蒼昊の額縁

蒼乃悠生

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時渡りの少年

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 桜色の花びらが、前を横切った。
 冷たい風に吹かれて、空に舞う。
 青に映える桜色。
 数えきれないほどの沢山の花びらは、雪のようにも見えた。まるで幻想世界にいるかのような美しい光景に、心臓は高鳴った。

 ひらひら
 ひらひら

 風に靡く髪を片手で抑えながら、制服姿の少女は空を見上げる。花びらを目で追っていると、突然耳に入る踏み切りの音。
 車は急いで渡り、遮断機はゆっくりと降りる。
 そして、線路の向こう側が視界に入る。そこには学生服の少年がいた。少女には見たことがない制服で、どこの学校だろうかと小首を傾げる。
 遠くから聞こえる汽笛と、近づいてくる電車の走る音。
 そして、あっという間に線路上を走る電車は、目の前を速いスピードで走り抜けていく。風は起こり、少女は目をギュッと閉じた。
 その間もチラチラと目を僅かに開け、車両と車両の間で、微かに少年の姿を捉える。

(綺麗な人……)

 男性に綺麗と評することはあまり嬉しがられないかもしれない。だが、少女は率直にそう思った。
 電車が走り去り、遮断機の音はピタッと止む。安全を確認したかのように、遮断機はゆっくりと上がっていった。
 少女は風で髪に付いた花びらを取りながら、歩き出す。一枚一枚、丁寧に。しかし、歩きながらだとどうも難しい。眉を寄せながら、なかなか花びらだけを摘めないことに悪戦苦闘していた。
 ちょうど踏み切りの半分ほどを渡ったところか。その少年とすれ違おうとしていた。
 少女の視界の中に、立ち止まる革靴を履いた足が映る。思わず足を止め、顔を上げた。
 あの学生服の少年だ。

「あ……」

 少年は黙ったまま少女を見つめていた。
 通行の邪魔をしてしまったのかと思った少女は頭を軽く下げ、「すみません」と脇をすり抜けようとした時、その腕を少年は掴んだ。訳が分からなくなって、少女は少年を見た。

「そっちじゃない」

 その言葉は明らかに少女に向けられたものだ。

「え……?」

 突然話しかけられて、少女は困惑した。
 この先に行くべき学校がある。この踏み切りを渡らなければ、時間通りに辿り着くことは不可能。遅刻してしまう。

「私、学校がこっちで……」
「君はこっち」

 少年が指差す方向は来た道。

「そっちは家に帰っちゃいますから」

 腕を振りほどこうとした瞬間、少年は腕を掴む手に力を込めた。思わず少女は、痛みに顔を歪めた。

「また」

 少年は表情を変えることなく、改めて言葉を紡ぐ。

「また、繰り返すの?」

 笑いもせず、怒りもせず、悲しみもせず、少年は少女を見つめた。なにか大事なことを伝えようとしているような重さを感じる。しかし、その大事なことは、少女にとって正体が分からぬ恐怖に映った。

「意味分からない! 離して!! 警察呼びますよ!!」

 思いきり体を離すと、腕を掴む手は簡単に剥がれた。だが、その瞬間に心の隅がざわつくのを感じる。振りほどいた罪悪感からか、はたまた違う何かか。
 違和感を振り払うかのように、少女は学校に向けて走った。もしかしたら少年が追いかけてくるかもしれない。少年の様子が気になって振り返りたかったが、我慢して走り続けた。
 しかし、彼に対して怖いと思わなかった。ストーカーのような恐怖心ではなくて、心配して追いかけてくれるような。初めて会って、ろくに話もしていないのに、そんな風に思ってしまうのが不思議で仕方がない。自分がおかしくなったのか?と、首を傾げながら走り続けた。
 学校に着いて、息を整える。下駄箱に革靴を置き、代わりにシューズを履いた。
 その時だった。
 職員室が普段に比べると慌ただしい様子で、教員が職員室から出てきた。

「おはようございます」

 担任の先生と目が合い、朝の挨拶をした。
 笑顔を見せて挨拶をしてくれるはずだった。だが、今日は顔面を青くして、少女の下まで走ってきた。

「今、連絡があって…………その」

 担任はあからさまに口籠る。視線を下に向け、生徒と目を合わせづらいようだった。
 少女は嫌な予感がするのか、不安そうな表情を浮かべていた。

「どうしたんですか……?」

 弱々しい言葉に、担任は意を決する。真正面から向き合った。

「ご両親が、救急車に運ばれた」

 つい先程まで、笑顔で朝食を一緒に食べていたのに。
 息が詰まる。





『お母さん、今日朝ご飯、立派だね』

 少女はテーブルに並ぶ普段と変わったご飯とおかずの量に驚いた。

『今日は〝記念日〟だから豪華にしてみたの』

 ふふふと、母は微笑む。
 父は美味しそうだなぁと言いながら、ネクタイを締める。
 一般的な家庭だった。
 どこと変わらない、普通の幸せを持った家族だと、少女は思っていた。





「どうして……」

 少女は目を見開く。驚きを隠せなかった。そして、頭の中に最悪のシナリオが過ぎる。
 担任は、迷うように開きかけていた口を躊躇いながら閉じ、少女を見下ろしていた。そして、雑念を振り払うように首を横に振り、大きく息を吸った。

「落ち着いて先生の話を聞いてほしい」

 少女はゆっくりと顔を上げた。

「君のご両親は首を吊っていたそうだ」
「え?」
「でも、近所の方がすぐに気付いて救急車を呼んでくれたらしい」

 少女の眼に動揺の色が濃く現れる。

「たまたま回覧板を届けに行った時に、インターホンを鳴らしても出てこなかったらしい。普段なら在宅している時間なのに不思議に思ったご近所さんが、庭に回って様子を伺ったそうだ」

 特に取り乱す様子はなく、少女は静かに先生の言葉を聞いているが、どこか焦点が定まっていないように見える。

「その時に」

 そう言葉を続けようとした時ーー


 ジリリリリリリリリリリ


 校内に、けたたましく鳴る火災報知器の音。
 一瞬、人の声が一斉に消えた。
 そして、動揺する声があちらこちらに出てくる。
 しかし、警報以外に火事らしいものがない。煙も見えないし、臭いもない。
 なにが起きたのか。
 防災訓練か。
 本当に火事なのか。
 状況が飲み込めない中、暫くすると火災報知器の音は消えた。
 担任は「ちょっと確認してくる」と言って、一旦職員室に戻った。
 少女はよろけるように壁に寄りかかる。

(頭……回んない……)

 その場に座り込み、両膝を抱え込む。
 何度か大きく深呼吸をして、顔を少しだけ上げた。廊下を走り回る教員がいて、教室がある二階からはガヤガヤと聞こえる生徒の声。普段と変わらない音に、少女は溜息を吐いた。
 ふと、自転車のベルの音が耳に入る。
 なんとなく、ベルの音がした方へ顔を向けた。道路を走る自転車が、玄関のドアから見える。すると、

「あ」

 視界の隅に映る人影。
 玄関の前にある大きな柱の一つに、見慣れない学生服。

(踏み切りで会ったあの人だ……)

 少年は少女に気づいていない様子で、柱に寄りかかったまま、視線は道路に向けられていた。その眼差しは無表情で、なんの感情も汲み取ることができないが、今の少女にとって恐怖心を抱くこともなく、自然に体は動き出していた。
 この胸に抱く感情を誰かにぶつけたい。受け止めてほしい。それは、

(誰でもいいから)

 少女の双眸に涙が溜まる。

(助けて……)

 自暴自棄に似た衝動。
 まとまらない気持ちをどうにかしたくて、抱えきれなくて、晒したい。
 涙がポロポロと溢れ出る。
 シューズのまま玄関を出ると、そこで少年は少女に気づいた。

「…………」

 少年は驚くこともなく、人形のように表情を変えずに少女を見ていた。
 そして、ズボンのポケットから白いハンカチを取り出し、少女に差し出す。

「……ありがとう」

 躊躇いながらも、少女はハンカチを受け取った。

「あの時」

 少女は目元にハンカチを当てたまま、口を開く。

「貴方の言葉通りに家に帰っていたら、お母さんもお父さんも首なんか吊らなかったのかなぁ……?」
「やっぱり君のご両親は死を選んだの?」
「うん」

 少女はハンカチを外し、少年と視線を合わす。

「あなたは、こうなることを知ってたの?」

 変な人。
 そう付け足して、笑った。

「……」

 少年は口を真一文字に閉じ、踵を返した。

「待って!」

 少女の声に足を止める。

「変な人って言ってごめんなさい……でも、なんで分かったの?」
「…………」

 少年は俯き、考え込むように黙る。

「時間って、巻き戻せないのかなぁ」

 鼻をすすりながら、少女は言った。

「あたしが変なことを言ってるのはよく分かってる。おかしいよね。気持ち悪い、よね……でも!」
「時間は巻き戻せないし、やり直せない」

 少年は冷たく吐き捨てた。

「……だよね」

 その声に力はない。

「俺ができるのは、最悪の未来が起こらないように声を掛けることぐらい」

 少女に背を向けたまま言葉を続ける。

「声を掛けたところで未来が変わることなんて滅多にないけど」
「未来が……見えるの?」

 少女の問いを聞いて、少年はゆっくりと振り返る。

「見えない。俺は〝偶然〟未来や過去、現実を渡り歩くだけ」

 無機質な眼差し。
 人間なのにまるで人形のような表情に違和感を覚え、少女は身震いした。

「つまり……神さま?」

 よく分からないなーと、呟きながら、首を右左に傾ける。
 少年は少女に歩み寄り、右手を掴んだ。驚く少女を他所に、そのまま己の首元に手を触れさせる。

「人間」

 ドキッと思わずしてしまうが、少年に悟られまいとそっぽを向く。その手に伝わってくる少年の温もりに、更に心臓がバクバクと鳴る。

「でも、生きてるのか、死んでるのか、よく分からない」

 やはり彼の表情に感情が現れない。悲しさも、虚しさも、怒りも、何一つ抱いていない。確かにあるのは、この体温。
 異性に急に手を掴まれることがない為、驚いて涙は引っ込んだ。そして、少女は、優しく微笑んだ。

「こんなにあったかいんだもん。生きてるよ」

 彼女の笑顔を見て、何かを感じ、考えるように少年は黙った。そして、静かに口を開ける。

「大正生まれの人間が、今も子供の姿でも?」

 その眼に見える底は暗闇。
 少女はその闇に掴まれているような感覚に陥った。しかし、次の少年の言葉を聞いて、闇が首に手がかかる寸前、すぅと消えていった。

「意地悪なことを言ったね。ごめん」

 表情は変わらずとも、声色の微かな違いに少女は安堵した。

「俺も一部の記憶がスッポリとなくなったから分からないんだ。何故、時を渡り歩くことができるのか。……感情をどこに忘れていったのか」
「探そっ!」

 少女は笑った。

「探す?」
「うん! 記憶も、感情も!」

 静かに少女を見守った。本当ならここで可愛らしくはしゃぐ彼女を見て微笑む場面なのだろう。少年はそっと胸元に手を当て、心が何も感じないことに違和感を抱く。しかし、いつの日か、表情がコロコロと変わる彼女と時間を過ごしたら一ミリでも何かが動き出すかもしれない。
 些細なことでもいい。
 自慢できるほどの変化じゃなくてもいい。
 誰とも一緒に過ごすことができなかった己が、彼女の言葉に甘えて人に寄り添うことで、変わらないこの平行線を少しでも曲げられたら。

(でも)

 少年は心のモヤモヤに気づいていた。

(俺が気持ち悪くないのかな)

 彼女の不幸を予言した己を。

「だから」

 少女の声に、ハッと我に帰る。

「傍にいて。怖いの。お母さんも、お父さんも……誰もいない家に帰るのが」

 涙ぐんでいる彼女の顔が目に入る。

「生死ははっきりしたの?」
「分からない……先生の話、途中で終わったから」

 その時だった。
 校内から、名前を呼びかけながら出てくる男性の姿。

「岡田ー! 岡田ー!」

 少年は目配せをする。

「先生じゃない?」
「あ、うん……私、行ってくる!」

 岡田は駆け出す。
 しかし、ドアに入る直前で、くるりと身を翻した。

「学校から帰る時間、五時半なの! だから」

 この時には既に少年の姿はなかった。虚空を見つめる岡田に、教員は近寄る。

「岡田、ここにいたのか」
「すみません」
「この後、警察が話を聞きに来るみたいだから、岡田はこのまま教室に来てくれ」
「分かりました」

 鞄を持ったまま、教室に行かず、一階にある職員室を目指す。岡田はチラチラと少年がいた場所を振り返った。少年の白いハンカチを握り締めながら。




 警察に質問されたことを丁寧に答えた。早く終わるものかと思えば、想像以上に長くなり、そして質問内容は重かった。ただ、岡田が両親の容態について質問すると、警察も言葉を選びながら答えてくれた。とりあえず、今はまだ息を引き取っていないことだけは分かった。
 この後、授業を受けていいと言われたので、岡田は教室に戻った。嫌な雰囲気があったらどうしようかと不安に駆られたが、特になく、むしろ彼女を気遣うクラスメイトの姿があった。
 本当にありがたいと、心の底から思った。
 ただ一つ、予想外だったのは、授業が終わってから、担任に呼び出されたこと。
 警察から、今日からもう家に帰宅して良いと許可がおりたこと。だが、岡田の精神状態を心配して、当分の間顧問が家まで送るという話があったが、岡田は断った。先生に納得してもらうまで、長い時間を要した。

(もう六時半だよ……)

 時計をチラチラと見る。
 少年の姿が脳裏に過っていた。
 自分から約束しておいて、遅刻するなんて、あの少年はきっと怒っているに違いない。いや、むしろ約束したことになっているのか心配になってくる。

「先生、すみません! 人を待たせてるんで、もう帰ります!!」

 担任の返事を待たずに、逃げ出すように教室を飛び出した。
 息を切らせながら、慌てて下駄箱まで走りきった。下駄箱に手をつき、息を整えながら、辺りを見回す。
 シューズから革靴に履き替え、尚も少年の姿を探すが見当たらない。

「やっぱ帰っちゃったかな……」

 小さな声で呟いた。
 門まで歩いたところで諦めの気持ちが湧き出てくる。溜め息を吐いた時、

「あ」

 視界の隅にあの姿が。門に隠れるように立っていたから気づかなかった。

「待っててくれたんだ」
「俺なんかでいいの?」

 遅れてごめんねと謝っていたら、急に藪から棒へと少年が聞いてくる。

「どういうこと……?」
「気味悪くないの?」
「ああ! 名前が知りたい!」

 岡田はニッコリと笑った。

「……」

 マイペースな岡田に困惑するように、少年は一時フリーズする。

「あ、ごめん。記憶失くしてるんだから名前なんて覚えてないよね」

 頬を指先でぽりぽりと掻いた。

「博(ひろし)」

 そう答えて、すぐに学生服の上着ボタンを五つ外していく。

「え? ちょ、なんで脱ぐの!?」

 顔を赤く染める岡田を他所に、博は躊躇いなく全てボタンを外すと、左脇辺りにあるワッペンを指差した。
 恐る恐る近付き、岡田はワッペンを覗き込むと、微かに読める字が書いてあった。

「……博」

 苗字だと思われる箇所は色が落ち、掠れていて読めない。博という字も辛うじて読めるほどだった。時を感じさせた。
 そして、岡田は考える仕草をし、そして閃いたような表情をした。

「ひろくんって呼ぶね!」
「俺は岡田さんって呼べばいい?」
「え、やだ」

 岡田は眉間に皺を寄せる。

「え」

 その反応に、思わず博も声を漏らした。

「私の名前は、岡田ひかり! ひかりって呼んで!」

 満面の笑顔を博に向ける。

「あ、そうだそうだ」

 急に静かになり、鞄の中を見始める。そして白いハンカチを大事そうに取り出した。

「ハンカチ貸してくれてありがとう。洗ってから返していいかな?」
「別に今でもいいのに」

 博の返答を待たずしてハンカチを鞄に戻し、歩き出す。それに釣られるように博は彼女を追うように歩く。

「待っててくれてありがとう。本当に嬉しかった」
「怖くないの?」
「何が?」
「今日初めて会った人が帰りを待ってるなんて」
「何で?」

 彼女のあまりの警戒心の無さに、博は脱帽する。むしろ心配の情さえ湧いてくる。

「……ひかりはもう少し人を疑った方がいいと思う」
「どして?」
「もし俺が悪い人だったらどうするの?」

 静かにひかりを見つめていると、ひかりはぽかんと口を開けていた。間抜けな顔だ。

「悪い人じゃないでしょ?」
「……」

 はい、悪い人です。と、言うわけがなく、博は困ったかのように口を閉じた。

「それに、なんだか初めて会った気がしなくて」

 二人の間を縫うように風が通る。校舎に植えられている満開の桜を揺らし、花びらが風に乗って舞った。

「だから、踏み切りで会った時も怖くなくて、むしろ『あれ、誰だったっけ? この人』みたいな感覚でね。実は会ってたりしない?」

 ひかりの頭に桜の花びらが止まる。

「……君と会うのは、初めてだよ」

 博はひかりの頭に付いた花びらを手に取った。
 「ありがと!」と言うひかり。
 外車だろうか。そこに大きめの車が歩道近くを走ってくる。
 それに気が付いた博はひかりを庇うように学校側を歩かせ、自身は車道側を歩く。

(なかなかなレディファースト)

 ひかりは内心ドキドキしながら、博の行動に感心した。

「そ、そういえば、大正時代から体の大きさが変わってないって言ってた気がするんだけど」

 と言うと、博はまた上着を脱いでワッペンを見せた。

「あ、手書きで生年月日まで書いてある……て、大正と一しか読めない!」
「大正生まれなのは間違いないみたい。……気付いた時には、顔つきも今の顔から変わらないんだよね」
「そっか。ひろくんは、大人になりたい?」
「大人?」
「大きくなりたくないの?」
「あぁ、うーん……」
「私は勉強とか嫌いだし、テストはもっと嫌いだし、早く卒業したいなーって思うけど、卒業した後はどうしようかなって、悩んでるんだよね」

 彼女の目は遠くを見つめていた。

「どうして?」
「なりたい職業とか分からなくて……元々友達とバカしてるのが楽しいから、やりたいこととか、夢とかも考えたことなくてさ」

 ひかりは笑う。しかし、僅かな翳りが見え隠れしていた。

「夢……」
「卒業するのも嫌だなーって。大人になりたいけど、大人になりたくないな」
「矛盾してるね」
「だよね。アハハ」

 このままじゃあ、ダメなのかな。
 小さく呟かれた言葉は、博の耳には届かなかった。

「俺は、どうなんだろう」
「不思議だね。時間はこうやって進んでるのに」

 ひかりはひらりと身を翻し、後ろ向きで歩きだす。
 学校が小さい。先程まであそこにいた筈なのに、歩んだ分だけ学校は遠くなり、道はできていく。
 そして、彼女はまたくるりと体を半回転させた。

「ひろくんはなにも変わらないんでしょ? 長い間変わらないって、怖くなったりしない?」
「怖い? 分からない。感じないから」
「あ、ごめん」
「怖いって、どんな感じだろう」
「……私には怖くないか聞いておきながら、自分は分からないんだよねー」
「ごめん。でも、そう聞いた方がいいと思って」
「謝らなくていいよ!」

 顔の表情が変わらない彼に、ひかりはニカッと笑う。

「でもね、私、今一つだけ凄く怖いこと、あるんだ」

 そう言い出すひかりの顔は打って変わって不安な表情を浮かべていた。

「家?」
「うん。誰もいない家。用事があっていないわけじゃない、悲しい出来事があっていないってところが、なんだか不気味というか……初めて、人の死と隣り合わせに立っているような……人って、死のうと思えば、簡単にできるんだね」

 ひかりは風で靡く横髪を耳にかける。

「私、死ぬって考えたことないし、周りのみんなは死んでないし、なんとなく遠い存在だと思ってた。身近なもんじゃないって。ニュースとか見ても、遠いところでなにかあったんだなーって思うぐらいで、人ごとにしか思えなくて。そんなものが、今、凄く傍にいる」

 髪を抑える手に力が入る。

「得体が知れない恐怖が家にいるような気がするの」

 視線が落ちる。
 そして、恐怖に耐えるように口を固く閉じた。

「家に帰りたくない?」
「…………うん」

 口に出しても良いか悩んだように見えた。しかし、是と答えた後、吹っ切れたかのように言葉はすらりと出てきた。

「もし、もし! お母さんとお父さんが死んじゃったらどうしようって……怖いっ……死んだらいやだ……私一人でどうやって生きればいいの? あの大きな家に私一人で生きるの?」

 感情が爆発し、ひかりは足を止める。体は小刻みに震え、顔を覆った両手から涙が漏れる。

「寂しい……私、もっとみんなといろんな場所に行きたかった……京都の紅葉も見に行きたい、北海道で美味しいもの食べたいし、沖縄の海で泳ぎたい……」

 彼女の頭は、きっと家族との思い出や、これからやりたいことが駆け巡っているのだろう。

「こうなるぐらいなら、もっと我儘言えば良かった……沢山思い出作れば良かった」
「……」
「でも、これがいけなかったのかな。我儘、言いすぎたのかな? だから、お母さんとお父さん、困ったのかな。全部、私のせいなのかな」

 嗚咽が漏れる。
 言葉にならない、声が漏れる。
 友人にも教師にも見せられずにいた、本来のひかりの姿がここにある。
 ただでさえ小さな体が、更に小さく見えた。
 その細く折れてしまいそうな手首を、博はギュッと握る。

「ふぇ?」

 驚いたひかりは、博を見上げた。

「君の家の事情は分からない。でも、思う節があるのなら、そうなのかもしれない」
「うん」
「でも、君が全て悪くて、発端だと勝手に決めつけてはいけない気がする」
「だって」
「君を中心に世界も時間も回ってはいない。いろんなものが絡み合って世界は回る。君の話なんだけど……本人達の口から聞いた話でもなんでもない、これは君の憶測だ。もしその憶測をご両親が聞いた時、なんと思うかな」
「……で、でもねっ」
「『娘にこんなことを思わせていたなんて』と辛く、悲しくなるんじゃないかな。心が痛むんじゃないかと、俺は思うよ」

 握られた手首が、熱い。
 博の眼差しは真っ直ぐで、感情がないと信じられないぐらいに熱を帯びている。
 ひかりはぐしゃぐしゃになった顔でクスッと笑った。

「ひろくん、私よりも感情豊かみたい」

 そう言うと、博は小首を傾げる。

「……よく、分からない」

 ひかりは、再び歩きだした。

「私、てっきり『だから俺が傍にいるんだろ』て言われるんだと思った~」
「ムム……」
「私の手、握ってくれるから」
 そう言った瞬間にパッと離される手。
「ごめん」
「えー、離しちゃうの?」

 ひかりが残念そうに言うと、博はそっぽを向く。

(………………顔が……熱い…………?)

 そこから会話はぷつりと止まる。しかし、悪い雰囲気ではない。ひかりは口元が綻び、博は顔を少しだけ朱色に染めている。
 そして、二人が初めて会った踏み切りに辿り着く。既に遮断機は下りており、矢印は上下とも光っていた。辺りが暗くなっている為、赤い光が強調されているようだった。

「私の心の中はぐちゃぐちゃになってて、どうなってるのかよく分からない。でも、私以外のものは全て〝平常運転〟なんだね」

 彼女の表情は少し寂しそうだった。
 電車が一本走り去る。
 走る電車で生じる風は強く、ひかりは両手で巻き上がる髪を押さえる。

「それは」

 博が言葉を紡ごうとした時、もう一本の電車が走った。そして、遮断機はゆっくりと上がっていく。

「ひろくん、電車の音が大きくて聞こえなかったー。もう一回言って」

 立ち止まっているひかりを他所に、博は踏切を歩く。

「え、ちょっと待ってよ」

 慌てて博の隣まで駆け寄る。
 博はただ真っすぐを見たまま口を開く。

「周りが〝平常運転〟なのは、いつひかりが戻ってきてもいいように、変わらずに動き続けてるんだよ」

 ひかりは口をぽかんと開けていた。

「どんな時だって歩きだす人を受け入れる。いつだって歩きだす貴女ひとを待ってる」

 顔色ひとつ変えずに、博は初めて出会った時と変わらない表情で、前を見据えたまま言った。
 そんな彼を見上げながら、ひかりはにんまりと幸せそうに笑う。

「そっか。じゃあ、平常運転でもしょうがないね」
「うん」
「ひろくんも、待ってくれる一人ってことだよね」
「ムム……」
「え、違うの?」

 表情は変わらないが、彼の周りの空気が変わる。彼が照れて動揺しているのが、肌で伝わってくるような、くすぐったい気持ちにさせる。
 なんと答えるべきか、頭の中をぐるぐるさせて悩む彼に、ひかりは微笑んだ。薄っすらと浮かぶ涙を悟られないように。




 
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