竜人に襲われた時か……霊力を一時的に使って内側からナハシュを呼び出した。あの時に目星をつけられたのだろう。
 魔王の証である大鎌、血の継承。
 ナハシュの振るう力の軌跡を辿るのは容易ではないが、不可能ではない。

「ルーシェルの現在地が異世界である事の見当がつき、彼女の力の軌跡からある程度の座標を組んだのでしょう。適当な場所に不干渉者を先に送り込み、正確な座標をアンカーが主に伝える。そうしてようやっと本隊が目的地に辿り着く」

 静かに語る天使の言葉に概ね同意である。万全の状態で悪魔をこちらに送り、襲撃させる。私を殺す為に随分と手間暇かけているものである、その分相手が本気で殺しに来ていることが痛い程によく解る。
 そういう意味ではほぼ無傷でこの世界に来た自分達は幸運だった。
 いや……術の発動に制約がかかっているのだから手放しに喜べるものでもなかったが、双方五体満足でいた事、霊力量が変わっていないのはありがたかった。全くの零ではない分まだ戦いようがあるというもの。
 するりと立ち上がって、猫の目の前まで移動する。生乾きの衣服の不快さがなお一層苛立たせる。

「――誰の命令で来た?」

 半眼で見下ろせば、こちらを見上げてくる猫の琥珀色の瞳が恐怖に満ちる。ぶるぶると震えて、半泣きで顔色を無くしているのである。獣であると言うのに、誰の目にも怯え切っているのが解った。まるで弱い者いじめだ、実に気分の悪い。それに、である。

「いつまでその姿でいる」

 冷ややかに告げれば子猫はたじろいだ。そうして酷くばつの悪そうにしばらくうろうろと視線を彷徨わせたかと思うと、観念したかのように項垂れる。と同時に、ぼん、と。ちゃちな空砲のような音を立てて猫が姿を変える。
 そこには少女がひとりぽつんと座り込んでいた。年を言うなら五、六歳くらいだろうか、肩にかかるオレンジ色の短髪と輝く琥珀色の瞳をした子供――けれど、その頭には三角の猫耳があった。だぼついたパーカー、ズボンから伸びた長い尻尾がくるりと少女の足に巻き付いている。

「ごめんなさいにゃあルーシェルさまあ~」

 半分猫で半分人間と称すべき少女が、顔をくしゃくしゃにしているのである。これでもかと言わんばかりにぺったりと耳が頭に張り付いている。

「おっしゃる通りにゃーはアンカーにゃ、でもアステマ様がやられちゃって……帰れなくなったにゃあ……」

 そこまで言うと猫娘はべそべそと泣き出す。
 アステマ。
 襲撃してきた炎を操る女悪魔の事だろう。
 やはりこの猫型悪魔がアンカーとなってあの悪魔をこの世界に呼び寄せたらしい。手酷くやられたが実力で言えば下の下、あの女悪魔が独断でこちらの襲撃を計画したとは思えない。空間転移の為に消費する霊力量を考えればさらに上がいる筈だ。確実に私を殺したい奴が。

「……貴様、名は」
「リーネンですにゃ……」

 しおらしくしてはいても悪魔は悪魔である。
 嘘泣きなどに騙されるほど自分はお人よしではなかった。ゆるい捕縛の術を強引に破る、ばちんという音と共に表情がわずか緩んだ猫型悪魔を冷ややかに見下ろし。

「にゃ!?」

 首根っこをつかまれ、宙ぶらりんになった猫娘が悲鳴を上げる。
 幼い体でじたばたと暴れているが手を離すつもりはない、首根っこ、正確に言うのであれば襟ぐりを引っつかんで持ち上げる。目線を合わせじっとその琥珀色の瞳を覗き込んで。

「……そのアステマとやら、誰の配下だ?」

 殊更声に凄みを乗せて問えば、リーネンと名乗った猫娘はひぃと小さく喉の奥を鳴らした。血の気が引きすぎたのか最早土気色だ、姿は愛らしい部類に入るであろうその猫型悪魔は完全に萎縮しており、ぷるぷると首を必死になって振っていた。

「知らないにゃあ! にゃあは言われた通りにしただけにゃ!」

 どうやら恐怖のあまり開き直ったらしい。
 リーネンはぶら下がったままにゃあにゃあと何やら喚きだす。

「知らないわけないだろう」
「上級悪魔の通念的な理念なんて知ったこっちゃにゃあです! にゃあは魔界で穏やかに暮らしていたいだけにゃ! いざこざにゃんてごめんにゃあ!」

 先程まで震え上がっていたとは思えないほど饒舌に怒鳴り出した。

「お仕事に呼ばれたらこれにゃ! 帰れなくなったにゃ! わけわかんにゃいものに襲われるわ、よくわかんにゃい人間に追いかけらるわ、もうなんもかんも嫌なんにゃあー!」
「貴様仮にも悪魔だろう!」
「お偉方は解んないにゃ――!」

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