午時葵が咲き

蒼乃悠生

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第三章 歌見月

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 二週間ぶりに小秋ちゃんが帰ってからは、ご飯処『赤とんぼ』は活気に満ち溢れている。たった一人増えただけで、がらりと雰囲気は変わった。空気は軽くなり、太陽のように明るい。
 そして、わたしの方はと言うと、未だに変わらない。高島さんとの気まずさが。有朱さんにすっかり目をつけられており、ばったりと道端で会おうならば、なにもしていなくても睨まれてしまう。酷い時は舌打ちまでされる。正直、胃が痛い。だが、殴られないだけマシなのだろうか。
 今は、休憩時間。場所は、店の反対側にある庭。
 縁側に座り、裾を大胆に上げて、水を張った桶に足を突っ込んでいた。庭にある井戸から汲み取った水は、水道と違って非常に冷たい。夏場の水道水は、酷い時、蛇口を捻ると温い水が出てきたものだ。
 ここは風の通りが悪い。
 袖を捲り上げ、桔梗が描かれたうちわで、パタパタと扇ぐ。現実世界では日焼け止めを塗っていたが、この異世界にはそんな代物はない。肌は太陽の下に晒し放題で、団扇を扇ぐ手も、水に浸ける足もこんがりと焼けて、小麦色だ。
 夏本番で、座っているだけでも流れる汗が止まらない。

 ミーンミーンミーンミー

 名も知らない大きな木に、油蝉が止まっている。遠くにいる仲間と会話をするかのように、あちらこちらから蝉の鳴き声が飛び交っていた。
 その声を聴く度に夏だなぁと思い、次に暑いなぁと心底思う。
 梅雨の時期は、あんなに恋しかった青空。
 しかし、長い間、黒い雲で隠されていた分、今は大地を焦がすように照らす太陽は元気一杯だ。そんな暴れん坊将軍を、少しでも雲で隠して欲しいと誰もが願っているだろう。

(空、青いなぁ)

 暑さで体が重たい。全身に流れている汗が着物に染み込んで重たくなっているんじゃないかと思うぐらい、怠い。
 のどもよく乾く。こんな日は、冷たいかき氷やアイスクリームが食べれたらいいのに。
 祥子さんの話だと、かき氷なら他店に行けば食べられるそうだが、アイスクリームは簡単に食べられないようだ。もし冷たい甘味を食べたければ、現代に近い東部に行けば確実、とのこと。西部では大正や昭和に近い暮らしだから、このような時ばかりは現代っ子のわたしは東部が羨ましく感じる。

(着物は暑いから、ワンピースに着替えようかなぁ)

 と、考えた瞬間、祥子さんの怒る顔が脳裏によぎる。

(赤とんぼの良さは和! 仕事中はお着物で! とか、言いそう)

 祥子さんはいつも割烹着姿だしなぁ。小秋ちゃんもセーラー服に割烹着だしなぁ。もし仮にワンピースがオッケーだったとしても、ワンピースに割烹着は似合わない気がするしなぁ。黙々と考えていた。
 海のような青い空を、ぼんやりと眺める。

(あれから高島さん、お店に来ないなぁ)

 姿を見かけたことはあるが、会話はしていない。普段から有朱さんと一緒にいるからではあるが、極たまに一人でいる場面に遭遇しても、話しかける気になれなかった。どこかに有朱さんがいるのではないかと不安になる気持ちがある。もうあんなことになるのは嫌だ。
 不意に、耳を貫くような騒音が聞こえてきた。心臓を打つような音に、ぎょっと驚く。
 少し遅れるように、空色のキャンパスに鼠色の飛行機が視界に入る。私が知っている旅客機に比べるとかなり小さい。あんなに小さい物から大きい音が出ているのかと思うと、不思議な気持ちになった。
 その飛行機は増えていき、四機の飛行機が菱形の陣形を保ったまま飛んでいく。先頭の飛行機に続いていく三機は一糸乱れぬ動きを見せた。四機の飛行機が一つの生き物のように、くるりと回ったり、自由自在に機体を動かしていた。それはまるで大きな鳥のようだった。
 長時間、一機も乱れぬ飛行に感嘆の声を上げる。

「おお~。凄い」

 翼の先から、線状の白い雲を引いていく。飛ぶモノの軌跡を描いたその白い線は、交差し、そして貫くようにまっすぐに伸びる。

「飛行機雲だぁ」

 そしてその四機は、あっという間に視界から消えていった。

(高島さんもあんな風に空を飛んだりするのかな)

 そう思っていると、お店の方からドタバタと走ってくる足音が近づいてくる。かなり慌てている様子だ。

「ちせちゃん!」

 名前を叫びながら騒がしく登場して来たのは、

「祥子さん?」
「あいつが来たよ!」
「あいつ?」

 祥子さんは息を乱し、膝に手をつく。流れる汗を手の甲で拭いながら、苛立ちが隠せないのか、不愉快な表情を浮かべていた。
 そんな彼女が言う、抽象的な言葉では、誰が来たのか分からなかった。だが、彼女の物々しい雰囲気を見ると、予想はできる。
 きっとあの人だろう。しかし、今になって何故?
 その気持ちで、あいつと呼ぶ人物に確信が持てなかった。

「有朱だよ! 有朱!」

 なんですぐに分からんのん! とわたしの様子に焦ったく感じるようで、苛ついた声色だった。祥子さんは有朱がいるのであろう店内を指差し、腕をブンブンと振っていた。

「え……」

 やっぱり、という気持ちと、どうして、という気持ちが交差する。
 わたしは急いで店内に戻ると、そこには既に有朱さんの姿はなかった。代わりに、小秋ちゃんが蝋で封をした封筒を持っていた。
 小秋ちゃんは、わたしが来るや否や、お客さんから見えない場所まで部屋の奥に行き、その封筒を渡してくれた。その顔は少々疲れたと言わんばかりに、曇っていた。

「有朱さんからです」
「あ、ありがとう」

 宛先もなにも書いていない、真っ白な封筒。肌触りはわたしが知っているツルツルの紙ではんく、繊維がうっすらと見える和紙だった。裏を見ると、赤黒い封蝋がされていた。それに黒いススはなく、五枚の花弁を持つ花を刻印する。和である和紙、洋である封蝋。その手紙そのものが彼女自身を表すように思えた。
 封を開けると、その封蝋は砕ける。
 その中には、たった一枚の紙が入っていた。
 書かれていた文字は、彼女の容姿に反して英語ではなく、日本語だった。しかし、旧仮名や旧字体があり、一文を理解することに時間がかかる。その文章を見れば、わたしと同じ時代を生きた者ではないことが明らかだった。恐らく、わたしよりも古き時代を生きた人。
 一つ助かったことといえば、一文字一文字、丁寧に書かれていたことだ。少しも略字を使用していない。わたしの知らない略字は多いだろうから、もし多く使われていたら、なかなか解読できなかったかもしれない。

(あんなに乱暴な性格してるのに、綺麗な字を書くんだなぁ……)

 静かに黙読していると、背後からこっそりと見ていた祥子さんの顔色が変わっていく。そして、店内にはお客さんがいるにも関わらず、大きな声で叫んだ。

「はあ⁉︎ 藤次くんとけッ」

 あるキーワードを叫びかけた瞬間に、小秋ちゃんが背後から、祥子さんの大きな口をすかさず両手で覆う。それでも感情が高まった祥子さんはモガモガとなにかを叫んでいるようだった。離れているとはいえ、大声はお客さんに迷惑をかけてしまうので、小秋ちゃんは必死に口を押さえる。

「ちせさん。手紙にはなんと?」

 小秋ちゃんは暴れる祥子さんを押さえながら、心配する表情で聞いてきた。
 なんと答えるべきか。
 改めて書かれているその内容を見て、手紙を持つ指に力が入る。
 わたしは一呼吸吐いてから答えた。

「高島さんと……結婚するんだそうです」

 いざ、結婚と言おうとすると、声が震えた。
 封筒に入っていたのは結婚式の招待状ではなく、報告書のようなもの。これが本当のことかどうかは兎も角、わたしを動揺させるには充分な言葉だった。

「そうですか……」
「意味分かんないんですけど!」

 力が緩んだ隙に、祥子さんは小秋ちゃんから逃げる。

「祥子さん、落ち着いて。お客様がいらしてるから、叫ばないでください」

 小秋ちゃんは興奮している祥子さんを宥める。暴れ馬を相手にしているかのように「どうどう」と言っていた。

「馬じゃないしッ‼︎」
「ちせさん、どうするんですか?」
「どうするって言われても……」
「それでいいって言うわけ⁉︎」

 祥子さんはわたしの言葉に納得しない様子だった。
 それもその筈だ。高島さんと有朱さんが付き合っていないことは、彼の言葉で否定されている。それにも関わらず、突然の結婚宣言。これは高島さんが許諾した内容の筈がない。
 目の前に結婚という文字を目の前にしても、わたしはどうしたらいいのか分からないでいる。そんなわたしにモヤモヤして当然だろう。
 しかし、いろんな気持ちが絡み合って、どうすることが正解なのか分からない。

「だって……」
「このまま放っておきますか?」

 そう言う小秋ちゃんも、その目に怒りの色を映し出しており、わたしは困ったように口を閉じる。
 二人が言いたいことは充分に分かる。でも、わたしはなにもできない。どのように行動したらいいのかも分からない。なにが正解で、なにが不正解なのか。頭が混乱する。

「ちせちゃん! このまま有朱と藤次くんが結婚してもええの? 本当に藤次くんが遠くに行っちゃうんだよ?」

 ――嫌だ。嫌だ。
 でも――

「ちせちゃん‼︎」

 祥子さんの声がわたしを焦せらせる。名前を呼ばれる度に、頭の中が真っ白に塗り潰されていく。なにも考えられない。分からない。何一つ言葉が出てこない。

「祥子さんが落ち着いて!」

 その時、小秋ちゃんの声が聞こえた。
 同時に、我に返る。

「わたし、わたし、どうしたらいいのか……」

 後ずさりをするわたしの両手を小秋ちゃんが掴む。

「まずは高島大尉に確認しましょう。本当に結婚するのか。どう思っているのか」
「簡単に会える相手じゃないです……」

 普段、毎日姿を見るような人ではない。
 こちらから連絡を取って、約束をするなんて、軍人さん相手にハードルが高すぎる。有朱さんの目もあるし、どうしたら良いか分からない。

「それなら、こちらもお手紙を書きませんか?」
「手紙……?」
「いいじゃん! 手紙を書いたら、沖川大尉に渡して、それから藤次くんに渡して貰えばいいし!」

 祥子さんの目はキラキラと輝いていて、早くやろう! と言わんばかりにわたしを見ていた。

「気まずいのでしょう? 高島大尉と話すのは」

 わたしの心を見透かしているかのように、小秋ちゃんは続けた。

「今まで話したかった分も書けばいいじゃないですか」
「手紙はうちが用意するから! やってみ!」

 その時、お客さんの一人が「すみませーん!」と呼んだので、祥子さんは返事をしながら店内へ戻って行った。
 わたしは祥子さんの背中を見届けてから唸る。

「小秋ちゃん、有朱さんはなにか言ってませんでしたか?」
「いいえ、ただ手紙をちせさんに渡してほしいと」

 改めて手紙をまじまじと眺める。

「ここまでしてまで……わたしを追い払いたいのでしょうか」
「分かりません。ですが、有朱さんの一人芝居の可能性もあります」
「一人芝居?」

 小秋ちゃんは真剣な眼差しでわたしを見ていた。

「祥子さんから話を聞く限りでは、有朱さんは高島大尉に執着していて、独占したいんだと思います。ただ、祥子さんの主観での話なので全体の人物像が見えるわけではありません。だから、今回の件はきちんと確かめる必要が――」

 その時だった。

「その必要はないよ」

 懐かしい声が聞こえた。
 その声がした方へ顔を向けると、見慣れない白い軍服を着た高島さんがわたし達を見ていた。少し呼吸を乱しながら。
 その背後には、隠れるように柱から覗く祥子さん姿が見えた。その顔は、如何にも楽しそうにニヤニヤと笑っている。

「もう私は仕事に戻りますね。ちせさんは休憩の途中でしたから、また縁側に戻って、休憩してください」

 小秋ちゃんの機転により、自然に高島さんと二人きりになる。あたふたするわたしに笑顔を向けながら、右手をひらひらと振った。そして、わたし達を覗き見る祥子さんの背中を押しながら店内へ戻って行った。
 あっという間の出来事に、心も取り残される。ぽかんと口が開く。が、ハッと我に返り、高島さんと顔を見合わせた。
 これからどうしたらいいのか分からないでいると、高島さんは「行こう」と言う。そう言われてからやっと、縁側に向かい、そこで二人並んで座った。
 少しぎこちなく感じた。
 こうやって二人で話すのは、あの夜ぶりだ。
 高島さんは帽子をそっと床に置く。伍賀さんや沖川さんはよく白い軍服の格好をしているが、高島さんのこの姿は初めて見た。汚れ一つない、純白な色だ。
 そして、わたしが持っていた封筒を見て溜息を吐き、頭を片手でガシガシと乱暴に掻いた。

「それ、有朱から?」
「えっと、はい……」
「内容はやっぱり結婚の話?」
「……はい」

 高島さんの口から結婚という単語が耳に入った瞬間に、大きな刃で心臓を突かれたような痛みが走る。

「う、嘘、なんですよね?」

 口が震える。
 そうなんだ。そんな言葉は絶対に聞きたくなくて、怖くて、でも聞かないわけにはいかない。

「当たり前でしょ」

 高島さんの声色には怒りの色が混じっていた。

「九藤さん。俺が有朱と結婚するって、一瞬でも信じたの?」
「それは……」

 信じたと言うか、そうなんだと受け入れそうになった。
 しかし、そんな気持ちを言えるわけがない。歯切れ悪く、口ごもっていると、高島さんにとってそれは肯定したことになったようだった。

「こんな馬鹿げた手紙で?」

 高島さんの声が低い。
 ――とても怒ってる。

「ごめんなさい……あッ」

 すると、高島さんはわたしの手から手紙を奪い取り、ビリビリと縦に破いた。手紙を重ねては破り、何度も何度も小さな紙屑になるまで裂いた。そしてそれを縁側に置く。

「あの子とは結婚はしないし、これからもそんな予定はないよ」
「は、はい」
「それとも有朱と結婚して欲しかった?」

 心臓がドクンと鳴る。

「嫌です! 嫌ですよ……!」

 手紙と同じように身体も裂けてしまうような痛みが走った。思わず彼の服を握り締めた。白い軍服に黒いシワが入る。感情が高まって、目に涙が溜まった。
 眉を寄せていた高島さんの顔が、ふっと緩む。

「ごめん。意地悪だったね」

 久々に見た高島さんの笑顔に、勝手に涙が溢れた。

「意地悪なこと言わないでください」

 伍賀さんの言葉が頭の中に流れる。
 言いたいことは言わないと。今、言わないと、次があるか分からない。後悔しない。後悔させない。

「高島さんから、有朱さんと結婚とか聞きたくなかったです。嫌です。二度と言わないでください」
「どうして?」

 彼はやっぱり謝る気は無い。意地悪な人だ。

「それは」

 口にする言葉を頭の中に浮かんだ瞬間に、顔が朱色に染まる。まだ口にはしてないが、とても恥ずかしくて、顔が熱い。
 好きだから。
 何度も脳内でリハーサルを行う。が、口が開かない。
 高島さんは、不意にわたしの首元に触れた。
 ビクッと体を震わせていると、高島さんは首にかけていた御守りを出した。

「この御守りはね、俺が作ったんだ」
「え、え?」

 決して冗談で言っているわけではないことは目を見れば分かる。

「俺が貴女の為に作った御守りをあげたんだよ」
(それって、どういうこと?)

 御守りを見つめる彼の目は懐かしそうに細めていた。

「貴女がなにも覚えてないのは、これで二回目だからもう慣れっこだよ。この御守りを貴女が今も尚持っていてくれたことが、本当に嬉しかった」
「ちょっと待ってください。頭が追いついていかなくて、その……」
「貴女は、この混沌の国に来たことがあるんだよ」
「え……?」

 わたしがこの世界に来たのは初めてじゃない。でも、わたしの頭にそんな記憶がない。まるで繋木さんから言われた円さんの話を聞いているような気分だった。現実的に聞こえない、まるで他人事のような。

「ちせさんが初めて来た時は子供の頃。事故に遭ったんだって聞いたよ」
「事故……あ、小学生の時、わたしが飛び出して車に轢かれて……」

 この事故で怪我が酷く、入院していた。途中まで意識がなかったと母に聞いている。

「二回目は高校生の時。これは口に出さない方がいいよね」
「高校? ……ッ!」

 自暴自棄になって自殺未遂をした、あの日だ。確かあの時も意識がなくて、救急車に運ばれ、入院していた。その時も昏睡状態だったと。

(あれ)

 胸になにかが引っかかる。
 しかし、次の一言を聞いた途端、抱いた違和感を吹き飛ばされてしまった。

「俺は本当に、本当に貴女に会いたかったんだ……」

 高島さんは真っ直ぐにわたしを見た。その眼差しはとてもあたたかくて、やわらかい。
 その瞬間、冷たい風が駆け抜け、蝉達は一斉に鳴くのをやめた。
 不思議な空間が、更にわたしの頭の奥で小さな電流を走らせる。過去に抱いた感情が、言葉にすらならない記憶をじわりと刺激した。

 知ってる、この目は。この目を、ずっと、ずっと前から知っている――
 前に高島さんと会った記憶は、漫画のように都合よく思い出せない。なにも頭の中には浮かばない。真っ白なキャンパスのままだ。
 でも、この胸の奥から広がっていくぬくもりは知ってる。指の先まで優しいそれが行き渡っていくのが、懐かしいという気持ちを思い出させる。
 目頭の奥がツンと痛くなる。
 あなたの優しい笑顔がやっと見れた。
 頭の中で、そう言葉にすると、更に心がぽかぽかして、あたたかいそれは溢れ、そしてぽろぽろと零れる。
 わたしも、高島さんに会いたかった――

「どうしよう……そう言われて、凄く嬉しい」

 溢れる涙を両手で受け止めながら、ぐっしょりと濡れる顔を両手で覆った。
 すると、高島さんは目を細めた。

「やっとタメ口が無くなったね」
「約束、すっかり忘れてた」

 お互いに笑い合う。

「高島さん。もしかして、そのタメ口っていう言葉を教えたのはわたし?」
「そうだよ。あの頃のちせさんはずっとタメ口だったけどね」

 彼は懐かしそうに口元を綻ばせる。

「子供の頃はまだしも、高校生の時はなにもかも嫌になっていた時期だったから……」
「そうそう。手を出したりはしなかったけど、最初はなにを言っても睨んでくるし、手負いの猛獣を相手にしているようだったよ」

 とても可笑しそうに笑っていた。

「うぅ……」

 心が荒れていたとは言え、人に対してとる態度ではなかった。今だからこそ猛反省をしている。しかし、だからこそ今があるのだ。
 その時――
 有朱さんの叫び声が縁側まで聞こえてきた。

「高島ぁぁぁ! 高島ぁぁぁぁぁぁ‼︎」

 探している。彼女は高島さんを探しているんだ。
 店側が騒がしい。

「有朱……!」

 声の主の名前を呼んで、立ち上がろうとする高島さんの袖を思わず掴んでしまった。

「あ、ごめんなさい」

 名残惜しそうに袖を離すと、ふわっと高島さんがとても近くに来た。腕に収まっている間、高島さんの匂いが鼻をくすぐる。
 交わす言葉はなかった。
 ただ、お互いの体温を確かめるように抱きしめ、目を閉じる。
 それだけで充分だった。
 少しでも長く、このぬくもりを感じていたい。
 この気持ちを「時間が止まればいいのに」と言うのだろう。
 高島さんはわたしからそっと離れると、有朱さんがいるであろう店の方へ歩いて行った。
 わたしは、たった一人、取り残された。
 余韻が残る体。

(抱き締められてる時、すっごく満たされてた。これが幸せって言うのかな)

 今までに感じたことがない他人のぬくもり。

(繋木さんが言っていた、この世界から消えるには、わたしはこの幸せを満足するまで感じ続けることかもしれない)

 いつの間にか、再び流れている涙。

「涙って、あったかいんだなぁ」

 拭わずに、この涙を流し続けた。




    ■ ■ ■




 心を落ち着かせてから、わたしも店に戻ると、店内にお客さんはおらず臨時休業になっていた。
 まるで地震が起きたかのようにテーブルも椅子もぐちゃぐちゃになっている。その原因であろう有朱さんは、包丁を持って、店の真ん中に立っていた。
 わたしは有朱さんの目を見て、悪寒を感じた。そっと小秋ちゃんの隣に立ち、小声で尋ねる。

「これは一体……」

 小秋ちゃんも有朱さんを刺激しないように、わたしにしか聞こえない声量で答えてくれた。

「高島大尉が帰ってこないから暴れていたようです。どうせここで匿ってるんでしょ⁉︎ て」
「暴れてって……包丁持ってますよ」
「最初はただ暴れていただけなんですけど、わざわざ厨房まで来て、置いていた包丁を取られちゃいまして……」

 有朱さんの前には高島さんが立っていた。隙を見つけて包丁を取り上げるつもりだ。
 お客さんを逃したのだろう、引き戸の近くに立っている祥子さんは、時計を何度もチラチラと見ていた。こんな非常事態に、一体どうしたのだろう。

「有朱、包丁を渡しなさい」

 高島さんは普段と変わらぬ穏やかな声色で告げる。だが、有朱さんはガタガタと震える両手で包丁を握り締めたまま動かない。

「イヤ! どうして高島はアタシと一緒にいてくれないの⁉︎」

 ボロボロと涙を流している。

「ずっと一緒にはいられないよ」

 すると、有朱さんはギロッとわたしを睨んだ。

「アレがいなくなれば……」

 このパターンは……。
 そう思った時――

「こんにちはー」

 この場の空気をぶち壊すように引き戸が引かれる。
 入って来たのは、酒を持ってきた繋木さんだった。

「ん?」

 有朱さんと繋木さんの視線が交わる。なんという新鮮な組み合わせだ。

「なにこれ」

 彼はそう言って、無作法ではあるが、引き戸を足で閉めた。
 片腕しかないにも関わらず、三本もの日本酒や焼酎を持って、テーブルに置く。まるでこの場はなにも起きていないかのように普段通りの動きだ。
 ふと祥子さんを見ると、彼女は非常に嬉しそうな表情を浮かべていた。時計を気にしていたのは繋木さんが日本酒を持ってくる時間だったからのようだ。

「ちょ、ちょっと! アタシ、包丁を持ってるのよ? 動かないでよ!」

 無視されていることに気づき、慌てて有朱さんは口を開く。包丁を繋木さんに翳し、アピールするが、ガクガクと震える手によってあまり様になっていない気がする。
 一方、繋木さんは、いつもの調子で「はあ?」と睨みつけていた。軍医とは言え、軍人であることに変わりない。現代人では決して生み出せない、ピリッとした空気。そして、その眼光は非常に鋭く、研ぎ澄まされた刃のようだ。思わず萎縮してしまう。それは有朱さんも同じようだった。
 繋木さんは高島さんに呼び止められながらも、躊躇いもなく有朱さんの元に歩み寄る。

「近付かないで! 刺すからね⁉︎」

 ただキャンキャンと吠えているだけだと分かっている繋木さんは、鼻で笑う。

「どうせ刺されたって死なないんですから、どうでもいいですよ」

 前髪の間から見える眼光が更に輝きを増す。
 ハッタリが効かないと思った有朱さんは腰元に包丁を構え、走り出した――

「繋木さん!」

 思わずわたしは名前を叫んだ。

「でも」

 繋木さんは、猪のように真っ直ぐ突進してくる有朱さんを嘲笑うように余裕の笑顔を見せた。

「痛いのは嫌なので避けさせてもらいますよ」

 右足を後ろに引き、体を横にする。最低限の動きで、真っ直ぐに走る有朱さんを受け流す。目の前に来たところで、慣れた手つきで包丁を払い落とす。まるで水が流れるように動きが滑らかである。そして、その顔は余裕を表す笑みのまま。
 包丁は音を立てて落ちた。

「ふっ!」

 有朱さんは強い衝撃を受けて、苦痛に顔を歪めながら手首を押さえる。
 その隙に、繋木さんは落ちた包丁を足で蹴った。

「躾がなってませんねえ」
「繋木! やめろ‼︎」

 繋木さんが左足を軸にし、右足が僅かに上げる様子を見て、高島さんは叫ぶ。が、元より止める気がない彼は、高島さんの制止を聞く訳がない。
 それに気づいていない有朱さんは、歯を食いしばり、睨み返す。その彼女の腹部に向けて、繋木さんは愉快そうに笑いながら、右膝で蹴りを入れた。本当に容赦がない人だ。

「うぅッ‼︎」
「おや、痛いですか?」

 鈍い音がした腹を抱えて、その場で蹲る。咳を繰り返す有朱さんの口から、胃液が流れ落ちていた。
 繋木さんが蹴る瞬間、わたしは自分の目を覆った。暴力シーンは見ているだけで、心が痛い。
 蹲ったまま立ち上がれない有朱さんの様子を暫く観察した後、繋木さんは首を捻る。

「そんなに痛いんですか。やっぱり痛いですよねぇ、普通」

 有朱さんを見下ろしながら、尚も首を捻っていた。

「有朱! 大丈夫⁉︎」

 高島さんは蹲る有朱さんの傍に駆け寄る。
 すると、繋木さんは僅かに目を見開いた。

「嗚呼、君がアリス、ね」

 ニヤリと口角を釣り上げる。
 もう彼女に戦意がないと確信すると、彼は離れたところにある包丁を拾い上げた。そして、高島さんと有朱さんの元へ歩く。

「高島大尉殿、邪魔です」
「貴様、なにをするつもりなんだ!」
「なにって、予想、ついてるんでしょう?」

 不気味に笑う繋木さんに、高島さんはゾクッと体を震わせた。顔が青ざめる。
 そして、その包丁の矛先は有朱さんに――行かなかった。




「え?」




 繋木さんは彼らを通り過ぎる。
 落ち着いた足取りで、わたしの前まで来た。
 包丁を持って。
 来た。
 わたしを殺すつもりはなかったのでは?
 今になって気持ちが変わった?
 いろんな考えが頭の中にグルグルと駆け巡る。しかし、何一つしっくりくる答えは見つからない。

「腕」

 彼は言う。無表情で言う。
 ――腕を出してはダメだ。
 頭の中の住人が叫ぶ。見知らぬ人の声が、そう叫ぶ。

「首が嫌なら腕を出しなさい」

 なにも言わなくても、彼がなにをしたいのか分かる。
 だから、首は嫌に決まってる。たぶん、それは彼も分かっているから、一番初めに出た言葉が「腕」だったのだろう。
 どうしてこうなった?
 一層の事逃げてしまえばいい。しかし、彼の目を見ていると逃げることができなかった。金縛りにでもあったかのように動かない。

(こわい)

 繋木さんは静かに同じ言葉を繰り返す。すると催眠術にでもかかったかのように、わたしは抵抗することができずに、震える腕をそっと差し出した。

「繋木ッ」

 高島さんの声がした。

「やめてくれッ‼︎」

 高島さんの声が、した。




「あ」




 スパッと皮膚が裂かれる。

「ちせぇぇぇぇ‼」

 高島さんの叫び声が、わたしの意識をはっきりとさせる。
 血がどくどくと流れていく腕を、もう一方の手で押さえる。
 わたしは、違和感を抱いた。
 ポタポタと床に落ちる血を見ていると、なにかがおかしいと頭の中で警報が鳴る。

「……あれ、あまり痛く、ない」

 高島さんはとても慌てた様子で、小秋ちゃんが持ってきた白いタオルを奪い取り、わたしの腕に巻きつける。

「今、止血するから」

 タオルできつく締める。
 だが、やはり見た目ほど痛くない。タオルの触感はある。ただ痛みだけを忘れてきたような感覚だ。
 小秋ちゃんも傍についていてくれる。
 すると、繋木さんは包丁をテーブルに突き刺した。納得したと言わんばかりの表情で、口を開いた。

「前に貴女の首を絞めた時の違和感がはっきりしましたね、これで」
「違和感?」
「痛覚、人並みにありませんね」

 どういうこと?
 一体、わたしの体になにが起きているの。

「前まであった痛みや苦しみの感覚が消失しかけている。これがどういうことか教えていただけますか? 併せて、何故人を殺せると私に嘘をついたのか、その弁解もお願いします。祥子さん」

 視線が祥子さんに集まる。
 腕を組んでいた彼女は視線を泳がせていた。しかし、諦めがついたのか、口を開く。
 その瞬間、高島さんはなにかに気付き、目を見開いた。口を一文字に閉じ、動揺する色を表情に宿す。ぐっとわたしの腕を掴む手に力が入った。
「んっ」と声を漏らすわたしに、すぐに謝った。そこまで痛くはないとはいえ、傷口を押さえられると、針を刺したような小さな痛みがした。見た目と、実際の痛覚が異なるのを、改めて実感させられる。
 高島さんは暫くわたしの傷を見つめた後、改めて「ごめん」と言った。傍に倒れていた椅子を持ち、テーブルまで運ぶ。そして、静かに座る。その間に、なにかを諦めたかのように、目にも体にも力が入っていなかった。それが、祥子さんの話を聞きたくないように、わたしの目には見えた。
 明らかに、なにかを隠している。

「分かったよぉ」

 祥子さんはそう承諾し、深く息を吐く。
 スイッチを切り替えたかのように、彼女は表情を引き締め、ゆっくりと口を開いた。

「この世界に住むうちらも生前と同じように痛覚を持ってる。でも、例外が存在するんよ。それは――」

 わたしと目が合う。

「生存者だった場合。〝元の世界にいるその人〟が死に近い状態から生に近い状態に近づけば近づく程、〝ここに住むその人〟の感覚を失っていくみたい」

 その時、高島さんの顔色が急に悪くなった。額辺りで指を組み、顔を下に向けていた。
 視線を外さない祥子さん。
 二人の様子に、わたしは言葉にならないものが、胸に広がっていくのを感じた。不安とも違う。嬉しいとも違う。焦燥感、それも違う。

「今のちせちゃんは死者ではなく、生きてるみたいだね」

 ああ、やっぱり。
 だからといって、失望したわけではない。
 
「ちせちゃんと最初に会ったのは藤次くんだったよね?」

 高島さんは黙ったまま動かなかった。目も合わせようともしない。

「あっちの世界から引っ張ってきたんじゃない?」
(引っ張る?)

 話が見えてこない。

「藤次くん、そうなんやろ?」
「――たまたまだったんだ!」

 啖呵を切ったように高島さんは話し始めた。それでも誰とも目を合わせない。

「歩いていたら、偶然〝あちら側〟が見えた。どんな奇跡かは知らない。あちらの世界には女性がいた。何故かこちら側も向こう側も、同じ場所、同じ時間で鉄の棒が倒れてきたんだ……向こう側の世界にいる女性の頭に落ちてきそうだったから、思わず体を抱き寄せてしまった……」

 その女性って、やっぱりわたし?

「気づいたら女性はこっちの世界にいた」

 高島さんは前髪を搔き上げる仕草をして、顔を覆った。顔を見られたくないかのように。

「まさか、その人が九藤さんだとは思わなかったよ」
「そんな偶然があるとは思いませんが」

 繋木さんが祥子さんをキッと睨みつけている。

「その偶然……いや、必然を引き起こしたのは、うちだよ」
「祥子さん?」

 わたしは思わず祥子さんに視線を向けた。まさか関わっているとは思わなかった。それは高島さんもそう思っていたようで、彼も見ていた。

「そうそう。嘘をついた弁解をしとくね。初めてうちが智くんに会った日、生きる気力がなかったでしょ。なにを言っても、『もういい』だの『死なせてくれ』だの『私と関わるな』だの、子供みたいに駄々こねてさ」
「……私に生きる価値があるとでも?」
「価値があるかどうかは自分で決めるもんじゃないよ」
「だからって、他人にその価値を決められて、生きるのも真っ平ごめんですよ。価値があるから生かされるなんてね!」

 死ぬ勇気も、裁かれる勇気もなかった私が言うことでもありませんが。
 繋木さんはそう付け足した。彼の脳裏には、きっと生前の円さんの実験のことが思い浮かんでいるのだろう。苦しむ表情で、今にも泣きだしそうだった。

「でも、生きてほしかったんだよ。だから、うちが嘘をついてでも、立ち上がって欲しかった」

 訴えかけるように、祥子さんは繋木さんに歩み寄り、手を取った。しかし、彼はそれをすぐに払いのける。

 心に響かない、薄っぺらい言葉を並べて馬鹿馬鹿しい。
 嘲笑いながら、そう言った彼は、まるで悪魔のようにニヤアと笑った。

「それは――」

 繋木さんは不敵に笑い、言葉を続けた。

「不消滅な存在を、これ以上増やしたくなかったからですか? 厄介ですもんね」
「――ッ! ちが、違うよ!」

 不消滅な存在とはなんだろう。
 それにしても、あんなに慌てた祥子さんを見るのは初めてだ。
 今までなんだかんだいって、余裕があるように見えたから。むしろ、思い返せば、それらは全て演技のように見えてくる。

「円さんに殺してもらうことは無理だった。でも約束したからには、なんとかしないとって。だから、代わりに生まれ変わりのちせちゃんを探し出して、偶然二回もこの世界に来た時、やるしかないと思った。……大きくなったちせちゃんに……御守りを……」

 彼女は、口ごもっていく。

「その御守りって、高島さんからもらった、これ、ですか?」

 わたしは御守りを祥子さんに見せた。

「そうだよ」
「祥子! そんな話は聞いてないッ」
「消失した人の遺品を残すことも、他人に身につけさせるのも、暗黙のルールで禁止されていますからね。特に、生前の遺品はもってのほか」

 繋木さんは話に割って入る。

「お前が渡したあの生地は、誰の物なんだ⁉︎ この世界で作られた物じゃなかったのか⁉︎」

 恐らく、その生地とは御守りのことだろう。高島さんが作ったと言っていたから。

「あれは円さんが持っていた日本人形の着物だよ。ごめんね、騙して」
「生前、子供に見立てて持っていた、なによりも大事にしていた人形です」

 繋木さんの瞼の裏には、子供のように日本人形を抱いた円さんの姿が映っているのだろうか。
 落ち着いている繋木さんとは裏腹に、高島さんは握り拳を作り、沸き上がる怒りを抑え込んでいる様子だった。

「俺はなにも知らずに、祥子に言われた通り御守りを作ったわけか……」
「でも、藤次くんも良かったんじゃない? また会えて」

 その言葉を聞いて、感情が高ぶらせるが、歯を食いしばり、すぐに落ち着かせていた。反論できないようだった。
 その伏し目がちな眼差しでわたしを見ていた。
 それに気づいたわたしは、そっと微笑んだ。

「わたしは高島さんに会えて良かったですよ」

 この言葉を聞いて、一瞬目が潤んだように見えた。

「ねえ、九藤さん」
「は、はい」

 急に繋木さんに話しかけられてあたふたする。

「この話は置いとくとして。貴女にとって重要なことがポロっと出てましたけど、良いんですか?」

 そう言われて、ピリッと気が張り詰める。

「生きてるって話」
「……はい」

 あまりその話はしたくなかったのに。このまま話が流れてしまえばいいと思っていた。

「感覚を失いつつあるんなら、時間の問題でしょう。ね? 祥子さん」

 繋木さんの言葉を聞いて、床に座り込んでいた有朱さんは顔を上げていた。

「うん。そんなに遠くないと思う。そもそも、ちせちゃんのお陰でこんな例外があるんだって知ったぐらいだから、ハッキリと分からんけど」
「消える為にどうしたらいいか考えなくて済みましたね」

 そう言って、繋木さんはニヤッと笑うが、わたしは上手く笑えなかった。
 生きてる。
 それがどういう意味か。よく分かっていた。
 あの世界に戻る。
 あの会社に戻る。
 あの専務に会う。
 また恐怖に縛られる毎日を送ることになる。
 会社を辞めようにも、最低一ヶ月は仕事をしなければならない。そもそも本当に会社を辞めさせてもらえるかも甚だ疑問だ。
 怖い。帰るのが怖い。

「大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」

 今までずっと静かに見守っていた小秋ちゃんが、わたしの顔を覗き込む。

「帰りたくない……」
「どうしてです?」
「帰ったら、また……あの辛い日々が始まる……今度こそ専務に殺されちゃう……! 怖いよ」

 その場に座り込み、体を小さく丸め、両腕で体を抱きしめる。
 すると、繋木さんが淡々と言う。

「もう怖くないですよ」
「あなたになにが分かるんですか!」

 怒りに任せて叫んだ。
 それが意外だと言わんばかりに、繋木さんは少し目を点のようにして私を見下ろしていた。

「私に殺されかけたじゃないですか。首絞められたり、斬り付けられたり」

 愉快そうに笑う。

「貴女にとって〝私〟以上に怖いものってあるんです?」
「それは……」

 なんだか分からなくなってきた。
 怖いと感じていたのは確かにわたし自身。でも、最初からわたしと繋木さんになにかがあったわけじゃない。やっぱり円さんの一部分がわたしの中にあるのだろう。
 確かなのは、わたしにとって繋木さんは恐怖そのものであり、象徴である。

「貴女にとって恐怖の対象者は私なのですから、元の世界にいる専務とやらに会っても、どうってことないですよ」

 よく自分で言えるなぁと、逆に感心してしまう。こんなに他人から恐れられていて、悲しくなったりしないのだろうか。
 でも、なんだかその本人である繋木さんに言われると、専務のことはどうにかなるかもしれないと思うようになってきた。殺されそうになる前に行動すればいいのだ。やるべきことは分かってる。だから、行動する勇気があればいい。
 いつの間にか、強張っていた体に力が抜けている。
 そんな背中に小秋ちゃんがぽんぽんと優しく叩いてくれた。

「大丈夫。ここで培った経験は、きっとちせさんの力になってます。だから怖がらないで」

 首に掛けていた御守りと香り袋に手で包み込んで、

「みんなが護ってくれますから」

 にっこりと笑いかけてくれた。
 そんな小秋ちゃんを見ていると、自然に顔が綻ぶ。
 穏やかな空気が流れる中、それを壊すかのように有朱さんが立ち上がった。そして、高島さんの元へ歩み寄る。

「高島、帰ろ」

 落ち着きを取り戻した有朱さんは、静かにそう言った。今までの行動が嘘のようだ。
 有朱さんに促されて帰ると思っていた。
 立ち上がった高島さんは口を開く。

「ごめん。今日は少し九藤さんと話をさせてほしい」

 しんみりとした声色だった。
 それを聞いた有朱さんは驚いたかのように目を見開き、必死そうに高島さんの袖を引っ張る。

「お願い! 帰ろうヨ! ダメだヨ! お願いだからアタシと帰って‼︎」
「どうしてそこまで……」 
「ネギ女と一緒にいないで……アタシの傍にいて。お願い」

 ぎゅっと袖を握り締める。
 有朱さんは何度もそう言った。
 わたしは黙って二人のやり取りを見ていた。
 そんな風に言わないで。
 わたし、なにも悪いことなんかしてないのに。高島さんと話ぐらいさせてよ。
 思わず口に出しそうになるのを、辛うじて飲み込む。あまりにも必至に頼み込む有朱さんを見ていたら、まるでわたしが悪者になったような気分がした。だから自分の本当の気持ちを口にするのを躊躇った。
 有朱さんはそんなにわたし達を引き離したいのか。そこまで高島さんのことが好きなのか。

「高島、高島」

 返事がない。有朱さんは名前を繰り返し呼んだ。

「…………」
「高島、お願い。お願いだから」
「ごめん」

 たった一言。
 有朱さんは眉を寄せ、目から大粒の涙を流し続ける。例え叶わないと分かっていても、彼女は是と言わない。
 様子を伺っていた祥子さんが有朱さんの背後に立った。

「もう、無理だよ」

 その一言を聞いて、有朱さんは絶望に落ちたかのようにしゃがみ込んだ。彼女はわたしを見た。その目はまだ力強い。
 そこまで高島さんを想う気持ちの強さに揺らぎそうになる。でも、わたしはわたしに嘘をつけないから。どれだけこの気持ちを否定しても、気持ちの強い分辛くなって、彼を追いかけたくなる。

「高島、アタシのことは嫌いでいい。嫌いでいいから、ネギ女の傍にだけはいないで」

 小さな声で呟く言葉を聞いてしまった。


『約束、守りたいから』


 有朱さんが守りたい約束。
 その約束の為に彼女はここまで高島さんを引き止めたいのか。嫌われてもいいと思うほど。

「どうしてそこまで九藤さんにこだわるんだい?」

 その問いに、有朱さんは首を横に振って答える。

「九藤さんは有朱に悪いことはしていないはずだよ。目の敵のように接さなくてもいいんじゃないかい?九藤さんは良い人だよ」

 有朱さんの目に一瞬激情の色が垣間見えた。しかし、すぐに湧き上がる感情を薙ぎ払うかのように首を横に振る。目をぎゅっと閉じ、口を開こうとしない。
 傍にいるだけで、罪になるのだろうか。

(わたしに幸せになる権利がないのかな)

 わたしが幸せになることで誰かが不幸になるのだろうか。

(わたしはそこまで呪われている存在?)

 なんだか目の前が暗くなっていく気分だ。

「ちせさん?」

 小秋ちゃんがわたしの腕を握り締めながら呼んだ。切られた腕の止血がまだできていないのか、タオルが赤くなっている。

「大丈夫ですよ」
「……」
「今日はもうお二人には帰ってもらいましょう」
「でも」
「頭を冷やしてから、また話をすればいいではないですか」

 それに続くように、祥子さんも口を開く。

「そうだね。藤次くん、有朱を連れて帰ってくれる?」
「……迷惑をかけた」

 高島さんは間を置いて、立ち上がる。有朱さんの手を握って歩き出した。

「いいよ。厄介ごとは、この国では日常茶飯事だし」
「悪い」

 店を出て行ってしまう。
 どうして、有朱さんの手を取るの。わたしじゃダメなの。

「高島さん……」

 わたしの声は高島さんの耳には入らなかった。
 膝から崩れ落ちる。
 やはり、わたしは言いたいことも言えない、弱い人間だ。情けない大人だ。わたしは、本当にどうしようもない。

「高島さん……」

 有朱さんがわたしを一瞥していたことに、全く気づかなかった。




   ■ ■ ■




 陽が沈み始め、蒼い空に朱色の光の粒が混ざり合う。夕陽の近くで漂う雲は太陽に照らされて黄色とオレンジ色に染まり、雲は陰りだす、黄昏時。
 空も、街も、わたしも、朱い。
 肌を刺すような暑さが少しずつ和らいでいく。
 ひんやりと肌に触る空気が漂い始めると共に、蜩が鳴く。遠くで鳴いているもの、近くで鳴いているもの、お互いを確かめ合うように、薄暗い中を鳴く。
 蜩の鳴き声を聴くと郷愁(きょうしゅう)にかられるのは、何故だろう。胸がぎゅっと締め付けるような感覚に襲われた。

 わたしは祥子さんのお遣いで寺に行った。
 寺に行く前に伍賀さんのお手製の小箱を貰い、それを住職さんに渡すと、風呂敷に包まれた小箱を持たされた。住職さんはそれを祥子さんに渡してほしいと言って、更にトマトやきゅうりが入った風呂敷も持たせた。寺で育てた夏野菜を、店に出してほしい、と。
 今、それらを持って帰る途中だ。

 結局、有朱さんと高島さんが店を出て行ってから、そのまま店は休みになった。それならばと、祥子さんはわたしを気遣って、おつかいを名目に外に出したようだ。
 ――いや、単純にわたしと会いたくないだけだろう。
 繋木さんの為とはいえ、高島さんを騙し、わたしを利用しようとしていたのだから。いつか必ず発覚する嘘だと分かっていても。
 気まずくないわけがなかった。

 道を行き交う人々。
 たまに見知った顔を見る。軽く会釈をして足を進める。
 歩き慣れた道。
 着慣れた着物。
 履き慣れた履物。

 こんなにも現実離れした世界に慣れてきたというのに、わたしはどうやらまだ生きているそうだ。
 よって、この世界とサヨナラをする日が来る。
 仕事をすれば、あっという間に時間が過ぎ去っていた。でも、こうやって外を歩けば、時間の流れが遅く感じる。このギャップがたまらなく心地良い。時間と共にわたしも歩いているような、そんな満足感が心を落ち着かせてくれた。
 しかし、元の世界に戻れば、こんな風に穏やかな心で外を歩くことはない。空を見たり、蜩の声に耳を傾ける余裕はない。

(やっぱり帰りたくない。みんなとさよならなんて嫌)

 この気持ち。どこかで感じたことがある。でも、それ以上のことをなかなか思い出せない。
 でも、みんなと離れたくなくて、約束をしたことは少しだけ思い出した。


『◼︎◼︎が思い出せなくても、どれだけ離れても、どれだけ時間が経っても覚えてるから』


『◼︎◼︎のこと、絶対に守ります』


 誰だっけ。
 思い出せないなぁ。
 ある家の前を通ると、微かに鼻をくすぐるのは線香の匂い。誰かが誰かの為に手を合わせているのだろうか。
 歩みを止めずに進めて行くと、後ろから僅かに聴こえるお鈴を叩く音。高い音が悲しげに聴こえる。恐らく、線香の匂いがした家からだろう。
 元の世界である現代に帰ってから、改めてそれらに気付くだろうか。

(どうしても帰らなきゃ駄目なのかな)

 蜩が鳴く。

(どうせ帰らなきゃいけないんなら、帰る前に、もう一度)

 自然に歩みが止まる。

(一目だけでも。いや、一言言いたい)

 藍色の風呂敷を握り締めた。

(会いたい)

 息を吸い、

(会いたい)

 息を吐く。

「高島さん」

 口にしたら、会える気がした。
 でも、それだけでは会えるわけがない。
 わたしに、

(勇気を、ください)

 わたしは、走りだした。


 一旦店に寄り、風呂敷を小秋ちゃんに渡して、すぐに出た。

 走る。

 今度はわたしが会いに行く。
 いつも高島さんから来てくれた。
 だから、今度はわたしから会いに行く。
 着いた場所は、西部第二基地の手前にある、堀。一般人はこの堀より先には行けない。奥を覗くと、あちらこちらに軍人が歩いていて、突撃も憚れそうだ。

 息が上がっている。膝に両手をつき、息を整える。
 額から流れる汗がぽたぽたと落ちて、大地を濡らす。
 全身が熱い。
 できるだけ近くから中を覗こうと足を踏み出した時、体がぐらりと揺れた。足に力が入らなかった。

「いッ……痛くない」

 転げた拍子に擦りむいた手。皮は向け、血が垂れる。
 反射的に痛いと言いそうになったが、痛覚はない。
 すぐに立ち上がり、砂で汚れた着物を手で払って綺麗にした。気分を入れ替える。

 あっちへウロウロ。
 こっちへウロウロ。
 側から見るとどれだけ不審者か、自覚はしている。
 でも、ここで諦めたら勇気を出した意味がなくなってしまう。それは絶対に嫌だ。
 すると、近くにいた軍人さんが近寄って来た。その瞬間、緊張が全身を駆け抜け、心臓もドキッと鳴る。

「どうされました?」

 またドキッと心臓が鳴る。
 悪いことはしていない。だが、まるで悪いことをしているような気持ちになって慌ててしまう。が、深呼吸を繰り返し、心を落ち着かせる。

「あ、あの。わたし、九藤ちせと申します。高島さん……高島大尉はおられませんか?」

 ビクビクと震えるわたしを見て、その人は口元を緩める。

「取って食いやしませんから、落ち着いてください」
「す、すみません」

 その声色は優しい。

「九藤さんですね。高島大尉から少し話を伺ってます。確認して参りますので、少々お待ちください」
「はい! ありがとうございます!」

 わたしは腰を九十度に曲げる。
 そして、顔を上げた時に、ふと気付く。

(もう夜だ)

 一番星が輝いている。紺色のカーテンが広がっていくように、夜はそこまで来ていた。

(行き先を言わずにお店出ちゃったの、まずかったなぁ)

 慌てていたからでは、理由にならないだろう。きっと店に帰ったら、祥子さんは怒っているに違いない。
 気付けば、蜩は鳴いていなかった。静かな空間が漂う。
 街灯は少なく、ぽつぽつとあっちこっちで街灯の灯りがついていく。

(綺麗……)

 光が灯される度に、人の生活を、人の生きる姿を垣間見ている気がする。
 基地を背に、その儚げな風景を見ていると、わたしの方に近づいてくる足音が聞こえた。

「ちせさん!」

 振り返ると、走ってくる高島さんの姿。よく見かける航空服の格好で。

「高島さん……」

 いつも彼は走って来てくれる。
 そして、いつもわたしの所に着くと、乱れた呼吸を整えて、微笑んでくれる。
 いつも、彼は必死になって走ってきてくれたんだ。今までどうして気づけなかったんだろう。

「どうしたの、急に。また有朱が迷惑かけた? いや……今までにもう十二分に迷惑かけてるけど」
「会いたくなったから」
「え?」

 彼は驚いた顔をしていた。
 だから、わたしは笑った。

「会いたくなったから、会いに来ちゃった」
「いやいやいやいや。もう暗くなるから危ないよ。夜道は」

 わたしは彼の手を握る。

「いつ消えちゃうか、分からないから」

 そう言って笑ってみせると、彼は切ない顔をして、言葉を失っていた。

「だから…………会いに来ちゃいました」
「ちせさん……」
「少し、お時間を貰っても大丈夫ですか?」

 ほんの僅かに握る手に力が入る。
 しかし、彼は首を横に振った。

「ごめん。今はちょっと」

 やっぱり上手くいかないなぁ。

「すみませんでした。急では無理ですよね。考えたら分かることなのに」

 すると、今度は彼にぎゅっと握り返された。

「御守り、まだ持ってますか?」
「あ、ありますけど」

 わたしは首に掛けていた御守りを彼に渡す。
 すると、彼はポケットから小さく折り畳まれた紙を取り出した。御守りにその紙を入れる。そして、それをわたしの首に掛けてくれた。

「時が来たら、読んで」

 続けて言った。

「この世界から別れる時は、この御守りをどうか捨ててほしい」

 この世界から去る時ってこと?
 それとも、この世界に二度と来ないと決心した時?
 返答に迷っていると、 

「本来、この国は貴女みたいな人が来ては駄目だ。でも、貴女にとって、この国が心の支えになっているならば、この国の縁を断ち切るのは酷かもしれない……」

 本来、これは円さんの遺品からできた御守り。これを持つことは、この世界と因縁を持つことになる。持つこと自体、タブーだ。

「よく考えて決めるんだよ。もし貴女がこれを捨てたりしても、俺は恨んだりしないから」

 彼は寂しそうに笑った。

「その御守りがなくなったとしても」

 真っ直ぐにわたしの目を見た。

「俺は貴女を想い、見守り続ける」

 心臓が高鳴る。

「でも、俺は死者だから、生きている貴女に手を差し伸べることはできない」

 目が離せない。

「だから、俺のことは想わず、良い人を見つけてください」

 あなたの言葉を聞いて、心の何処かにヒビが入る音がした。

「綺麗で、繊細な貴女を守ってくれる、良い男性を」

 そんな言葉が聞きたかったわけじゃないのに。
 ぽろぽろと、涙が溜まっては落ちていく。

「貴女はいつも泣いている」
「……」
「今の貴女と初めて会った日も泣いていたね」
「……高島さんに鉄の棒から守ってくれた日ですか?」
「うん。貴女の涙を今は拭ってあげられるけど」

 そう言いながら、彼は大きな親指で涙を拭う。あたたかい、手。

「これからはきっと拭ってやれない。貴女が泣いてしまった時、涙を拭いてくれる人が必要だよ」

 何度も何度も、彼は拭ってくれた。忘れないように。

「わたしは……高島さんがいいです」
「無理だよ」
「わたしは高島さんがいいんです!」
「ごめん」

 どれだけ自分の気持ちを吐き出しても、決して彼には届かない。どうしてわたしは生きているんだろうと、思ってしまうほど。

「ちせさん。生きている事を後悔してはいけないよ」

 まるでわたしの心を見透かしているようだった。

「だって、わたしも高島さんと同じように歩きたいです」
「死は否応が無しに、皆、平等にやってくる。死が来るまで、今ある命を大切に生きてほしい」
「嫌です」
「駄目だよ」

 彼の怒りを含んだ目つきに怯んでしまう。思わず感情を処理きれずに、下唇を噛んだ。やはり我慢するしかないのだろうか。我慢なんて、できないのに。

「俺の分まで、生きてくれ」
「そんな……」

 卑怯だ。
 彼もまた、繋木さんやニノ中佐のように戦争を生きた人なのだろう。ただ、詳しい話をしたことがないから、ハッキリとは分からない。
 少なくても、私が小学生の時には、高島さんはこの世界に来ていた。もしかしたら、戦争を生き抜いた上で、ここに来たのかもしれない。でも、それならばきっと『俺の分まで、生きてくれ』という言葉に重みは感じないだろう。

「俺は、誰かを想う時間すら与えられずにここに来てしまったから、こんな言葉を口に出す日が来るなんて思わなかったよ」

 恥ずかしいものだね。
 そう言って、照れ臭そうに笑う。
 重たい。高島さんが吐く言葉が酷く重たくて、わたしが潰れてしまいそうになる。
 だからこそ、そんなことを言われたら、嫌だなんて答えられない。国を守る為に、戦って、若くして亡くなる人が多かった時代。そんな時代を生きたのだろう彼が、その言葉を使うなんて。
 やっぱり、卑怯だ。

「楽しいこと、悲しいこと、嬉しいこと、腹ただしいこと、幸せなこと……俺が存分に味わえなかったことを一つ一つ教えてくれ」
「それはあなたと一緒に感じたら駄目なんですか……」
「生きた時代が……俺達はたまたま違っていたからね」

 たまたまで終わらせたくない。

「今! 今、同じ時間にいるじゃないですか。ここで呼吸して、ここで立ってる。触れられる!」

 わたしは、彼の言葉を意地でも肯定したくなかった。

「それは錯覚なんだよ。死者と生者が同じ世界にいられない」

 違う。

「錯覚じゃないよ! ちゃんといるじゃない! 目の前に! この目に映ってる‼︎ 声だって聞こえる! 紛い物なんかじゃない! これは現実だよ‼︎」

 わたしの中にある枷が外された感覚がした。抑えていた感情が、そして言葉が溢れてくる。
 彼に思い切り抱きついた。恥ずかしげもなく、わたしの想いが行動に繋がる。

「わたし、温かいでしょ? ちゃんと心臓だって動いてるよ? 高島さんの体もあったかいし、心臓の音も聞こえる。高島さんの匂い、も――」

 あの優しい匂いが、しない。
 全く分からない。
 涙が止まらない。
 わたしに残された時間が僅かだということを自覚させられる。
 感覚が一つ一つ消えていく。この世界にいる限り、もう二度と戻らない。

(時間が、ない)

 焦りで指先が震えた。

「嫌……嫌。絶対に嫌」

 ぬくもりを確かめるように、ぎゅっと抱きつく。離れたくない。忘れたくない。ずっと、これからもこのぬくもりを感じていたい。全身で。心で。

「ありがとう」

 〝こんな自分〟を求めてくれて、ありがとう。
 そう呟いて、抱きめてくれる。優しく、そして力強く。

「す、き」

 彼の胸元に顔を埋める。吐いた言葉が、恥ずかしかったから。

「ん?」

 彼は意地悪をする少年のような顔をしていた。聞こえているくせに、聞こえなかったフリをする。
 わたしは、顔を彼の胸元に押し付ける。

「好き」
「聞こえないなぁ。こっち見てよ」

 顔が熱い。
 でも、わたしは彼を見上げた。
 嬉しそうに笑う顔が目に映る。

「と、うじさん、好き」
「んー?」
「んん! 藤次さんが好き! 好き! 好きだよ! もう恥ずかしいから言わない!」

 彼は、幸せそうに笑った。
 そして、なにかを言いかけて、やめた。
 腰と首の後ろに手を回され、わたしはされるがままだった。
 鉄の丸棒が落ちてきた事故と同じように、安心感がわたしの心を占める。太くて逞しい腕。そして、包み込む、大きな体。彼は、確かにここにいる。
 マシュマロのように柔らかい唇が重なる。
 初めての、キスだった。
 その瞬間、雫のようなものが落ちる音がした――


「え」


 藤次さんの体が、ぐにゃりと形が変わる。
 水となり、それは音を立てて消えた。
 一瞬だった。
 なにも、言えなかった。

「ぁ」

 藤次さんが、消えた――目の前で。

「ああああ」

 バケツをひっくり返したかのような音を立てて、なにも、無くなった。

「嫌あああああああああああああああああああああああああああ‼︎‼︎‼︎」

 その場に座り込み、藤次さんが先程までいた場所を指でなぞる。
 濡れた地面。
 水溜まりができていた。
 これが藤次さん?
 この水が?

「嘘! 嘘! 嘘だぁぁあああ‼︎ 藤次さぁぁぁん‼︎」

 訳が分からないまま、わたしはその地面を掘る。掘ってもなにも出てこないのに。触れずにはいられなかった。その大地に、その水に。藤次さんだったモノに。

「嫌ぁぁぁぁ……いやぁ……」

 何度も、指先が小石に当たる。
 痛みが分からない。
 踏み固められて硬い地面を指先で掘る。繰り返し掘る。爪は欠け、剥がれる。指先は、皮がむけて血で染める。それでも、痛みは感じない。

「どこ、藤次さん、どこ、お願い、出てきて、お願い、出てきて……」

 窪みから穴へ。
 わたしは掘り続けた。

「九藤さん」

 初めて、人の気配に気付く。
 基地の敷地内に、伍賀さんが立っていた。
 空には、月が上っていた。見たことがない、大きな月が。
 わたしは返事ができなかった。
 立つこともできなかった。
 でも、伍賀さんはなにも言わずに、悲しい表情をしていた。

「高島隊長のお墓、作ってあげようね」

 ずっとわたし達の様子を見ていたんだと思う。
 伍賀さんの一言で、藤次さんがもうどこを探してもいないということを知った。

「おはか……お墓?」

 呟けば呟くほど、この言葉が胸を締め付ける。そのまま心臓を握り潰してほしいと願うほど、心は涙色に染まっていた。言葉の意味を理解するほど、哀しみが広がっていく。
 伍賀さんが、わたしのすぐ横に膝を曲げ、わたしを立たせようとする。
 でも、足に力が入らない。

「九藤さん、立とう?」

 力を入れられない。

「しっかりして」

 何故、しっかりしなければいけないの。

「九藤さん……」

 力無いわたしの目を見て、伍賀さんは苦しそうな顔をした。

「消えるのは、先に消えるのは、わたしじゃないの? どうして? なんで? なんで藤次さんが先に消えちゃうの……? たった一瞬で……全部無くなっちゃった……」

 伍賀さんは口を開きかけたが、すぐに閉じる。

「どこにも、いない……」

 この世界のどこを探しても。
 月は上っていく。
 雲は流れていく。
 大切な人が亡くなってしまったのに、世界は何事もなかったかのように回る。
 この気持ち、わたしは知っている。

「お兄ちゃん……お父さん……」

 大好きな人ほど居なくなっていく。

「藤次さん……」

 いくら呼んでも、誰一人振り返ってはくれない。
 顔が見られるのは、全て瞼の裏側だけ。

「九藤さん、お店に帰ろう」
「帰りたくない。ずっとここにいる‼︎ 藤次さんがここにいるから! わたしもここにいるの‼︎」
「いない! 高島はここにはいない! もう、いないんだよ、ちせ……」

 伍賀さんはわたしの体を支える。そして半狂乱になるわたしを抱き締めた。小さな子供をあやすように、優しく頭を撫でながら。

 どれだけの時間が経ったのか分からない程、泣いた。頭がぼうっとする。目が、うまく閉じられない。声も掠れて、自分の声がどんなものだったのかさえ、忘れた。体が重い。疲れた。
 泣き疲れたはずなのに、伍賀さんの手は子供の頃に戻ったかのような懐かしい感覚がして、涙がまた溢れる。心も体も疲れ切って、表情を作れない。人形のように顔の皮膚は動かないまま、涙だけを流す。

「嘘だよ、ここにいるもん。見えないだけで、ちゃんといるもん」

 わたしは子供のような口調で、駄々をこねる。

「ちせ、お別れができて、よかったね」
「よくない、よくないもん。全然よくないもん」
「みんながみんな、お別れができる訳じゃないんだよ。お別れをするのは辛いことだけど、お別れができずに離れ離れになるのは、もっと辛いんだよ。身が裂かれるような思いなんだよ」

 背中をトントンと叩いてくれる。
 子供の頃。寝かしつける時に母親が背中を叩いてくれるのを思い出していた。

「何年、何十年経っても、ずっとずーっと辛いことなんだよ」
「お別れしても苦しいよ。こんなに苦しいんなら……出会わなければよかった」
「そうだね。そう思ってしまうほど、苦しいね」

 出会わなければ、悲しい思いも、辛い思いも、苦しい思いもしなくて済んだ筈。

「でも、人は人を求めてしまう。一時でも良い。たった一時の為に、人は人を愛してしまうんだよ」
「……どうして?」
「苦しいと分かっていても、人から貰う愛は、心がポカポカして、満たされて、凄く気持ちが良いからだよ。全て委ねたくなってしまうほどね」

 伍賀さんは少し身を離し、わたしの顔を見た。

「ちせもそうだっただろ? 高島からギュってされた時、なによりも幸せだっただろ?」

 彼のぬくもり。たった短い時間だったけど、不幸せだったとは絶対に言わない。
 伍賀さんの問いに、わたしは首を縦に振って答えた。
 幸せだった。
 どんな時よりも。
 体が、心が、幸せで震えるほど。
 嘘じゃない。


 でも。


 もう二度と、
 その幸せを噛みしめることは
 できない。


 現実から目を背けたくなるほど、彼の消失は心に暗い影を落とした。


『俺は貴女を想い、見守り続ける』

『良い人を見つけてください』

『ありがとう』


 そして、最後の最後に言おうとした言葉。
 それはどんな言葉なのか、分からない。誰にも分からない。
 でも、もし『俺も好きだ』なら、聞きたかった。やめないでほしかった。




    ■ ■ ■




 藤次さんが消えて、わたしは伍賀さんにお店まで送ってもらった。実際は、沖川さんがおんぶをしてくれた。わたしは沖川さんの背中でずっと泣いていた。
 瞼を腫らし、憔悴しきったわたしの顔を見て、祥子さんは悟ったように頭を撫でてくれた。
 偶然、まだ店に残っていた小秋ちゃんは、わたしの目を見て驚いていた。よっぽど酷かったようで、すぐに水で濡らした手ぬぐいを持ってきてくれて、目元を冷やしてくれた。
 ヒンヤリとしていて、とても心地が良い。
 でも、思い出してしまう。
 彼は水になったことを。

「ふ、ふう……うわああああ」

 一度止まった涙が出始める時、声が漏れる。
 みんな椅子に座ったまま、口を開こうとしなかった。
 普段は明るく、活気のある店が、今では空気が重たい。
 いつも陽気な伍賀さんも、テーブルに肘をつき、顎を乗せている。視線の先は、窓から見える星のようだ。ずっとなにかを考え込んでいるようにも見える。
 祥子さんも窓辺で立ったまま、外を見ていた。腕を組み、その表情から、深刻なことを考えているようだ。
 一方、沖川さんは小秋ちゃんに止められながらも、お店の片付けを黙々と手伝っている。
 藤次さんの神隠しは、それぞれみんなに考えさせられる出来事だった。
 そして、最初に口を開いたのは、小秋ちゃんだった。

「高島大尉、未練なく逝けたでしょうね」
「そうだね」

 沖川さんが答える。
 一息吐いてから、続けた。

「でも、残された者達は、辛いね」

 沖川さんの言葉は、わたしの気持ちを代弁しているようだった。わたしも同じことを考えていたから。
 小秋ちゃんは、静かに「……はい」と短く答えた。

「しんみりせんとこ」

 無理矢理笑っている祥子さんが言う。

「この世界での神隠しにあうことは悲しいことじゃない。うちらは寂しいけど、本人にとったら新しい門出だから」

 リスタート。
 頭の中では分かっているけど、気持ちは追いついていかない。

「祥子ちゃん、気持ちは分かるけど……」

 伍賀さんがチラッとわたしを見た。
 すると、祥子さんもわたしに視線を向けて、少しだけ溜息を吐く。

「有朱なんかと結婚せんかっただけでもよかったなって思わんと」
「そんな言い方……」

 思わず口に出てしまった。
 わたしがネガティブ過ぎるのか。祥子さんの思考に違和感があって仕方がない。

「有朱って子、本人の意思を無視して無茶しそうじゃない? 結婚は阻止できたし、一応、幸せな終わり方には思えるけど」

 確かに包丁を持って、藤次さんを探すぐらいだから、目的の為ならばなんでもやってしまいそうだ。
 だからといって、幸せだとは思えない。藤次さん自身は納得したのかもしれないが、わたしにとっては〝今から〟だった。
 伍賀さんが、沖川さんを手招きをして呼ぶ。
 二人は小声で話をしているようだった。

(寂しい……でも)

 藤次さんに抱き締められた時を思い出せば、寂しい気持ちが一瞬だけ和らぐ。心があたたかくなるのが、よく分かった。

(とても嬉しかった)

 キスをしたことを思い返す度に顔が熱い。
 想いが通じ合ったんだと、心底安心した。生まれて初めて、人に求めてもらえたから。

(現実を、見なきゃ)

 今こそ、前を向かなければ。
 いろんな人から貰った想いを無駄にしてはいけない。

(立ち上がれ、立ち上がれ)

 わたしはそっと立った。

「わたし、藤次さんがいなくなって、凄く寂しいです」

 言いたいことを言おう。
 流れる涙を袖で拭って、はっきりと声を出す。

「でも、藤次さんだけじゃなくて、みなさんもわたしを支えてくれました」

 みんながわたしを見ていた。

「いろんなことを教えてくれて、できなくても見守ってくれたり、助言をくださったり、わたしを見放さずにいてくれたこと、凄く嬉しかった」

 少しでもできたら、褒めてくれた。
 だから、わたしでも頑張ればできるんだという気持ちが芽生えた。

「私達は、いつだってちせさんの味方です。自信を持ってください。ちせさんなら、きっと大丈夫ですから」

 小秋ちゃんは、笑いかけてくれた。

「まだ自信は持てないけど、向こうの世界に帰ったとしても、やってみようかなと思います。すぐに全部はできないけど、小さいことからコツコツできたらいいなぁ」

 苦笑しながら、右頬を指で掻く。
 すると、祥子さんは満足そうに笑った。

「そうそう! それでいいんよ」

 白と黒で分けてしまいがちな感情。でも、今は寂しい気持ちも、踏ん張らなきゃという気持ちも混ざっていいんじゃないかと思う。どっちがあっても、きっといいんだよ。
 心の整理をしている間、伍賀さんは難しい顔をしていたが、沖川さんと話し終わった後は落ち着いた様子だった。そして、不意に引き戸を見つめ、口を開く。

「そろそろお騒がせっ子が来そうな感じはするけど、来ないなー」
「お騒がせっ子って、有朱のこと?」

 伍賀さんの発言に、祥子さんはぷぷっと吹いていた。
 わたしは「確かに泣きながら来そうだよね」と小秋ちゃんに話しかけた。が、小秋ちゃんは物悲しそうな表情で、正直、驚いた。どうしてそんな顔をするのだろう。
 間を置いてから、小秋ちゃんはわたしに気付き、「そうですね」と笑う。
 顔は笑っているのに、眼の奥には真逆の感情がチラチラと見え隠れしていた。わたしはなんて言えばいいのか分からなかった。
 その間も伍賀さんと祥子さんの話を続いていた。

「大好きな藤次くんがいなくなっちゃったんだから、もう大号泣だろうね」
「それこそ包丁を持って暴れるにはうってつけの理由だよねー」
「えー。もういいよー。危ないし、勘弁してほしい」

 ずっと小秋ちゃんは我慢をしているようだった。二人の会話に口を挟まず、少し俯き加減で、口を一文字にしていた。
 でも、わたしの視線に気付き、ニコッと口の両端を釣り上げる。いつも見慣れた笑顔だった。

「小秋ちゃん……?」
「なんでもありませんよ」

 思いきって、わたしは小秋ちゃんに尋ねてみた。

「どうして小秋ちゃんはわたしのことをいつも心配してくれたりするの?」

 すると、小秋ちゃんは小首を傾げた。

「ご迷惑でしたか?」

 まさかの返答に、わたしは慌てて眼前で両手を振り否定する。

「いや! 違うの! 迷惑とかじゃなくて、凄く嬉しいよ。でも、出会ってから長く付き合ってるわけじゃないわたしなんかに、どうしてここまで気にかけてくれるんだろ、て」

 気持ちを言葉にして吐き出すのは恥ずかしい。顔が熱を帯びていくのがよく分かる。
 小秋ちゃんは微笑んだ。

「私がちせさんを大切に思うのは、親友だからですよ」
「わたしが、親友?」
「はい。ちせさんはなにも覚えていないとは思いますが、私はちせさんからいろいろなものを貰いましたから。だから、ちせさんを出来る限り守ってあげたいんです」
「守る……」

 心臓がドクンと鳴る。
 頭に引っかかるものがある。
 でも、なにも思い出せない。

「香り袋、持ってくれていますか?」
「うん。首にいつも下げてるよ」

 わたしは香り袋を取り出し、首から外した。
 そして、一緒に姿を見せる、御守り。感情が昂って、また涙が出そうになるのをぐっと我慢する。抱えている気持ちを吐き出してはいけないと思うが、口は素直に言葉を吐いてしまった。

「御守り、燃やさなきゃ駄目かな……」

 藤次さんが作ってくれた御守り。ずっと共に過ごしてきた、大切なもの。
 でも、これは円さんの生前からの遺品であり、今は藤次さんの遺品になった。気持ちがこもっている遺品。これは必ず燃やさなければならない。
 そして、藤次さんは、この世界と別れる時に燃やしてほしいと言っていた。遺言を聞いてあげるべきだと頭では分かってはいるが、心の中はそれに応えたくないと葛藤している。
 名残惜しそうに見つめていると、小秋ちゃんは口を開く。

「そうですね。灰にしなければ、ちせさんは、またこの世界に迷い込んでしまいます」
「わたしがまたここに来たいって言っても駄目?」
「この世界の理ですから、よくはないでしょうね」

 残念そうに笑う。
 わたしは御守りを撫でるように握り締めた。何度も、確かめるように。
 すると、小秋ちゃんはわたしの傍に来て、手を出した。

「ちょっと貸してもらえませんか?」
「え? うん、いいけど」

 香り袋と御守りを渡すと、小秋ちゃんは一度御守りを手にして、お辞儀をする。「失礼します」一言言ってから、躊躇いもなく、御守りの封を開けた。
 わたしはその行動に驚く。

「小秋ちゃん?」

 細い指で、御守りの中から小さい紙二つと、小さい木の破片を取り出した。
 それを見て、不意に思い出す。そういえば、藤次さんは折り畳んだ紙切れを御守りに入れていた。

(一枚は藤次からもらった紙だけど……あと一枚はなんだろ? 最初から入っていたのかな)
「この二枚の紙は見ないでおきましょう」
「でも……」

 なにか書いてあるのではないかと、気になり始めてしまった。

「これはちせさんがどうしても辛い時に見るべきです」
「燃やさなくてもいいの?」
「これだけは燃やさなくても済むように、私が魔法を施してあげます」

 そう言って、笑った。
 そして、木の破片を御守りではなく、香り袋に入れる。そして、紙も戻さないまま、中身が入っていない御守りをわたしの首に掛けてくれた。
 わたしは、小秋ちゃんの笑顔に安堵していた。どんな事を施してくれるのか分からないけど、わたしが知らない知識から問題を解決してくれるに違いないと心底信じていた。
 しかし、見たことがない光景を見て目を疑った。

「ちょっと待ってくださいね」

 小秋ちゃんの掌にあった小さく折り畳まれた紙。擽ったそうに、微かに紙が震える。

「え、え? ええ⁈」

 小刻みに震えながら、紙は細かな粒子となって、空中に溶けていった。

「小秋ちゃん! 消えちゃったよ? どこに行っちゃったの⁉︎」

 不安が襲いかかる。
 どんなトリックを使ったのか、全く分からない。そもそもどこに消えたのかも分からない。何一つ分からないことが、大きな不安にさせた。
 焦るわたしを余所に、小秋ちゃんは最後の光の塵が消えるまで見つめていた。

「小秋ちゃん!」
「大丈夫ですよ。然るべき場所に置いただけです」
「然るべき場所って?」
「ちせさんが元の世界に戻っても、良い事があるように」
「それって……」

 頭の中に思い浮かぶ可能性。

「縁があれば、必ずまた手元に戻りますよ」

 ハッキリと口にはしなかった。
 わたしがあの世界に戻ってからの楽しみ、ということだろうか。
 紙の内容が気になるけど、世界に戻りたくない。複雑な気持ちだ。
 その時、伍賀さんがわたし達に近づいて来た。

「もしもーし」

 声を掛けた伍賀さんの手には、小さな木箱があった。見たことのある木箱――祥子さんのお使いで頼まれた、寺に持っていったものと同じだ。

「これは?」
「灰を入れる箱」

 ドクンと心臓が鳴る。
 背いていた現実に目を向ける気分である。小秋ちゃんと話していて、随分と気が紛れていたようだった。

「海軍も遺品整理をしてる。そろそろ土に還してあげよ」

 沖川さんも祥子さんも、わたしを静かに見守っていた。
 暫く考えた。考えたって無駄なのに。でも、一秒でも長く、この御守りを持っていたかった。 
 しかし、周りの雰囲気に「もうちょっとだけ待ってください」とは言えなかった。

「……分かりました」

 御守りをギュッと握った。




    ■ ■ ■




 山の麓にそれはあった。
 人一人分が入ることができる大きさの竃のようなもの。それは赤煉瓦が積まれてできていた。竃には太い枝や細い枝が入っており、既に火が灯っていた。傍には井戸がある。
 そして、その場所は鎮守の杜のように榊の木々が囲んでいた。竃に目をやると、そこは火葬場のような雰囲気がする。しかし、周りを見渡せば、葉の隙間から差し込む太陽の光が大地を照らす。
 その木漏れ日を掬おうと両手を前に出してみる。風に吹かれて葉が揺れる度に、光と影が不規則に揺れ、広げた掌も普段と違って見えた。
 空気を吸うと、少し冷たくて、木々の匂いがする。
 ここは人の生活感がしない。神がいるかどうかなんて分からないけど、神秘的な空気が流れているように思う。神域というものも知らないけれども、時が止まっているような、または遅いような独特の時間の流れを感じる。
 竃の前は広場になっていて、軍服を身に纏った海軍の皆さんと、端にわたしと祥子さん、小秋ちゃん、そして有朱さんがいた。海軍さん達は軍帽を胸元に持ち、わたし達は数珠を指に挟んで合掌をする。
 住職さんがお経を唱えながら、火がある竃に藤次さんの遺品を投げ入れていく。

「!」

 そして、藤次さんから貰ったあの御守りを住職さんは手に取った。躊躇いなく、紅い炎の中へ投げられていった。
 わたしは思わず、御守りを掴みに右手を伸ばし、一歩、足が前に出た。その瞬間、祥子さんに左腕を掴まれた。祥子さんはゆっくりと首を振り、わたしの行動を制止する。

「ッ‼︎」

 声が漏れないように、下唇を噛む。
 燃えていく御守り。
 長い時間を共に過ごした御守りが消えるのは、一瞬だった。灰となり、形が崩れるのも、時間がかからなかった。
 それを見ていると、心臓を抉られるような気持ちに襲われた。
 形が崩れた時は、心がずしんと重くなり、そして、自分自身を支えていた筋がポッキリと折れた気がした。
 全ての遺品は、灰になった。
 祥子さんが持ってきた木箱に灰を丁寧に入れる。入りきれないものは新たな木箱に入れられ、全て入れ終わると、井戸水を汲み、一人一人竃の中の灰を洗い流し掛けていった。
 全員が水をかけ終わると、住職さんは再びお経を上げる。
 一斉に合掌をして、終わった。
 海軍さん達はわたし達に会釈をして基地に帰っていった。
 そして、静かにしている有朱さんの様子を見る。俯いたまま、この場を去ろうとしない。

「有朱さん、大丈夫でしょうか……?」
「あんだけのことをされて心配するん? ちせちゃんは良い人だね~」

 祥子さんはわたしの言葉を聞いて呆れていた。嫌味のようにも聞こえる。そして彼女は「用事があるから、お寺さんと話をしてくるね」と言って、早足で去って行った。

「とっても好きな人がいなくなる悲しみは、よく分かるから……」

 祥子さんの背中に投げかけるように呟く。決して彼女の耳には届いていないと分かっていても、口にせずにはいられなかった。
 心に穴がぽっかり空いたような喪失感。なにも手がつかないほど、頭の中は真っ白で。彼がいない、この世界になんの価値があるのだろう。
 わたしなんかが、有朱さんの気持ちを全て理解できないだろう。でも、少しは寄り添えるかもしれない。それが彼女にとって偽善にしか映らないかもしれないが。
 立ち竦む彼女の元へゆっくりと歩み寄った。
 彼女は泣いていなかった。でも目にクマがあり、憔悴しきっているようだ。
 声を掛けづらい。
 どんな言葉をかけようか悩んでいると、有朱さんはわたしを見た。
 涙で潤んだ双眸と視線が絡む。

「ち、せ……」

 わたしの名前を呼んだ。同時に、彼女の目から涙が溢れた。

「ごめんなさい、ごめんなさい」
「え……? 急にど、どうしたんですか?」

 わたしに謝ることなんか一つもないのに。過去の攻撃的な行動を見せない有朱さんに戸惑う。
 今までと違う反応に困っていると、小秋ちゃんもやって来た。

「もう、話してもいいんじゃないですか?」

 小秋ちゃんは有朱さんの背中をさすりながら声をかける。事情を知っているようだ。

「どういう意味……?」
「ちせ、ごめんなさい。約束、守れなくてごめんなさい」
「約束?」
「ちせとの約束、守れなくて、本当にごめん」

 声を出して泣く有朱さんを前にして、わたしはなにがなんだか分からなかった。

「小秋ちゃん、約束ってなに?」

 彼女は暫く黙った。言葉を選んでいるようだ。

「先に高島大尉がこの世から消えるかもしれないと気付いたのは、ちせさんです」

 朱色の瞳は真っ直ぐにわたしを見ていた。

「わたし?」
「はい。高校生だったちせさんです」
「ちせは」

 嗚咽を漏らしながら、有朱さんは口を開く。

「ちせは言ったの。高島はちせを想ってくれてるって。ちせも高島が好きって。でも、もしちせと高島が両想いになったら、高島は駄目かも、て」
「はい? ちょっと待ってください。わたしにはなにを言ってるのか……」

 頭が混乱した。
 ふと藤次さんが言っていたことを思い出す。
 あの御守りは藤次さんが、高校生だったわたしにあげたものだと。確かにこの世界には来ていた。でも、そんな話は聞いたことがない。
 仮に両思いだったとして、そんな恋話をわたしから人に話すわけがない。いや、どうなんだろう。他人から見た時、昔のわたしはそんな人間に見えたのだろうか。実はそうだったのだろうか。
 分からなくなった。
 まるで高校時代のわたしは別人のような感覚だ。

「ちせは高島に消えて欲しくない。そう悩んでた」
「だから、午時葵が咲く地で、三人である約束をしました」
(ごじあおい……? 約束――あ)

 頭の隅に追いやった記憶がある。頑なに閉じた記憶を、恐る恐る紐を解くように開けてみる。
 囲むように小さなピンク色の花が咲いたり、蕾がある木々。
 そこで、三人で約束したんだ。


『ちせが思い出せなくても、どれだけ離れても、どれだけ時間が経っても覚えてるから』


『ちせさんのこと、絶対に守ります』


 二人がわたしに言ってくれた言葉だったんだ。あの頃からわたし達は出会っていたんだ。
 しかし、それ以上のことは思い出せなかった。
 わたしは思わず小秋ちゃんに視線を向けた。
 小秋ちゃんは、驚くわたしの顔を見て、申し訳なさそうに口を開く。

「すみません。今まで黙ってて」
「まだあまり頭が追いついて……」
「私達は、今のちせさんが前に来た時から、友人だったんですよ」

 だから、今まで気を使ってくれていたのか。

「貴女を騙すような形になってしまい、悪いと思ってます」

 わたし、なにも、知らなかった。

「それも全て貴女との約束だったんです」

 わたしだけが、なにも知らなかった。

「わた、わたし、たった一人だけ、何一つ、知らなかった……違う、忘れていたんだね」

 なんだか恥ずかしい。
 一人で慌てたり、泣いたりしてたんだ。
 顔が熱い。涙が止まらない。
 有朱さんがわたしの袖をぎゅっと握り締めた。

「ちせは何も悪くナイ! だから追い詰めないで!」

 有朱さんは悪い人じゃなかった。
 わたしは勝手に有朱さんを悪者扱いしてしまっていた。事情を聞かずに。なんて酷いことをしてしまったんだろう。繋木さんと同じことをしてしまった。わたしはなにも学習をしていない。

「ごめんなさい、有朱さんのことをよく知ろうとせずに」
「違う! アタシから言ったんだ! 高島がちせを好きにならないように、気持ちが離れるように邪魔をするからって‼︎」
「事情を話しても、きっとなにも変わらない……だから、記憶がなかったら内緒にしたままにしようって三人で決めたんです。その方が自然だからって。有朱が悪役を買って出たことで不安になるちせさんを、私は一生懸命に支えようと。そう約束したんです」

 小秋ちゃんは、わたしの両手を握り締める。

「でもね、無理だったヨ」

 流れ落ちる涙を両手で受け止めながら、有朱さんは笑った。

「本気で恋してる人の邪魔なんてできなかったヨ」
「……」
「二人の距離を離しても離しても、磁石みたいにくっつくんだもん」

 それは、わたしの身になにかが起きた時、いつも駆けつけてくれたことを言っているのか。

「切り裂こうとする度に思いが強くなるんだもん。逆に恋を燃え上がらせてるって分かってから、もうどうしたらいいのか分からなくなって」
「だからって包丁を持って暴れるものではありませんッ」
「それはいつもお父さんが……」

 小秋ちゃんは有朱さんの額を小突いた。その表情も怒りの色を帯びている。
 そして、すぐにわたしを見上げた。

「黙っていて……すみませんでした」
「やっぱり事情は話してほしかったけど……ずっとみんなで頑張ってくれてたわけなんだし。二人共、辛かったよね」

 ふふと口元が緩む。

「ちせ。本当にごめんなさい」

 有朱さんは頭を深く下げた。

「もういいよ! この話はもう終わりっ!」

 わたしは笑える限り笑った。少しでも、今までのことはもう終わったんだと思ってほしくて。
 でも、わたしの心は実際はどうだろう。気持ちが追い付いてないのか、それとももう思い出したくないのか。
 そんな暗い気持ちを二人に気づいて欲しくなかった。
 すると、遠くからわたしを呼ぶ祥子さんの声が聞こえた。

「おーい! ちせちゃん、ちょっと来てー!」

 両手に複数の小さな木箱を抱えた姿を見て、わたしは慌てて駆け寄る。落ちそうになった木箱を掴み、半分の数をわたしも抱える。

「これって」
「藤次くんの遺品の灰だよ」
「あぁ……」

 表情に陰りを見せるわたしに気づいた祥子さんは困ったように笑う。

「ここは四十九日なんていうものはないからさ、今から墓に納めに行こう」
「もう、ですか?」
「そ。ニノ中佐が車出してくれるって言うし、車が来るまで待ってよう」

 すると、祥子さんは離れたところにいる小秋ちゃんに向けて叫んだ。

「今からニノ中佐と一緒にうちらで灰を納めてくるから、お店の方よろしくー!」

 小秋ちゃんは「はーい!」と答えた。




    ■ ■ ■




 新しく作られたお墓。
 墓石に掘られた、高島藤次之墓。その言葉をなぞるように読む。もうこの世にいないのだと思い知らされる。
 一緒に付いてきた伍賀さんが墓石を横に押してずらす。すると墓石の下から出てきたのは縦長の穴だ。
 祥子さんは灰を入れた木箱を入れる。
 全て入れ終わると、祥子さんは伍賀さんに目配せをした。伍賀さんはそれを合図に墓石を戻す。
 墓までの道中、遅咲きの向日葵を見つけた。一輪しかない、満開の向日葵を、わたしはそっと墓の前に供える。
 ゆっくりと両手を合わせ、合掌をする。みんなも手を合わせた。
 目を閉じている間、不意に暗く感じた。空を見上げると、黒い雲が覆っている。いつの間にかこんなに近くに雨雲が来ていたなんて。

「雨が降りそうだ。そろそろ帰ろう」

 同じように見ていたニノ中佐はみんなを促す。

「高島隊長がしんみりとしてないでさっさと帰れって言ってるんですかね」
「かもね。すぐに帰らないとしんみりどころか、びしょ濡れにするぞ! ていう脅しだったりして」

 伍賀さんはへらっと笑ってみせると、声を出しながら笑う祥子さんが反応する。
 いつまでも暗くてはいけないと普段通りを装っている中、わたしだけは会話に入らずに、ずっと藤次さんの名前を見つめていた。
 このまま暗くなって雨が降ってきてもいい。雨で体が濡れても構わない。ただここにいたい。目には見えない貴方がここにいるような気がして、離れ難い。
 貴方との思い出も形も全て灰になって、手元にはなにもない。貴方を思い出すようなものは、この世界に何一つ残ってない。写真も、御守りもない。頭の中の記憶だけ。
 時間が経ってしまえば、貴方の声を忘れてしまうんじゃないのか。貴方の匂いを忘れてしまうんじゃないのか。貴方の顔さえも、最後は忘れてしまうんじゃないのか。
 人間の脳は不完全だ。不完全だからこそ、我々は生きることができている。辛いことを、悲しいことを、時間と共に薄まり、いつかは忘れていく。だから傷ついた心は少しずつ回復して、生きていける。ただ、忘れられないことがあるのも確かだ。逆に、忘れたくないものを忘れてしまうこともある。これが今一番恐れていること。
 形がないとは、心が折れてしまいそうになるほど不安にさせる。
 胸が、苦しい。

「ちせ」

 頭上から伍賀さんの声が落ちてきて、我に返る。

(伍賀さんってわたしのこと、ちせってたまに言うなぁ)
「伍賀さん? どうしました?」

 笑顔を取り繕って、伍賀さんを見上げた。

「それはこっちの台詞」
「え……」
「なんだか九藤さんが我ココに非ず、だったから」
「あー……」
(今は九藤さんって、呼んでる)

 その通りだ。わたしはここにいるけど、ここにいないような気がする。わたしの体だけがここに存在しているようだ。

「藤次さんの物、全部無くなっちゃったなー、て」
「それは」

 言いかけた伍賀さんの声を遮る。

「分かってます! ……分かってます……」

 理由があることは理解している。でも、今はそれが残された者に対して無慈悲なように思えて聞きたくなかった。

「藤次さんのこと、忘れるつもりはありません。でも心細いんです。なにも手元に残らないって、こんなに心細いなんて思わなかった……! 今までカメラとか携帯電話とか、いろんなもので姿を残すことができたのに……それが当たり前過ぎて、なんにもない今が、凄く不安です」

 頭の中の思いを口に出す度に、抱えていた感情が鮮明になって、涙が溢れてくる。

「気合いが足りないのかな」

 思い出すのは、会社に入ってなかなか覚えられず、仕事を忘れてしまう度に専務に言われた言葉。




『気合いが足りないんじゃない?』




 傷つけられた言葉を自分の口で言うと、なんだか自分で自分を陥れている感覚に襲われ、吐き気がしてくる。涙が止まらない。
 すると、伍賀さんは首を横に振った。何度も、何度も。

「ちせ、そうじゃない」

 その言葉は、過去の誰かの言葉と重なって聞こえた。誰だっただろう。

「ちせは悪くない。気合いが足りなかったわけでもない」

 重なって聞こえる。これは誰の声?

「前にも言っただろ?」

 わたしの頬を両手で挟む。この仕草は……。

「いいかい。何度も言えないからよくお聞き」

 知ってる。
 わたしは、この人を――本当はこの世界に来る前から会ってる。

「俺ん家にある蔵にお行き。ドアを開けて、一番奥の右にある棚まで行くんだ。その一番下の引き出しを開けてごらん」
「え?」
「そこに俺が残した木箱がある。その箱の中を見てごらん。そこにちせの気休めになる物があるから。必要でなくなったら、また同じ場所に戻しておくれ」
「どうして……?」

 蔵。
 そう言われて、思い浮かぶ場所は一つしかない。
 わたしが知っていて、相手もわたしを知っている。
 この世界は死後の世界。わたしの身内で蔵を所有していた人はただ一人。
 伍賀さんはわたしの、

「もしかして、伍賀さんは……」

 でも、何故名前が違うのか分からない。全く気づかなかった。

「ちせ。その中身がなんなのか知りたいだろう? 元の世界にお帰り」

 意地悪そうに笑う。

「伍賀ちゃん!」

 静かに見守っていた祥子さんが慌てた様子で名前を叫んだ。

「もう体は帰りたがっている。でも帰ることができないのは、ちせの心がここに囚われているからだ」

 切ない表情を浮かべていた。
 ぽた、ぽた、と、雨粒が落ちて来る。一粒が、重たい。

「さようなら」

 伍賀さんはわたしの頭を撫でた。何度も、何度も。それはわたしという存在を確かめるように。

「待って!」

 指先から光が溢れていく。
 まるでしゃぼん玉のように、光は空へふわふわと登っていき、空気と交わるように消えていく。
 そして、空から降ってくる雨は、この光に反射されて、更にキラキラと輝きを増していた。

「ちせ、薫子と櫻子に宜しくな」

 そう言って、笑った。
 わたしは何度も力強く頷く。
 そうしている間にも、体は少しずつ光になる。その光を掴もうと伸ばした腕も、今はない。
 雪のように音はなく、空と溶け込む。

「まだ、消えたくない……!」

 わたしの意思に反して、光に変わった体は消えていく。もともと存在しなかったように、なにも残らない。痛みも、ない。
 でも、心は締め付けられるように苦しかった。
 わたしの目は、最後の最後に高島さんのお墓を見た。

 小秋ちゃん、有朱さん、最後にお別れができなくて、ごめんなさい。

 今更もう遅いけど、もし願いが叶うとしたら、逝く先は違っていても、高島さんと一緒に——
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