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第五章 『秘密の恋』はお留守番
1 心の距離
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本番当日。
コンサート会場は三百人程度が入る小さなホール。
音の響きは悪くない。手を打つと、気持ち良い響きがある。
響きやすいと音が反響して〝出した音〟がわかりにくい。しかし、音が響きにくいと誤魔化しが効かず、〝音に酔う〟ことも難しい。ここは比較的演奏しやすいホールだ。
ステージは緞帳は開いている。
観客席から人の話し声や歩く音など様々な音が聞こえ、深呼吸を一つ。私は薄暗い舞台袖で福岡くんと一緒に、楽器を持って待機していた。
私は左の横髪を編み込み、反対側に流す髪型。ボディラインがくっきりと出る、スリットの入った紺のドレスを着た。
一方、彼は黒いカッターシャツにスーツ。ネクタイは、私のドレスに合わせたのか、紺色だった。
昨日までのラフな服装と異なって、スーツ姿を見ると、高校生の顔も大人びたように見える。
変更の確認も含めて、前もってスタッフと打ち合わせもした。リハーサルもした。問題はない。それでも、やはり本番は緊張する。
観客席をちらりと見遣る。座席に続々と座るお客様を見て、胸元を押さえた。
「しほりさん、緊張します?」
「う、うん。緊張……しほ……『しほりさん』⁉︎」
まさか福岡くんに下の名前で呼ばれるとは思ってもおらず、聞き返す。
「シー」彼は口元に人差し指を立てる。声が少し大きかったようだ。
「そっちの方が演奏しやすいかなって。苗字で呼び合うの、どこか他人行儀だし、壁があるでしょ?」
「あー、確かにそれはあるかも……?」
私も呼んでみようか。昨日の朝の件もあって、ちょっぴり恥ずかしくて躊躇するが、
「湊、くん」
「はい」
ぎこちない呼び方でも、「変だ」とか、「おかしい」とか言わずに、当然のように返事をした。それが嬉しくて、でもやっぱり小恥ずかしくて。
気持ちばかり緊張がほぐれたが、まだ体は強張っているように固い。口の中が乾いて、唾液を飲むことさえできなかった。とてもよくない緊張の仕方だ。
「ダメだ。こんな口じゃあ良い音が出る気がしない」
舞台袖の隅にあるパイプ椅子にフルートを一旦置いた。そのパイプ椅子の下にある水のペットボトルで、一度口を潤す。
水を口に含んだままペットボトルを戻すと、ほぐすように体を大きく動かす。ごくりと水を飲み込んだら、肺がパンパンになるまで空気を吸った。そしてスーッと吐く。
鼓動が、多少は落ち着いただろうか。
一曲目はフルート二重奏から始まる。だが、演奏前に挨拶をしなければならない。
今回のピアノ伴奏からフルート二重奏に変更したことを改めて謝罪する。前もってインターネットでは知らせたが、まだ知らない人もいるだろう。
演奏とは異なる緊張感が、私を襲っていた。
■ ■ ■
開演十五分前。
騒つく会場内にアナウンスが響く。舞台袖にいるアナウンサーが開演中の注意事項をすらすらと読み上げていった。
アナウンスを聞いた途端、表情は石のように固くなり、心臓がドクンドクンとする。膨らんだ風船に針を刺すように、そのまま破裂するのではないかと思う感覚が襲う。
そんな私の頭を、湊くんはぽんぽんと撫でた。
「大丈夫。俺がいるから」
そう言われて、不安で重くなった胸が少し軽くなる。
もちろん失敗をするつもりは毛頭ないけど、フォローをしてくれるんだろうなと思える、頼り甲斐のある人だ。
深呼吸を繰り返し、「ありがとう。頑張るね」とお礼を言った。
ベルが鳴る。
舞台袖にある時計を見ると開演時刻だ。
スタッフからマイクを受け取り、譜面台が設置されているステージに上がる。
白い光が照らすステージ中央に立つと、会場を見渡した。ちらほら空席が目立つ。落胆しそうになるのを、ぐっと堪え、顔を引き締めた。
「本日は、『クラシック好きのためのコンサート』にご来場いただき、誠にありがとうございました」
一礼する。
「今回、ホームページでも記載した通り、ピアノ伴奏者である日野和夏希が都合により出演することができなくなりました。改めて、深く謝罪申し上げます」
再び頭を下げた。
静まり返る空間に、妙な恐怖心を感じる。
「本来ならば、ピアノ伴奏のエキストラにお願いするところでありますが、諸事情によりフルート奏者を呼ばせていただきました。フルート二重奏、デュオコンサートとさせていただきますことをご了承ください」
湊くんが楽器を持って現れると、会場内が騒ついた。
「今回、共に演奏してくださる方をご紹介します。福岡湊さんです」
「ご紹介に預かりました、福岡湊と申します。まだ若輩者ではありますが、尽力させていただきますので宜しくお願いします」
高校生とは思えない程、しっかりした物言いに、心の中で驚く。
湊くんと目が合うと、彼は譜面台の前に立った。私はスタッフにマイクを手渡すと、楽譜を置いてある譜面台と向き合った。
それを確認したアナウンサーが一曲目の紹介に入った。
「最初の曲は、福田洋介氏が作曲した『さくらのうた』です」
曲の説明が入る。
その間に、冷えた管に温かい息を吹き込み温める。
実は学校の事情が重なり、学生時代にフルート二重奏を演奏したことがない。今回のコンサートが初体験だ。
ちらりと湊くんを見遣ると、彼は私を安心させるように口の両端を吊り上げている。大丈夫、落ち着いていこう、と。
今回選んだ曲『さくらのうた』は、いろんな音源を聴いた中で、一瞬で惚れ、コンサートで吹こうと即決したもの。
さくらの華やかさもありながら、切なさを感じさせる、美しい曲。どれだけ歌い込めるかが勝負になる。
アナウンスが終わった。
会場内が静まる。
照明に照らされた楽譜。
横にいる湊くん。
できる。私はできる。今の相棒は湊くんだから、きっとできる。私が私の可能性を信じなくてどうする。
さあ、始めようじゃないか。
足を肩幅に開き、右足を下げる。
そして彼を見る。目が合った。彼もまた準備が完了し、いつ始めても問題ないようだ。
湊くんは銀のフルートを構えた。
ゆったりとしたテンポで始まる曲。
スタートは一緒ではないが、彼は目と体で合図を送る。そして会場内に響くブレスの音——
コンサート会場は三百人程度が入る小さなホール。
音の響きは悪くない。手を打つと、気持ち良い響きがある。
響きやすいと音が反響して〝出した音〟がわかりにくい。しかし、音が響きにくいと誤魔化しが効かず、〝音に酔う〟ことも難しい。ここは比較的演奏しやすいホールだ。
ステージは緞帳は開いている。
観客席から人の話し声や歩く音など様々な音が聞こえ、深呼吸を一つ。私は薄暗い舞台袖で福岡くんと一緒に、楽器を持って待機していた。
私は左の横髪を編み込み、反対側に流す髪型。ボディラインがくっきりと出る、スリットの入った紺のドレスを着た。
一方、彼は黒いカッターシャツにスーツ。ネクタイは、私のドレスに合わせたのか、紺色だった。
昨日までのラフな服装と異なって、スーツ姿を見ると、高校生の顔も大人びたように見える。
変更の確認も含めて、前もってスタッフと打ち合わせもした。リハーサルもした。問題はない。それでも、やはり本番は緊張する。
観客席をちらりと見遣る。座席に続々と座るお客様を見て、胸元を押さえた。
「しほりさん、緊張します?」
「う、うん。緊張……しほ……『しほりさん』⁉︎」
まさか福岡くんに下の名前で呼ばれるとは思ってもおらず、聞き返す。
「シー」彼は口元に人差し指を立てる。声が少し大きかったようだ。
「そっちの方が演奏しやすいかなって。苗字で呼び合うの、どこか他人行儀だし、壁があるでしょ?」
「あー、確かにそれはあるかも……?」
私も呼んでみようか。昨日の朝の件もあって、ちょっぴり恥ずかしくて躊躇するが、
「湊、くん」
「はい」
ぎこちない呼び方でも、「変だ」とか、「おかしい」とか言わずに、当然のように返事をした。それが嬉しくて、でもやっぱり小恥ずかしくて。
気持ちばかり緊張がほぐれたが、まだ体は強張っているように固い。口の中が乾いて、唾液を飲むことさえできなかった。とてもよくない緊張の仕方だ。
「ダメだ。こんな口じゃあ良い音が出る気がしない」
舞台袖の隅にあるパイプ椅子にフルートを一旦置いた。そのパイプ椅子の下にある水のペットボトルで、一度口を潤す。
水を口に含んだままペットボトルを戻すと、ほぐすように体を大きく動かす。ごくりと水を飲み込んだら、肺がパンパンになるまで空気を吸った。そしてスーッと吐く。
鼓動が、多少は落ち着いただろうか。
一曲目はフルート二重奏から始まる。だが、演奏前に挨拶をしなければならない。
今回のピアノ伴奏からフルート二重奏に変更したことを改めて謝罪する。前もってインターネットでは知らせたが、まだ知らない人もいるだろう。
演奏とは異なる緊張感が、私を襲っていた。
■ ■ ■
開演十五分前。
騒つく会場内にアナウンスが響く。舞台袖にいるアナウンサーが開演中の注意事項をすらすらと読み上げていった。
アナウンスを聞いた途端、表情は石のように固くなり、心臓がドクンドクンとする。膨らんだ風船に針を刺すように、そのまま破裂するのではないかと思う感覚が襲う。
そんな私の頭を、湊くんはぽんぽんと撫でた。
「大丈夫。俺がいるから」
そう言われて、不安で重くなった胸が少し軽くなる。
もちろん失敗をするつもりは毛頭ないけど、フォローをしてくれるんだろうなと思える、頼り甲斐のある人だ。
深呼吸を繰り返し、「ありがとう。頑張るね」とお礼を言った。
ベルが鳴る。
舞台袖にある時計を見ると開演時刻だ。
スタッフからマイクを受け取り、譜面台が設置されているステージに上がる。
白い光が照らすステージ中央に立つと、会場を見渡した。ちらほら空席が目立つ。落胆しそうになるのを、ぐっと堪え、顔を引き締めた。
「本日は、『クラシック好きのためのコンサート』にご来場いただき、誠にありがとうございました」
一礼する。
「今回、ホームページでも記載した通り、ピアノ伴奏者である日野和夏希が都合により出演することができなくなりました。改めて、深く謝罪申し上げます」
再び頭を下げた。
静まり返る空間に、妙な恐怖心を感じる。
「本来ならば、ピアノ伴奏のエキストラにお願いするところでありますが、諸事情によりフルート奏者を呼ばせていただきました。フルート二重奏、デュオコンサートとさせていただきますことをご了承ください」
湊くんが楽器を持って現れると、会場内が騒ついた。
「今回、共に演奏してくださる方をご紹介します。福岡湊さんです」
「ご紹介に預かりました、福岡湊と申します。まだ若輩者ではありますが、尽力させていただきますので宜しくお願いします」
高校生とは思えない程、しっかりした物言いに、心の中で驚く。
湊くんと目が合うと、彼は譜面台の前に立った。私はスタッフにマイクを手渡すと、楽譜を置いてある譜面台と向き合った。
それを確認したアナウンサーが一曲目の紹介に入った。
「最初の曲は、福田洋介氏が作曲した『さくらのうた』です」
曲の説明が入る。
その間に、冷えた管に温かい息を吹き込み温める。
実は学校の事情が重なり、学生時代にフルート二重奏を演奏したことがない。今回のコンサートが初体験だ。
ちらりと湊くんを見遣ると、彼は私を安心させるように口の両端を吊り上げている。大丈夫、落ち着いていこう、と。
今回選んだ曲『さくらのうた』は、いろんな音源を聴いた中で、一瞬で惚れ、コンサートで吹こうと即決したもの。
さくらの華やかさもありながら、切なさを感じさせる、美しい曲。どれだけ歌い込めるかが勝負になる。
アナウンスが終わった。
会場内が静まる。
照明に照らされた楽譜。
横にいる湊くん。
できる。私はできる。今の相棒は湊くんだから、きっとできる。私が私の可能性を信じなくてどうする。
さあ、始めようじゃないか。
足を肩幅に開き、右足を下げる。
そして彼を見る。目が合った。彼もまた準備が完了し、いつ始めても問題ないようだ。
湊くんは銀のフルートを構えた。
ゆったりとしたテンポで始まる曲。
スタートは一緒ではないが、彼は目と体で合図を送る。そして会場内に響くブレスの音——
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