蒼昊の額縁

蒼乃悠生

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屋上の文学少女は歌う

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 ある少年は、山の上にある病院に入院した。少し古くて、大きな病院。
 少年は両親に体の検査をするんだよと言われてやって来た。
 そこは年上の患者が多く、話すような相手がおらず、暇だなと思いながら過ごしていた。
 今日の検査が終わり、夕飯までの間、病室で過ごしていたが、暇だ。売店でお菓子を選んでいると、同い年くらいの男子と出会う。
「見かけない顔だな。最近入った?」
 少年は話しかけられるとは思わなかったのか、少し驚いた様子で答えた。
「うん。体の検査で少し」
「名前は?」
「ヒロ。君は?」
「ジュンだよ」
「ジュンはここ長いの?」
「まあまあだね。あ、これ美味いんだよな。ヒロ、知ってる?」
 ジュンが手に持っている物は、人参の形をしたパッケージのお菓子。その中にはお米の形をしたポン菓子が入っていた。
「ああ、ポン菓子だろ? 美味しいよね」
 そう言って近づいた時、積まれていた本が一冊体に触れて落ちた。
「あ、やっちゃった」
 それは虫の図鑑だった。そっと元に戻す。


 外に出られないまま、三日が経った。
 看護師が換気の為と開けた窓から冷たい風が入る。
 窓を閉めようと窓辺に立つと、歌が聴こえた。それはその日だけでなく、毎日聴こえる。不快だった。煩かった。
 入院仲間に訊くと、それは屋上で歌っている人がいるらしい。
 ある日、突然その歌が聴こえなくなった。
 気になって、熱を計りに来た看護師に尋ねた。男が歌を気にするなんて恥ずかしかったので、屋上に行きたいとだけ言うと、看護師の表情が曇る。だが、すぐに許可が出た。


 重たい金属のドアを開けると、青い空が広がっていた。
「空が広いな」
 窓枠から見えていた空と違い、屋上から見える空は広く、そして手を伸ばせば雲を掴めるくらい近くに感じた。
 事故防止の高いフェンスのが囲った屋上には、沢山の入院患者がいた。高齢の人達はベンチに座ったり、家庭菜園や花を眺め、小さい子供達は楽しそうに走り回り、鬼ごっこや花一匁などをして遊んでいる。
 ここが病院だと思えないほど明るい雰囲気に目をむいた。
 そして、ある一点に視線が向く。
「着物……?」
 片隅にあるベンチ。そこに座って、本を読む一人の少女は、矢絣の小袖に葡萄色の袴。今時珍しいと自然に目が向いた。
 ヒロは近づいてみると、彼女は目を包帯で覆い、鼻歌を歌っていた。
 目が見えないのに読書?
 首を傾げた。
「どちら様?」
 まさか話しかけられるとは思わなかったヒロはギョッとした。
「誰かいるのでしょう?」
 少女の声は鈴を転がしたように可愛らしく、異性なのだと強く感じたヒロは息をのんだ。
「目が見えないの?」
 なんと声をかけたらいいのかわからず、悩んだ挙句出た言葉に絶句した。初対面でそんなことを最初に訊くか? と。
「ふふ。そうよ。あ! わかった! 目が見えないのに本を読んでるのがおかしいのね!」
 そう言われて、改めて本を見遣ると、それが本ではなく、図鑑であることに気づく。
「実はね、屋上で知り合った子に貰った本なの。私がどうしても『シンデレラ』が読みたくて……私に父も母も、もういないし、困っていたらその子が買ってきてくれたの」
「『シンデレラ』?」
 その子に騙されてるよ。だって、その本は『シンデレラ』じゃなくて、虫の図鑑だもん。
 そう思うが、口にするのは阻まれた。目が見えないのをいいことに、そんな後味の悪い悪戯を受けたのだろうが、知らない方が良いこともある。
「私、目が見えないから読んでほしいの。ダメかしら?」
「え?」
「内容が気になって、ついつい歌うのも忘れちゃうのよね」
「ずっと歌が聴こえてたんだ。歌ってたのは君だったんだね」
「ええ。よく子供達に歌ってとせがまれていたのよ」
「『せがまれていた』?」
「今日は来てないみたい。退院したのか、亡くなったのか、わからないわね」
 少女は寂しそうな声で言った。
「それよりも読んで?」
「……い、今から検診があるから、また今度ね」
 嘘をついてしまった。図鑑で『シンデレラ』なんて読めない。今度会う時までに本を買っておこう。
 ヒロは慣れない嘘をつき、彼女が盲目で良かったと安心する。
「そう。それは仕方がないわね」
「君の、名前は?」
 ドキドキしながら、ヒロは尋ねた。
「ツグミよ。九(いちじく)ツグミというの」
 桃色の唇は名前を乗せた。


 次の日。
 ヒロは看護師に許可をもらって、屋上に向かっていた。
 つぐみと初めて会った昨日のうちに家族に電話をしたが、本は買ってもらえなかった。はぐらかされて、理由はよくわからない。
 今日も看護師は嫌な顔をしたことに疑問に思っていると、突然後ろから腕を掴まれた。
「ヒロ!」
「あ、ジュン」
 焦った顔でヒロを見る。
「ヒロ、もしかして屋上に行くのか?」
「そうだよ。ジュンも行く?」
「馬鹿か!」
「え?」
 急に怒鳴ったジュンに、ヒロは驚いた。
「知らねえのかよ! 屋上の噂!」
「噂? なにそれ」
「屋上に行く奴は近いうちに死ぬんだよ」
「んな、まさか」
 だが、不意に頭によぎる。
 ツグミは言っていた。昨日になって来なくなった子がいると。退院ではなく、もし死んだとしたら?
「虫が好きな子供が、死んだんだよ。だから行くなって!」
「でも……昨日会ったツグミに謝りに行かないと」
「ツグミ? 謝りに? なんだよそれ」
「ツグミは目が見えなくて、『シンデレラ』を読んでほしかったみたいなんだけど、持ってまた本が虫の図鑑だったんだ。だから、俺が『シンデレラ』を買って読みに行こうと思ったけど、買えなくて……」
「誰だよ、そいつ」
「着物を着ていて、目に包帯を巻いてる女の子だよ」
「着物? 包帯? ……んー、やっぱりそんな変わった奴いねえよ」
 考える様子を見せたが、思い当たる節はない。
「まあ、何はともあれ、もう屋上に行くな」
「……うん」
 ジュンは歩き去っていった。
 ヒロは悩む。
 ツグミは幽霊だったのか。
 でも、歌は屋上だと教えてくれたのは、別の患者から聞いた話。たまたまジュンがそれを知らなかった可能性もある。
「今日で最後にすればいっか」
 ジュンの背中が見えなくなってから、彼は再び屋上へと向かった。


 雲が少し多い。
 気持ちまでどんよりとしてしまいそうだ。
 ツグミは、またあのベンチに座っていた。
「おはよ」
 挨拶をすると、彼女は頁を触っていた指を止めた。文字を読めるわけでもないのに。
「おはよう」
 すると、彼女は小首を傾げる。
「どうしたの? 元気、ない?」
「え? そんなこと……ないよ」
「そう。なら、ごめんなさいね」
「えっと、君に言わなきゃいけないことがあるんだ」
「なぁに? んーでも、とりあえず座ったら?」
「……うん」
 ヒロはツグミの隣に座る。
「あの……俺、明日退院するんだ! だから、今日お別れを言いにきた」
 出来る限り明るく演技する。
 嘘をついた。退院という話は聞いてない。
 でも、そうでもしないとジュンと屋上に行かないと約束が嘘になるから。
 だからといって、死期が近づくからなんて、そのままの理由はどうしても言えなかった。言ったら、傷つけてしまうのではないかと、思ってしまった。
「そう、退院するのね。それはおめでたい話だわ。今までこんな私と話をしてくれてありがとう。でも——」
 ツグミは言葉を一旦置く。
 包帯で隠されているというのに、何故か見透かすような双眸が向けられた感覚にはなった。ヒロは思わず唾を飲み込む。その音さえも聞こえてしまっているんじゃないかと、思った。
「嘘はいけないわね」
「う、そ?」
「ええ。この病院に入院しているのなら、知っているはずよ」
「知ってる? なにを?」
「貴方は屋上以外に外に出たことはあるかしら?」
「いや」
「じゃあ、病院にご両親は面会に来て?」
「……いや」
「ここの患者が退院したという話は?」
「……ない」
「忽然と患者は消えるのは、いつも病状が悪化して、そのまま亡くなった。ここはそんな場所よ」
 彼女は落ち着いた声色だった。
「ちょっと待って! 俺は母さんからなにも聞いてない! ただの検査だって、体の……検査のはずなんだ……」
 心臓がドクンドクンと煩く鳴る。
「検査と説明されたのね。じゃあ、何故ただの検査なのに、ずっと入院しているのかしらね」
「……ッ!」
 薄々気づいていた。
 彼女に言われて、見て見ぬ振りをしていたものを直視した気分。考えてはいけないことだと押し込めていたのに。
 自分の命というものが危ういものなのかもしれないと思うと、止めどない不安が襲ってきた。真っ黒な感情が心を覆い尽くすと同時に、血の気が引くのを全身で感じる。
「お母様もお父様も貴方に変な不安や心配を与えたくなかったのかもしれないわね。ごめんなさい。余計なことを言ったわ」
「いえ……そんなことは、ないです」
「顔色が悪いわ。今日はもう病室に戻りなさいな」
 そう促されて、彼は病室へ帰った。
 そして、その日の夜、ヒロは病状が急激に悪くなり、処置は施されたものの、そのまま帰らぬ人になった。


 ジュンはヒロの病室前に立っていた。
 開けられたドアから見える、消毒された部屋。彼が眠っていただろうベッドもシーツは替えられ、綺麗にされている。
 看護師は彼に言った。
『何故屋上に行くなと言ったの? それを言ったから精神状態が悪くなって、病状が悪化したんだ』
『死ぬ前の人間が唯一心落ち着かせる居場所が屋上だったのだよ。酷いことを言ったと思わないのかい?』
 彼は心の中で思った。
 屋上に行くと死ぬと聞いたから、行くなと言っただけ。彼を追い詰める為ではなかった。決して、彼に死んでほしかったわけじゃない。
 彼は、大人の言葉に追い込まれる。
 そして行き着いた先は、やはり屋上だった。
 フェンスに指を掛けると、ガチャンと音が鳴る。
 そのまま足を掛け、どんどん登っていく。軽々と進んでいく。
「おやめなさい」
 聞き慣れない少女の声が下からした。
「金網の音がするけれど、飛び降りる気なの?」
 ちらりと下を一瞥すると、そこにはヒロが言っていた少女がいた。目を包帯で巻いた、着物を着た少女。
 彼は怒りが込み上げてきた。ジャンプをして飛び降りると、そのまま少女の胸ぐらを掴む。
「お前がいなければヒロは死ななかったのにッ! クソッタレ!」
 ぶつけた。初めて会う少女に怒りを。行き場のない喪失感も彼女に当たった。
「そう……」
 彼女はそれだけを言うと、口を閉じる。
 その手に持っていた『眠り姫』の本をぎゅっと握った。
「その本は……」
「名前を聞きそびれたのだけれど、男の子に貰ったの」
「あ、でもね」彼女は慌てて言葉を続ける。
「直接貰ったわけじゃないの。人を通じて貰ったのよ。『シンデレラ』という本なのでしょう?」
「いや——」
 彼は喉元まで出掛かっていた言葉を飲み込む。
「ふふ。『シンデレラ』なんて何冊もあるのに。おかしいわね」
「たぶんだけど」
 ジュンは重たい口を開く。
「その本を買った奴、ヒロだよ」
「そう。ヒロというのね」
「ヒロみたいに、俺も死ぬのかな」
「さあ、私にはわかりかねるわ」
「お前、死神なんだろ? なら、苦しまずに死なせてくれよ」
 病気で苦しみながら死ぬのは、嫌なんだ。
 その声は震えていた。
「ごめんなさいね。私、死神じゃないの」
「嘘つけッ! お前なんて誰も知らねぇんだよ! 場違いな着物とかありえねぇんだよ! もう……なんなんだよ、お前……ヒロは久しぶりの友達だったのに……なんでお前なんかに、助け……くそぉ」
 彼は膝から崩れ落ちる。
「何故、人は外を恋しくなるのかしら?」
 ツグミは見えない空を仰ぐ。
「空が綺麗だから? 空気が美味しいから? 人間は摩訶不思議によね」
 息をゆっくり吐く。
「己がちっぽけな存在だと……包まれている存在だと、感じたいのかもしれないわ。眠り続ける前に」
 そう言って鼻歌を歌う。
 物悲しい旋律。
 柔らかく、優しい音。
 彼女は空に向かって歌った。
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