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little melody?
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いつの間にか、消えていた。
いや、消えていたんじゃない。
俺が、消してしまったんだ。
大好きな人――
little melody?
幻想の中に消えた。
夢の中に消えた。
目を閉じればキミの顔を思い出せるのに、気づいたら君の声を忘れていた。
光に誘われて目を開けた。
眩しいほどの光は太陽の明かり。ベランダのカーテンの隙間から入り込んでいる。
眼前にあるのは、毎日飽きるほど見た真っ白な天井。飾り気のない、ただの白色。
まだ布団の温もりを感じていたいが、俺は起きた。
——寒い……。
温もった体に冷たい空気は受け入れがたい。思わず前から布団を引っ張り上げて、あたたまろうとする。でも、学校に遅刻したくなくて、仕方がなく手放した。
片足ずつベッドから出して、跳ぶように降りる。
そして歩きながら、ずり落ち気味のズボンを履き直して、トイレに入った。
勢いよく流れる水音を背に、俺はだるそうに足を進め、テーブルに置いてあるリモコンでテレビをつける。
その時、視界に入る写真立て。白い縁のシンプルなもの。
「…………」
男女が仲良く寄り添って映っている写真。それはもうこれ以上にない幸せそうな笑顔で。
テレビから無機質に流れていく音声。
その中で時間を告げる声が聞こえて、そこでやっと視線がテレビへと移る。
「七時か……」
独り言。それがあまりにも不自然で眉をしかめた。
ヘッドホンから漏れるマイナーな曲。
曲調も歌詞も少し古くさいように思うが、その雰囲気がなんとなく好きだった。いや、歌い方が好きなのかもしれない。
左肩から鞄を下げて、静かに灰色の道を歩く。
季節が冬なのだから当たり前だが、寒くて手を出していたくない。上着のポケットに両手とも突っ込む。
十分ほど坂を歩けば見えてくる大学。山の中にぽつんと現れてくる様は、ここは田舎なのだと改めて思わせる。
お世辞でも立派とは言えない小さな門。警備員すらいない門をくぐったら、そこは広い駐車場。学生も教員も使用する為それなりの広さ。
一台の車に目が止まった。
——背の高い赤い車……もう河田来てんのか。
時間が早くて、駐車場にはまだ数えるほどの車しか駐車していない。授業の準備で早く来ている教員の車がほとんどだ。
しかも、その教員が乗る車は大体が普通車。河田が乗る軽自動車の黄色のナンバープレートが目立っていた。
エレベーターを使うと、あっという間に着く教室。
横幅が広い緑色の黒板。
三人ずつ座る机と椅子。それがずらーっと並んでいる光景を見ると、ここは本当に大学なんだなと思う。別に疑ってるわけではないんだが。
そして、後ろの隅の席に奴はいた。
ドアが開けっ放しだったし、人が少ない静かな校内は足音でも聞こえるはずだ。しかし、どうやら奴も音楽を聴いているようで俺に気づいてない。
「河田」
呼んでみても、気づかない。
河田は黙々とルーズリーフにシャーペンを走らせていた。
ボクは近づきながら、尚も呼び続けた。
「河田。かーわーだ」
最後の手段として肩を叩いてやると、大きく肩を震わせた。
「びっくらこいた~。草津かよ。驚かせんなって」
黒いイヤホンを耳から外しながらそう言ってきた。迷惑そうな顔を浮かべながら。
俺もヘッドホンを外し、そしていたずらが成功したガキのように笑った。
「お前が全く気づかないのが悪い。つか、おはよ」
「おはよーさん。とゆーかね、曲聞いてたから無理だってば。分からん分からん」
「気配ぐらい分かるだろ」
「バカいえ。忍者じゃああるめーし、分かるか」
そう言ってボクの腹に右ストレートを打ち込んできた。もちろん冗談だから痛みはない。
ボクはまた笑った。
「なにしてるの?」
河田の隣の席に座る。机に置いた鞄を開けて、そこから大学ノートと筆箱を取り出す。
「見て分かんない? 前回の授業のノートを写してんの」
「ああ、そういえば先週休んでたね。彼女と遊んでたとか?」
「んなわけあるか。そんなことしたらボコられるわ」
重要なところは赤ペンや青ペンで使い分けて書いていく。そんなルーズリーフを見て、河田の真面目さを感じた。
「彼女に殴られんの?」
「もち」
「暴力女だな~」
「あいつが生真面目すぎんだよ」
まるで溜め息でも吐くような口振りだ。でも、河田は笑っていた。
会話が途切れ、ボクはスマートフォンをいじりだした。
すると、タイミングを見計らったように河田が口を開いた。視線はルーズリーフに向けたまま。
「なあなあ」
「うん?」
「草津はどうなのさ」
「なにが?」
「彼女と」
指が止まる。
スマートフォンを握りしめたまま。
俺の呼吸も、ほんの一瞬だけ止まった。
頬を指で掻いて、おどけるように言った。
「別に、なにも変わらないよ」
そう言うと、「ふーん」と素っ気ない言葉が返ってきた。聞いてみただけであって、興味はあまり持ってないかのように。
だから、俺もそれ以上なにも言わなかった。
それからしばらくの間、沈黙が流れた。
目立った音はなく、聞こえてくるものは河田が滑らせるシャーペンの音だけ。
その様子を尻目に、俺はスマートフォンをいじる。特にやることはない。今まで読みとばしていたダイレクトメールに目を通す。しかし、あっと言う間に読み終わり、あまり時間潰しにはならなかった。
待ち受け画面に一度戻し、アドレス帳でも見ようかとアプリをタッチする。
でも、違うアプリに当たってしまった。
——あ。
画面には発信履歴。ずらずらと人の名前が並んでいる。
そしてその中には、もう二度と連絡を取らないだろう人の名前があった。
——筒井りいな。
女の名前。
——消すの忘れてた。
画面をタッチしていくと、その名前を消すかキャンセルするかのメッセージが出てきた。
それを見たとき、また指が止まる。
これを消したら、このスマートフォンか〝筒井りいな〟は消える。
それはデータとして消える。
でも、きっと時間がたてば記憶からも消えていくんだろう。
いや、むしろ覚えているかもしれない。こうやって躊躇う回数が多いほど、考える時間が長いほど、きっと。
〝おれ〟は、覚えてるんだ。
「あー」
「どした?」
河田の声に、ハッと我に返る。
すると、河田は机の下に潜り込み始めた。
「消しゴムが落ちた」
「なんだ、それだけか」
「うわ~。前の席にまで転がってるし。めんどくせー」
立ち上がることさえもめんどくさいようで、河田は四つん這いになって手を伸ばし、小さくなった消しゴムを拾う。
その一部始終を見て、俺は左足で河田のケツをめがけて蹴った。もちろん転がっていかない程度に力を抜いて。
すると予想していた通りの反応が返ってきた。
「ぶっ! おい草津! 蹴んなって! でこ打ったでこ打った」
「あはははははは」
「笑ってないで謝れ」
「面白いからやだ」
そうやってからかっていると、徐々にボルテージが上がってきたのか、河田は俺に向かって消しゴムを投げてきた。
「いッ! たー! ちょい、それはまじで痛いって」
その小さな消しゴムは思った以上に痛かった。さすがに顔に投げつけられたらたまったもんじゃない。
「消しゴム拾ってきてね~」
笑顔で手をひらひらさせて、そして河田は席に着いた。消しゴムを落とす前と同じようにシャーペンを走らせる。
その雰囲気まで引き締まってくるから、からかう気持ちが失せた。暇だから、また、からかおうかと思っていたのだが。
大人しく消しゴムを拾い、それを河田の筆箱の近くに置いた。
すると、珍獣でも見るような目で「やけに素直じゃん」と言われた。
だからというわけではないんだろうけど、河田は手を止め、シャーペンを置いた。
「なんかあったんかい?」
「別に? なにもないよ」
収納型のイスを出して、ボクは座る。
「彼女とは別に好きな女の子でもできたとか?」
突拍子のない発言に、むせた。
「はあッ⁉︎ 急になんだよ、それ」
慌てた俺をただ冷めた目で見る河田。からかうような笑みもなく。
「んにゃ、訊いてみただけ。んで、どうなのさ」
「別にいないよ」
「彼女のことは?」
「……なんでそんなこと訊くんだよ」
今日はやけに彼女彼女と訊いてくる気がする。
「訊いてみただけ」
あくまでも淡泊。
「……」
「ただ」
また小さな画面に目を移そうとした刹那だった。
「たださー、最近聞かないからさー」
「……りいのこと?」
「うん、そうそう。映画見に行ったーとか、焼き肉食べに行ったーとか」
俺が黙っていると、河田は続けて口を開いた。
「喧嘩したーっていう話も聞かんしね」
淡々とそう言う。
その口から出てくることは、どれも当たっていて、否定はしなかった。でも肯定もしなかった。
河田は黙って俺を見ていた。
そして、河田が鞄のポケットに手を突っ込んだと思ったら、そこから二つのあめ玉を出してきた。その一つをボクの目前に掲げてきた。
「なに?」
「やんよ」
「何味?」
「確かめてないから分からん」
「ラムネがいい」
「贅沢言うな」
渋々ボクは手を出して広げると、河田はあめ玉を乗せた。
一円玉よりも少し大きいあめ玉。透明な包みに入っているそれは、黄色。いや、明るい色をしているからレモン色。色から想像するとレモン味といったところか。
気がつけば、ボクよりも先にあめ玉を食べていた河田は、「たぶん、それグレープフルーツだと思う」と言った。
「なあ、草津」
「……なに」
普段からよく名前を呼ばれているが、今だけは重く感じた気がした。微塵も気に留めないことなのに。名前を呼ぶ声に意味が含まれているような、そんな感覚。言い換えてみれば、これから話をする重たい内容の予兆。
河田が話すことはおおよその見当はつく。その低めた河田の声を聞いて、それを確信した。
「別れたんか?」
やっぱり。
こういう話の流れになるもんだ。
「別れてない」
「は?」
これは事実。偽ってるわけでも、騙しているわけでもない。
河田はぽかんと口を開けて、拍子抜けしていた。
「意味分かんねえ。じゃあ、どうしたんだよ」
「別れてないけど、これから別れる」
「また彼女が浮気したとか?」
りいは過去に一回浮気をしたことがある。その時は必死に謝る姿を見て、やり直す決断をした。
「うん……まあ、それもないこともない」
言葉を濁した訳は自分にあるからだ。
「他になんかあるんか?」
「自分と、りいのために」
「あ~。そうだな。確かに今後を考えたら、あんな浮気癖のある女なんか別れた方がいい。さっさと別れてしまえ」
「うん…………」
河田の声が遠くから聞こえるような感覚がする。すぐ隣にいるというのに。
もらったあめ玉を口に入れて、甘酸っぱいグレープフルーツ味を楽しむ。でも、なぜかあまり味がしなかった。
好きだった彼女を消したのはこの俺だ。
俺が消してしまった。
不安だった。
一日、一時間、一秒、時間がたったら、彼女は俺から離れていくんじゃないかと。
でも、そんなことは言えない。誰にも。こんな醜い感情を知られたくない。
そんなことをぐるぐると考えた日々が続いた。それはもう地獄のようだった。
心は苛まれ、ぼろぼろと崩れていく、真っ黒な世界。出口が見えない光のないトンネルを走っているようだった。
ある日、りいから郵便が届いた。
それはバースデーカードだった。誕生日でもないのに。でも、そのカードを開いて分かった。
真っ白なカードを開くと流れる音楽。オルゴールのように可愛らしい音。これはどこかで聞いたことがある。だが、なかなか思い出せなかった。
そして、カードに書かれている丸っこい字——りいのものだ。
『付き合ってから一年がたつね。早いような遅いような、よくわかんない気持ち。そういえば、今年の四月から三年生になるね……』
その文字を目で追っていく。そして、その先には、
『話してなかったけれど、私、この四月から違う大学に通います……』
最後に。
ゆうくんはあたしのことを彼女として見てなかったよね。なんだかそれ以上のような……。その目が怖かったよ。
血の気が引いた。
連なっている言葉の意味。
それは『別れ』の二文字。
〝おれ〟はどんな目で見ていたんだろう。怖いと感じるくらいとか……。彼女以上ってなんだ。
ただ大事にしたかったから、そう接してきただけじゃないか。
好きな人を特別に想うことはおかしいはずがない。みんなだってきっとそうだろう。君が思うことと〝おれ〟が思うこと、なにが違うというんだ。
考えたらキリがない。しかし、分かってはいても、考えてしまうのが人間だろう。
頭が回る。
その文字がぐるぐると回る。
散らばるように円を描く。
まるで終わりが見えないように。
「ッんだよ!」
聞こえてくる音楽が耳障りだ。神経質な部位をつつくような、その小さな刺激はなんとも不愉快だった。
だから、思い切りカードを真っ二つに破った。
それでも物足りない。沸き上がってくる感情が収まらない。
俺は狂ったかのように何度も破った。原型が分からなくなるほど、小さく、小さく。ただの紙屑になるまで。
河田からあめ玉をもらった、その日の夜。
友達とご飯を食べに行くことなく、アパートの部屋に帰ってきた。
真っ暗な201号室の部屋に明かりが灯る。無機質な白い蛍光灯の光が。
誰もいなかった部屋は、うっすらと冷たい空気を感じさせた。本当に誰もいないのだと。最近、この部屋に帰る度にそんなことを思うようになった。
そして、習慣になってしまったことがある。それは、りいと映った写真を見ること。テレビの横に置いている写真に、いつも目が向いてしまう。習慣になっていることさえ、ボクは気づかなかった。
——捨てなきゃ……ダメかな。
そんな躊躇っている自分に、改めて気づきて、内心静かに驚いた。もう決意したことなのに、まだりいのことが好きな自分がいる。
違う。まだ〝おれ〟は好きだ。本当はこれからもずっと一緒にいたい。一緒にこの大学を卒業したかった。
でも、なに一つ、叶いはしない。
だから、りいに別れを承諾する言葉を伝えなければならない。
アドレス帳から消したが、メールを確認すればすぐに連絡はとれる。
俺はベッドに乗り、壁に背を預けて座った。スマートフォンのアプリを開く。
こんな結末は望んでいたことじゃない。
しかし、長い間りいを怖がらせ、他の男に走らせたのは、たぶん〝おれ〟のせいだ。りいの気持ちを考えず、自分の気持ちばかり考えて、自分に降り注ぐ不安を取り除きたくて行動に走った、〝おれ〟のせい。
“cinderella-story_1.10_y-l@……”
すぐに見つかる、りいのアドレス。
縛り上げていた。
小さな鳥かごに拘束していた。
見えない檻の中に、閉じこめていた。
だから、逃げ出したんだ。自由を求めて、手足を動かせる居場所を求めて。
『別れよう』
スマートフォンの小さな画面に映る一言。
あまりにも呆気なく打ち終わる。
結局、自業自得か。
自分が招いた結果か。
案外、呆気ないものだ。終わりなんて。このメールを送れば全てが終わる。
別れたいのなら、あんなカードを使わなくてもいいのに。せめて別れたいの一言でも書けばいいのに。〝おれ〟から振ってほしいという意味なのだろうか。
女なんて、なにを考えているのか分からない。
終わった。
全てが終わった。
そして、消えた。
なにもかも。
写真を破ってゴミ箱に捨て、携帯電話に残っている君の全てを消去した。
君は消えた。
俺の中から、消えた。
俺が君を消した。
俺はなにもなかったかのように風呂に入った。記憶まで、想いまで、洗い流せたらいいのにと思いながら。
水の音が心地良い。
両手で触れると温かい。
安心する。
まるで君を抱きしめているような気持ちになるんだ。
目を閉じれば、笑顔の君がいる。
俺を抱きしめてくれる君がいる。
だけど、目を開けると笑顔の君も、抱きしめてくれる君もいない。
俺が消したから。
シャワーの音でかき消されて聞こえなかったが、この時に携帯電話は一通のメールを受信し、受信音が部屋中に鳴り響いた。
『君は誰? りいは今どこにいるの?』
いや、消えていたんじゃない。
俺が、消してしまったんだ。
大好きな人――
little melody?
幻想の中に消えた。
夢の中に消えた。
目を閉じればキミの顔を思い出せるのに、気づいたら君の声を忘れていた。
光に誘われて目を開けた。
眩しいほどの光は太陽の明かり。ベランダのカーテンの隙間から入り込んでいる。
眼前にあるのは、毎日飽きるほど見た真っ白な天井。飾り気のない、ただの白色。
まだ布団の温もりを感じていたいが、俺は起きた。
——寒い……。
温もった体に冷たい空気は受け入れがたい。思わず前から布団を引っ張り上げて、あたたまろうとする。でも、学校に遅刻したくなくて、仕方がなく手放した。
片足ずつベッドから出して、跳ぶように降りる。
そして歩きながら、ずり落ち気味のズボンを履き直して、トイレに入った。
勢いよく流れる水音を背に、俺はだるそうに足を進め、テーブルに置いてあるリモコンでテレビをつける。
その時、視界に入る写真立て。白い縁のシンプルなもの。
「…………」
男女が仲良く寄り添って映っている写真。それはもうこれ以上にない幸せそうな笑顔で。
テレビから無機質に流れていく音声。
その中で時間を告げる声が聞こえて、そこでやっと視線がテレビへと移る。
「七時か……」
独り言。それがあまりにも不自然で眉をしかめた。
ヘッドホンから漏れるマイナーな曲。
曲調も歌詞も少し古くさいように思うが、その雰囲気がなんとなく好きだった。いや、歌い方が好きなのかもしれない。
左肩から鞄を下げて、静かに灰色の道を歩く。
季節が冬なのだから当たり前だが、寒くて手を出していたくない。上着のポケットに両手とも突っ込む。
十分ほど坂を歩けば見えてくる大学。山の中にぽつんと現れてくる様は、ここは田舎なのだと改めて思わせる。
お世辞でも立派とは言えない小さな門。警備員すらいない門をくぐったら、そこは広い駐車場。学生も教員も使用する為それなりの広さ。
一台の車に目が止まった。
——背の高い赤い車……もう河田来てんのか。
時間が早くて、駐車場にはまだ数えるほどの車しか駐車していない。授業の準備で早く来ている教員の車がほとんどだ。
しかも、その教員が乗る車は大体が普通車。河田が乗る軽自動車の黄色のナンバープレートが目立っていた。
エレベーターを使うと、あっという間に着く教室。
横幅が広い緑色の黒板。
三人ずつ座る机と椅子。それがずらーっと並んでいる光景を見ると、ここは本当に大学なんだなと思う。別に疑ってるわけではないんだが。
そして、後ろの隅の席に奴はいた。
ドアが開けっ放しだったし、人が少ない静かな校内は足音でも聞こえるはずだ。しかし、どうやら奴も音楽を聴いているようで俺に気づいてない。
「河田」
呼んでみても、気づかない。
河田は黙々とルーズリーフにシャーペンを走らせていた。
ボクは近づきながら、尚も呼び続けた。
「河田。かーわーだ」
最後の手段として肩を叩いてやると、大きく肩を震わせた。
「びっくらこいた~。草津かよ。驚かせんなって」
黒いイヤホンを耳から外しながらそう言ってきた。迷惑そうな顔を浮かべながら。
俺もヘッドホンを外し、そしていたずらが成功したガキのように笑った。
「お前が全く気づかないのが悪い。つか、おはよ」
「おはよーさん。とゆーかね、曲聞いてたから無理だってば。分からん分からん」
「気配ぐらい分かるだろ」
「バカいえ。忍者じゃああるめーし、分かるか」
そう言ってボクの腹に右ストレートを打ち込んできた。もちろん冗談だから痛みはない。
ボクはまた笑った。
「なにしてるの?」
河田の隣の席に座る。机に置いた鞄を開けて、そこから大学ノートと筆箱を取り出す。
「見て分かんない? 前回の授業のノートを写してんの」
「ああ、そういえば先週休んでたね。彼女と遊んでたとか?」
「んなわけあるか。そんなことしたらボコられるわ」
重要なところは赤ペンや青ペンで使い分けて書いていく。そんなルーズリーフを見て、河田の真面目さを感じた。
「彼女に殴られんの?」
「もち」
「暴力女だな~」
「あいつが生真面目すぎんだよ」
まるで溜め息でも吐くような口振りだ。でも、河田は笑っていた。
会話が途切れ、ボクはスマートフォンをいじりだした。
すると、タイミングを見計らったように河田が口を開いた。視線はルーズリーフに向けたまま。
「なあなあ」
「うん?」
「草津はどうなのさ」
「なにが?」
「彼女と」
指が止まる。
スマートフォンを握りしめたまま。
俺の呼吸も、ほんの一瞬だけ止まった。
頬を指で掻いて、おどけるように言った。
「別に、なにも変わらないよ」
そう言うと、「ふーん」と素っ気ない言葉が返ってきた。聞いてみただけであって、興味はあまり持ってないかのように。
だから、俺もそれ以上なにも言わなかった。
それからしばらくの間、沈黙が流れた。
目立った音はなく、聞こえてくるものは河田が滑らせるシャーペンの音だけ。
その様子を尻目に、俺はスマートフォンをいじる。特にやることはない。今まで読みとばしていたダイレクトメールに目を通す。しかし、あっと言う間に読み終わり、あまり時間潰しにはならなかった。
待ち受け画面に一度戻し、アドレス帳でも見ようかとアプリをタッチする。
でも、違うアプリに当たってしまった。
——あ。
画面には発信履歴。ずらずらと人の名前が並んでいる。
そしてその中には、もう二度と連絡を取らないだろう人の名前があった。
——筒井りいな。
女の名前。
——消すの忘れてた。
画面をタッチしていくと、その名前を消すかキャンセルするかのメッセージが出てきた。
それを見たとき、また指が止まる。
これを消したら、このスマートフォンか〝筒井りいな〟は消える。
それはデータとして消える。
でも、きっと時間がたてば記憶からも消えていくんだろう。
いや、むしろ覚えているかもしれない。こうやって躊躇う回数が多いほど、考える時間が長いほど、きっと。
〝おれ〟は、覚えてるんだ。
「あー」
「どした?」
河田の声に、ハッと我に返る。
すると、河田は机の下に潜り込み始めた。
「消しゴムが落ちた」
「なんだ、それだけか」
「うわ~。前の席にまで転がってるし。めんどくせー」
立ち上がることさえもめんどくさいようで、河田は四つん這いになって手を伸ばし、小さくなった消しゴムを拾う。
その一部始終を見て、俺は左足で河田のケツをめがけて蹴った。もちろん転がっていかない程度に力を抜いて。
すると予想していた通りの反応が返ってきた。
「ぶっ! おい草津! 蹴んなって! でこ打ったでこ打った」
「あはははははは」
「笑ってないで謝れ」
「面白いからやだ」
そうやってからかっていると、徐々にボルテージが上がってきたのか、河田は俺に向かって消しゴムを投げてきた。
「いッ! たー! ちょい、それはまじで痛いって」
その小さな消しゴムは思った以上に痛かった。さすがに顔に投げつけられたらたまったもんじゃない。
「消しゴム拾ってきてね~」
笑顔で手をひらひらさせて、そして河田は席に着いた。消しゴムを落とす前と同じようにシャーペンを走らせる。
その雰囲気まで引き締まってくるから、からかう気持ちが失せた。暇だから、また、からかおうかと思っていたのだが。
大人しく消しゴムを拾い、それを河田の筆箱の近くに置いた。
すると、珍獣でも見るような目で「やけに素直じゃん」と言われた。
だからというわけではないんだろうけど、河田は手を止め、シャーペンを置いた。
「なんかあったんかい?」
「別に? なにもないよ」
収納型のイスを出して、ボクは座る。
「彼女とは別に好きな女の子でもできたとか?」
突拍子のない発言に、むせた。
「はあッ⁉︎ 急になんだよ、それ」
慌てた俺をただ冷めた目で見る河田。からかうような笑みもなく。
「んにゃ、訊いてみただけ。んで、どうなのさ」
「別にいないよ」
「彼女のことは?」
「……なんでそんなこと訊くんだよ」
今日はやけに彼女彼女と訊いてくる気がする。
「訊いてみただけ」
あくまでも淡泊。
「……」
「ただ」
また小さな画面に目を移そうとした刹那だった。
「たださー、最近聞かないからさー」
「……りいのこと?」
「うん、そうそう。映画見に行ったーとか、焼き肉食べに行ったーとか」
俺が黙っていると、河田は続けて口を開いた。
「喧嘩したーっていう話も聞かんしね」
淡々とそう言う。
その口から出てくることは、どれも当たっていて、否定はしなかった。でも肯定もしなかった。
河田は黙って俺を見ていた。
そして、河田が鞄のポケットに手を突っ込んだと思ったら、そこから二つのあめ玉を出してきた。その一つをボクの目前に掲げてきた。
「なに?」
「やんよ」
「何味?」
「確かめてないから分からん」
「ラムネがいい」
「贅沢言うな」
渋々ボクは手を出して広げると、河田はあめ玉を乗せた。
一円玉よりも少し大きいあめ玉。透明な包みに入っているそれは、黄色。いや、明るい色をしているからレモン色。色から想像するとレモン味といったところか。
気がつけば、ボクよりも先にあめ玉を食べていた河田は、「たぶん、それグレープフルーツだと思う」と言った。
「なあ、草津」
「……なに」
普段からよく名前を呼ばれているが、今だけは重く感じた気がした。微塵も気に留めないことなのに。名前を呼ぶ声に意味が含まれているような、そんな感覚。言い換えてみれば、これから話をする重たい内容の予兆。
河田が話すことはおおよその見当はつく。その低めた河田の声を聞いて、それを確信した。
「別れたんか?」
やっぱり。
こういう話の流れになるもんだ。
「別れてない」
「は?」
これは事実。偽ってるわけでも、騙しているわけでもない。
河田はぽかんと口を開けて、拍子抜けしていた。
「意味分かんねえ。じゃあ、どうしたんだよ」
「別れてないけど、これから別れる」
「また彼女が浮気したとか?」
りいは過去に一回浮気をしたことがある。その時は必死に謝る姿を見て、やり直す決断をした。
「うん……まあ、それもないこともない」
言葉を濁した訳は自分にあるからだ。
「他になんかあるんか?」
「自分と、りいのために」
「あ~。そうだな。確かに今後を考えたら、あんな浮気癖のある女なんか別れた方がいい。さっさと別れてしまえ」
「うん…………」
河田の声が遠くから聞こえるような感覚がする。すぐ隣にいるというのに。
もらったあめ玉を口に入れて、甘酸っぱいグレープフルーツ味を楽しむ。でも、なぜかあまり味がしなかった。
好きだった彼女を消したのはこの俺だ。
俺が消してしまった。
不安だった。
一日、一時間、一秒、時間がたったら、彼女は俺から離れていくんじゃないかと。
でも、そんなことは言えない。誰にも。こんな醜い感情を知られたくない。
そんなことをぐるぐると考えた日々が続いた。それはもう地獄のようだった。
心は苛まれ、ぼろぼろと崩れていく、真っ黒な世界。出口が見えない光のないトンネルを走っているようだった。
ある日、りいから郵便が届いた。
それはバースデーカードだった。誕生日でもないのに。でも、そのカードを開いて分かった。
真っ白なカードを開くと流れる音楽。オルゴールのように可愛らしい音。これはどこかで聞いたことがある。だが、なかなか思い出せなかった。
そして、カードに書かれている丸っこい字——りいのものだ。
『付き合ってから一年がたつね。早いような遅いような、よくわかんない気持ち。そういえば、今年の四月から三年生になるね……』
その文字を目で追っていく。そして、その先には、
『話してなかったけれど、私、この四月から違う大学に通います……』
最後に。
ゆうくんはあたしのことを彼女として見てなかったよね。なんだかそれ以上のような……。その目が怖かったよ。
血の気が引いた。
連なっている言葉の意味。
それは『別れ』の二文字。
〝おれ〟はどんな目で見ていたんだろう。怖いと感じるくらいとか……。彼女以上ってなんだ。
ただ大事にしたかったから、そう接してきただけじゃないか。
好きな人を特別に想うことはおかしいはずがない。みんなだってきっとそうだろう。君が思うことと〝おれ〟が思うこと、なにが違うというんだ。
考えたらキリがない。しかし、分かってはいても、考えてしまうのが人間だろう。
頭が回る。
その文字がぐるぐると回る。
散らばるように円を描く。
まるで終わりが見えないように。
「ッんだよ!」
聞こえてくる音楽が耳障りだ。神経質な部位をつつくような、その小さな刺激はなんとも不愉快だった。
だから、思い切りカードを真っ二つに破った。
それでも物足りない。沸き上がってくる感情が収まらない。
俺は狂ったかのように何度も破った。原型が分からなくなるほど、小さく、小さく。ただの紙屑になるまで。
河田からあめ玉をもらった、その日の夜。
友達とご飯を食べに行くことなく、アパートの部屋に帰ってきた。
真っ暗な201号室の部屋に明かりが灯る。無機質な白い蛍光灯の光が。
誰もいなかった部屋は、うっすらと冷たい空気を感じさせた。本当に誰もいないのだと。最近、この部屋に帰る度にそんなことを思うようになった。
そして、習慣になってしまったことがある。それは、りいと映った写真を見ること。テレビの横に置いている写真に、いつも目が向いてしまう。習慣になっていることさえ、ボクは気づかなかった。
——捨てなきゃ……ダメかな。
そんな躊躇っている自分に、改めて気づきて、内心静かに驚いた。もう決意したことなのに、まだりいのことが好きな自分がいる。
違う。まだ〝おれ〟は好きだ。本当はこれからもずっと一緒にいたい。一緒にこの大学を卒業したかった。
でも、なに一つ、叶いはしない。
だから、りいに別れを承諾する言葉を伝えなければならない。
アドレス帳から消したが、メールを確認すればすぐに連絡はとれる。
俺はベッドに乗り、壁に背を預けて座った。スマートフォンのアプリを開く。
こんな結末は望んでいたことじゃない。
しかし、長い間りいを怖がらせ、他の男に走らせたのは、たぶん〝おれ〟のせいだ。りいの気持ちを考えず、自分の気持ちばかり考えて、自分に降り注ぐ不安を取り除きたくて行動に走った、〝おれ〟のせい。
“cinderella-story_1.10_y-l@……”
すぐに見つかる、りいのアドレス。
縛り上げていた。
小さな鳥かごに拘束していた。
見えない檻の中に、閉じこめていた。
だから、逃げ出したんだ。自由を求めて、手足を動かせる居場所を求めて。
『別れよう』
スマートフォンの小さな画面に映る一言。
あまりにも呆気なく打ち終わる。
結局、自業自得か。
自分が招いた結果か。
案外、呆気ないものだ。終わりなんて。このメールを送れば全てが終わる。
別れたいのなら、あんなカードを使わなくてもいいのに。せめて別れたいの一言でも書けばいいのに。〝おれ〟から振ってほしいという意味なのだろうか。
女なんて、なにを考えているのか分からない。
終わった。
全てが終わった。
そして、消えた。
なにもかも。
写真を破ってゴミ箱に捨て、携帯電話に残っている君の全てを消去した。
君は消えた。
俺の中から、消えた。
俺が君を消した。
俺はなにもなかったかのように風呂に入った。記憶まで、想いまで、洗い流せたらいいのにと思いながら。
水の音が心地良い。
両手で触れると温かい。
安心する。
まるで君を抱きしめているような気持ちになるんだ。
目を閉じれば、笑顔の君がいる。
俺を抱きしめてくれる君がいる。
だけど、目を開けると笑顔の君も、抱きしめてくれる君もいない。
俺が消したから。
シャワーの音でかき消されて聞こえなかったが、この時に携帯電話は一通のメールを受信し、受信音が部屋中に鳴り響いた。
『君は誰? りいは今どこにいるの?』
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