41 / 55
第五章 『秘密の恋』はお留守番
4 カルメン
しおりを挟む
最後を飾るのは、ビゼー作曲『カルメン幻想曲』
昨日、湊くんが突然楽譜を書き換えた、あれだ。
ラストに入る前に長めの休憩を挟み、その間に私達は次の衣装に着替える。
私はカルメンをイメージしたAラインの赤いドレスに身を包む。
実は、カルメンのドレスだけは普段以上に気合を入れて選んだ。
サテンとオーガンジーの上に、アシンメトリーのローズレースで大人の色気を演出。背中を白いリボンで編み上げて、羽根をイメージして蝶結びで結ぶ。長く伸ばした端が歩くたびに揺れる姿は可愛い。
それを見た湊くんは「綺麗ですね」と褒めてくれた。女心をよく分かってますなぁと、素直に受け止める。
一方、そんな湊くんはネクタイの色を赤に変えただけで、基本的に変わらない。スーツの胸元にあるポケットには、よく目立つ黄色い花が挿さっていた。
整った顔だと前から感じていたが、胸元の黄色と緑色の瞳がより閑麗さを引き立たせるようだった。
恐らくオペラのカルメンの第一幕『ハバネラ』にある、カルメンがドン・ホセにアカシアの花を投げつけて去るシーンを意識しているのだと思う。
管に息を送る彼の胸元が華やかで、ついその黄色い花に目が釘付けになった。
「どうしました?」
「そのポケットに入ってる黄色い花って、やっぱりカルメンが投げつけたアカシアの花をイメージしてるの?」
「当たりです。よく知ってますね」
「原作はアカシアなのに、舞台では赤い薔薇が多いもんね。これがアカシアの花かぁ……」
それは五センチくらいの花。同じものは見たことがないが、どことなく蘭に似てる気がする。その花弁は、ドレスを広げているような形で可愛い。
そっと指先で触れてみるとザラッとした。本物の花かと思ったが、どうやら造花のようだ。しかし、とても近くて見ないと作り物だとは気づかない。
凄いなぁと、まじまじと眺めていると、
「アカシアじゃないですよ。昨日、衣装を取りに家に帰ったんですけど、衣装部屋には無かったんですよね。代わりに母さんがこれを持っていけって」
「そ、そうなんだ……」
てことは、湊くんのお母さんも、このコンサートを知ってるのかな。
「この花は、えーっと、なんて言ってたかなぁ……」
と、思い出そうとする彼に、慌てて首を横に振った。
「いいよいいよ。聞いたって、花の名前なんて覚えられないし」
ちゃっかり湊くんの実家に衣裳部屋があるという告白にも驚いた。流石、音楽一家というのか。服装の小物にもお金がかかってる。
そんな私に湊くんは、ニッと口の両端を吊り上げる。
「あー、いや、たぶん聞いておいた方が良いと思いますよ」
「それってどういう意味?」
「あ、わかった」すぐに思い出し、
「花の名前は、オンシジューム。これは造花ですけど、本物みたいでしょ」
「うん、本物の花っぽくて騙されたよ」
「花言葉は『清楚』と——」
間を置いてから、
「『一緒に踊って』」
花言葉を聞いた瞬間、トクンと、優しく胸が鳴った。
自然と笑みが溢れる。今から演奏する曲に相応しい花言葉だと思ったから。
「カルメンの為の花言葉みたい。すっごくピッタリ。花言葉通りに、私と一緒に踊ってね」
「もちろんですとも。お姫様」
そう言って、クスリと笑った。
ダンスパーティで踊る王子様とお姫様をイメージしているのかな。私をお姫様に例えるなんて嬉しい冗談。だから私もそれに乗っかってみる。
「じゃあ、そんなお姫様からお願いがあるの」
「なんでしょ?」
「今から演奏が終わるまで、敬語はなしでお願いね」
「敬語?」
「仮面舞踏会とかが良い例だと思うんだけど、踊ってる間って、身分や年齢とか関係ないじゃない? それと同じ意味で、私と同じ舞台に立ってほしいの。私もあなたと同じ舞台に立って踊りたいから」
そう。同じ舞台へ。
それは目の前にあるステージという意味ではない。同じ場所に立つ演奏者にしか感じられない魂のいる場所——精神的な舞台のようなもの。
どれだけ一緒に音を出して、ぴったり揃っていたとしても、感覚が違う人はいる。
それを熱量というのか、心構え、それとも雰囲気と説明したら良いのか。どう言葉にすれば良いのかわからないが、全てをひっくるめてそう呼んでいるのかもしれない。
私は、この曲で一緒に演奏をしている感覚がないのは嫌だった。
最後の曲はお客さんにとって、この演奏会の印象、評価になるといっても過言ではない。
だから、絶対に同じ舞台に立って演奏して、お客さんの心に触れるような、余韻を残すような演奏をしたい。
「湊くんは徹底して伴奏……縁の下の力持ちをしてくれてるの、凄くわかるよ。だって、とても自由に吹けるもの。それは『さくらのうた』ですっごく実感した。でも」
力強い眼差しで、湊くんを見遣る。
「それじゃあダメなんだってわかってる。この曲は同じ舞台に立っていなきゃって」
彼はちょっと驚いたような表情を浮かべた。が、すぐに目を細める。
「わかった。じゃあ、名前もしほりって呼んでいい?」
あまりにも素直に応えてくれたから、少し心臓がドキリとする。いや、急に下の名前をさんなしで呼ばれたからかもしれない。聴き慣れていないから。
私は首を縦に振った。
「でも同じ舞台に立つかどうかは、しほりがどれだけ魅せてくれるか……かな」
向けられたものは、挑戦的な眼差しだった。
「ドン・ホセも最初はカルメンに興味がなかった。だから、惚れさせるくらい俺に魅せてくれないと同じ舞台には上がれない」
そう言うと、右手を差し出してきた。
「エスコートして。しほり」
ドクン
心臓が大量の血液を運ぶ。
その口ぶりに、その視線。完全に挑発されている。だからこそ、私は——
「任せて」
その手を握る。
「湊、私の本気を魅せるから。必ず同じ舞台に立たせてみせる」
グッと顔を引き締めると、彼は楽しそうに微笑み、頷いた。
「その為に、最後にもう一つ」
「ん?」
ニヤッと悪戯っ子のような笑顔を浮かべる。
「本番直前でごめんね。急遽、お願いしたいことがありまして」
その時、アナウンスが入った。観客席の明かりが暗くなり、代わってステージは一気に明るくなる。
限られた短い時間の間に、彼の耳元で囁いた。
これで準備はできた。
本気のカルメンを、魅せてあげる——
昨日、湊くんが突然楽譜を書き換えた、あれだ。
ラストに入る前に長めの休憩を挟み、その間に私達は次の衣装に着替える。
私はカルメンをイメージしたAラインの赤いドレスに身を包む。
実は、カルメンのドレスだけは普段以上に気合を入れて選んだ。
サテンとオーガンジーの上に、アシンメトリーのローズレースで大人の色気を演出。背中を白いリボンで編み上げて、羽根をイメージして蝶結びで結ぶ。長く伸ばした端が歩くたびに揺れる姿は可愛い。
それを見た湊くんは「綺麗ですね」と褒めてくれた。女心をよく分かってますなぁと、素直に受け止める。
一方、そんな湊くんはネクタイの色を赤に変えただけで、基本的に変わらない。スーツの胸元にあるポケットには、よく目立つ黄色い花が挿さっていた。
整った顔だと前から感じていたが、胸元の黄色と緑色の瞳がより閑麗さを引き立たせるようだった。
恐らくオペラのカルメンの第一幕『ハバネラ』にある、カルメンがドン・ホセにアカシアの花を投げつけて去るシーンを意識しているのだと思う。
管に息を送る彼の胸元が華やかで、ついその黄色い花に目が釘付けになった。
「どうしました?」
「そのポケットに入ってる黄色い花って、やっぱりカルメンが投げつけたアカシアの花をイメージしてるの?」
「当たりです。よく知ってますね」
「原作はアカシアなのに、舞台では赤い薔薇が多いもんね。これがアカシアの花かぁ……」
それは五センチくらいの花。同じものは見たことがないが、どことなく蘭に似てる気がする。その花弁は、ドレスを広げているような形で可愛い。
そっと指先で触れてみるとザラッとした。本物の花かと思ったが、どうやら造花のようだ。しかし、とても近くて見ないと作り物だとは気づかない。
凄いなぁと、まじまじと眺めていると、
「アカシアじゃないですよ。昨日、衣装を取りに家に帰ったんですけど、衣装部屋には無かったんですよね。代わりに母さんがこれを持っていけって」
「そ、そうなんだ……」
てことは、湊くんのお母さんも、このコンサートを知ってるのかな。
「この花は、えーっと、なんて言ってたかなぁ……」
と、思い出そうとする彼に、慌てて首を横に振った。
「いいよいいよ。聞いたって、花の名前なんて覚えられないし」
ちゃっかり湊くんの実家に衣裳部屋があるという告白にも驚いた。流石、音楽一家というのか。服装の小物にもお金がかかってる。
そんな私に湊くんは、ニッと口の両端を吊り上げる。
「あー、いや、たぶん聞いておいた方が良いと思いますよ」
「それってどういう意味?」
「あ、わかった」すぐに思い出し、
「花の名前は、オンシジューム。これは造花ですけど、本物みたいでしょ」
「うん、本物の花っぽくて騙されたよ」
「花言葉は『清楚』と——」
間を置いてから、
「『一緒に踊って』」
花言葉を聞いた瞬間、トクンと、優しく胸が鳴った。
自然と笑みが溢れる。今から演奏する曲に相応しい花言葉だと思ったから。
「カルメンの為の花言葉みたい。すっごくピッタリ。花言葉通りに、私と一緒に踊ってね」
「もちろんですとも。お姫様」
そう言って、クスリと笑った。
ダンスパーティで踊る王子様とお姫様をイメージしているのかな。私をお姫様に例えるなんて嬉しい冗談。だから私もそれに乗っかってみる。
「じゃあ、そんなお姫様からお願いがあるの」
「なんでしょ?」
「今から演奏が終わるまで、敬語はなしでお願いね」
「敬語?」
「仮面舞踏会とかが良い例だと思うんだけど、踊ってる間って、身分や年齢とか関係ないじゃない? それと同じ意味で、私と同じ舞台に立ってほしいの。私もあなたと同じ舞台に立って踊りたいから」
そう。同じ舞台へ。
それは目の前にあるステージという意味ではない。同じ場所に立つ演奏者にしか感じられない魂のいる場所——精神的な舞台のようなもの。
どれだけ一緒に音を出して、ぴったり揃っていたとしても、感覚が違う人はいる。
それを熱量というのか、心構え、それとも雰囲気と説明したら良いのか。どう言葉にすれば良いのかわからないが、全てをひっくるめてそう呼んでいるのかもしれない。
私は、この曲で一緒に演奏をしている感覚がないのは嫌だった。
最後の曲はお客さんにとって、この演奏会の印象、評価になるといっても過言ではない。
だから、絶対に同じ舞台に立って演奏して、お客さんの心に触れるような、余韻を残すような演奏をしたい。
「湊くんは徹底して伴奏……縁の下の力持ちをしてくれてるの、凄くわかるよ。だって、とても自由に吹けるもの。それは『さくらのうた』ですっごく実感した。でも」
力強い眼差しで、湊くんを見遣る。
「それじゃあダメなんだってわかってる。この曲は同じ舞台に立っていなきゃって」
彼はちょっと驚いたような表情を浮かべた。が、すぐに目を細める。
「わかった。じゃあ、名前もしほりって呼んでいい?」
あまりにも素直に応えてくれたから、少し心臓がドキリとする。いや、急に下の名前をさんなしで呼ばれたからかもしれない。聴き慣れていないから。
私は首を縦に振った。
「でも同じ舞台に立つかどうかは、しほりがどれだけ魅せてくれるか……かな」
向けられたものは、挑戦的な眼差しだった。
「ドン・ホセも最初はカルメンに興味がなかった。だから、惚れさせるくらい俺に魅せてくれないと同じ舞台には上がれない」
そう言うと、右手を差し出してきた。
「エスコートして。しほり」
ドクン
心臓が大量の血液を運ぶ。
その口ぶりに、その視線。完全に挑発されている。だからこそ、私は——
「任せて」
その手を握る。
「湊、私の本気を魅せるから。必ず同じ舞台に立たせてみせる」
グッと顔を引き締めると、彼は楽しそうに微笑み、頷いた。
「その為に、最後にもう一つ」
「ん?」
ニヤッと悪戯っ子のような笑顔を浮かべる。
「本番直前でごめんね。急遽、お願いしたいことがありまして」
その時、アナウンスが入った。観客席の明かりが暗くなり、代わってステージは一気に明るくなる。
限られた短い時間の間に、彼の耳元で囁いた。
これで準備はできた。
本気のカルメンを、魅せてあげる——
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
隠れドS上司をうっかり襲ったら、独占愛で縛られました
加地アヤメ
恋愛
商品企画部で働く三十歳の春陽は、周囲の怒涛の結婚ラッシュに財布と心を痛める日々。結婚相手どころか何年も恋人すらいない自分は、このまま一生独り身かも――と盛大に凹んでいたある日、酔った勢いでクールな上司・千木良を押し倒してしまった!? 幸か不幸か何も覚えていない春陽に、全てなかったことにしてくれた千木良。だけど、不意打ちのように甘やかしてくる彼の思わせぶりな言動に、どうしようもなく心と体が疼いてしまい……。「どうやら私は、かなり独占欲が強い、嫉妬深い男のようだよ」クールな隠れドS上司をうっかりその気にさせてしまったアラサー女子の、甘すぎる受難!
ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます
沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!
【完結】目覚めたら男爵家令息の騎士に食べられていた件
三谷朱花
恋愛
レイーアが目覚めたら横にクーン男爵家の令息でもある騎士のマットが寝ていた。曰く、クーン男爵家では「初めて契った相手と結婚しなくてはいけない」らしい。
※アルファポリスのみの公開です。



ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる