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第三章 凄惨
2 心を切り裂いて、なめて
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本当に彼は来た。
二十三時過ぎ、奈良栄先輩はケーキの箱を持って、私が住むアパートに。
「調子はどう? 眞野さん、ケーキが好きでしょ? 駅前にできた新しいケーキ屋さんで買ったんだ。かなり時間が経ってるけど~美味しいと思うんだよね~」
怒涛の片付けと掃除で、なんとか人を入れられる程度に部屋は片付いた。
しかしこの時間帯ということもあって、正直な話、すぐに帰ってほしい。悪い人ではないのはよくわかる。でも、疲れる。考えてから来てほしい。
様々な果物が乗ったショートケーキを一口入れながら考える。私ってケーキが好きだっけ? 別に嫌いではないが、先輩にケーキが好きだと言った覚えはない筈だ。
「……ん……」
欠伸が出そうになるのを堪える。眠たい。眠たいのだ。先輩、察してくれないだろうか。
「……はい、美味しいです」
「あれ? 眞野さん、元気ない? ちゃんと食べて、よく寝ないと元気は出ないよ?」
わかってます。わかってますとも。
私は半分くらいケーキを食べたところで、フォークを置いた。
「先輩」
「なになに?」
そう言って体を近づけてくる。そして酒のような臭いが空気に乗ってやってきた。
「……お酒、飲みました?」
「うん! 部長と飲んでました~!」
顔をほんのりと朱色に染め、陽気に答える。
彼は彼なりに私のことを心配してくれているのだろうが、今の私には負担だった。ケーキを食べる暇があるのなら、『カルメン幻想曲』のイメージを固める為に、音楽を流しながら楽譜を読みたいところ。
先輩に気付かれないように溜息をつくと、不意に肩辺りになにかが触れた。突然過ぎて、一瞬だけ息が止まる。
「ひゅっ!」
「しーほーちゃんっ」
奈良栄先輩の太くて、大きな手が肩に乗っている。そしてご機嫌そうに、下の名前で呼んだ。
私は愛想笑いを浮かべながら、先輩の手を肩から下ろす。すると今度は手を握られた。手から体に向かって鳥肌が立ち、背中は寒気を感じた。
「あの、先輩……」
「俺なりにぃ、しほちゃんのことぉ、心配してんの! わかる? わかる?」
「先輩、手……」
離してください。
そうはっきりと言える自分だったら、どれほど良かっただろう。
彼は私の意図する気持ちに反して、嬉しそうな顔をした。
「しほちゃんの手、小さいねぇ。可愛い」
ぶわっと、全身に鳥肌が立った。
「ちょ、と……やめ、て」
絞り出すように出した声は、先輩の耳には届かなかった。へらへらと笑う彼の姿を見て、内心ホッとする。
彼に言われたら喜ぶ台詞なのかもしれない。顔は整っていて、声も良くて、仕事もできて、人望もあって。良いところを挙げたらキリがないくらいの男性に、こんなに接近してもらえるなんて、嬉しいことなのかもしれない。
なのに私は、触らないで——そう反射的に思った。だから、気づく。
私、先輩のことは好きじゃない。
周りの期待というか、周りが望む希望を想像してというか、そんなものに踊らされて、舞い上がっていただけなんだ。
だって、こんなにも——怖い。
手が震える。
汗を握る。
いくら手を離そうとしても、男の力は強かった。本気を出せば、少しくらいは突き離せると期待していたのに、全く駄目だった。だから力に支配される恐怖が襲った。
だからこそ私は笑顔を作る。
「あ……あの! 演奏会なんですけど、興味ないってこの前おっしゃってましたよね? 案外聴いてみたらハマるかもしれませんよ? だから、一回——」
ポスターを渡そうと先輩から離れようとした瞬間、私の体はいとも簡単にぐいっと引き寄せられ、先輩の腕の中へすっぽりと包まれた。
鼻を擽る酒の匂いと、服に染み付いたタバコの匂い。そして、男らしい汗の匂い。
頭の中が真っ白になった。
「しほちゃんって、彼氏いないんでしょ?」
「……あ、の、はい」
そう答えた後、嘘でもつけば良かったと後悔する。
「俺が彼氏って、嫌?」
まさか告白されるなんて思わなかった。
「先輩、かなり酔ってますね」
逃げようと思って、胸を押してもびくともしない。逃げられない。
どうしよう。
触らないで。
お願い。
これ以上はやめて。
「返事は今すぐじゃなくてもいいから、考えてみてよ」
笑いかけられる。でも、その仮面の下はどんなふうになってるの?
「先輩は会社みんなに慕われてますから、そんな人を独り占めするわけにはいけませんし」
やんわりと断ったつもりだった。
ぐいっと顔が近くなる。
「いいよ。君になら」
やめて。
「俺の全部、あげちゃう」
いや!
頭の中で一瞬鮮やかに映る人影——福岡くんなら、絶対にこんなことしない。
「だからさぁ、しほちゃんの全てをちょうだい」
胸元を何回も叩いた。なにをやっても変わらない。
その内、叩く腕が鬱陶しくなったのか、両手を掴まれた。これはもう諦めるしかないのか。
その時——音が鳴った。テーブルに置いた、私のスマートフォンからだ。
先輩は時が止まったかのようにピタリと止まり、ゆっくりと睨みつけるようにスマートフォンへ視線を向ける。
それを見た私は、理由はないが助かったと思った。一瞬力が緩んだ腕から、すかさずすり抜ける。
「あ、友達からだ! ちょっと電話に出てきますね」
自分でもわかるくらい声が震えていた。
私は画面を隠すようにタッチしながら、ドアから外に出た。
ドアの前で立ったまま電話のフリをしていると、先輩が出てきて、軽く会釈して帰っていった。その背中を見送ってから、全身の力が抜けるように、その場に座り込んだ。
「ナイス、夏希のメール……」
実は夏希からメールを受信した時、あたかも着信があったと見せかけるように、演技をした。ちょうどよく画面を下にしてテーブルに置いてあったからよかったものの、長い間見られたらすぐにバレていただろう。
なので、いかに着信があったかのように演技をすることと、理解される暇を与えないスピード勝負だ。あと、先輩が酔っ払っていたからこそ騙せたのだろう。
「助かった……本当に、ありがとう……夏希」
スマートフォンを握り締める。
夏希ならコンサートのことで、よく連絡を取り合うことが多い。困った時に、それを上手く利用しようと考えていたが、成功したようで助かった。いや、実は失敗していて、腹を立てて帰られただけなのかもしれないが。
暫くの間、ぬるい夜風に当たっていると、受信音が鳴る。奈良栄先輩だった。
『遅くにごめんな』
という謝罪の言葉の次には、
『二十日、日曜日は暇? 空いてたら、その日の返事を聞かせてよ』
それを読んだ瞬間、ガクッと項垂れる。コンサートの本番が祝日の二十二日。無理に決まってるじゃないか。
ホールのリハーサルは当日の午前中に。コンサートの流れを確認するのは、その前日。本番の二日前は、演奏の最後のチェックをする日だと決めている。だから、とてもじゃないけど、先輩に付き合う時間など一秒もないのだ。
こんな時に告白してくるか? 普通。
コンサートは大事なのに、邪魔しないで!
そう叫んでやりたかった。
でも、そう叫べない自分にも腹が立って、頭を両手で抱えるしかできなかった。
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