墨汁

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 顔が落ちていた。

 中々明けない梅雨の日、濃い灰色の重量を持った分厚い雲と雲の間にいる時のことだった。
 顔が落ちていた。
 思わず息を呑み、反射的に後ずさる。
 まるで仮面のようで、瞼と口はきつく閉じられており、人らしい色は抜けて白い。初め見た時はまだ数ヶ月先のハロウィンのために用意された代物かと思われたが、質感と表面の為す不自然なくらいに人間らしい凹凸、皺の繋がり、全てを取ってみても人間のものに違いなかった。
 そもそも、なぜ人の顔が落ちているのか。人の顔は落ち得るのか。持ち主は何処にいるのか。顔を落としたことに気付いているのだろうか。気付いていたとすれば、今頃来た道を辿って無い顔をキョロキョロさせながら探しているに違いない。
 道の中央に顔は落ちていた。夕方、帰路につく人間たちがせかせかと道の上を滑っている。中央に落ちている顔とその前で棒立ちになっている私は意外と人の邪魔にはならなかったようで、綺麗に二つの存在を避けて人の道が作られていた。
 とはいえ流石に道の真ん中で立ち続けることに申し訳なさを感じた私は道の端に寄ろうとはしたが、さてどうしたらこの気味の悪い顔を持つことができようか、考える時間を要した。普段から他人に触る機会など無いのに、顔も知らない(とは言えここに落とし物として落ちているのだから顔は知っているのだが)人間の顔を触ることへの抵抗は勿論、ぶよぶよとした皮膚なぞ一度でも触って仕舞えば、もう一生持ち主から脱落した顔に呪われる気がしてならなかった。

「その顔、ここに落ちていましたか?」
 突然後ろから声が降ってきた。「はい?」と間の抜けた表情を顔に乗せて振り返る。背の高い痩せ型の男が立っていた。
「ですから、その顔です。ここに落ちていましたか?」
「ええ」
「まさか、少しでも動かしたりしてないでしょうな。」
「まさか。動かすなんて、そんなこと。」
「なら良かった!まだ息はしているみたいだ。」
よく見てみると顔は僅かに上下しており、その運動の起点は確かに鼻の辺りらしかった。
「すぐに運ばないと。見つけてくれてどうもありがとう。本当は人命救助に関わることだったからきちんとしたお礼をさせて頂きたいのだが、ご覧の通り、一刻も争う事態なもので。いつかまたお目にかかれるはずです、きっと。その時にまた改めて。それとも一緒にいらっしゃいますか?ああ、その方が良い!顔なんて、一度見つけてしまえばすぐ見つけられる。そのときの対処法も知っておいた方が良い。さあ、僕のあとについていらして下さい、良いですね?」
 男は早口で捲し立てた後、掲げていた鞄からゴム手袋と水筒とジップロックを取り出した。水筒からは水のような透明な液体が入っているらしく、男はジップロックに顔を浸すのに十分な量の液体を入れた。慣れた手つきでゴム手袋をはめた男はまた慣れた手つきで落ちていた顔を拾い上げ、ジップロックに入れた。顔の裏側は落ちていた表側を裏返したようで、落ちていた側が表側なのか、はたまた裏側なのか、もう私には知る由も無い。
 「行きますよ。」と私を促し大きい歩幅で歩く彼は秦野ハタノと名乗った。
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