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第四章 ドアの鍵は君が持っている
4 電気ケトルが転がる部屋
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アパートのドアの前に着いた。長い間使われた茶色いサビがある、重たいドア。
少し前までここにいた。奈良栄先輩と、夏希、そして私。
今はもう私が呼んだ救急車はいない。救急隊員の走る音、野次馬で集まってきた人々のざわめく声、動転して叫ぶ私。それらが全てなくなって、静けさを取り戻していた。
ザワザワと、心が騒ぐ。
怖いことが起きた場所だよ、と。まだ危ないかもしれないよ、と。
だけど、きっかけだった先輩はもうここにはいない、筈。
そうわかっているのに、頭の隅で先輩の姿がチラつく。払い除けようとしているのに彼は名を呼んで、私に笑いかける。折り曲げたフルートを持って、脚で腹を蹴りながら笑う。
そんな彼が、実は部屋に隠れているんじゃないかと、考えてしまう。
「…………」
持っている鍵を、鍵穴に差し込めずにいた。恐怖で手が震えるのだ。
すると福岡くんは横に立つ。石のように固まった手から、するりと鍵が抜かれた。
そして彼は、躊躇うことなくドアの鍵を鍵穴に差し込む。
ガチャリと鍵の開いた音がすると、一気に体が強張った。
「先、入りますね」
顔を引き締めて、彼は先に入っていった。
照明器具が点いていない、真っ暗な部屋。物音一つない。とても静かだ。
普段ならどうとも思わない、いつも見ていた光景。なのに、今は違う。その暗さが不気味に見えた。
「だ、誰も、いるわけがない。きっと、きっと」
ハッハッと、息を強く、短く吐く。
確かに先輩は部屋を出て行った。それはちゃんと見た。
でももし、彼が合鍵を勝手に作っていたら。事を荒げた私の口封じの為に、部屋に戻っていたら。
そう考えたら、先輩が〝いない筈〟と〝もしいたら〟がグチャグチャに混ざり合い、頭の中が真っ黒になる。頭の奥が痺れて、手も足も動かない。
もしここに先輩がいたら、どうなるかなんて容易に想像できる。その予想を描いた瞬間、背中がぞっとした。
「福岡くん、待って! もし先輩がいたら危ない……ッ!」
前を歩く彼の腕を掴もうと、手を伸ばした。
先輩が夏希だけではなく、福岡くんにまで手を出したら。彼ならきっと男の子には容赦なく、怪我だけでは済まさないかもしれない。それだけは阻止しなければ。
しかし、指先が腕に届く前に、彼は部屋の照明のスイッチを点けた。
「大丈夫ですよ。俺、これでも男なんで」
部屋が明るくなり、彼の顔がはっきりと見える。
どうして私の為にここまでしてくれるのだろう。危ない目にも遭うかもしれないのに、彼は私より前へ進んでいくのだろう。
「明るいところで見ると、怪我、結構酷いですね」
彼は私の顔を見て、目を見張る。
「そんなことないよ」私は首を横に振った。
「私の怪我なんて大したことない。助けに来てくれた夏希は、熱湯をかぶってしまったから……ピアノを弾く大事な両手をダメに、してしまったから……私の怪我なんて……」
床に転がる電気ケトル。
私の視線に気づいた福岡くんは、その矛先を見ると、納得したかのように床を濡らす水を見下ろした。
それから彼は、静かに部屋を見渡した。
荒れたままの部屋。テーブルは倒されて横になったまま。食器棚の中にある食器は乱れたまま。そして、床に転がるフルートに目をやると、彼は優しい手つきでそっと手にとった。
「……酷いことをする」
その声は低く、怒りがこもっていた。
「管自体が曲がっているので、ダメかもしれませんが、一回修理に出してみましょ」
「ううん、いいよ。お金の無駄だもん」
私でもわかる。直らないって。キィも歪んで、深い傷もついて、なによりも横笛らしからぬ湾曲した体。
「でも、これは大切な楽器でしょ?」
そう言われて、いつの間にか落としていた視線を上げる。彼と目が合うと、「ね?」と言われた。
うん、そうなの。
「お母さんと離婚しただけでもつらかったのに……癌で死んじゃうんだもん……」
同じモデルの楽器は沢山ある。でも、お父さんから買って貰った楽器は別物。
私は、初めて貰った楽器を中学三年の時に壊してしまった。お父さんの悲しそうな顔を見て、もう二度と壊さないと誓った。
そう誓ったのに、お父さんとの約束を破ってしまった。どちらも同じような姿になってしまった。
「……お父さんから買って貰った楽器なのに……ッ」
お父さん、ごめんなさい。
「もう、この世には、いないから」
お父さん、許して。
「お父さんに謝れない……ッ」
込み上げてくる感情。泣き腫らした目が痛いのに、真っ赤な目から飽きずに涙が溢れる。
突然、頭の上に温かいものが置かれた。
「きっと、お父さんも許してますよ」
眞野くんは頭をポンポンと撫でた。大きな手で、父のように優しく。
彼は楽器ケースに入らないフルートをタオルで包み、袋に入れる。大切なものを扱ってくれる姿を見て、「ありがとう」と伝えた。
「ここにいるだけでもつらいでしょ。眞野さんは座っててください。あとのことは俺がやりますんで」
そう言うと、福岡くんは床に転がる電気ケトルをキッチンカウンターに置く。
彼に言われて気づく。胸に手を添えると、心臓がバクバクとしていた。私は気持ちが落ち着くまで、彼の言葉に甘えてベッドに腰かけた。
「ねぇ、福岡くん」
名前を呼んだ時、不意になにか重たい物が落ちた音がした。
「え?」
二人の視線はほぼ同時に、音が聞こえたベランダへ向けられる。
一体なんの音だろうと意識が向き、押し黙った。その音への違和感があり、どうしても気に掛かる。部屋に入る前の不安要素が蘇った。
暫しの間、部屋の中に沈黙が流れた。
「……」
「……」
シーンと静まり返る。耳を澄ましてみるが、それからは音らしい音はなかった。
部屋の中はテレビがついていない。音楽も流していない。音が出る要素はない筈。
「福岡くん、今の音……」
私がなにを言いたいのかわかっているようで、彼は暫くベランダを凝視してから口を開いた。
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