風のフルーティスト -Canary-

蒼乃悠生

文字の大きさ
上 下
23 / 55
第三章 凄惨

4 悪夢は終わらない

しおりを挟む


   ■ ■ ■


 愉快そうに奈良栄ならさか先輩は笑っていた。それは悪魔の笑顔に見えた。
「……」
 グシャグシャになった楽器を前に、私は茫然とする。乱れた髪のまま、無表情でただ見下ろす。
 見たことのない姿。数えられない沢山の傷。あらぬ方向へ曲がる細いキィ。
 痛々しいどころじゃなかった。鉄屑と同然の姿に、私は涙すら出なかった。言葉も出なかった。触れることも恐ろしく、ただ金属の塊を見下ろしていた。
 先輩がテレビを見ていると、十三時から始まる、地域に密着した番組が始まった。
 私のスマートフォンが鳴る。このバイブレーションの長さは着信だ。
夏希なつき……」
 画面に表示される名前を見ると、少し動く気になれた。
「……」
 黒電話のマークをタッチする。
『あ! やっと出た! しほり、今どこ⁉︎ 本番はもう明後日よ? 練習、早く来なさいよ!』
 怒っている。
 でも、私はなにも言えずにいた。もうどうしたらいいの。そんな言葉さえも、全く頭に浮かんでくる気配がない。
 その異変に気づいたのか、夏希なつきは自ら言葉を止める。間を置くと、それは心配する声色になっていた。
『……しほり? 今度はどうしたの?』
「……」
『なんかあった? しほり、聴いてる? しほり?』
「……夏希なつき
 相棒の名前を口にすると、底に沈んでいた感情がブワッと舞い上がる。それは涙となって、ぽたぽたと溢れ落ちた。
「たす、けて」
 精一杯の言葉だった。そう動かすのが、精一杯だった。
『……今、アパートにいる?』
「うん……」
『待ってな。今から行く。すぐに行くから』
 落ち着いた声で私に応えてくれた。
 先輩は私の電話に気づいてはいたが、特に気にすることなく、すぐにテレビに視線を戻した。


 奈良栄ならさか先輩に命令されて、コーヒーを作ろうと再び電気ケトルでお湯を沸かしている時だった。
 夏希なつきは十分も経たずに来てくれた。急いで来てくれたのがよくわかるくらい、息を切らせて。
「しほり、大丈夫?」
 彼女が来ても、先輩は少しも気にする様子を見せなかった。
 カチッと湯が出来上がった音がする。でも私はコーヒーを作らず、夏希なつきに事情を説明した。全て話した。今まで言えなかったことを全て。
 最後に、私は楽器を見せた。
 震える手で楽器だったモノを出した。
 楽器ケースに入らなくなってしまった、無残なフルートを見せる時が、今まで生きてきた中で最も耐え難かった。
 寒いわけでもないのに、手が震えて止まらない。あり得ない姿のフルートを見るのが怖くて、怖くて、目を背けたくて仕方がなかった。
 もし音楽に魂というものがあるのだとしたら、その魂は我が子を亡くしたように悲しんでいるに違いない。
 ごめんなさいと、心の中で何度も謝りながら、楽器に触れた。
 それを見た夏希なつきは全てを悟ったような表情をしていた。そして、へらへらした様子でテレビを見る奈良栄ならさか先輩の背中を、キッと睨みつける。
「アンタ、何様のつもりよ」
 女性の低い声が背中に突き刺さる。しかし、先輩は振り向きもしない。まるで夏希なつきの存在を知らないかのように。
「大切な楽器をこんなふうにして、責任とってくれるんでしょうね!」
「ぁあ? うっせーなぁ。こっちは楽しくテレビ見てんだよ。邪魔すんなブス。おい、しほちゃーん、コーヒーはまだかよ。遅えんだよ」
 一瞥しただけで、すぐにテレビの画面に戻った。
 頭に血が上った夏希なつきは、どかどかと歩み寄った。
「アンタに出すコーヒーなんかあるわけないでしょ! コンサートが中止になったら、その費用と壊した楽器代、弁償してもらいますから」
 無視をする先輩の背中に金額を押し付ける。
「百万、飛んで五百円。これにキャンセルで払い戻しのチケット代が加わったら凄い値段よね。もちろん、弁償、してくれますよね?」
 金額を聞いた先輩の顔色が変わる。なんでその金額を払わないといけないんだと、苛立った眼差しで夏希なつきを見上げた。
 彼女は一瞬怯むが、歯を食いしばって耐える。
「お前さあ、急にやって来てでしゃばってんじゃねーよ」
 舌打ちをしながら、ゆらりと立ち上がる。
「先輩、お願いします……夏希なつきは傷つけないで」
 私は二人の間に割って入る。だが、彼は簡単に私の体を押し除けた。
「しほちゃんさー、お願いばっかりだよねー」
「私の友達だから……手を出してほしくなくて……」
「でもさぁ、向こうから来たよね? 来たよね?」
 その悪魔の笑顔が怖かった。
「だから多少殴られても仕方がないよね」
「根っからの暴力男じゃん」
「ああ?」夏希なつきの言葉に先輩はテーブルを蹴飛ばす。
 ぶつかる大きな音が耳を貫き、怖くて身を縮こまらせた。
「しほり! 絶対にこんな奴と付き合うなよ! こんな奴に大切なダチは絶対に任せらんない! しほりが不幸になるだけだ!」
 夏希なつきの唇が微かに震えている。手も、足も。怖いはずなのに、彼女は尚も威勢を崩さなかった。
 私の為にはっきりと言ってくれる。そんな優しさと勇気に、双眸からあたたかいものがぽろぽろと零れ落ちた。
「そーゆうことはさぁ、本人が決めることなの」
「暴力でしほりに脅迫させない。絶対に!」
「はあ? 俺はさぁ、力で屈服させるタイプじゃないよ? 別に。言葉でコミュニケーションをとってんの」
「アンタ、ドメスティック・バイオレンスって知ってる?」
「暴力で人を支配する奴でしょ? そういやぁ、最近ニュースでよく見るよねー」
「言っとくけどね、殴る蹴るがドメスティック・バイオレンスじゃないの。大声で怒鳴ったり、大切なものを壊したりするのもて言うのよ!」
 夏希なつきの言葉に、様々な記憶が脳裏に流れる。
 彼に頬を打たれた。
 彼にフルートを壊された。
 今だって、彼は夏希なつきに酷いことを言った。
 この先輩は病気だ、きっと。私には先輩を受け止めることは、到底できない。
夏希なつき……やっぱり危ないよ。だから——」
 逃げよう。この場からすぐに二人で逃げよう! この人を女二人で対処できないよ。
 そう口に出そうとした瞬間、先輩は激怒した顔で夏希なつきに近寄った。
「黙っとけよッ! クソがッ‼︎」
夏希なつき!」
 先輩は夏希なつきの体を押し倒す。
 電気ケトルを置く白いキッチンカウンターに、彼女の小さな背中が当たり、大きく揺れた。
 先輩が彼女に上乗りになろうと身を乗り出した時、彼の腕が何かに当たる——お湯が入った電子ケトルだ。それは私の目の前で、ぐらりと傾いた。
 安物を買った私が悪いのか。それとも長く使いすぎたからか。
 ちょっとの衝撃で蓋が開き、中の湯が外へ飛び出した。
 その光景が目に焼き付く。
 湯が落ちる様がスローモーションがかかったように見えた。
 危険であり、回避するべきだと頭では理解しているのに、体も口も咄嗟とっさに動かない。逃げての言葉が紡げず、ただ言葉にならない悲鳴が心に満ちた。
 湯が落ちる音が耳を犯し、焼き尽くす。
夏希なつきいいい!」
 名前を叫ぶことしか、できなかった。
 彼女の名前を呼ぶことしか。
 逃げてと、言えなかった。
「ぎゃあああああ!」
 夏希なつきの悲鳴が部屋に満ちる。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

隠れドS上司をうっかり襲ったら、独占愛で縛られました

加地アヤメ
恋愛
商品企画部で働く三十歳の春陽は、周囲の怒涛の結婚ラッシュに財布と心を痛める日々。結婚相手どころか何年も恋人すらいない自分は、このまま一生独り身かも――と盛大に凹んでいたある日、酔った勢いでクールな上司・千木良を押し倒してしまった!? 幸か不幸か何も覚えていない春陽に、全てなかったことにしてくれた千木良。だけど、不意打ちのように甘やかしてくる彼の思わせぶりな言動に、どうしようもなく心と体が疼いてしまい……。「どうやら私は、かなり独占欲が強い、嫉妬深い男のようだよ」クールな隠れドS上司をうっかりその気にさせてしまったアラサー女子の、甘すぎる受難!

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます

沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

包んで、重ねて ~歳の差夫婦の極甘新婚生活~

吉沢 月見
恋愛
ひたすら妻を溺愛する夫は50歳の仕事人間の服飾デザイナー、新妻は23歳元モデル。 結婚をして、毎日一緒にいるから、君を愛して君に愛されることが本当に嬉しい。 何もできない妻に料理を教え、君からは愛を教わる。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

【完結】目覚めたら男爵家令息の騎士に食べられていた件

三谷朱花
恋愛
レイーアが目覚めたら横にクーン男爵家の令息でもある騎士のマットが寝ていた。曰く、クーン男爵家では「初めて契った相手と結婚しなくてはいけない」らしい。 ※アルファポリスのみの公開です。

処理中です...