風のフルーティスト -Canary-

蒼乃悠生

文字の大きさ
上 下
28 / 55
第四章 ドアの鍵は君が持っている

3 月星の下で

しおりを挟む


   ■ ■ ■


 校門に着くと、既に福岡ふくおかくんはいた。
 ゆったりとした白いティーシャツに黒のハーフパンツのラフな格好。彼は学校名が彫られた石門に背中を預けていた。
「あ」
 今まで制服姿しか見たことがなかった。その私服が新鮮だったからか、ドキリと脈打つ。
 まだ幼さが残る顔から、体が細いイメージをしていたが、両腕両脚には程よい筋肉が付いて、想像以上に大人っぽい。
 そう改めて見ると、頬が熱く感じた。
 高校生ってこんな感じだっけ。
 私が到着したことに気づくと、彼はポケットから手を出して、会釈した。
 その瞬間、本当に福岡ふくおかくんに会ってるんだと自覚する。誰もいない場所で、遅い時間帯での待ち合わせなんて、まるで密会だなと意識してしまう。
「ごめんね。急に電話しちゃって」
「いいえ、大丈夫ですよ」
 前に見た、変わらない笑顔。
 ズキンと痛む心臓。
「こんな夜中に……お母さん、怒ったでしょ?」
「あー、それは大丈夫です」
 私を安心させるように笑う。
 その笑顔を見た瞬間、心に突っかかっていたものが、じわりと溶けていくのを感じた。
「今、仕事中ですから」
 だから一言も話してません、と彼はハハハハと笑う。
 電話では誤魔化すと言っていたが、仕事をしているということなら、なにも言わない方が自然ということか。
「仕事? じゃあ、まだ会社にいるの?」
「いやいや。家にいます」
「あ、そうなんだ……遅くまでお疲れ様だね」
「ただの仕事馬鹿なだけですよ。仕事をしてる間は、家族のことなんて気にもしないし」
 ということは、福岡ふくおかくんが幼い頃から、そういう環境だったのだろうか。
 寂しいなと思ったが、彼は全く表情に翳りを見せない。それどころか、スッキリしたような顔。恐らく、そんな家族に対して負の感情は抱いていない様子だ。
 だからこそ、彼は柔らかく微笑むのだろう。心配しないで、と言っているかのように。
「それに、この時間帯はいつも練習しに出てるから、母さんからしたら俺がいないのが日常ですよ。だから、あんな人のことなんか気にせずに相談してください。泣いちゃうくらい、悩んでるんでしょ?」
 バレてる。電話の時に私が泣いてたの、気づいてたんだ。だからずっと優しくしてくれたんだ。
「うん、少し、いや、結構……すっごく悩んでる」
 重たい口を開く。
「みんなに連絡したけど、ダメだった。みんなの都合もあるし、無理強いはできない。でも、どうしてもやり遂げたいことがあって……でもそれは一人じゃ、できなくて……」
 言葉を間違えないように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。外に吐き出す度に心を抑えていた突っかかりが消えていき、そして全て溶け切った。
 だからやっと言える。
 そう確信したのに、感情は後から追いついてくる。
「ふ、ふぇ……」
 鼻の奥がツーンと痺れる。
 目頭が熱い。目から温かいものが溢れる。
 ああ、ダメだ。
 泣いたら話せないとわかってるのに、目から溢れては、繰り返し筋を作る。何度も両手で拭っているのに追いつかない。
 唇を噛んで、嗚咽が漏れないようにしても、どうしてもうまくいかなくて。どれだけ隠したくても、隠しきれなくて。
 それでも福岡ふくおかくんに見られたくなくて、両手で顔を覆う。
眞野まのさん」
 名前を呼ばれた。でも、今は声が出せない。声が震えるとわかっているから。
「左手」
 左手?
 わけがわからなくて指と指の隙間から覗くと、福岡ふくおかくんは手を差し出していた。
「ほら、出して」
 促されるが、差し出されたその手を握るべきか躊躇う。
 奈良栄ならさか先輩よりも、その指は細い。大きさも少し福岡ふくおかくんの方が小さく見える。
「!」
 そして気づく。親指のタコに。長年培ってきたのであろうタコに、私は見覚えがあった。
 だからなのか?
 アパートに来て、暴力をふるった先輩と違って、彼の手が怖くないと感じるのは。
 その手は誰かを傷つける為ではなく、窮地を救う為に掴んでくれる手であり、音楽を奏でる大事な手だ。
「……うん」
 彼の手にそっと左手を添えると、ギュッと握ってくれた。
 私の手を引いて、彼はゆっくりと歩き出す。
 手が温かい。指先が氷のように冷え切っていたからか、彼の温もりがより伝わってきた。
 ああ、もう一人じゃない。
 私は声を押し殺す。福岡ふくおかくんに導かれるまま歩いて、泣いた。
 その手は温かくて、どんなものよりも安心できて。導いてくれる福岡ふくおかくんの背中を半歩後ろから眺める。
「どうして、手を……?」
「両手で顔を覆って歩かないし、泣いてばかりでしょ」
「ッ⁉︎ 泣いてばかりじゃないよ!」
 空いた手で、さっと涙を拭く。
「今、しゃべってる間は顔を覆ってないじゃないですか。やっぱり手がない方がしゃべる」
「……まるで私が泣き虫みたいに」
「なんか言いました?」
「いいえ! なんでもないです」
 ぼそりと呟いたことが聞こえていたらしい。すかさず否定した為か、私も敬語になってしまった。
 それにしても福岡ふくおかくんはズバッと言うなぁ。心に刺さるような物言い。それでも、やっぱり福岡ふくおかくんのことは怖くないって、不思議。
 本当になんでだろう、と頭上にクエスチョンマークを浮かべた。
 空は真っ暗だが、街路灯で明るい道を歩く。
 会社帰りと思われる人とすれ違う。私達の背後を付き纏うような嫌な気配はない。
 すっと空気を吸い、ふーっと吐く。
 心は落ち着いた。
福岡ふくおかくん。私、夏希なつきとのコンサートを控えてるの」
「うん。先生が音楽室にポスターを貼ってたから知ってますよ」
「それがね、できなくなっちゃった」
「どうしてです?」
 蘇る記憶に、足取りが重くなる。
 道路のひび割れを跨いだ後、彼の手を握り締めた。記憶が蘇るから、口に出すのが怖い。
「楽器を……死ぬ前にお父さんが買ってくれたフルートを……会社の先輩に壊されちゃった」
「うん」
 福岡ふくおかくんは、ただ静かに聴いてくれた。
夏希なつきも、その先輩に怪我を負わされちゃって……四つ葉病院に……」
「うん」
 前からライトを点けた車が走ってくる。
「危ないから」福岡ふくおかくんは私を家側に寄せ、車は通り過ぎた。
 ここは道が細い割には、歩道と車道の間に防護柵はない。こうやって私に気を遣ってくれる姿を見ると、守られているんだなと実感する。
 彼はチラリと私を一瞥する。
眞野まのさんに怪我は?」
「私は大したことないから。化粧でアザを消せるくらいだよ」
 歩きを進めていくと、遠くに電柱が現れる。壁のように背が高くて、大きい。
「どうしよ……全部、なにもかも……私のせいだ。私がなんとかできていれば……」
 もっと私がしっかりしていればよかった。
「そもそも、奈良栄ならさか先輩をアパートに上げなければ、楽器を壊されることもなかった……」
 私が……私が……。
「もっとしっかりしてれば、よかった……私がもっと」
 自責の念から、自己嫌悪が止まらない。
 こうしていれば、もっと良い結果になったんじゃないか。そんな考えが溢れて、止まらない。受け皿のコップから溢れる水のようにダラダラと。しかし、
「大丈夫です」
 そのたった一言で、その蛇口が締まる。
 彼の足が止まった。
 それに釣られて私も足を止め、顔を上げると、福岡ふくおかくんはこちらを振り返っていた。
「俺がいますから」
 と、笑ってくれた。
「やれることは、全力でやりましょ」
 街路灯が照らすその表情を見て、安堵を覚えた。宝石のような緑の瞳を細める、朗らかな笑顔だから。そして、誰でもない福岡ふくおかくんだから。
「……ほんとに?」
「うん」
「……助けて、くれる?」
「もちろんですよ。それに」
 握り返される左手。
「原因は眞野まのさんじゃないですし。悪いのは、その会社の先輩でしょ。だから自分を責めたら駄目ですって」
「でも」
「今はコンサートをどうにかするのが先決です。こうなった原因を悔やむ前に、まずは必要なものを取りに、眞野まのさんのアパートに行きましょ。時間は待ってくれませんから」
 そう言って、彼は私の手を引く。電柱の手前で止まり、今度は後ろからやって来た車を避けてから、再び歩き出す。
 必要なものとはなんだろう。
 疑問に思いながらも、一秒も動揺を見せず、真っ直ぐ向けてくれたその眼差しを信じよう。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

隠れドS上司をうっかり襲ったら、独占愛で縛られました

加地アヤメ
恋愛
商品企画部で働く三十歳の春陽は、周囲の怒涛の結婚ラッシュに財布と心を痛める日々。結婚相手どころか何年も恋人すらいない自分は、このまま一生独り身かも――と盛大に凹んでいたある日、酔った勢いでクールな上司・千木良を押し倒してしまった!? 幸か不幸か何も覚えていない春陽に、全てなかったことにしてくれた千木良。だけど、不意打ちのように甘やかしてくる彼の思わせぶりな言動に、どうしようもなく心と体が疼いてしまい……。「どうやら私は、かなり独占欲が強い、嫉妬深い男のようだよ」クールな隠れドS上司をうっかりその気にさせてしまったアラサー女子の、甘すぎる受難!

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます

沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

包んで、重ねて ~歳の差夫婦の極甘新婚生活~

吉沢 月見
恋愛
ひたすら妻を溺愛する夫は50歳の仕事人間の服飾デザイナー、新妻は23歳元モデル。 結婚をして、毎日一緒にいるから、君を愛して君に愛されることが本当に嬉しい。 何もできない妻に料理を教え、君からは愛を教わる。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

【完結】目覚めたら男爵家令息の騎士に食べられていた件

三谷朱花
恋愛
レイーアが目覚めたら横にクーン男爵家の令息でもある騎士のマットが寝ていた。曰く、クーン男爵家では「初めて契った相手と結婚しなくてはいけない」らしい。 ※アルファポリスのみの公開です。

処理中です...