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第四章 ドアの鍵は君が持っている
12 風の音
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私が作った朝食を、福岡くんは残さず食べてくれた。あまりにも美味しそうに食べてくれるので喜んでいると、家の事情を少し教えてくれた。
彼の父親はトランペット奏者で、show先生とは友人関係。
学校に来た母親はオペラ歌手で、両親共に海外を拠点に活動しており、普段はあまり家にいないようだ。
しかし最近、母親が体調を崩し、帰国。学校に来たあの日は、体調不良で苛々し、更に私と福岡くんの件も重なり、感情の歯止めが効かなくなってしまったらしい。
今は体調もかなりよくなっており、自宅で事務的な仕事をしているとのこと。
「あの人、家事が苦手だから、結局俺がやってるんですよね。母さんが家にいたところで役に立たないし、基本的に普段から暮らし慣れてる先生の家に居ついてるんですよ」
と、彼は両親に思い入れはないようで、相変わらず非常にサッパリしている。
家事の中で唯一、料理だけが上手くならなかったらしく、日頃の食事は出来物やカップ麺を買ったりして、手作りの料理を口にすることは滅多にないとのこと。
だから、私が作った手抜きの朝食でもかなり喜んでくれたようだ。洋食と和食に関しても、全く気にしてない。
音楽一家である福岡くんの実力を知るのが恐ろしい。この後すぐに、それは的中した。
レッスン室で、借りた楽器の音鳴らしをする。窓から、黄色みを帯びた白い朝日が入っていた。
「明日が本番……なんとしてでも成功させなくちゃ」
改めて時間の少なさを実感し、顔を引き締める。
福岡くんが書いてくれた、手書きの新しい楽譜。それを黒い譜面台に置き、隣で楽器に息を吹き込む福岡くんに視線を向ける。
彼の前には楽譜を入れたファイルを譜面台に置いており、私の準備が終わるのを待っていた。
私は主旋律が中心なファーストパートを。彼は主に伴奏やハーモニーのセカンドパートを担当する。
まだ彼の音色を知らない。だが、彼は私の音を知っている。それを考慮した上で編曲し、パートを決めたのだろう。きっと良い曲に違いない。私は彼を信じて演奏するのみ。
「準備、オッケー?」
「私は大丈夫だけど、福岡くんは音出しをしないの?」
「ん。大丈夫ですよ」
曲を吹きながら音程を合わせるのかな。まるでプロみたい。音を聞く前から、どんどん彼の実力が見えてくる。怖いなぁ。
内心冷や汗を掻きながら、楽器を構えた。お互いに目を合わせながら、ブレスする——
「!」
初めて聴く彼の音は、show先生の音によく似ていた。しかし、先生よりも音は柔軟性があり、優しい。その中にも決して折れない芯があり、彼自身を表しているようだった。
音を聴いて、次に思うことは——彼は越えられない壁だということ。
そう思うのはshow先生の他にはいなかった。
「……」
自分より上手い人は沢山いる。でも、練習したら追いつけるという確信があった。なのに、彼らだけはどれだけ練習しても追いつけない絶望感があった。音色、技術の根本が、私のそれと全く違う。
曲を吹き終えると、レベルの差に呆然としながらも、ゆっくりと口を開いた。
「福岡くん、上手いね」
それしか言葉が浮かばない。
「あはは。ありがとうございます」
片眉を寄せ、笑った。あまり褒められたくないのかな。
福岡くんは楽譜を指差しながら、注意する箇所を説明する。彼の指摘を頭に詰め込み、私の方は曲のイメージを伝え、どう表現したいか意見を述べる。
その間も、カチカチと一定間隔でメトロノームは刻み続けた。
「もう一回、合わせましょ」
彼の言葉に頷く。フルートを少し下に傾け、メトロノームに合わせて合図を送った。
旋律を奏でる私を、彼のフルートが伴奏で支える。
彼の音は低い音域であっても、音をきちんと当てて響かせる。まるでチューバのような音色で安定していた。
楽譜を追い、お互いに目を合わせ、縦の拍子を合わせる。ピアノがフルートに替わっただけ。なのに、感覚のズレがある。合ったと思っても、リズムや休符によって僅かにズレていた。
そして、最大のズレは——
「眞野さん、ストップ」
演奏を中止し、彼は心配そうに私を見遣る。その双眸からなにが言いたいのか、痛いほどわかっていた。
「ごめん。ピッチが高いよね」
そう言いながら、頭部管を一ミリほど抜いた。
本来なら、調律されているピアノに合わせるのだが、今回はフルートしかいない。福岡くんの音程と比べる以前に、基準音からかけ離れて高いので、私が彼に合わせるのが筋だろう。
「音程もそうですけど、調子が悪そうですね。音色も不安定だし」
「はい、すみません」
頭で理解していたとはいえ、言葉として聞くと落ち込む。
彼の注意は優しい。相手を責めるような言い方は決してしない。それでも自覚している分、かなり凹む。
駄々をこねる子供のように「なんでピッチが合わないの!」と叫びたい。自然と俯いてしまう。
それから何度も二人で曲を合わせた。
悪いところはわかっているのに、直そうと思ってもなかなか直らない。気持ちだけが焦っていく。
一向によくならない私を見て、
「楽器、変えます?」
とうとう福岡くんから楽器のチェンジ案が出てしまった。
「ううん、楽器のせいじゃないと思う。たぶん、私のせい……」
私自身に原因があるのは自覚していた。だからこそ、もう時間がないのにちゃんとしてよと責める。朝からこんな調子だなんて最悪だと、眉間に力が入る。
すると、彼は急に歩き出した。
窓を全開に開けると、寂しそうに鳴く油蝉の声が聞こえた。
「早いですけど、気分を変える為に軽く休憩をしましょうか」
そして、その大きな窓から新鮮な空気が駆けていく。朝の爽やかな風には、金木犀の仄かな甘い香りを乗せ、心地よく肌を撫でる。私の周りの淀んだ空気が消え、スッキリしたのを肌で感じた。
「でも!」
心の内から湧き出る焦燥を抑えきれずに、眉を寄せる。本番は明日だ。悠長なことは言ってられない。
言葉を続ける前に、福岡くんは唇を指差し、困ったように笑った。
「それに唇が乾いてますよ。そんな状態だと、あまり音が良くないし、水、持ってきますね」
そう言われて唇に指を当ててみると、確かに乾いている。カサカサとしていた。
違和感のある喉にも手を添えて、唾液を飲み込んでみる。やはり乾いている。明らかに体は水分不足だと訴えていた。
「うん、ありがとう」
彼がレッスン室にある、小さな冷蔵庫から水のペットボトルを二本取り出す。
私は静かに窓を眺めていた。爽やかな秋風が吹く。演奏で火照った肌を擽る涼しい風が気持ち良い。
楽譜を指で触れる。
折角、徹夜してまで書いてくれた楽譜。ファーストとセカンドの二人分。編曲すること自体大変だろうし、書くだけでも疲れた筈だ。それを無駄にしたくない。
譜面上にある、その音符達に命を吹き込み、音にすることが演奏者の役割。
それなのに私といったら音は擦れ、ひっくり返り、そしてたまに落ちる。最低だ。
なにが悪いのだろう。なにを直したらよくなるのだろう。show先生や福岡くんのように良い音色にする為には、どうするべきなのだろうか。限られた短い時間で。
昨日吹いた時はよかったのに。
そう頭で考えた瞬間だった——
「あ」
風が勢いよく窓から入ってきて、指をすり抜け、楽譜がひらひらと飛んでいく。
「やべ……!」
ペットボトルを持ってきてくれた彼が声を漏らした。
私は突然のことすぎて声すら出ない。我に返り、すぐに手で楽譜を押さえるが、譜面台には一番下にあった『カルメン幻想曲』しか残らなかった。
譜面台から飛び出し、風に舞う楽譜を眺める。ひらりひらりと舞う楽譜。
その楽譜を更に踊らせようと、悪戯な風が吹いた。
そこに風の通り道を見た。
「風が」
まるでスローモーションを見ているかのような気分だった。
川の流れを見るように、楽譜はゆっくりと横へ流れていく。
そして——
ホォォォォ
微かな音が、鳴った。
それはフルートからだった。
リッププレートの小さな穴に自然の風が入ったのだ。決して良い音色ではない。音の立ち上がりはボヤけ、風の音も混ざった音色。でもそれは、焦り、力んだ心をくすぐった。
「風の音が鳴った」
奇跡だと一言で表現すれば安っぽい。だが、それ以上の言葉を知らない。風がフルートを鳴らすなんて、早々あることではない。
風が徐々に弱くなる。
手で押さえて、飛ばなかった楽譜に視線を戻す。『カルメン幻想曲』は私を音楽の道に戻した曲であり、コンサートで最後に演奏する曲。
そして、風は止んだ。
私は徐にフルートを構える。
深呼吸を三回繰り返し、唇を噛むように巻き込み、なぞるように舌で濡らす。そして——
「眞野さん?」
音とはどうやって出すのか。
力任せに息を吹き込む?
——違う。
息は最低限で良い。息のスピードは速く。角度を少し変えて、管に入る息と、出る息の調整をする。
風で音が鳴る。
力なんていらないんだ。
少しの風で音が出るくらいなんだもの。力みなんて必要ない。
赴くままに、吹く風のように、体の力を抜いて自由になれ。力に縛られるな。想いに縛られるな。
鳥のように軽やかに、自由に!
私を縛るものなんて、どこにもない!
気づいたら、曲を吹き終わっていた。心が軽い。
「眞野さん」
改めて名前を呼ばれて思い出す。そういえば、その前から呼ばれていたんだった。
「あ、ごめん! 急に吹きたくなっちゃって。えっと、水、ありがとう」
空笑いをしながら水を受け取ろうとするが、彼はペットボトルを離そうとしない。首を傾げていると、彼は嬉しそうに笑った。
「凄くよかったです」
「へ?」
「音も、曲も。自由気ままな『カルメン』っぽくて、思わず聴き惚れちゃいました」
「そ、そう?」
やり過ぎた感はあるが。
「『カルメンファンタジー』少し書き替えましょ」
「え! 今から⁉︎」
驚く私を他所に、福岡くんは譜面台にある楽譜と、落ちた楽譜を拾い上げて、ソファに座った。冗談の欠片もない、引き締まった表情を見て、本当に書き替えるようだ。
私の目には、彼は生き生きしているように見えた。
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