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第二章 欺瞞で顔を作って嘘をつく
9 カフェオレの温もり
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学校からアパートに帰る気になれなかった私は、喫茶店『マリアージュ』にいた。
煉瓦造りの建物の両脇には観葉植物が飾られている。木目調のクラシックなドアを開けると、鈴の音が迎えてくれた。
レザー生地の赤い長椅子に腰掛ける。大きな窓を覗けば、曇り空が広がる。
天気が良ければ、陽の光が多く入り、店内は一段と明るい。だが、今は曇天の為、普段より早く空は暗くなり、店内をオレンジ色の電灯が彩る。
耳にイヤホンをし、テーブルに楽譜を広げて、音符を目で追いかける。
そして、頼んでいたカフェオレを一口。
鼻に届く珈琲豆の芳ばしい香り。口の中は酸味が少なく、コクのある味わいが広がる。苦味をミルクと砂糖でコーティングし、ブラックが飲めない私には、このカフェオレが好きだった。
何度もコンサートで演奏する曲を聴いた。ピアノ伴奏の楽譜も覚えるくらいに。
私はプロではないから、数回のアンサンブルで仕上げることは困難。だからこそ、プロのようなスキルがない分、努力で補う。
ピアノと合わせにくいフレーズに丸を付ける。
音程が変わりやすい音符には、矢印で、音程をどう意識しなければならないかを書く。
曲の最も盛り上がる場所はどこか。逆に、落ち着く場所はどこか。
鉛筆で書き続けた。楽譜が真っ黒に見えてしまうくらい、何度も何度も。頭が、体が覚えるまで。
「しほりちゃん」
頭上からお爺さんの声が落ちてくる。
この喫茶店のマスターだ。黒いカッターシャツに、ブラウンのギャルソンエプロン。ヨーロッパの血が半分入っているらしく、ハーフ顔とスタイルの良さから、渋くて格好いいと大人気。
スマートフォンの停止ボタンをタッチして、音楽を止めた。
「マスター。ごめんなさい、場所を借りてます」
「ハハッ。ああ、いいんだ。客なんていないんだから、気にすることはないよ」
マスターはカウンターに座る。自慢の白い髭を撫でながら口を開いた。
「コンサートがもう少しだったかな?」
「はい。九月だから、あと少しですね」
「来月か。あっという間だねぇ、ホッホッホ」
「あ、そうだ。ポスターがあるんですよ。貼ってもらっても大丈夫ですか?」
トートバッグからノートくらいの大きさのポスターを取り出した。
巻いた紙を止めている輪ゴムを外すと、露わになる秋空に向かって咲く秋桜の写真。その上部に『クラシック好きの為のクラシックコンサート』と書かれた、自作のポスターだ。
それを手に取ったマスターは感嘆の声をあげた。
「おお、これは素晴らしい! この秋桜の写真も美しいが、演奏者がとても綺麗で、惚れてしまいそうだよ」
「かなり盛りましたから、特に私の写真は」
自慢げに話した後、空笑いをする。
人物紹介で載せた写真。わざわざスタジオで撮った甲斐があった。お見合いの写真にも使いたいほど、綺麗に撮れた。
紺色のドレスは、体の線がくっきりと出るスレンダーラインで、足元の窮屈さを解消する為に、太腿あたりから切り込みが入っている。
勝負服のような気持ちで、このドレスに決めた。そして、コンサートではそれを着ると決めている。
「しほりちゃんって、音楽学校を卒業してないんだろう?」
「はい」
「毎年しほりちゃんの演奏会を聴かせてもらっているけど、プロみたいに上手いのに、何故その学校に行かなかったんだい?」
不思議そうな顔をしていた。そんな実力があるなら、音楽学校に行けばよかったのにと、言いたげな表情。
「それは……」
十七の夏、音楽大学に行きたいと母に伝えた。
「私も行きたかったんですけどね」
ハハッと笑ってみせる。頬をポリポリと指先で掻いた。
「実は中学二年生の時に親が離婚したんです。吹奏楽に入って、父が母に内緒で楽器を買ったことがきっかけで、喧嘩になって……父と離れ離れになりました。それから母は音楽に対して嫌悪感しかなくて、音大は猛反対されました」
視線が落ちる。
「そうだったのかい」
「はい。特に、離婚してから母の心に余裕がなくなって……。母に老後が心配だから早く彼氏を作れ、結婚しろって、最近はずっと言われてるんですよ。困っちゃいました」
「お母さん、生活が不安なんだね」
「だから、お母さんが納得しそうな人を見つけたんです。年上で、仕事ができて、人望もあって、将来有望な人」
「へえ。じゃあ、しほりちゃんは、今お付き合いしてるのかい?」
私はカフェオレを飲み、その水面を眺めた。
「付き合った方が母は安心するかなって……好きになろうと、私なりに努力したんですけどね」
「付き合ってはいないわけか」
「私は付き合ってないと思うんですけど、相手はどう思っているのか……。話が噛み合わない時があるので」
些細なお茶をデートと呼ぶところとか。
「その口ぶりだと、その男性とは合わないようだね」
「うーん……その……私が大切にしたいものを一緒に大切にしてくれないというか」
「人の価値観はそれぞれだし、無理やり合わせてもらうものでもないからなぁ」
「それは……うん、そうなんだけど。向こうの大切にしたいことは、付き合わされるみたいな……」
奈良栄先輩からどこかに遊びに行きたいと言われたら、必ず付き合わされる。でも私のやりたいコンサートの練習は休めと言われる。そんなの不公平だよ。
「なら、放っておけばいいじゃないか」
「え……?」
マスターの言葉に唖然する。
「んー。簡単に言えば、鬱陶しいヤローってことなんだろ? ホッホッホッ」
「そう! 確かに鬱陶しいヤローなんですよ!」
私は腹から笑った。テーブルに置いたスマートフォンが震える。
「鬱陶しいヤローからのメールかい?」
マスターは笑いながら訊く。
「そうですね」
「しほりちゃんの表情が暗かったのは、その男のせいだったわけか」
ハッとする。
「へ? く、暗かったですか? 表に出さないように気をつけてはいたんですけど」
「しほりちゃんとの付き合いは長いからね」
「そんなにわかりやすいです……? 夏希にも……似たようなことを言われたんで」
福岡くんにも。
「ホッホッホッ! まあまあ。それも長所だ」
朗らかに笑うと皺が濃くなる。その笑顔が可愛らしい。男性に可愛いだなんて失礼なのかもしれないけど、思うだけならいいよね。癒されるなぁ。
マスターは壁に掛けられた時計を見て、立ち上がった。
「コンサートを聴きに行くから、頑張ってね」
「はい!」
頑張らなきゃ。
数あるコンサートの中で、私達の演奏を選んで、わざわざ足を運んでくれる人がいる。選んでくれた人の為に、無様な演奏は聴かせられない。
「私、頑張ります! だから今後とも宜しくお願いします」
頭を下げられるだけ下げた。
来年に繋がるように頑張らなきゃ。アマチュアでもやれるんだって。音大やプロの肩書きなんてなくても、やれるんだって。
カフェオレを飲む。
奈良栄先輩のことを詳しく話せなくても、ほんの少し話しただけで、気が楽になった。
明日からもっと頑張らなきゃな。
「こんにちは」
男女のカップルらしき人達が、喫茶店に入ってきた。
どこに行ってもカップルか。
そう嫌気がさしていた時、気づく。
「ふ」
思わず口を塞ぐ。
福岡くんだ。
しかも靴箱で見た、可愛らしいショートボブの女の子と一緒。若い子は駅前にあるオープンしたばかりのカフェにでも行けばいいのに。
私は流し込むようにカフェオレを飲んだ。少しずつ飲んで味わいたかったが仕方がない。この場から早く逃げ出したかった。
楽譜をせっせと片付け、マスターにカフェオレ代を直接手渡す。
「マスター、ご馳走様。また来ます」
カウンターに座る福岡くんの後ろを通り過ぎる。特に呼び止められることもないまま、店を後にした。
もしかして気づいてない? その方が私にとって好都合だから良いけど、なんかモヤモヤする。
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