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第四章
4-30
しおりを挟む「————雪。そこに居るんでしょう?」
こちらから人影が見えるのなら、雪の影も見えている筈。それなのに、襖一枚隔てた場所で雪は名前を呼ばれても返事をしなかった。
薫と言えば、さっきあんなに話をするように、と言ったのに喋らないままの雪の背中を見てハラハラしている。これは長期戦になりそうだと人知れず思った。どう見ても————雪から歩み寄る気配が見えないのだ。
肇は肇で叔父の声を聞くのは三カ月ぶりだった。叔父のあんなに優しい声音を聞くのは今回で三回目である。刀を抜いたあの時の姿はまるでなかったようだ。
「部屋を片付けてくれたんだよね。有難う」
叔父の口から感謝の言葉が洩れて肇は三白眼の目を思い切り見開いて思わず薫を見てしまう。
薫は「静かに」と小声で肇に呟いた。
「とりあえず俺の話は聞かないで良いから、声を聞かせてくれない? 聞かせてくれたら今日はもう引き返すからさ」
「あ」と雪が小さな声で男の要望通りに囁くように呟くと、久賀は嬉しそうに「有難う」と礼を言った。
礼を言って男の影は部屋の前から去って行って、ゆっくりと雪は振り返る。薫と目が合い薫から小声で「終わってない!」と注意され、シッシッと手で追い払われると、苦い顔をしながら元の配置に戻った。
スッと襖を少しだけ開けると、それを見計らったかのように影が姿を現して雪は驚いて目を丸くする。
ほんの少ししか開いていない襖から覗く男の顔は、二日会っていないだけなのに、窶れたように見えて顔色も悪かった。そんな男の顔が雪を視界にいれた瞬間に華やかになり、顔色の悪さが消えた。
「————雪」
顔を二日ぶりに見れた事が嬉しくて久賀は彼女の名を呼ぶ。しかし返事はしてくれず、足一本入れられるくらいしか開いていない襖を隔てて突っ立ったまま雪は無言で男を見上げたまま動かなかった。
雪はじっと男の鼻の下と顎に生えた無精髭をじっと見つめた。二日前までは毎朝剃っていた筈が今では生やしている様子だ。
彼女が好きだって言ったから————
下唇を噛んで襖を閉めようとすれば、足を入れられてしまう。「あっ」と雪が小さく叫んだと同時に戸が男の足で蹴られて開いて、男の姿が目の前に現れる。無意識に逃げようと後退るとまるで逃がさないように、逞しい腕が伸びてきて雪の躰を自分に寄せた。
「————捕まえた」
ゾクりとする程、低い声だった。
久し振りに近くで聞いた声、だったからか。なんせ久しぶりに右耳に囁かれたからだ。息が掛かる程に近くで囁かれて雪は頬を微かに染めてしまう。
腰を抱かれたまま、腰だけ密着した状態で、久賀は雪の顔に流れた横髪を優しく払い除けながら耳に掛けた。それから頬を撫でられる。何度も撫でる手は優しく、その様はまるで顔を良く見せてくれと言うようで何度も頬を撫でつけた。雪の背が伸びたお陰で二人の顔の距離はこうやって抱き合うと三カ月前よりも近く、男が少しでも腰を曲げると唇は奪えそうだ。
「雪」
ほうっと息を吐くように名前を呼ばれ。
慈しみに溢れた瞳は雪だけを映している。
「雪」
今日で何度目かの名前を呼ばれ。
「やっと————顔を見れた」
くしゃりと、嬉しそうに笑う。
それは子供のように無邪気で。秘密の宝物を探し当てた子供のようだった。
「雪」
名前を呼ばれるのが好きだな———…
優しく頬を撫でていただけの指はそのまま雪の右耳朶に触れて揉み扱くように滑らかに動いた所で、雪は自分の今日の試練を思い出した。ついいつものように流されそうになってしまっていた。そして、自分の背後に座る二人の存在も思い出した。
両手を前に出して男の胸を押し退けると、しっかり抱かれていると思っていた腕がすんなり解けた。
そこで雪の背後に座る二人の存在が男の視界に映った。
「なんで肇が居る?」
さっきまでの甘い声が嘘のように機嫌の悪さが含まれていた。本当に分かりやすい男である。
「なんでここに居るのか分からない」と肇は二人の雰囲気に押されて頬を染めながら、正直に答えた。叔父の人を殺しそうな眼で睨まれると命が脅かされて生きた心地がしなかった。
「久賀…さん」と掠れた声で呼ばれ久賀は二人を無視して雪を見た。
男の顔はニコニコで再び雪の腰を引き寄せようと腕を伸ばしてきたが、その腕に触れる前に雪はその腕に触れると「駄目」と一言だけ放つ。すると、その腕は伸びてこず、元ある場所へ戻った。
二人は無言のまま立ち尽くしていると痺れを切らした薫が「座ったら…?」と二人を促した。部外者が口を挟まないと一向に喋ろうとしないのだ。
すると、雪がおずおずと座布団を運んできて久賀に手渡すと「有難う」と男は受け取った。
お互い向かい合わせで座ったが、雪は無言のまま俯いたままだ。
向かいあって座った雪と久賀の傍に、まるで将棋の立会人のような位置に薫と肇は並んで座っていた。確かに、問題が生じた場合、仲裁に入るだろうから似たようなものである。
「久賀さん」「雪」
声が重なる。
雪は気不味そうな表情を浮かべると俯いてしまった。
そんな雪に久賀は「どうして、二人がここに居るの?」と雪に訊ねながら二人に視線を送る。薫ならまだしも何故、甥の肇まで居るのか。薫を部屋にあげるのは過去に許しているが男をあげるのは許可していなかった。
「私、暴言を吐いちゃうかもしれないから、そんな私を止めてくれる為に呼びました」
「暴言…」と男は呟く。
雪に罵られるって、良いかもしれない…。
気付かないうちにニヤけていた男はいつの間にか顔を上げた雪から怪訝な視線を送られて咳払いをした。
「雪、話をして」
「わ、私から?」
突然振られて「えっと」「あの」を繰り返して、チラチラと薫を見た。視線を送られている薫は「頑張れ」と口だけを動かして声援を送る。
「わ、私は今から怒ります…」
薫は「宣言してどうするの」と呆れたように呟く。
怒ります、と宣言した雪は久賀をじっと見つめて、深呼吸を繰り返すと、大きく口を開いた。
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