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第一話 須古銀次といふ者

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 その者は、爺のように白髪らしい。
 その者は、獣のように鋭い目をしているらしい。
 その者は、鬼のように笑わないらしい。
 その者は、拡声器を使っているように声が大きいらしい。
 その者は、巨人のように背が高いらしい。

 だから、その者は、白鬼と呼ばれている。




 けふ、須古銀次に會ひました。




 一九四四年。
 戦争。
 特別攻撃隊が現れる前のこと。
 日中の暑さが残る深夜。雲に邪魔をされ、月の光が地に届かず、寂しそうに顔を覗かせる。その下で、様々な虫や鳥達が楽しそうに鳴いていた。
 海軍の航空隊がある基地に、須古銀次すこぎんじという名の男が部屋にいた。
 小さな部屋は殺風景で物が少なく、最低限の机と椅子、そして棚があるくらいだ。窓から覗けば、戦闘機が眠る掩体壕えんたいごうが見えた。
 机に向かう須古すこの身なりは、汚れひとつない純白な軍服。詰め襟に、五つ釦、そして肩には桜が三つ並ぶ肩章。
 彼は、小刀で綺麗に削った鉛筆を紙の上で走らせる。時折「くだらんな」と漏らしながら、書類にひたすら鉛筆を走らせていた。
 耳を澄ませば、酒を飲み交わし、愉しそうに会話をする仲間の声が聴こえる。そんな中、騒がしい足音達が近づいてきた。
 木の床がみしみしと鳴り、またかと思いながら、須古すこは溜息を吐く。金属がぶつかり合う音も聴こえ、片眉を上げた。
 二人分の足音は、部屋のドアの前で消える。
 律儀にノックをする相手に、須古すこは「はい」と返事をした。
 ドアを開けた者は、カーキ色の軍服を着た二人組。きびきびとした動きで、脇を広げる陸軍式の敬礼をする。
「分隊長のにのまえ憲兵大尉だ。ここに〝二匹のネズミ〟が入ってきたはず。その二人を早々に引き渡してほしい」
 詳しい理由を言わず、更にその言葉遣いは須古を見下している。
 須古すこは片眉を寄せた。だが、彼は瞬き一つで不愉快な顔を消すと、一度立ち上がり、脇をしめた海軍式の敬礼を返した。
「〝ネズミ〟ですか。見ての通り、ここは古い基地ですから、ネズミなんて数え切れないくらいいますよ。それでは、まだ業務が残っているので失礼」
 そう言って、座り直す。
 二人組は白い布地に『憲兵』と書かれた赤字の憲兵腕章、腰元にはサーベルの軍刀を掲げている。
 ああ、やはり憲兵だったかと思っていると、にのまえは不愉快そうな表情を浮かべ、舌打ちをした。
「腑抜けたことを言う気か。ここにいるのはわかっている。さっさと引き渡せ!」
 声を荒げたところで、須古すこは再び立ち上がる。木製の椅子をゆっくりと引きずる音が、妙に耳にまとわりついた。
「どこへ行っても、憲兵という者は、偉そうな言葉でものを言うのだな」
 腰元にぶら下げた短刀に手を置き、ゆっくりと憲兵の前まで歩いた。
「突然やって来て引き渡せ? 一体、誰を?」
 その問いに、にのまえは間髪入れずに答えた。
彼杵そのぎ兵長と馬見うまみ上等兵だ! 我々に喧嘩をふっかけてきやがったのは軍法会議もの。ただちに引き渡せ!」
「引き渡せ引き渡せ煩いな。ったく」
 面倒臭そうに頭を乱暴に掻いていると、にのまえは「白髪か?」と呟いた。
 今更かよと、須古すこは呆れながら思う。「俺は須古すこ大尉だいいだ」
「ああ、須古すこ大尉たいい殿か。ふん。なにが白鬼か。ただの爺——」
「それは」
 ギラリと鋭利に輝く、須古の眼差し。それを見たにのまえは畏怖するように、口が止まる。
正義な正しいのか」
 薄い茶の瞳が金のように光っているように見え、更ににのまえは動揺した。
「それだけを聞けば、彼杵そのぎ馬見うまみが悪いことをしたように思えるが、その前にはなにがあった?」
 じりじりと近寄る。
「まさか、先に手を出したのは憲兵さんじゃあ、ありませんよね」
「道端で! け、敬礼をしなかった奴らが悪い!」
「謝ったんじゃないのですか?」
「それは……」
 言葉を濁す。答えられないということは、敬礼をしなかったことへの謝罪はきちんとしたのだ。それで済ませばよかったものの、血気盛んな軍人達は喧嘩をおっ始める。大体の流れが見えてきた。
 須古すこはニヤリと不気味に笑う。
までして謝ったにもかかわらず、不当な暴力。そこに、正義はあったのか?」
 刃のように鋭利な雰囲気に飲み込まれるように、にのまえは最初の勢いが消失し、怖気づいた。『正義』という言葉が頭の中にひっそりと植え付けられ、少しずつその存在が大きくなっていく。だが、それを掻き消すように頭を大きく振った。
「ど、土下座をしたことを知っているのなら——」
 吠えるにのまえに向かって、須古すこは威圧的に壁を叩く。
 身長の高い須古すこは、自然に憲兵達を見下ろす形になった。
「ここにいたとしても引き渡さない。こちらで処理する」
 ハッキリと耳の奥まで響く声。憲兵達は臆したように体を震わせた。ガチャリと軍刀が揺れる。
「お引き取り願おうか」
 海軍としての短剣には武器の意味は小さい。
 短剣には海軍としての誇りと栄誉が込められている。そして、彼にとっては、常に正しき道を選べと、上官から教えられた言葉が含まれている。
 威嚇とも捉えられる須古すこの態度に、憲兵達は屈辱に塗れた表情を浮かべて、その場から離れた。
 帰ってきた静寂に、須古すこは机に目をやる。そして、静かにドアを閉めて、机下を覗いた。
「あ! ——」
 机下に隠れていた二人が大きく口を開くものだから、須古すこはすぐに唇に立てた人差し指を添える。
「そろそろ時間だから、俺は出る。貴様らはそこで大人しくしてろ。
「爆弾が落ちるわけじゃないんですから」
 彼杵そのぎと書かれた男が小声で言い、笑う。だが、須古すこは首を横に振った。
言うんだ。命令だと思って、そうしてろ」
 須古すこは黒い腕時計で時間を確認する。
 そして、それ以上はなにも言わずに部屋を出て行った。
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