蒼昊の額縁

蒼乃悠生

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金魚が泣く日

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 海と共に生き、海によって死んだ。




 十二月下旬の陽は、碧い海を煌めかせる。白波たたず、その潮の流れは、大河のようにのんびりと動いていた。
 その海を、背の低い堤防が隔てる先には、車一台が余裕で通れる程の道路がある。海辺に立たなくても、その道を歩けば、磯の匂いが鼻をくすぐる。
 そこは漁業で栄えていた街。今は漁師の後継ぎがいないことと、高齢化に伴い、すっかり廃れてしまった。つい最近まで、最後の漁師をしていた家も引っ越してしまい、それを生業にする者は誰一人いない。漁船もなければ、陸揚げする施設も壊され、活気を見せていた漁港も、今や釣り人が数人いる程度で、漁業をしていた痕跡すら無くなった。
 海の道沿いに並ぶ家の中に、趣のある古い木造の家がある。壁の木の板はめくれ、反り返る。板と板の隙間には蟻が出たり入ったりで、まるで引っ越しをしているように慌ただしい。二階で飛び跳ねようなら、崩れてしまいそうな大正生まれの家は、今も尚、海風を一心に受ける。
 その中の一室——浴室に、彼は困ったように立ち尽くしていた。

「風呂掃除しに来ただけなのに」

 彼の声色は暗い。
 二十歳くらいの男は、グレーのパーカーの上に、牛柄のカーディガンを羽織る。茶髪の後頭部をガシガシと掻き、開く筈の浴室ドアを前に、力なく座り込んだ。
 そして、そんな彼を眺める少女は、浴槽の縁に腰掛けていた。 僅かに溜まった湯に足を浸す。その湯に濡れた細い足を隠す、葡萄色の袴。矢絣の小袖に掛かる長い黒髪を横に流し、茜色の幅広リボンで結っていた。白く透き通った肌を持つ顔に、苺のような赤い唇がよく映える。
 そして、紫水晶のような双眸を細くし、袴が下りないように両手で押さえながら、足を少し上げた。彼女は男を気にする様子を見せず、パシャパシャと音を立てて足湯を楽しんでいた。

「オ困り、なのかしら?」

 少女は心配する言葉を並べているが、その声はどこか愉しそう。それが彼の絶望に浸る心を刺激したのか、男は振り返り、少女を指差して叫んだ。決して広くない浴室の為、その人差し指は少女の腕に刺さる。グリグリ食い込んでも、彼女は表情ひとつ変えない。

「大体! キミ誰なの⁉︎」

 溜まりに溜まったものが弾けたかのように、彼の言葉は止まらない。

「その服装も! 袴を着てるなんて、なんか凄いね! カッコいいと思う!」
「アラ? 褒められてる?」
「うん! 褒めてる!」

 少女は恥ずかしさを隠しながら、嬉しそうに笑った。

「フフ。有難う」

 指が食い込んでも、表情ひとつ変えない彼女に、男は諦めたように手を下ろす。

「ここ、俺の実家なんだけど」
「そう?」
「『そう?』て……不法侵入……大問題でしょーが」
「ワタシにとっては、大した問題ではなくってよ?」
「いやいやいやいや」

 今の時代にそぐわない言葉遣いに男は小首を傾げながらも、それこそ〝大した問題〟ではない。
 つい、相手のペースに巻き込まれてしまう。彼はそれに気付き、溜息を長く吐いた。

「で、話は戻すけど。キミ、誰? 名前は?」
「人に訊ねる前に、まずは貴方様から名乗るべきではないかしら?」

「違う?」と言う彼女に、男は片眉を寄せる。
 自分の実家に、勝手に上がり込んだのだから、表札くらい見ただろう。それとも、それすら見ずに風呂に入ったというのか。そう口に出そうかと思ったが、喉元まで込み上げていたその言葉は自然と落ち着く。
 子供のように体が小さい彼女を見ていると、病気を患っているのかと心配する気持ちが湧いた。同情と言えば良い気はしないかもしれない。しかし、肩幅が狭く、白い手足が細い少女に頭ごなしに文句を言うには、あまりに気が引けた。頬をポリポリと指で掻くと、彼女の要望に答える。

「県乃(あがたの)……周(めぐる)。キミは?」

 周は、不機嫌に答えた。尖る口元を見て、それすら愉快だと言わんばかりに、少女は目を細める。

「姓は、数字の九と書いてイチジク。名はツグミ。ワタシは、九ツグミよ」

 それにしても、県乃様はスコドンねエ。
 そう言って、ツグミは非常に切なそうな顔で周の顔を覗き込んだ。しまいには、ほろほろと泣く真似をし始めた。

「オ風呂から、出られなくなるなんて。運が悪いというか、何というか」

「スコ、スコドン?」聞き慣れない言葉を周は繰り返すが、その言葉の意味よりも、爆発しそうなこの不幸さを嘆きたかった。誰かに聞いてもらいたくて、どうしようもなかったのだ。

「そーなんですよ……!」

 浴室ドアに手を掛けて、引いたり押したりするが、やはりびくともしない。感情をぶつけるように、手をグーにして、バンバンと殴る。そして、ハッと思い出し、ツグミに向かって思い切り振り返った。

「ってゆーか、キミがいるから驚いたじゃないですか!」
「ふふふふふ」
「マジで幽霊かと思いましたよ!」
「ふふふふふ」
「あまりに怖くて逃げようとしたら、ドアが開かないんですもん。普通、開かなくなるなんてことがありますか!? こんなんホラーだよ、ホラァァァァ」

 周は逃げられなかった事が悔しそうに、今度はタイル張りの床を殴った。

「ふふふふふ」
「いや、笑い事じゃないからね!」
「エ、そう?」

 彼女はきょとんとした目で見つめ返す。

「俺も出られないってことは、九さんもここから出られないってことだからね!」

 事実を突きつけたら、彼女はすとんと顔から表情が消える。だが、それはほんの少しだけ。瞬きをする一瞬といっても良いほど。

「ワタシのことは、オ気にされないで」
「そーゆうわけにもいかんでしょ」

 困ったような顔で、立ち上がった周は裾を捲りあげた黒のパンツのポケットに手を突っ込む。青のスマートフォンの画面を見た。風呂に閉じ込められたと母に送ったメールの返信に、『工事の交互通行で渋滞。暫し待たれよ』の文字。

「久しぶりに実家に帰ってみりゃ、このザマだ」

 そう言って、スマートフォンを両手で持ち、画面を親指でトントンと音を鳴らしながらタップし、文章を作る。今の状況を伝え、救助を頼んだ。わざわざ消防署に電話することもないだろう。まあ、なんとかなる。そう軽く考えていた。
 メッセージが無事に送信できたことを確認すると、側面にあるボタンを押して、画面を暗くし、スマートフォンを元あった場所へ戻す。

「今、俺の母に連絡したんで。待ってれば助けてくれると思います。それまで気長に待ちましょう」
「そう。わざわざ有難う」

 しかし、心のどこかでは自分で何とかなるのではと思っているらしく、彼はドアの輪郭をなぞるように視線を移していく。古い風呂ドアだからか、近くから見ると爪楊枝程の隙間が空いていた。
 どこか引っ掛かりはないか。壊れた場所はないか。何か挟まって、詰まっていないか。兎に角、小さなことでも異変はないか。まるで針の穴に糸を通すように、目を凝らした。
 ドアに縋るようにもたれていたが、ズルズルと落ち、ドアの前に座る。長い溜息を吐いた。これが結果だ。

「九さん」
「何か?」

 訝しむ視線を送られ、ツグミは首を傾げる。純真な目で返した。

「……どうしてここにいるんですか?」
「『どうして』?」
「そう。さっきも言ったけど、ここ俺ん家。県乃家の風呂なの。何でいるんですか」

 何を言っているのかよく分からない。そう言いたげな目で、ツグミは彼を見る。が、口元はやはり愉しそうに綻んでいた。そして悩む素振りを見せ、言葉を選んでいるかのように唸る。ぴちゃんぴちゃんと、水面を足先で叩きながら。

「どうしてかしらね?」
「はい? えっと」
「ワタシ、ここにオ呼ばれされたから、イマイチ分からないのよ」

 困ったように笑う。
 そんな彼女を見て、あの馬鹿両親がやらかしたかと、周はその考えに辿り着いた。
 周の両親は生まれた時から同じ街に住んでおり、そのまま結婚した。海の民だと自慢し、海の民は海のように広い心を持つのだと、勝手なことを言っている。『来る者拒まず、去る者追わず』に加えて、『居る者招く』の精神で行動する為、何をしでかすか分からない。
 一週間前に、前触れもなく来たメールには、見知らぬ女の外国人を真ん中にして撮った写真が付属されていた。誰だったんだあの人、そんなことを考えながら、ふと両親の破天荒さを思い出した。
 息子が帰ってくる日に、勝手に知らん人を招くんじゃないよ、ホント。
 そう訴えたい気持ちになった。

「あーマジか……俺のおかんらに無理やり連れてこられたんでしょ? ほんとに申し訳ないです」
「おやまア。県乃様がオ謝りになられることなんてないのに」
「でも——」

 その時だった。
 遠くから、音がする。ガタガタと小刻みに鳴る音は、重機が走るそれに似ている。それに合わせるように、水面も騒ぎ始めた。
 実は、街の漁業が廃れていく半面、ある大きな会社がここに支社を建てたことをきっかけに工業団地が少しずつ広がっている。その工業団地の工場へ向かうトラックやダンプカーは多く、それに重量があるせいか、付近に住む住人は騒音と共に微かな揺れを感じていた。
 音はまだいいとして、こんなに揺れていただろうか。
 そんなことを思いながら周は不安な表情を浮かべていたが、すぐに音は止まり、揺れもおさまる。

「あ。足が、痺れてきた」

 周は同じ体勢で座っていた為か、少し動かす度に弱い電流のような痺れが走る。浴槽に手を掛けて、やっとのことで立ち上がるが、足は感覚を失っており、思い通りに体は動かない。

「ちょっと、隣に座らせてください」

 一言添えて、浴槽の縁に座るツグミの隣に腰掛けようとしたら、彼女は片手で制した。

「そちらじゃなくて、こちらにオ座り」

 ポンポンと叩く場所は、浴槽にお湯を張るための台付き蛇口がある方だった。
 何故、ドア側だと駄目なんだろうと疑問に思いながらも、彼は渋々指定された場所に座る。足が思うように動かず、移動に時間がかかった。ツグミは痺れというものを知らないかのように不思議そうに足を見るだけで、笑うようなこともしなかった。
 指定された場所に座った周は、長く息を吐いた。痺れが止むまで、その足をとんとんと叩く。唸り声をあげながらそれをする様を、ツグミは暫くの間眺めていたが、指を立てて突き始めた。

「ちょ、待っ」
「ご自身ではよくて、ワタシが触れるのはよろしくないの?」
「そ、そんな意味じゃないんだけ、どおお! 人にやられると、んねっ!」

 思いがけないタイミングの痺れに、周は体をくねらせながら、更に唸った。
 その様子が余程可笑しかったのか、彼女は反対の手で口を隠す。耐えようにも耐えきれず、口角に浮かぶ笑みが、ちらちらと見えた。

 足の痺れが落ち着いてきた頃、彼女の目尻には涙が溜まっていた。その涙を細い指で拭う。
 周は大きく息を吐いた。無駄に騒いで、乱れた呼吸を落ち着かせる。そして、自分も足湯をしようかと身じろぐと、彼女と目が合った。

「県乃様は、この穢れた水に、オ触れになられないで」
「え? いや、えっと……この水のこと?」

 彼は浴槽に溜まるお湯を指差す。彼女は周が何をしようとしていたのか、最初から分かっていたかのように動揺することなく、首を縦に振った。

「ソウ」
「別に汚くないでしょ。俺も足湯させてくださいよ」
「駄目です」

 そう言って、笑う。
 周はケチな人だなと思いながらも、人それぞれかと思い直す。足湯を諦め、出られない浴室の天井を仰いだ。
 ツグミはバシャッと水の音を立てた。

「ねエ、県乃様」
「んふ? はい」

 突然話しかけられるとは思っていなかった周は、少し声が上ずる。首を向けると、湯に紫色の瞳を向けたままの横顔が目に入った。その表情は、寂しいわけでもなく、楽しいわけでもない。様々な感情が合わさり、心の中でそれが何なのか模索しているように見えた。

「どうして、ここにいらしたの?」
「え、だから、ここ、俺ん家だし」

 どうしてと問われても答えようがない。実家なのだから、理由がなくても帰ることができる場所だ。そして、今は年末。一層実家に帰ってもおかしくない。むしろ、こちらの方がどうしてそんな質問をしてくるのか聞きたいくらいだ。

「家? ここは県乃様の家に〝見える〟の?」
「それって、ど――」

 身を乗り出して、聞こうとしたが、その瞬間、大地が震えるような揺れを足から感じる。「あれ?」と思った時には、下から突き上げるような揺れを全身で受け、咄嗟に浴槽の淵に両手で掴み、足を踏ん張る。
 一体、どれくらいの震度だろうか。そう思うが、スマートフォンで調べることができないくらい、まず体が倒れないようにすることで精一杯だった。
 壁もぐらぐらと左右に揺れている中、視界に入る彼女の白い手は、置かれている状況に反して、リラックスしているように見えた。周は顔を上げる。そこには涼しい顔で、平然と足湯を楽しむ彼女がいた。

「危ないから、ちゃんと掴まらないと」

 周は片足を浴槽に浸け、彼女を抱き締めるように支える。

「あ――」

 容赦なく水に足を浸ける周を見て、ツグミは声を漏らす。焦燥感のある目を向け、「駄目!」と叫び、今すぐにでも外に出そうと体を押した。しかし、揺れは次第に大きくなっていき、彼は片手で彼女を抱え、もう一方の手で浴槽の淵を掴んでも、体は振り子のように揺れる。
 このまま地震が続けば窓が割れて、ガラスを浴びてしまうかもしれない。揺れが落ち着いてから避難できたとしても、ガラスを踏む危険性が出てくる。
 せめてツグミだけでもと、周は立ち上がろうとするが、軋む天井から、砂埃が落ちてきた。よく見ると、ヒビも入っている。
 もしかしたら、この地震は災害級かもしれない。
 そう思っていると、遠くから割れるような音が聞こえてくる。耳を貫く轟音——バリバリと大木が折れるそれに似ていた。
 両腕に力が籠る。
 バキッと何かが割れる音が下から聞こえた時、

「おーい」

 姿は見えないが、男の声がした。その後にも言葉は続いていたが、二人にはよく聞こえなかった。
 すると、先程の揺れも嘘のように止んでいる。
「一体、どうなっているんだ?」周は首を傾げた。

「は、放してください」
「う、あ、ごめん」

 胸を押し返され、周は慌てて離れた。
 紫水晶のような瞳が涙で潤い、更にキラキラと輝いて見える。それは宝石に見えた。まるでそれに魅入られてしまったかのように、周は彼女を見つめた。

「このスコドン!」

 力ない手で、彼女は周の胸を叩く。
 何が何だか分からない様子で、周は「えっと、ごめん……?」自ら吐いた言葉にすら自信が持てない。
 ツグミは立てた指先で、周の足を指した。

「え? あー、ごめん、足、入れちゃった」

 ハハハ! と笑うと、彼女は頬を膨らませて、怒りの色を濃くした。

「怪我!」
「ケガ?」

 よく見てみると、浴槽の床がパックリと割れていた。もうお風呂として使えないなぁと考えていると、湯に赤いものが漂っている――血だ。慌てて足を出した。

「血、洗い流した方がいいわね」

 そう言う彼女の表情は暗い。
 周は蛇口に手を掛けた。指先が触れた刹那、体がぴたりと止まる。

「あれ?」

 実家のお風呂って、こんな蛇口だったっけ?
 つい先程まで疑問を抱かなかったのに。頭に浮かんだ実家の浴室は、もう少し新しくなかっただろうか。この水栓も壁に付いていなかったか。吐水口だって、こんな丸い筒状ではなかった気がする。しかし、水の音がした瞬間、魔法を掛けられたかのように、それはすぐに消えてしまった。

「その吐水口、錆びて動かないから、そのままここに流して足を洗いなさい」

 ツグミは言う。
 あれだけ嫌がっていたのに、今では浴槽内で洗えと言った。不思議に思いながらも、周は彼女の言葉に甘え、蛇口を捻った。混じりけのない透明な温かい水が出てくる。それはごく当たり前のことなのに、違和感を抱いた。
 恐る恐る、足をそれに当てると、体がビクンと震える。

「いだだだだだだだ! 染みる! すっごく染みる! え、ケガってこんなに染みるもんだっけ!?」
「やっぱり」

 落ち着いた声が耳に入る。そして、その脚に彼女は腫れ物に触れるかのようにそっと触れた。その手が氷のように冷たくて、周は彼女を見遣る。

「それ、海水が混じってるの」
「海水? 何で?」
「年月が経ちすぎて、管がもろくなっていたのかもしれないわね」
「老朽化に加えて、あの地震か……それなら壊れても仕方がないな。おかんに言っとこう」

 ツグミは訝しむような目を細め、周を黙ったまま凝視する。徐に喉元に手を当て、咳をした。苦しそうに顔を歪め、喉からヒューヒューと音が鳴る。
 海水だと分かった時点で、周は足を離すが、痛みも同時になくなるわけではない。歯を食いしばり、ひーひーと声を漏らしながら、傷を負った足の裏を覗いた。すぐに血が滲む。今は浴室に閉じ込められているので、血を止めるような布も何もない。降りかかる不幸に、彼は項垂れた。

「県乃様」

 少し息が荒くなるが、なるべく周に気付かれないように装いながら、ツグミは懐から小さな巾着袋を取り出す。桔梗の花が刺繍された巾着袋。細くて白い指を入れて、真珠のようなものを摘み出した。

「これを、オ飲みなさい」
「これ……て、何?」

 訝しむ眼差しを送る周。堂々とした面持ちでツグミは、周の手を取り、それを乗せた。

「県乃様の為でもあり、ワタシの為でもある。何も言わずにオ飲みなさい」

「人魚のモノに比べると些細だけど」周に聞こえない声量で呟く。

「えー……見たことないし、毒とかじゃないんですか?」
「毒も正しい扱い方をすれば薬になる、そうでしょう?」
「ぇぇぇぇ……」

 あからさまに嫌な顔をした。掌に転がる白い球を眺める。色や形は決して毒々しくない。だが、白い球がどういったものか教えてもらえず、似たような食べ物も思いつかない。疑心を拭いきれず、ツグミを一瞥した。
「クドイ」ただ一言を言われ、周は溜息を吐いた。仕方がないと言わんばかりにそれを口に含み、噛まずに飲み込んだ。
 静かに見守ったツグミは、少しばかり息を吐く。視線を下に向け、外から入る光に照らされて輝く浴槽の湯を見つめた。そしてそれは彼女の足も輝いているように見えた。

「県乃様、ご存知?」
「急に何ですか」

 彼女は節目がちな目で、僅かに増えた浴槽の湯を眺めている。

「金魚」
「よく見かける金魚くらいなら、知ってるけど」
「飼ったことは?」
「あー、小さい頃に祭りの金魚掬いでとったのを飼ったことがあったかなー……程度ですね」
「金魚を飼う時にやってはいけないことがある、というのは?」
「え、考えたことがなかったんで、知らないっス」

 周が言う金魚掬いで掬った金魚とは、小赤と呼ばれる和金のこと。長い体を持つフナに似た体型で、色は艶やかな赤色。体が丈夫だと人に言われて、捨てるのも悪いし、何も調べずに飼いだした。しかし、その金魚は一か月もたたずして、全滅。子供なりに苦い思い出だ。
 そんなことを思いだしていると、ツグミは彼が考えていたことを、まるで知っていたかのように話を切り出す。

「その子には、オ名前を付けた?」
「その子というか、一度も名前なんてつけたことないですよ」
「ふふ。正解」
「正解?」

 ツグミは手を添えて、緩む口を隠す。コロコロと鈴を転がすような声で笑った。そんな彼女を見ながら、周は首を捻る。そして、浴槽に背を向けるように、座り直した。

「金魚にはね、オ名前を付けてはいけないのよ」
「何で?」
「人に飼われる前の金魚は感情がないの」

 細める目は穏やかだ。

「でも、飼い主にオ名前を与えられると、金魚になかった感情が宿ってしまう。ご飯が美味しいなとか、みんなと遊べて楽しいなとか」
「それはそれで良いような気がしますけど」

 それを否定してしまうのなら、その感情を持つ人間も否定されるような気がする。周は、それの何がやってはいけないことに繋がるのだろうかと考えた。すると、すぐにその答えになるようなものが返ってきた。

「部屋に誰もいないところで死ぬって分かってしまった時、県乃様ならどう思う?」
「え? 死ぬ時ってことっスか?」
「そう。周りに誰もいないの。でも、胸が苦しい、このまま死ぬって、もう分かってるの」
「えー。誰か助けてほしい。死にたくないし。とりあえず、スマホで救急車を呼ぶ」

 予想していなかった返答が来たからか、ツグミはパチパチと瞬きを繰り返す。そして、ぷぷと吹き出し、笑った。

「分かったわ。じゃあ、こうしましょう。救急車を呼びました。でも、救急車が到着する前に死ぬとしたら?」
「何が何でも殺そうとしますね」
「ふふ。御免なさい」
「んー、どうしようかなぁ」
「もう死ぬんだって思った時、一人でいたい?」
「あー……どうかなぁ。もしおかんがいたら、絶対泣くだろうから……泣かれるくらいなら一人で死のうかな」

 ぽかんと口を開ける。

「え?」
「え?」

 彼女が漏らす言葉に、周も同じように繰り返した。

「だって、そうでしょ? 死ぬ直前が最後の記憶になるってことだから、その最後の記憶が、泣き顔のおかんとかだったら嫌じゃないですか」

「どうせなら笑った方が気分がいい」周はそう付け足した。
 その返答に満足したと言わんばかりの顔で、ツグミは立ち上がった。長い袖を靡かせながら、くるりと踵を返す。歪んだ浴槽上でも、体が揺らぐことなく、真っ直ぐにツグミを見る彼と視線を交えた。小恥ずかしそうに後ろで手を組み、ふふっと笑いかけると、幅の広いリボンが揺れる。しかし、あれ程鳴っていた水の音が、静かだ。波紋は何度も立っているというのに。
 彼女は、笑った。

「こっちの方がいい?」
「ちょ、ちょっと、俺みたいに足の裏を切っちゃうから立たない方が――」
「教えて。こっちの方がいい?」

 彼女はぶすっと口を尖らせた後、またニッと笑った。
 すると、また大きな揺れが彼らを襲う。ぐらりと周の体は傾く。また地震だと思った瞬間、止まっていた騒音が耳を貫く。重機が通るような音はすぐ傍から聞こえていた。
 あれ、おかしいな。
 彼の頭の中に引っかかるものがあった。だが、今はそれよりも、大事なことがある。

「うんうん、笑顔の方がいいよ」

 そう答えて、慌てて両手を伸ばす。
 危ないよ、ケガしちゃうよ。だから、こっちに――

 大きな黄色い塊が、笑顔の彼女を抉った。




 碧い水の色。
 あれだけ煩かった爆音は消え、ここは静かだ。まるで違う部屋に閉じ込められたかのよう。

 ごぽっ

 口から泡が出て、上っていく。
 苦しい。息ができない。
 首に手を添える。
 首には何も巻き付いていない。なら、どうして苦しいのだろう。
 無意識に、光が見える空へ手を伸ばした。

 助けて。
 苦しい。


〝一人で逝きたくない〟

〝寂しい。誰か、一緒に〟





「周ッ! 周ッ!」

 女が男の名を叫ぶ。それは悲鳴に酷似していた。
 全身が水で濡れ、重い男の体を、彼女は大きく揺さぶる。しかし、彼の瞼は閉じたまま。青白い顔も、指先もぴくりとも動かない。足の裏の傷口から流れていた血は、いつの間にか止まっていた。
 深いシワを持った、五十代の女は睨みつけるように、傍で立ちすくむ同年代の男へ振り返る。

「お父さん! 早く救急車を呼んで! 早く!」
「わ、分かってるよッ! 急かすな!」

 震える手で上着のポケットに手を突っ込む。しかし、力が思い通りに入らず、緑色の携帯電話が持てなかった。漸く携帯電話を持てても、混乱する頭で操作ができない。冷静になればすぐに分かることなのに、電話の掛け方が分からなかった。小刻みに震える指では押すべき番号を押せず、もどかしい。思わず「クソッ!」と吐いた。

「周、どうして、どうして……」

 母は、何度も涙を流しながら訊ねる。揺さぶる手を止め、白黒のカーディガンを握り締めた。しかし、周は反応をしない。
 繋がった消防署と電話をする父。
 母は息子の胸元に顔を埋め、叩いた。何度も、何度も。

 横たわったままの周の指先に、白く輝く鱗。それはひらりと落ちる。

 その浴室の窓から見える、解体工事。グレイの防音シートに身を包んだ、一軒の家。時折見える黄色いショベルカーの首が下りて、シートに隠れる。その度に大きな音が鳴り、家を抉り、崩しているのだと分かる。道路側から黄色のヘルメットを被った作業員が、家に向かってホースを持ち、水を撒いてた。

「おーい! 新人! また穴開けてんじゃねえよ!」

 ホースを持つ作業員が叫ぶ。彼が見る先には、防音シートに大きな穴を開けたショベルカー。それに乗る若い男は「すんませんっしたー!」と笑いながら謝罪をしていた。
 防音シートに開いた穴から見える、ワンルームだったとは思えない天井も壁もない浴室に、半壊された浴槽。
 そこに一匹の金魚がいた。壊れ、水が流れ出る浴槽の中に、白と黒の金魚が横たわっているのを誰も知らない。鱗が剥がれた金魚を。
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