女王曰く、

野良

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「倉林、なんだその矢は。集中できねぇなら帰れ。事故の元だ」
「…すみません」
「俺が聞きたいのは謝罪じゃねぇ。やれんのかやれねぇのか、どっちだ」
「やれます」
「ならいっぺん顔洗ってこい」

 にべもない鋭い声に短く返し、タオルを掴んで道場を出る。主将は自分にも人にも厳しい。そんな人間が部活中に笑顔を見せるわけもなく、一年のその多くが彼の厳しい顔しか目にしたことがない。主将って笑うんですか、と半ば本気で問い掛けたチャレンジャーまでいたくらいだ。それくらい彼は部活にストイックに打ち込んでいた。
 眼鏡を外し、手の内に張った水に顔をつける。二度三度繰り返せば叱責された不満も苛立ちも流れて冷静になった。交流試合も近いのに情けない。一年だけのチームとはいえ、せっかく試合のメンバーに入れたのに、これでは外されたとしても文句は言えない。

「しっかりしないと」
「うん、その方がいいね。タツはその辺り、わりとシビアに判断するから」

 ぼやける視界ながら、声でそこにいるのは天羽先輩だと分かった。特段、不思議なことではない。天羽先輩が主将に道場から出された部員のフォローに回るのは、よくあることだった。
 主将や天羽先輩たちの学年は非常に仲がいい。人数も多くなく、それぞれの実力が拮抗していたため、大会のメンバーはよく入れ替わった。学年全体がライバル同士のようなものだが、意識しすぎることなく、パズルのピースのようにしっかりと纏まっている。非常に稀な学年だった。
 その中でも主将と天羽先輩は特別仲が良い。少なくとも部内において互いに名前を呼び合うのは主将と天羽先輩だけだった。二人には独特の空気がある。親密でいて、どこまでも他人の、関係としてはひどく曖昧な。二人が幼なじみであるからこその、その空気は俺にとっても身近なものだった。

「やっぱり、あの二人って付き合ってるのかな」

 ふと榊の言葉がよみがえる。目の前にいる天羽先輩は、噂話になるような告白騒動があったなんて、欠片も感じさせなかった。
 ボタボタと落ちる水滴が鬱陶しい。背を向け続けるのも失礼だ。手探りでタオルを引っ掴み、顔に押し当てた。その拍子に思わずため息をつきかけたが、どうにか抑え込んで顔を上げる。

「落としたよ」

 差し出されたそれを受け取ると、ようやく視界がクリアになった。タオルを取ったときに落としたらしい。返したお礼の言葉は、驚くほど情けないものだった。
 天羽先輩は特に気にした様子もなく、持っていたボトルを俺へと押し付けるように手渡した。別に喉が渇いていたわけでもないが、貰った以上、口をつけないという選択肢はない。こくり、と一口飲む。ちらりと目を向けるも、天羽先輩は満足げに笑っただけだった。

「倉林くんには特に私からのフォローはいらない、よね」
「…ご心配おかけしました」
「いいえ、これでもマネージャーですから」

 ひらひらと手を振り、気にするなと告げる天羽先輩に変わったところは見受けられない。それがあまりにいつも通りすぎて、噂の真偽を確かめたいと人並みにある野次馬心が疼く。しかし、苦手な先輩相手にその話題を出すほど無作法者でもない。早々に何事もなくやり過ごすことに決めた俺の足は、ゆるゆると道場へと向かう。
 天羽先輩の足元に山になったタオルがあった。年代物の洗濯機が壊れたと言っていたから、多分、これからこの水飲み場で洗うのだろう。邪魔になるのは避けたかった。だから今一度、礼を言って横を通り過ぎるつもりだった。

「今日は来てないね」

 歩みが止まり、視線が交じる。誰のことを言っているかなんて明白だった。
 天羽先輩も元は射手の一人だったが、彼女の代の女子部員の少なさから大会には出られず、マネージャーへと転向したらしい。たまに道場の中へ来ては矢を放っているが、ほとんどはボトルやタオルの準備、備品の整理などで裏にいることが多い。
 だから知らないと思っていた。あの人の姿を、天羽先輩は視界に入れたことがないと、そう思い込んでいた。

「今日、タツは調子がいいから、あの子にとってはすごく残念なことだけど」

 ぷつり、と言葉を切って誘うように唇を舐める。別の生き物のような艶めかしい赤が恐ろしい。咄嗟に目をそらすも声が脳髄を揺らした。

「倉林くんにとっては、すごくラッキーなことだね」

 良かったじゃない。道場を出されてしまった情けない姿を見られずに済んで。
 今まで聞いたことのないくらい、愉悦の滲む声にぞっとした。とてつもなく滑稽な、ありがちなお話の役者に彼女はもう気づいているらしい。俺は、それが堪らなく恐ろしい。
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