遊び人の恋

第一章

1-7

時刻は、夜半。辺りは静まり返り、遠くで火の用心と拍子木の音が鳴っていた。
久賀は部屋を出る前に隣で寝ている雪を起こさぬように布団から身を起こすと寝息を立てて眠っている雪の右耳の髪をそっと耳にかけ耳を出す。耳の裏に小さな刀傷が見えた。傷は古く完治しているが傷跡が隆起しており、見るに痛々しかった。
久賀はその傷あとに指でそっと辿ると、今度は髪で右耳を隠し何事もなかったように元に戻した。
毎晩こうして雪が深く眠りに着く頃に起きて雪の寝顔を見るのが日課となっていた。最初の頃は魘されて何度も目が覚めていたが、そういう日は必ず久賀の布団に招き入れ、小さな身体を抱きしめて久賀も眠りについていた。しかしここ数日は怖い夢を見なくなったようで、「久賀様が暑いと思ってはいけない」からと気を使われて一つの布団で眠るようになってしまったが。「じゃあ冬は一緒に寝よう」と言うと、雪は頬を染めて、嬉しそうに歯に噛んだ。いつまでここに居させてもらえるか不安に思っていた雪にとって、冬の約束は嬉しいものだった。久賀はそんな事つゆ程も知らず、その様子を見て「夏の最後に一緒に寝よう」と言えば、素直に首を縦に振ったのだった。雪は久賀に対しての警戒心が何処かへ消えてしまっている。
男に痛い目に遭わされ警戒心を抱いている筈が、自分の腕の中ですやすや眠る雪を見たら信頼されているのだと嬉しい反面複雑な気持ちだった。少しでもそれを損なえば、この腕の中に戻ってこなくなる…。今の久賀にとって、酷く恐ろしい事に思えた。

むしろ、最近の雪を見ていたら戻る場所は俺ではなくても良いのではないか

本来の性格なのだろう、人懐っこい。
近所の大人から可愛がられているのは何度も目にしてきた。ここらに無体を働くような大人はいないが子供は分からない。頭よりも体が先に動く生き物だ。
少し離れた場所までなら行動を許可した。おかげで食事内容が豊富になり、胃袋を完全に掴まれた久賀の身体は雪の作った食事以外受け付けなくなっていた。
隼馬の剣道場の先には行かない事、雪と出会った橋は渡らず向こう側へ渡らない事。陽が落ちるまで、久賀が帰るまでに自宅にいる事。それを雪に約束させ、雪は律儀にそれを守った。むしろ久賀が帰るまでに自宅にいない事なんぞないのだ。なんせ晩飯の支度をしているのだし、久賀が帰り着く頃に出来上がるようになっている。掃除に洗濯と風呂の準備など忙しい雪が遠出をする暇がある筈なかった。
しかし、この男はそれでも異常に心配した。それなら最初から行動範囲を自宅から歩いて10歩程度の太助、八百屋、米屋、豆腐屋と制限していれば良かったものの、雪の前では聖人君子で居たいが為に、見栄を張った。それがこの心配性に拍車を掛けると思ってもいなかったのだ。
雪の今日の出来事を寝る前に聞いて、その話通りに雪の寄った店へ顔を出し雪の1日の行動を追った。店番の女性に愛想を振りまけば買わずとも不審に思われない。

「あのへんてこな髪の男の子可愛かったなぁ」
「弟に欲しいな」
「俺は全然いけるぞ。突っ込みたい」

と久賀の耳に下品た笑いをあげた男の声が入った事があった。その場で斬り付けたい衝動に駆られたが、久賀はぐっと堪える為に腹に力を入れて、その場を後にした。その男は、1人になった途端、追い剥ぎに合った。
この執着がただの心配だと片付けていた。この男ーーーーここまでして、いまだに無自覚だった。

「んっ」

と雪は短く唸り、寝返りを打った。
反対に左の耳が顔を出す。どちらも形の良い可愛い耳だ。
寝息を立てる唇に目をやれば、ムニャムニャと動いて、チラリと舌が覗いた。

あぁ
貪りたいーーーー…

この男が自覚したら、どうなるのだろうか。
久賀は熱のこもった瞳で唇を見つめたあと、名残惜しそうに視線を外し雪を起こさぬよう、部屋から出て行ったのだった。