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第零章
零話 暗殺者
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彼の人生には、何も無かった。否――手元に残ったのは、何千人という積み重なった血と、永遠に埋まることのない虚しさ。
初めてそれをしたのは、一体いつ頃だろうか。曖昧な記憶を手繰り寄せるも、思い出す兆候はない。
もはや、それに慣れてしまった。一人、十人、百人、千人――多くの人間を殺めた。
どうすれば、人生を変えられるのだろうか――そんな思考が許されないところまで、気が付いたら進んでしまった。
今日も彼は、血を浴びに出掛けた。
■□■□
真っ赤な絨毯を進んだ青年が、ある個室の前で歩みを止める。
一風変わった風貌はなく、どこにでも見かけるような姿をしている。強いて言うのならば、ホテルスタッフ専用に仕立てられた、上品な制服が人目を惹くという点ぐらいだろう。
一定のリズムで二度、ドアノブを叩く。
青年が一室に足を踏み入れた矢先。濃醇なほどの甘い香りに、眉根を顰めた。
椅子に腰掛ける老人の身なりは、まさしく金持ちの成金といったところだった。無意味な程に金色のネックレスや時計を付け、歯まで金歯に差し替えられているではないか。ギラリ、と無駄に気色の悪い輝きが出迎えた。
青年は、微笑みかけながら近寄る。ワインボトルを机に置くと、グラスに注ごうと、コルクを抜く。
「ポムロル原産、ペトリュスのワインボトルをお持ち致しました」
ペトリュス――世界で最も高値で取引されるワインと称された一品。
口に入れるものさえこだわり抜いているのだろう。
目の前の老人は、異質なほどに青年を視線で追っていた。恐らく、一足一挙を見逃さんと見張っているのであろう。
なんと言っても、目の前の老人こそ、麻薬密輸の幹部なのだから。国内、国外問わず、最大規模を誇る密輸組織。各国が足取りを掴むのに苦労する中、青年は意図も簡単に幹部の一人と接触していた。
「できるだけ時間を掛けて、ゆっくりと丁寧に頼む」
愛想の良い笑みを浮かべた青年が注ぐワインボトルの飛沫音が、しなやかに広がっていく。
青年が何気な首を傾げた次の瞬間。ひゅっ、と小さく風を切る音とともに、爆音が室内に満ちた。
青年の視線が、音のする方向に動く。腕を下さずに向けたまま、銃口から白い煙が上がっていた。微かに、焦げたような臭いが、鼻腔をつつく。
「危ないじゃないか」
「……やっぱり国家の犬か。だが残念だったな、小僧」
ワインボトルを机に置いた青年は、再度発砲された弾丸を避けつつ、辺りを確認。取り囲むように、十人の男達がそれぞれ配置についていた。
正面に向けて、青年が地を蹴った瞬間。
ばたっ、と男達五人が絨毯に倒れ、鮮血を広げていく。三秒に過ぎない時間だったが、青年にとっては十分な猶予であった。
ただ簡単なこと。どこからか取り出した短剣を、首筋に添えるだけ。脳と心臓を行き交う静脈は、人間の弱点と言っても過言ではない。
すると、円の外側に立っていた青年に向けて、どこからか雷撃が駆け走る。次いで、一人の男がこちらに手を伸ばすと、槍の形に変形し、高速で飛来。
「死ねぇッ……!!」
能力と呼ばれる、数年前に発見された特殊な超能力の仕業だ。どれか一つでも喰らった瞬間、全身は吹き飛び、戦闘不能となる致命傷。
そんな危機的状況で。なんと青年は、ニッと不敵な笑みを浮かべた。
次いで、地を蹴り上げ宙に躍り出ると、全ての攻撃を躱しながら、人間離れした速度で肉薄。
目にも止まらなぬ速さで、雷撃が唸りを上げて、室内に迸る。青年の視界が雷光で染まりあげるも、壁を移動して避けた。
「ここに来た目的は、老いれた年寄り一人を殺すだけなんだがな。無駄な殺傷は好まないが……妨害するならば、仕方ない」
片手に収まっていた短剣を、男達の首元に添わせ、ただ引き抜く。静脈を切り落とすと、一斉に血花が吹き荒れ、刃先が朱色に染め変わる。
眉根を顰めるほどに、鉄の臭いが猛烈に喉元を刺激。思わず、青年は嗚咽をこぼす。
仕立ててもらった制服も、赤黒い液体に汚染されていた。
「ば、馬鹿な!? 私が選び抜いた戦闘員達なのに……ッ。な、何者だ、貴様はッ!?」
「俺か? ただの暗殺者さ」
不敵に笑いかけた青年が、優雅な足取りで絨毯を踏む。まるで、映画のワンシーンかのような、非現実的な景色。
だが、これは仮想現実でなければ、異世界でもない。
血を流し、白目を向けながら、間抜けの殻となった死体。青年の手の甲には、べっとりと朱色の液体。
彼が生き抜く世界は、まさしくこの空間にある。
「っ……こんなことをして、ただで済むと思っているのか。小僧がッ」
すっかりと床に尻餅をつき、肩を震わせる老人。死神の歩みが、また一歩進む。
「ただで済むと思っているのかって?」
老人の手前で足を止めた青年が、殺傷対象を鋭い双眼で捉える。
「あぁ、思ってない。だからこそ、俺はこんな血と権力で薄汚れた世界に存在しているんだろうな」
「この報いは絶対に……ッ」
「なぁ、小汚いおっさんにペトリュスは似合わないんじゃないか? ま、死ぬ記念にこれはくれてやる……あの世で懺悔でもしとけよ」
真っ青に染まった老人。ワインボトルを掴み、そのまま力任せに薙ぎ払う。豪快にガラスの弾ける音と、中身の液体が老人の身体を襲う。辺りは血液とワインの液体によって、血溜まりが広がっていた。世界で最も高価な値段で取引されるワインが、虚しくも絨毯に垂れ落ち、汚していく。
動かないターゲットを一瞥すると、青年は捨てるように呟いた。
「……折角の高級ワインが台無しだな」
血に染まった静寂が、辺りを支配した。
――――
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初めてそれをしたのは、一体いつ頃だろうか。曖昧な記憶を手繰り寄せるも、思い出す兆候はない。
もはや、それに慣れてしまった。一人、十人、百人、千人――多くの人間を殺めた。
どうすれば、人生を変えられるのだろうか――そんな思考が許されないところまで、気が付いたら進んでしまった。
今日も彼は、血を浴びに出掛けた。
■□■□
真っ赤な絨毯を進んだ青年が、ある個室の前で歩みを止める。
一風変わった風貌はなく、どこにでも見かけるような姿をしている。強いて言うのならば、ホテルスタッフ専用に仕立てられた、上品な制服が人目を惹くという点ぐらいだろう。
一定のリズムで二度、ドアノブを叩く。
青年が一室に足を踏み入れた矢先。濃醇なほどの甘い香りに、眉根を顰めた。
椅子に腰掛ける老人の身なりは、まさしく金持ちの成金といったところだった。無意味な程に金色のネックレスや時計を付け、歯まで金歯に差し替えられているではないか。ギラリ、と無駄に気色の悪い輝きが出迎えた。
青年は、微笑みかけながら近寄る。ワインボトルを机に置くと、グラスに注ごうと、コルクを抜く。
「ポムロル原産、ペトリュスのワインボトルをお持ち致しました」
ペトリュス――世界で最も高値で取引されるワインと称された一品。
口に入れるものさえこだわり抜いているのだろう。
目の前の老人は、異質なほどに青年を視線で追っていた。恐らく、一足一挙を見逃さんと見張っているのであろう。
なんと言っても、目の前の老人こそ、麻薬密輸の幹部なのだから。国内、国外問わず、最大規模を誇る密輸組織。各国が足取りを掴むのに苦労する中、青年は意図も簡単に幹部の一人と接触していた。
「できるだけ時間を掛けて、ゆっくりと丁寧に頼む」
愛想の良い笑みを浮かべた青年が注ぐワインボトルの飛沫音が、しなやかに広がっていく。
青年が何気な首を傾げた次の瞬間。ひゅっ、と小さく風を切る音とともに、爆音が室内に満ちた。
青年の視線が、音のする方向に動く。腕を下さずに向けたまま、銃口から白い煙が上がっていた。微かに、焦げたような臭いが、鼻腔をつつく。
「危ないじゃないか」
「……やっぱり国家の犬か。だが残念だったな、小僧」
ワインボトルを机に置いた青年は、再度発砲された弾丸を避けつつ、辺りを確認。取り囲むように、十人の男達がそれぞれ配置についていた。
正面に向けて、青年が地を蹴った瞬間。
ばたっ、と男達五人が絨毯に倒れ、鮮血を広げていく。三秒に過ぎない時間だったが、青年にとっては十分な猶予であった。
ただ簡単なこと。どこからか取り出した短剣を、首筋に添えるだけ。脳と心臓を行き交う静脈は、人間の弱点と言っても過言ではない。
すると、円の外側に立っていた青年に向けて、どこからか雷撃が駆け走る。次いで、一人の男がこちらに手を伸ばすと、槍の形に変形し、高速で飛来。
「死ねぇッ……!!」
能力と呼ばれる、数年前に発見された特殊な超能力の仕業だ。どれか一つでも喰らった瞬間、全身は吹き飛び、戦闘不能となる致命傷。
そんな危機的状況で。なんと青年は、ニッと不敵な笑みを浮かべた。
次いで、地を蹴り上げ宙に躍り出ると、全ての攻撃を躱しながら、人間離れした速度で肉薄。
目にも止まらなぬ速さで、雷撃が唸りを上げて、室内に迸る。青年の視界が雷光で染まりあげるも、壁を移動して避けた。
「ここに来た目的は、老いれた年寄り一人を殺すだけなんだがな。無駄な殺傷は好まないが……妨害するならば、仕方ない」
片手に収まっていた短剣を、男達の首元に添わせ、ただ引き抜く。静脈を切り落とすと、一斉に血花が吹き荒れ、刃先が朱色に染め変わる。
眉根を顰めるほどに、鉄の臭いが猛烈に喉元を刺激。思わず、青年は嗚咽をこぼす。
仕立ててもらった制服も、赤黒い液体に汚染されていた。
「ば、馬鹿な!? 私が選び抜いた戦闘員達なのに……ッ。な、何者だ、貴様はッ!?」
「俺か? ただの暗殺者さ」
不敵に笑いかけた青年が、優雅な足取りで絨毯を踏む。まるで、映画のワンシーンかのような、非現実的な景色。
だが、これは仮想現実でなければ、異世界でもない。
血を流し、白目を向けながら、間抜けの殻となった死体。青年の手の甲には、べっとりと朱色の液体。
彼が生き抜く世界は、まさしくこの空間にある。
「っ……こんなことをして、ただで済むと思っているのか。小僧がッ」
すっかりと床に尻餅をつき、肩を震わせる老人。死神の歩みが、また一歩進む。
「ただで済むと思っているのかって?」
老人の手前で足を止めた青年が、殺傷対象を鋭い双眼で捉える。
「あぁ、思ってない。だからこそ、俺はこんな血と権力で薄汚れた世界に存在しているんだろうな」
「この報いは絶対に……ッ」
「なぁ、小汚いおっさんにペトリュスは似合わないんじゃないか? ま、死ぬ記念にこれはくれてやる……あの世で懺悔でもしとけよ」
真っ青に染まった老人。ワインボトルを掴み、そのまま力任せに薙ぎ払う。豪快にガラスの弾ける音と、中身の液体が老人の身体を襲う。辺りは血液とワインの液体によって、血溜まりが広がっていた。世界で最も高価な値段で取引されるワインが、虚しくも絨毯に垂れ落ち、汚していく。
動かないターゲットを一瞥すると、青年は捨てるように呟いた。
「……折角の高級ワインが台無しだな」
血に染まった静寂が、辺りを支配した。
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