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第三章 凄惨
4 悪夢は終わらない
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愉快そうに奈良栄先輩は笑っていた。それは悪魔の笑顔に見えた。
「……」
グシャグシャになった楽器を前に、私は茫然とする。乱れた髪のまま、無表情でただ見下ろす。
見たことのない姿。数えられない沢山の傷。あらぬ方向へ曲がる細いキィ。
痛々しいどころじゃなかった。鉄屑と同然の姿に、私は涙すら出なかった。言葉も出なかった。触れることも恐ろしく、ただ金属の塊を見下ろしていた。
先輩がテレビを見ていると、十三時から始まる、地域に密着した番組が始まった。
私のスマートフォンが鳴る。このバイブレーションの長さは着信だ。
「夏希……」
画面に表示される名前を見ると、少し動く気になれた。
「……」
黒電話のマークをタッチする。
『あ! やっと出た! しほり、今どこ⁉︎ 本番はもう明後日よ? 練習、早く来なさいよ!』
怒っている。
でも、私はなにも言えずにいた。もうどうしたらいいの。そんな言葉さえも、全く頭に浮かんでくる気配がない。
その異変に気づいたのか、夏希は自ら言葉を止める。間を置くと、それは心配する声色になっていた。
『……しほり? 今度はどうしたの?』
「……」
『なんかあった? しほり、聴いてる? しほり?』
「……夏希」
相棒の名前を口にすると、底に沈んでいた感情がブワッと舞い上がる。それは涙となって、ぽたぽたと溢れ落ちた。
「たす、けて」
精一杯の言葉だった。そう動かすのが、精一杯だった。
『……今、アパートにいる?』
「うん……」
『待ってな。今から行く。すぐに行くから』
落ち着いた声で私に応えてくれた。
先輩は私の電話に気づいてはいたが、特に気にすることなく、すぐにテレビに視線を戻した。
奈良栄先輩に命令されて、コーヒーを作ろうと再び電気ケトルでお湯を沸かしている時だった。
夏希は十分も経たずに来てくれた。急いで来てくれたのがよくわかるくらい、息を切らせて。
「しほり、大丈夫?」
彼女が来ても、先輩は少しも気にする様子を見せなかった。
カチッと湯が出来上がった音がする。でも私はコーヒーを作らず、夏希に事情を説明した。全て話した。今まで言えなかったことを全て。
最後に、私は楽器を見せた。
震える手で楽器だったモノを出した。
楽器ケースに入らなくなってしまった、無残なフルートを見せる時が、今まで生きてきた中で最も耐え難かった。
寒いわけでもないのに、手が震えて止まらない。あり得ない姿のフルートを見るのが怖くて、怖くて、目を背けたくて仕方がなかった。
もし音楽に魂というものがあるのだとしたら、その魂は我が子を亡くしたように悲しんでいるに違いない。
ごめんなさいと、心の中で何度も謝りながら、楽器に触れた。
それを見た夏希は全てを悟ったような表情をしていた。そして、へらへらした様子でテレビを見る奈良栄先輩の背中を、キッと睨みつける。
「アンタ、何様のつもりよ」
女性の低い声が背中に突き刺さる。しかし、先輩は振り向きもしない。まるで夏希の存在を知らないかのように。
「大切な楽器をこんなふうにして、責任とってくれるんでしょうね!」
「ぁあ? うっせーなぁ。こっちは楽しくテレビ見てんだよ。邪魔すんなブス。おい、しほちゃーん、コーヒーはまだかよ。遅えんだよ」
一瞥しただけで、すぐにテレビの画面に戻った。
頭に血が上った夏希は、どかどかと歩み寄った。
「アンタに出すコーヒーなんかあるわけないでしょ! コンサートが中止になったら、その費用と壊した楽器代、弁償してもらいますから」
無視をする先輩の背中に金額を押し付ける。
「百万、飛んで五百円。これにキャンセルで払い戻しのチケット代が加わったら凄い値段よね。もちろん、弁償、してくれますよね?」
金額を聞いた先輩の顔色が変わる。なんでその金額を払わないといけないんだと、苛立った眼差しで夏希を見上げた。
彼女は一瞬怯むが、歯を食いしばって耐える。
「お前さあ、急にやって来てでしゃばってんじゃねーよ」
舌打ちをしながら、ゆらりと立ち上がる。
「先輩、お願いします……夏希は傷つけないで」
私は二人の間に割って入る。だが、彼は簡単に私の体を押し除けた。
「しほちゃんさー、お願いばっかりだよねー」
「私の友達だから……手を出してほしくなくて……」
「でもさぁ、向こうから来たよね? 来たよね?」
その悪魔の笑顔が怖かった。
「だから多少殴られても仕方がないよね」
「根っからの暴力男じゃん」
「ああ?」夏希の言葉に先輩はテーブルを蹴飛ばす。
ぶつかる大きな音が耳を貫き、怖くて身を縮こまらせた。
「しほり! 絶対にこんな奴と付き合うなよ! こんな奴に大切なダチは絶対に任せらんない! しほりが不幸になるだけだ!」
夏希の唇が微かに震えている。手も、足も。怖いはずなのに、彼女は尚も威勢を崩さなかった。
私の為にはっきりと言ってくれる。そんな優しさと勇気に、双眸からあたたかいものがぽろぽろと零れ落ちた。
「そーゆうことはさぁ、本人が決めることなの」
「暴力でしほりに脅迫させない。絶対に!」
「はあ? 俺はさぁ、力で屈服させるタイプじゃないよ? 別に。言葉でコミュニケーションをとってんの」
「アンタ、ドメスティック・バイオレンスって知ってる?」
「暴力で人を支配する奴でしょ? そういやぁ、最近ニュースでよく見るよねー」
「言っとくけどね、殴る蹴るがドメスティック・バイオレンスじゃないの。大声で怒鳴ったり、大切なものを壊したりするのも暴力て言うのよ!」
夏希の言葉に、様々な記憶が脳裏に流れる。
彼に頬を打たれた。
彼にフルートを壊された。
今だって、彼は夏希に酷いことを言った。
この先輩は病気だ、きっと。私には先輩を受け止めることは、到底できない。
「夏希……やっぱり危ないよ。だから——」
逃げよう。この場からすぐに二人で逃げよう! この人を女二人で対処できないよ。
そう口に出そうとした瞬間、先輩は激怒した顔で夏希に近寄った。
「黙っとけよッ! クソがッ‼︎」
「夏希!」
先輩は夏希の体を押し倒す。
電気ケトルを置く白いキッチンカウンターに、彼女の小さな背中が当たり、大きく揺れた。
先輩が彼女に上乗りになろうと身を乗り出した時、彼の腕が何かに当たる——お湯が入った電子ケトルだ。それは私の目の前で、ぐらりと傾いた。
安物を買った私が悪いのか。それとも長く使いすぎたからか。
ちょっとの衝撃で蓋が開き、中の湯が外へ飛び出した。
その光景が目に焼き付く。
湯が落ちる様がスローモーションがかかったように見えた。
危険であり、回避するべきだと頭では理解しているのに、体も口も咄嗟に動かない。逃げての言葉が紡げず、ただ言葉にならない悲鳴が心に満ちた。
湯が落ちる音が耳を犯し、焼き尽くす。
「夏希いいい!」
名前を叫ぶことしか、できなかった。
彼女の名前を呼ぶことしか。
逃げてと、言えなかった。
「ぎゃあああああ!」
夏希の悲鳴が部屋に満ちる。
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