3 / 55
第一章 大人の私と高校生の君
2 六月の夜
しおりを挟む■ ■ ■
白いトートバッグを右肩に、レモン色のシャイニーケースを背中に掛けて、慣れた住宅街の夜道を歩いていた。
少しずつ夏が近づいている。夜はまだ涼しい風が吹くが、その風が少しずつ暖かくなっているのを肌で感じていた。今日も雨は降っていないし、このまますぐに夏はやってきそうだ。
残業後、結局喫茶店には行かずに〝練習〟へ直行した。その〝練習〟が終わり、帰る頃にはすっかり暗くなっていた。
一人暮らしをする私は、誰も出迎えてくれないアパートへと帰る。
最初は、夜に帰宅するのは怖かったものだ。でもここは街路灯が多く、道が明るかったことと、この生活に慣れてしまったこともあって、もう怖いと感じない。
そして、もう一つ理由がある。
「はー! 今日も疲れたなぁ。書類を整理すればするほど仕事が増える、無限増殖……ヤダヤダ。お母さんの小言もヤダヤダ」
独り言だ。
遅い時間ということもあって、周りに人がいないから誰にも聞かれないし、星空を見ながら愚痴を言うとスッキリするのだ。
見上げた星空は綺麗で、愚痴を吸い取ってくれるかのように。海よりも大きな夜空は、私の悩みがちっぽけのように感じさせてくれる。
「あー彼氏が欲しい。優しくて、助けてくれる彼氏がほしいなぁ。そうなると、やっぱり年上かなぁ」
それにしても普段以上に独り言が多い。本日は絶好調。いや、歳かな。
吐き出したい愚痴を全て言い終え、鼻歌を歌っていると、不意に思い出す。
「そういえば、お母さんから連絡が来てない。珍しいなぁ」
会社にいる時、勝手に電話を切ったのに、母の着信やメールの受信音が鳴っていない。普段なら文句の一言は言うだろうに。
こんな娘に呆れたのかな。言い過ぎたかもしれないと思いながらも、母の小言を聞かずに済むのは、なんて気分が良いのだろうと、顔の筋肉が緩くなる。
軽快に、コツコツとヒールの音を鳴らしながら夜道を歩く。
深夜だからか生活音はなく、遠くから車の走る音さえも聞こえない。耳を澄ませても、どこにも音らしい音がない。
なによりも不思議なのは、普段はよくジージーと鳴く虫の鳴き声もないことだ。
その無音の世界は、閉じられた空間のような不気味さだけでなく、心を剥き出しにされるような感覚を肌で感じさせた。
唯一、そんな世界に音の主張をする私を、生温い風が追い抜いていった。
「?」
普段から人通りの少ない道。
でも、なにかおかしい。
そういえば背後から足音がする。いや、きっと気にしすぎだ。住宅地に誰かいても、全くおかしいことではない。
「……」
踵を引きずるような音——男だろうか。
そう思った瞬間、ぞっと背中に悪寒が走る。
時は六月。太陽のない深夜は涼しいが、寒いと肌で感じることは少ない。それなのに今は、体中の血が凍るような寒気に襲われる。
忍び寄る恐怖から逃げるかのように、歩くスピードを速めた。
違う。きっと違う。
あの足音は違う。誰でもない、ただの通行人の一人に違いない。
そう思い込もうとする私を嘲笑うかのように、少しずつその足音は近づいてくる。
音が、怖い——
そう感じた直後、トートバッグとシャイニーケースを抱えて走り出した。無我夢中で走った。すると後ろの足音も速くなり、付いて来るではないか。
おかしい。
私が走ったら後ろの人も走るって、やっぱりおかしい。よくドラマやアニメで見るようなシーンにそっくりだ。
ストーカー?
通り魔?
わからない。でも、後ろの人がなにであっても犯罪者なら怖い。
「ちょ……なんでっ……付いて来るの……⁉︎」
走る。走る。もっと走る。
でも、後ろの人は私より速かった。突き放すことは叶わない。高いヒールを履いていたのが、そもそも間違いだ。早く走ること自体が不可能。謎の気配がすぐそこまで迫ってきていた。
「もうヤダ! ……助けて!」
ガシッと掴まれた腕。まるでそこにボタンが付いていたかのように、私は口を大きく開き、叫んだ。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
隠れドS上司をうっかり襲ったら、独占愛で縛られました
加地アヤメ
恋愛
商品企画部で働く三十歳の春陽は、周囲の怒涛の結婚ラッシュに財布と心を痛める日々。結婚相手どころか何年も恋人すらいない自分は、このまま一生独り身かも――と盛大に凹んでいたある日、酔った勢いでクールな上司・千木良を押し倒してしまった!? 幸か不幸か何も覚えていない春陽に、全てなかったことにしてくれた千木良。だけど、不意打ちのように甘やかしてくる彼の思わせぶりな言動に、どうしようもなく心と体が疼いてしまい……。「どうやら私は、かなり独占欲が強い、嫉妬深い男のようだよ」クールな隠れドS上司をうっかりその気にさせてしまったアラサー女子の、甘すぎる受難!
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます
沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

包んで、重ねて ~歳の差夫婦の極甘新婚生活~
吉沢 月見
恋愛
ひたすら妻を溺愛する夫は50歳の仕事人間の服飾デザイナー、新妻は23歳元モデル。
結婚をして、毎日一緒にいるから、君を愛して君に愛されることが本当に嬉しい。
何もできない妻に料理を教え、君からは愛を教わる。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
【完結】目覚めたら男爵家令息の騎士に食べられていた件
三谷朱花
恋愛
レイーアが目覚めたら横にクーン男爵家の令息でもある騎士のマットが寝ていた。曰く、クーン男爵家では「初めて契った相手と結婚しなくてはいけない」らしい。
※アルファポリスのみの公開です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる