蒼昊の額縁

蒼乃悠生

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little melody?

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 いつの間にか、消えていた。


 いや、消えていたんじゃない。


 俺が、消してしまったんだ。




 大好きな人――





little melody?





 幻想の中に消えた。
 夢の中に消えた。
 目を閉じればキミの顔を思い出せるのに、気づいたら君の声を忘れていた。


 光に誘われて目を開けた。
 眩しいほどの光は太陽の明かり。ベランダのカーテンの隙間から入り込んでいる。
 眼前にあるのは、毎日飽きるほど見た真っ白な天井。飾り気のない、ただの白色。
 まだ布団の温もりを感じていたいが、俺は起きた。
 ——寒い……。
 温もった体に冷たい空気は受け入れがたい。思わず前から布団を引っ張り上げて、あたたまろうとする。でも、学校に遅刻したくなくて、仕方がなく手放した。
 片足ずつベッドから出して、跳ぶように降りる。
 そして歩きながら、ずり落ち気味のズボンを履き直して、トイレに入った。
 勢いよく流れる水音を背に、俺はだるそうに足を進め、テーブルに置いてあるリモコンでテレビをつける。
 その時、視界に入る写真立て。白い縁のシンプルなもの。
「…………」
 男女が仲良く寄り添って映っている写真。それはもうこれ以上にない幸せそうな笑顔で。
 テレビから無機質に流れていく音声。
 その中で時間を告げる声が聞こえて、そこでやっと視線がテレビへと移る。
「七時か……」
 独り言。それがあまりにも不自然で眉をしかめた。




 ヘッドホンから漏れるマイナーな曲。
 曲調も歌詞も少し古くさいように思うが、その雰囲気がなんとなく好きだった。いや、歌い方が好きなのかもしれない。
 左肩から鞄を下げて、静かに灰色の道を歩く。
 季節が冬なのだから当たり前だが、寒くて手を出していたくない。上着のポケットに両手とも突っ込む。
 十分ほど坂を歩けば見えてくる大学。山の中にぽつんと現れてくる様は、ここは田舎なのだと改めて思わせる。
 お世辞でも立派とは言えない小さな門。警備員すらいない門をくぐったら、そこは広い駐車場。学生も教員も使用する為それなりの広さ。
 一台の車に目が止まった。
 ——背の高い赤い車……もう河田来てんのか。
 時間が早くて、駐車場にはまだ数えるほどの車しか駐車していない。授業の準備で早く来ている教員の車がほとんどだ。
 しかも、その教員が乗る車は大体が普通車。河田が乗る軽自動車の黄色のナンバープレートが目立っていた。




 エレベーターを使うと、あっという間に着く教室。
 横幅が広い緑色の黒板。
 三人ずつ座る机と椅子。それがずらーっと並んでいる光景を見ると、ここは本当に大学なんだなと思う。別に疑ってるわけではないんだが。
 そして、後ろの隅の席に奴はいた。
 ドアが開けっ放しだったし、人が少ない静かな校内は足音でも聞こえるはずだ。しかし、どうやら奴も音楽を聴いているようで俺に気づいてない。
「河田」
 呼んでみても、気づかない。
 河田は黙々とルーズリーフにシャーペンを走らせていた。
 ボクは近づきながら、尚も呼び続けた。
「河田。かーわーだ」
 最後の手段として肩を叩いてやると、大きく肩を震わせた。
「びっくらこいた~。草津かよ。驚かせんなって」
 黒いイヤホンを耳から外しながらそう言ってきた。迷惑そうな顔を浮かべながら。
 俺もヘッドホンを外し、そしていたずらが成功したガキのように笑った。
「お前が全く気づかないのが悪い。つか、おはよ」
「おはよーさん。とゆーかね、曲聞いてたから無理だってば。分からん分からん」
「気配ぐらい分かるだろ」
「バカいえ。忍者じゃああるめーし、分かるか」
 そう言ってボクの腹に右ストレートを打ち込んできた。もちろん冗談だから痛みはない。
 ボクはまた笑った。
「なにしてるの?」
 河田の隣の席に座る。机に置いた鞄を開けて、そこから大学ノートと筆箱を取り出す。
「見て分かんない? 前回の授業のノートを写してんの」
「ああ、そういえば先週休んでたね。彼女と遊んでたとか?」
「んなわけあるか。そんなことしたらボコられるわ」
 重要なところは赤ペンや青ペンで使い分けて書いていく。そんなルーズリーフを見て、河田の真面目さを感じた。
「彼女に殴られんの?」
「もち」
「暴力女だな~」
「あいつが生真面目すぎんだよ」
 まるで溜め息でも吐くような口振りだ。でも、河田は笑っていた。
 会話が途切れ、ボクはスマートフォンをいじりだした。
 すると、タイミングを見計らったように河田が口を開いた。視線はルーズリーフに向けたまま。
「なあなあ」
「うん?」
「草津はどうなのさ」
「なにが?」
「彼女と」
 指が止まる。
 スマートフォンを握りしめたまま。
 俺の呼吸も、ほんの一瞬だけ止まった。
 頬を指で掻いて、おどけるように言った。
「別に、なにも変わらないよ」
 そう言うと、「ふーん」と素っ気ない言葉が返ってきた。聞いてみただけであって、興味はあまり持ってないかのように。
 だから、俺もそれ以上なにも言わなかった。
 それからしばらくの間、沈黙が流れた。
 目立った音はなく、聞こえてくるものは河田が滑らせるシャーペンの音だけ。
 その様子を尻目に、俺はスマートフォンをいじる。特にやることはない。今まで読みとばしていたダイレクトメールに目を通す。しかし、あっと言う間に読み終わり、あまり時間潰しにはならなかった。
 待ち受け画面に一度戻し、アドレス帳でも見ようかとアプリをタッチする。
 でも、違うアプリに当たってしまった。
 ——あ。
 画面には発信履歴。ずらずらと人の名前が並んでいる。
 そしてその中には、もう二度と連絡を取らないだろう人の名前があった。
 ——筒井りいな。
 女の名前。
 ——消すの忘れてた。
 画面をタッチしていくと、その名前を消すかキャンセルするかのメッセージが出てきた。
 それを見たとき、また指が止まる。
 これを消したら、このスマートフォンか〝筒井りいな〟は消える。
 それはデータとして消える。
 でも、きっと時間がたてば記憶からも消えていくんだろう。
 いや、むしろ覚えているかもしれない。こうやって躊躇う回数が多いほど、考える時間が長いほど、きっと。
 〝おれ〟は、覚えてるんだ。
「あー」
「どした?」
 河田の声に、ハッと我に返る。
 すると、河田は机の下に潜り込み始めた。
「消しゴムが落ちた」
「なんだ、それだけか」
「うわ~。前の席にまで転がってるし。めんどくせー」
 立ち上がることさえもめんどくさいようで、河田は四つん這いになって手を伸ばし、小さくなった消しゴムを拾う。
 その一部始終を見て、俺は左足で河田のケツをめがけて蹴った。もちろん転がっていかない程度に力を抜いて。
 すると予想していた通りの反応が返ってきた。
「ぶっ! おい草津! 蹴んなって! でこ打ったでこ打った」
「あはははははは」
「笑ってないで謝れ」
「面白いからやだ」
 そうやってからかっていると、徐々にボルテージが上がってきたのか、河田は俺に向かって消しゴムを投げてきた。
「いッ! たー! ちょい、それはまじで痛いって」
 その小さな消しゴムは思った以上に痛かった。さすがに顔に投げつけられたらたまったもんじゃない。
「消しゴム拾ってきてね~」
 笑顔で手をひらひらさせて、そして河田は席に着いた。消しゴムを落とす前と同じようにシャーペンを走らせる。
 その雰囲気まで引き締まってくるから、からかう気持ちが失せた。暇だから、また、からかおうかと思っていたのだが。
 大人しく消しゴムを拾い、それを河田の筆箱の近くに置いた。
 すると、珍獣でも見るような目で「やけに素直じゃん」と言われた。
 だからというわけではないんだろうけど、河田は手を止め、シャーペンを置いた。
「なんかあったんかい?」
「別に? なにもないよ」
 収納型のイスを出して、ボクは座る。
「彼女とは別に好きな女の子でもできたとか?」
 突拍子のない発言に、むせた。
「はあッ⁉︎ 急になんだよ、それ」
 慌てた俺をただ冷めた目で見る河田。からかうような笑みもなく。
「んにゃ、訊いてみただけ。んで、どうなのさ」
「別にいないよ」
「彼女のことは?」
「……なんでそんなこと訊くんだよ」
 今日はやけに彼女彼女と訊いてくる気がする。
「訊いてみただけ」
 あくまでも淡泊。
「……」
「ただ」
 また小さな画面に目を移そうとした刹那だった。 
「たださー、最近聞かないからさー」
「……りいのこと?」
「うん、そうそう。映画見に行ったーとか、焼き肉食べに行ったーとか」
 俺が黙っていると、河田は続けて口を開いた。
「喧嘩したーっていう話も聞かんしね」
 淡々とそう言う。
 その口から出てくることは、どれも当たっていて、否定はしなかった。でも肯定もしなかった。
 河田は黙って俺を見ていた。
 そして、河田が鞄のポケットに手を突っ込んだと思ったら、そこから二つのあめ玉を出してきた。その一つをボクの目前に掲げてきた。
「なに?」
「やんよ」
「何味?」
「確かめてないから分からん」
「ラムネがいい」
「贅沢言うな」
 渋々ボクは手を出して広げると、河田はあめ玉を乗せた。
 一円玉よりも少し大きいあめ玉。透明な包みに入っているそれは、黄色。いや、明るい色をしているからレモン色。色から想像するとレモン味といったところか。
 気がつけば、ボクよりも先にあめ玉を食べていた河田は、「たぶん、それグレープフルーツだと思う」と言った。
「なあ、草津」
「……なに」
 普段からよく名前を呼ばれているが、今だけは重く感じた気がした。微塵も気に留めないことなのに。名前を呼ぶ声に意味が含まれているような、そんな感覚。言い換えてみれば、これから話をする重たい内容の予兆。
 河田が話すことはおおよその見当はつく。その低めた河田の声を聞いて、それを確信した。
「別れたんか?」
 やっぱり。
 こういう話の流れになるもんだ。
「別れてない」
「は?」
 これは事実。偽ってるわけでも、騙しているわけでもない。
 河田はぽかんと口を開けて、拍子抜けしていた。
「意味分かんねえ。じゃあ、どうしたんだよ」
「別れてないけど、これから別れる」
「また彼女が浮気したとか?」
 りいは過去に一回浮気をしたことがある。その時は必死に謝る姿を見て、やり直す決断をした。
「うん……まあ、それもないこともない」
 言葉を濁した訳は自分にあるからだ。
「他になんかあるんか?」
「自分と、りいのために」
「あ~。そうだな。確かに今後を考えたら、あんな浮気癖のある女なんか別れた方がいい。さっさと別れてしまえ」
「うん…………」
 河田の声が遠くから聞こえるような感覚がする。すぐ隣にいるというのに。
 もらったあめ玉を口に入れて、甘酸っぱいグレープフルーツ味を楽しむ。でも、なぜかあまり味がしなかった。
 好きだった彼女を消したのはこの俺だ。



  
 俺が消してしまった。
 不安だった。
 一日、一時間、一秒、時間がたったら、彼女は俺から離れていくんじゃないかと。
 でも、そんなことは言えない。誰にも。こんな醜い感情を知られたくない。
 そんなことをぐるぐると考えた日々が続いた。それはもう地獄のようだった。
 心は苛まれ、ぼろぼろと崩れていく、真っ黒な世界。出口が見えない光のないトンネルを走っているようだった。




 ある日、りいから郵便が届いた。
 それはバースデーカードだった。誕生日でもないのに。でも、そのカードを開いて分かった。
 真っ白なカードを開くと流れる音楽。オルゴールのように可愛らしい音。これはどこかで聞いたことがある。だが、なかなか思い出せなかった。
 そして、カードに書かれている丸っこい字——りいのものだ。
『付き合ってから一年がたつね。早いような遅いような、よくわかんない気持ち。そういえば、今年の四月から三年生になるね……』
 その文字を目で追っていく。そして、その先には、
『話してなかったけれど、私、この四月から違う大学に通います……』
 最後に。

 ゆうくんはあたしのことを彼女として見てなかったよね。なんだかそれ以上のような……。その目が怖かったよ。

 血の気が引いた。
 連なっている言葉の意味。
 それは『別れ』の二文字。
 〝おれ〟はどんな目で見ていたんだろう。怖いと感じるくらいとか……。彼女以上ってなんだ。
 ただ大事にしたかったから、そう接してきただけじゃないか。
 好きな人を特別に想うことはおかしいはずがない。みんなだってきっとそうだろう。君が思うことと〝おれ〟が思うこと、なにが違うというんだ。
 考えたらキリがない。しかし、分かってはいても、考えてしまうのが人間だろう。
 頭が回る。
 その文字がぐるぐると回る。
 散らばるように円を描く。
 まるで終わりが見えないように。
「ッんだよ!」
 聞こえてくる音楽が耳障りだ。神経質な部位をつつくような、その小さな刺激はなんとも不愉快だった。
 だから、思い切りカードを真っ二つに破った。
 それでも物足りない。沸き上がってくる感情が収まらない。
 俺は狂ったかのように何度も破った。原型が分からなくなるほど、小さく、小さく。ただの紙屑になるまで。




 河田からあめ玉をもらった、その日の夜。
 友達とご飯を食べに行くことなく、アパートの部屋に帰ってきた。
 真っ暗な201号室の部屋に明かりが灯る。無機質な白い蛍光灯の光が。
 誰もいなかった部屋は、うっすらと冷たい空気を感じさせた。本当に誰もいないのだと。最近、この部屋に帰る度にそんなことを思うようになった。
 そして、習慣になってしまったことがある。それは、りいと映った写真を見ること。テレビの横に置いている写真に、いつも目が向いてしまう。習慣になっていることさえ、ボクは気づかなかった。
 ——捨てなきゃ……ダメかな。
 そんな躊躇っている自分に、改めて気づきて、内心静かに驚いた。もう決意したことなのに、まだりいのことが好きな自分がいる。
 違う。まだ〝おれ〟は好きだ。本当はこれからもずっと一緒にいたい。一緒にこの大学を卒業したかった。
 でも、なに一つ、叶いはしない。
 だから、りいに別れを承諾する言葉を伝えなければならない。
 アドレス帳から消したが、メールを確認すればすぐに連絡はとれる。
 俺はベッドに乗り、壁に背を預けて座った。スマートフォンのアプリを開く。
 こんな結末は望んでいたことじゃない。
 しかし、長い間りいを怖がらせ、他の男に走らせたのは、たぶん〝おれ〟のせいだ。りいの気持ちを考えず、自分の気持ちばかり考えて、自分に降り注ぐ不安を取り除きたくて行動に走った、〝おれ〟のせい。


“cinderella-story_1.10_y-l@……”
 すぐに見つかる、りいのアドレス。


 縛り上げていた。
 小さな鳥かごに拘束していた。
 見えない檻の中に、閉じこめていた。
 だから、逃げ出したんだ。自由を求めて、手足を動かせる居場所を求めて。


『別れよう』
 スマートフォンの小さな画面に映る一言。
 あまりにも呆気なく打ち終わる。


 結局、自業自得か。
 自分が招いた結果か。
 案外、呆気ないものだ。終わりなんて。このメールを送れば全てが終わる。
 別れたいのなら、あんなカードを使わなくてもいいのに。せめて別れたいの一言でも書けばいいのに。〝おれ〟から振ってほしいという意味なのだろうか。
 女なんて、なにを考えているのか分からない。


 終わった。
 全てが終わった。
 そして、消えた。
 なにもかも。


 写真を破ってゴミ箱に捨て、携帯電話に残っている君の全てを消去した。
 君は消えた。
 俺の中から、消えた。

 俺が君を消した。




 俺はなにもなかったかのように風呂に入った。記憶まで、想いまで、洗い流せたらいいのにと思いながら。
 水の音が心地良い。
 両手で触れると温かい。
 安心する。
 まるで君を抱きしめているような気持ちになるんだ。
 目を閉じれば、笑顔の君がいる。
 俺を抱きしめてくれる君がいる。
 だけど、目を開けると笑顔の君も、抱きしめてくれる君もいない。
 俺が消したから。

 シャワーの音でかき消されて聞こえなかったが、この時に携帯電話は一通のメールを受信し、受信音が部屋中に鳴り響いた。


『君は誰? りいは今どこにいるの?』

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