1 / 4
第一話 須古銀次といふ者
しおりを挟むその者は、爺のように白髪らしい。
その者は、獣のように鋭い目をしているらしい。
その者は、鬼のように笑わないらしい。
その者は、拡声器を使っているように声が大きいらしい。
その者は、巨人のように背が高いらしい。
だから、その者は、白鬼と呼ばれている。
けふ、須古銀次に會ひました。
一九四四年。
戦争。
特別攻撃隊が現れる前のこと。
日中の暑さが残る深夜。雲に邪魔をされ、月の光が地に届かず、寂しそうに顔を覗かせる。その下で、様々な虫や鳥達が楽しそうに鳴いていた。
海軍の航空隊がある基地に、須古銀次という名の男が部屋にいた。
小さな部屋は殺風景で物が少なく、最低限の机と椅子、そして棚があるくらいだ。窓から覗けば、戦闘機が眠る掩体壕が見えた。
机に向かう須古の身なりは、汚れひとつない純白な軍服。詰め襟に、五つ釦、そして肩には桜が三つ並ぶ肩章。
彼は、小刀で綺麗に削った鉛筆を紙の上で走らせる。時折「くだらんな」と漏らしながら、書類にひたすら鉛筆を走らせていた。
耳を澄ませば、酒を飲み交わし、愉しそうに会話をする仲間の声が聴こえる。そんな中、騒がしい足音達が近づいてきた。
木の床がみしみしと鳴り、またかと思いながら、須古は溜息を吐く。金属がぶつかり合う音も聴こえ、片眉を上げた。
二人分の足音は、部屋のドアの前で消える。
律儀にノックをする相手に、須古は「はい」と返事をした。
ドアを開けた者は、カーキ色の軍服を着た二人組。きびきびとした動きで、脇を広げる陸軍式の敬礼をする。
「分隊長の一憲兵大尉だ。ここに〝二匹のネズミ〟が入ってきたはず。その二人を早々に引き渡してほしい」
詳しい理由を言わず、更にその言葉遣いは須古を見下している。
須古は片眉を寄せた。だが、彼は瞬き一つで不愉快な顔を消すと、一度立ち上がり、脇をしめた海軍式の敬礼を返した。
「〝ネズミ〟ですか。見ての通り、ここは古い基地ですから、ネズミなんて数え切れないくらいいますよ。それでは、まだ業務が残っているので失礼」
そう言って、座り直す。
二人組は白い布地に『憲兵』と書かれた赤字の憲兵腕章、腰元にはサーベルの軍刀を掲げている。
ああ、やはり憲兵だったかと思っていると、一は不愉快そうな表情を浮かべ、舌打ちをした。
「腑抜けたことを言う気か。ここにいるのはわかっている。さっさと引き渡せ!」
声を荒げたところで、須古は再び立ち上がる。木製の椅子をゆっくりと引きずる音が、妙に耳にまとわりついた。
「どこへ行っても、憲兵という者は、偉そうな言葉でものを言うのだな」
腰元にぶら下げた短刀に手を置き、ゆっくりと憲兵の前まで歩いた。
「突然やって来て引き渡せ? 一体、誰を?」
その問いに、一は間髪入れずに答えた。
「彼杵兵長と馬見上等兵だ! 我々に喧嘩をふっかけてきやがったのは軍法会議もの。ただちに引き渡せ!」
「引き渡せ引き渡せ煩いな。ったく」
面倒臭そうに頭を乱暴に掻いていると、一は「白髪か?」と呟いた。
今更かよと、須古は呆れながら思う。「俺は須古大尉だ」
「ああ、あの須古大尉殿か。ふん。なにが白鬼か。ただの爺——」
「それは」
ギラリと鋭利に輝く、須古の眼差し。それを見た一は畏怖するように、口が止まる。
「正義なのか」
薄い茶の瞳が金のように光っているように見え、更に一は動揺した。
「それだけを聞けば、彼杵と馬見が悪いことをしたように思えるが、その前にはなにがあった?」
じりじりと近寄る。
「まさか、先に手を出したのは憲兵さんじゃあ、ありませんよね」
「道端で! け、敬礼をしなかった奴らが悪い!」
「謝ったんじゃないのですか?」
「それは……」
言葉を濁す。答えられないということは、敬礼をしなかったことへの謝罪はきちんとしたのだ。それで済ませばよかったものの、血気盛んな軍人達は喧嘩をおっ始める。大体の流れが見えてきた。
須古はニヤリと不気味に笑う。
「土下座までして謝ったにもかかわらず、不当な暴力。そこに、正義はあったのか?」
刃のように鋭利な雰囲気に飲み込まれるように、一は最初の勢いが消失し、怖気づいた。『正義』という言葉が頭の中にひっそりと植え付けられ、少しずつその存在が大きくなっていく。だが、それを掻き消すように頭を大きく振った。
「ど、土下座をしたことを知っているのなら——」
吠える一に向かって、須古は威圧的に壁を叩く。
身長の高い須古は、自然に憲兵達を見下ろす形になった。
「ここにいたとしても引き渡さない。こちらで処理する」
ハッキリと耳の奥まで響く声。憲兵達は臆したように体を震わせた。ガチャリと軍刀が揺れる。
「お引き取り願おうか」
海軍としての短剣には武器の意味は小さい。
短剣には海軍としての誇りと栄誉が込められている。そして、彼にとっては、常に正しき道を選べと、上官から教えられた言葉が含まれている。
威嚇とも捉えられる須古の態度に、憲兵達は屈辱に塗れた表情を浮かべて、その場から離れた。
帰ってきた静寂に、須古は机に目をやる。そして、静かにドアを閉めて、机下を覗いた。
「あ! ——」
机下に隠れていた二人が大きく口を開くものだから、須古はすぐに唇に立てた人差し指を添える。
「そろそろ時間だから、俺は出る。貴様らはそこで大人しくしてろ。目を閉じ、耳を塞ぎ、決して口を開くな」
「爆弾が落ちるわけじゃないんですから」
彼杵と書かれた男が小声で言い、笑う。だが、須古は首を横に振った。
「貴様らだから言うんだ。命令だと思って、そうしてろ」
須古は黒い腕時計で時間を確認する。
そして、それ以上はなにも言わずに部屋を出て行った。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
彩~いろどり~
すーたん
歴史・時代
これは歴史に残ることのなかった将軍家の姫と農民の少年との物語。
農民の少年。一彦(いちひこ)は幼い頃から体が弱く力仕事が出来なかった。母親と妹の二人で農作業をし、一彦は家事などしか出来なくて、貧しい暮らしをしていた。医者に診てもらう金もなく一彦の体はどんどん弱くなっていく。
将軍家の姫。一宮椿(いちみやつばき)は幼い頃に母を亡くし、父 春彦(はるひこ)に大事に育てられた。母を亡くしてすぐに剣を握り武力を鍛えいつしか軍の中で一番強い剣士となる。
空蝉
横山美香
歴史・時代
薩摩藩島津家の分家の娘として生まれながら、将軍家御台所となった天璋院篤姫。孝明天皇の妹という高貴な生まれから、第十四代将軍・徳川家定の妻となった和宮親子内親王。
二人の女性と二組の夫婦の恋と人生の物語です。
金鰲幻想譚
鶏林書笈
歴史・時代
韓国版「剪灯新話(〝牡丹燈籠〟が収録されている中国の古典怪談物語集)」と言われている韓国(朝鮮)の古典物語「金鰲新話」をアレンジしました。幽霊と人間が繰り広げるラブストーリー集です。
父(とと)さん 母(かか)さん 求めたし
佐倉 蘭
歴史・時代
★第10回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
ある日、丑丸(うしまる)の父親が流行病でこの世を去った。
貧乏裏店(長屋)暮らしゆえ、家守(大家)のツケでなんとか弔いを終えたと思いきや……
脱藩浪人だった父親が江戸に出てきてから知り合い夫婦(めおと)となった母親が、裏店の連中がなけなしの金を叩いて出し合った線香代(香典)をすべて持って夜逃げした。
齢八つにして丑丸はたった一人、無一文で残された——
※「今宵は遣らずの雨」 「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
新説・川中島『武田信玄』 ――甲山の猛虎・御旗盾無、御照覧あれ!――
黒鯛の刺身♪
歴史・時代
新羅三郎義光より数えて19代目の当主、武田信玄。
「御旗盾無、御照覧あれ!」
甲斐源氏の宗家、武田信玄の生涯の戦いの内で最も激しかった戦い【川中島】。
その第四回目の戦いが最も熾烈だったとされる。
「……いざ!出陣!」
孫子の旗を押し立てて、甲府を旅立つ信玄が見た景色とは一体!?
【注意】……沢山の方に読んでもらうため、人物名などを平易にしております。
あくまでも一つのお話としてお楽しみください。
☆風林火山(ふうりんかざん)は、甲斐の戦国大名・武田信玄の旗指物(軍旗)に記されたとされている「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」の通称である。
【ウィキペディアより】
表紙を秋の桜子様より頂戴しました。
返歌 ~酒井抱一(さかいほういつ)、その光芒~
四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】
江戸後期。姫路藩藩主の叔父、酒井抱一(さかいほういつ)は画に熱中していた。
憧れの尾形光琳(おがたこうりん)の風神雷神図屏風を目指し、それを越える画を描くために。
そこへ訪れた姫路藩重役・河合寸翁(かわいすんおう)は、抱一に、風神雷神図屏風が一橋家にあると告げた。
その屏風は、無感動な一橋家当主、徳川斉礼(とくがわなりのり)により、厄除け、魔除けとしてぞんざいに置かれている――と。
そして寸翁は、ある目論見のために、斉礼を感動させる画を描いて欲しいと抱一に依頼する。
抱一は、名画をぞんざいに扱う無感動な男を、感動させられるのか。
のちに江戸琳派の祖として名をはせる絵師――酒井抱一、その筆が走る!
【表紙画像】
「ぐったりにゃんこのホームページ」様より
トノサマニンジャ 外伝 『剣客 原口源左衛門』
原口源太郎
歴史・時代
御前試合で相手の腕を折った山本道場の師範代原口源左衛門は、浪人の身となり仕官の道を探して美濃の地へ流れてきた。資金は尽き、その地で仕官できなければ刀を捨てる覚悟であった。そこで源左衛門は不思議な感覚に出会う。影風流の使い手である源左衛門は人の気配に敏感であったが、近くに誰かがいて見られているはずなのに、それが何者なのか全くつかめないのである。そのような感覚は初めてであった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる