風のフルーティスト -Canary-

蒼乃悠生

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第三章 凄惨

2 心を切り裂いて、なめて

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  ■ ■ ■


 本当に彼は来た。
 二十三時過ぎ、奈良栄ならさか先輩はケーキの箱を持って、私が住むアパートに。
「調子はどう? 眞野まのさん、ケーキが好きでしょ? 駅前にできた新しいケーキ屋さんで買ったんだ。かなり時間が経ってるけど~美味しいと思うんだよね~」
 怒涛どとうの片付けと掃除で、なんとか人を入れられる程度に部屋は片付いた。
 しかしこの時間帯ということもあって、正直な話、すぐに帰ってほしい。悪い人ではないのはよくわかる。でも、疲れる。考えてから来てほしい。
 様々な果物が乗ったショートケーキを一口入れながら考える。私ってケーキが好きだっけ? 別に嫌いではないが、先輩にケーキが好きだと言った覚えはない筈だ。
「……ん……」
 欠伸が出そうになるのを堪える。眠たい。眠たいのだ。先輩、察してくれないだろうか。
「……はい、美味しいです」
「あれ? 眞野まのさん、元気ない? ちゃんと食べて、よく寝ないと元気は出ないよ?」
 わかってます。わかってますとも。
 私は半分くらいケーキを食べたところで、フォークを置いた。
「先輩」
「なになに?」
 そう言って体を近づけてくる。そして酒のような臭いが空気に乗ってやってきた。
「……お酒、飲みました?」
「うん! 部長と飲んでました~!」
 顔をほんのりと朱色に染め、陽気に答える。
 彼は彼なりに私のことを心配してくれているのだろうが、今の私には負担だった。ケーキを食べる暇があるのなら、『カルメン幻想曲』のイメージを固める為に、音楽を流しながら楽譜を読みたいところ。
 先輩に気付かれないように溜息をつくと、不意に肩辺りになにかが触れた。突然過ぎて、一瞬だけ息が止まる。
「ひゅっ!」
「しーほーちゃんっ」
 奈良栄ならさか先輩の太くて、大きな手が肩に乗っている。そしてご機嫌そうに、下の名前で呼んだ。
 私は愛想笑いを浮かべながら、先輩の手を肩から下ろす。すると今度は手を握られた。手から体に向かって鳥肌が立ち、背中は寒気を感じた。
「あの、先輩……」
「俺なりにぃ、しほちゃんのことぉ、心配してんの! わかる? わかる?」
「先輩、手……」
 離してください。
 そうはっきりと言える自分だったら、どれほど良かっただろう。
 彼は私の意図する気持ちに反して、嬉しそうな顔をした。
「しほちゃんの手、小さいねぇ。可愛い」
 ぶわっと、全身に鳥肌が立った。
「ちょ、と……やめ、て」
 絞り出すように出した声は、先輩の耳には届かなかった。へらへらと笑う彼の姿を見て、内心ホッとする。
 彼に言われたら喜ぶ台詞なのかもしれない。顔は整っていて、声も良くて、仕事もできて、人望もあって。良いところを挙げたらキリがないくらいの男性に、こんなに接近してもらえるなんて、嬉しいことなのかもしれない。
 なのに私は、触らないで——そう反射的に思った。だから、気づく。

 私、先輩のことは好きじゃない。

 周りの期待というか、周りが望む希望を想像してというか、そんなものに踊らされて、舞い上がっていただけなんだ。
 だって、こんなにも——怖い。
 手が震える。
 汗を握る。
 いくら手を離そうとしても、男の力は強かった。本気を出せば、少しくらいは突き離せると期待していたのに、全く駄目だった。だから力に支配される恐怖が襲った。
 だからこそ私は笑顔を作る。
「あ……あの! 演奏会なんですけど、興味ないってこの前おっしゃってましたよね? 案外聴いてみたらハマるかもしれませんよ? だから、一回——」
 ポスターを渡そうと先輩から離れようとした瞬間、私の体はいとも簡単にぐいっと引き寄せられ、先輩の腕の中へすっぽりと包まれた。
 鼻を擽る酒の匂いと、服に染み付いたタバコの匂い。そして、男らしい汗の匂い。
 頭の中が真っ白になった。
「しほちゃんって、彼氏いないんでしょ?」
「……あ、の、はい」
 そう答えた後、嘘でもつけば良かったと後悔する。
「俺が彼氏って、嫌?」
 まさか告白されるなんて思わなかった。
「先輩、かなり酔ってますね」
 逃げようと思って、胸を押してもびくともしない。逃げられない。
 どうしよう。
 触らないで。
 お願い。
 これ以上はやめて。
「返事は今すぐじゃなくてもいいから、考えてみてよ」
 笑いかけられる。でも、その仮面の下はどんなふうになってるの?
「先輩は会社みんなに慕われてますから、そんな人を独り占めするわけにはいけませんし」
 やんわりと断ったつもりだった。
 ぐいっと顔が近くなる。
「いいよ。君になら」
 やめて。
「俺の全部、あげちゃう」
 いや!
 頭の中で一瞬鮮やかに映る人影——福岡ふくおかくんなら、絶対にこんなことしない。
「だからさぁ、しほちゃんの全てをちょうだい」
 胸元を何回も叩いた。なにをやっても変わらない。
 その内、叩く腕が鬱陶しくなったのか、両手を掴まれた。これはもう諦めるしかないのか。
 その時——音が鳴った。テーブルに置いた、私のスマートフォンからだ。
 先輩は時が止まったかのようにピタリと止まり、ゆっくりと睨みつけるようにスマートフォンへ視線を向ける。
 それを見た私は、理由はないが助かったと思った。一瞬力が緩んだ腕から、すかさずすり抜ける。
「あ、友達からだ! ちょっと電話に出てきますね」
 自分でもわかるくらい声が震えていた。
 私は画面を隠すようにタッチしながら、ドアから外に出た。
 ドアの前で立ったまま電話のフリをしていると、先輩が出てきて、軽く会釈して帰っていった。その背中を見送ってから、全身の力が抜けるように、その場に座り込んだ。
「ナイス、夏希なつきのメール……」
 実は夏希なつきからメールを受信した時、あたかも着信があったと見せかけるように、演技をした。ちょうどよく画面を下にしてテーブルに置いてあったからよかったものの、長い間見られたらすぐにバレていただろう。
 なので、いかに着信があったかのように演技をすることと、理解される暇を与えないスピード勝負だ。あと、先輩が酔っ払っていたからこそ騙せたのだろう。
「助かった……本当に、ありがとう……夏希なつき
 スマートフォンを握り締める。
 夏希なつきならコンサートのことで、よく連絡を取り合うことが多い。困った時に、それを上手く利用しようと考えていたが、成功したようで助かった。いや、実は失敗していて、腹を立てて帰られただけなのかもしれないが。
 暫くの間、ぬるい夜風に当たっていると、受信音が鳴る。奈良栄ならさか先輩だった。
『遅くにごめんな』
 という謝罪の言葉の次には、
『二十日、日曜日は暇? 空いてたら、その日の返事を聞かせてよ』
 それを読んだ瞬間、ガクッと項垂れる。コンサートの本番が祝日の二十二日。無理に決まってるじゃないか。
 ホールのリハーサルは当日の午前中に。コンサートの流れを確認するのは、その前日。本番の二日前は、演奏の最後のチェックをする日だと決めている。だから、とてもじゃないけど、先輩に付き合う時間など一秒もないのだ。
 こんな時に告白してくるか? 普通。
 コンサートは大事なのに、邪魔しないで!
 そう叫んでやりたかった。
 でも、そう叫べない自分にも腹が立って、頭を両手で抱えるしかできなかった。
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