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第一章

結婚記念日前日 ④

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 イアンは書類から目を逸らし隣に座るシェルフを見ると彼は顔を真っ赤にしていた。
「どうした? 熱でもあるのか?」
 ブルブル子鹿のように震えるシェルフを心配してイアンは彼の顔を覗き込んだ。
「お前の心の声がダダ漏れなんだよ!」
 わっと叫ばれて唾が飛んだ。イアンは顔に飛んだ唾をハンカチで拭いながら文句を言うと「お前が悪い」と言い返されてしまった。
「情事の話を人に聞こえるように言うな!」
「よほど俺は嬉しかったんだな」
(オリヴィアとの初夜が)
 フッと笑ったイアンの姿は、無駄に顔立ちが良くて男臭く見惚れてしまうほどなのだが、シェルフは一喝した。
「よほど嬉しくてもな、心の中だけに留めろ!」
「みんな、気まずい思いをしてるだろ!」と言われて周囲を見渡すと、同僚達からサッと視線を逸らされる。
「何故、みんな顔を逸らすんだ。オリヴィアの話を聞いて気まずい思いをしたのか? 妄想したのか?」
 オリヴィアで妄想をするのは俺だけで良い……不機嫌さを醸し出すとシェルフから一喝された。
「ばっか! お前が聞こえる声で言うからだろうが!」
 他人に馬鹿と言われるのは初めてだ。『平民の血』『穢れた血』『危険分子』と影で言われはしたが、その言葉は初めてだった。そもそもイアンは王族の人間である。そんな彼に面と向かって言う人間はいなかった。
「不快な気持ちはあまりないな……」
 不思議と腹が立たない事を疑問に思い首を傾げて考えた。寧ろ、何故だか心地よい。
(そんな性癖があったのか……オリヴィアからもし『馬鹿』と言われたら……いい)
 オリヴィアから言われるのとシェルフから言われたのとでは感じ方に違いがあるものの、イアンの頭の中はオリヴィアにどのように『馬鹿』と言われようかというシチュエーションを繰り広げていた。
 腕を組んで考えている素振りでも口元がニタついていて、ろくな事は考えていないと悟ったシェルフは、イラッとしてイアンの脇腹を拳をお見舞いした──が。
「いってぇっ! かてぇ!」
「何をする。擽ったいじゃないか」
「お前の身体は鉄で出来てんのか!」
 ジーンと痺れる右手を押さえていると、イアンから訝し気に視線を向けられた。
「そんなわけないだろ。全て筋肉だ」
「例えだよ、馬鹿!」
 プンスカ怒るシェルフを見ていると、イアンから視線を逸らしていた同僚達からチラチラと視線を向けられている気配を強く感じた。左右に視線を巡らせると上司のエバンズがビクついた様子で左手を上げた。
「グゥイン君。君の話を聞かないように僕らは防音魔法をかけていたから聞こえていない。安心してくれたまえ」
「視線を逸らしたのは、グゥイン君の目が怖かったから……」
 お局のテイラーがエバンスの言葉にそう付け加える。そう説明してから、そそくさと書類処理に戻った。
 イアンは自分でも眼つきが悪い事は分かっている。目が怖いと言われた事は別に気にした様子を見せず、それよりも同僚達に魔力がある事に驚きを隠せなかった。
「魔法が使えるのは初耳だな」
 イアンに魔力はなく全て筋肉で解決してきた男である。
 兄のロイドには魔力があり、その授業を見学した事はあった。詠唱を唱えると掌から炎、水が生じる様子にイアンは感嘆した。しかもその魔法は攻撃だけではなく防壁にもなるのだ。兄と同じように詠唱を唱えても、同じ現象は起きず、そのシステムが不思議でならなかったし、今でもその仕組みが分かっていない。だがしかし、使えなくても困った事は一度もなく羨ましいと思った事もなかった。彼は剣や素手で攻撃をする方が好きなのである。
「そりゃ、グゥインが飲み会に参加しないから僕らのプライベートの話なんて知らないのは当たり前だよ」
 溜息交じりでシェルフが呟いた。
「オリヴィアちゃんの顔をすぐにでも見たいのは分かるけど、コミュニケーションの一つとして飲みに行くのって大事なんだぞ」
(俺にはオリヴィアの顔を見るのが何よりも大事だが……)
 スェミス大国では十五歳から酒を飲んで良い事になっている為、陸軍時代に上司だったユングから無理矢理連れて行かれた事はあった。酒を飲んで陽気になった仲間にいつも以上にテンションが高いユング。そんな中、勤務中では出来ない仕事以外の話をする者も居れば、悩みを相談する者もいた。あの場は騒ぐだけではなく情報交換や人脈を共有する場でもあった。所謂、飲みニケーションというやつである。しかし、イアンは酒の席でもテンションは変わらなかったし口数は少なかった。
「当分は参加しないでいい」
 彼らの個人情報とオリヴィアの情報を天秤にかけたら、オリヴィアの方が重いに決まっている。それに今の自分は爵位は高いが国軍経理課事務官である。情報共有も何もないだろう。
「魔法が使えるなら、経理課ではなく魔術課を選ばなかったのか?」
 素朴な疑問が沸いてきて、イアンは訊ねた。
「私たちは、魔力はあっても微々たるものなの。魔力が足りないから強い魔術は使えないし、簡単な魔術しか使えないから軍や王宮の魔術師にはなれないのよ」
 そう答えたのはテイラーだった。
「魔力とは鍛えられないのか?」
「グェイン、何も知らないんだな」
 呆れたようにシェルフから言われてしまう。
「魔力は生まれ持ったもので、量も決まっているんだ。遺伝でもないから魔術同士が結婚しても生まれてくる子供の魔力はゼロだったり、微量しかなかったりとかザラだよ。量は決まっているから魔力は増やす事はできない。鍛えてどうにかなるもんじゃないんだ」
「魔女は魔力を増やす方法を知っているけど、門外不出だか
らね……魔力が少ない人間は、使える魔法に限りがあるんだ」
 エバンスは残念そうに呟いた。
 それにシェルフは付け加える。
「でも、魔力があった所で使い方を知らなければ魔術は使えない。必ず魔術師に教えを乞わなきゃならないんだ」
「出来なかった場合はどうなる?」
「宝の持ち腐れ。せっかく魔力があるのに使い方を知らなければ、どんなに詠唱を唱えたところで無駄だよ。それから幼い頃から使い方を学ばないと手遅れ。成長して身体の基礎が出来上がってからじゃ魔力は機能しない」
「なるほど。だから兄上は物心ついてすぐ魔術の勉強をしていたし、魔力がない俺は同じ授業を受けても無駄だと言われたんだな」
「そういうこと」
「勉強になった。ありがとう」
「お礼を言われるほどじゃないよ」
 そう言ってシェルフは仕事を再開しようとペンを取った。紙に海軍第二部隊から預かった領収書の詳細を記していると何故だか隣から視線を感じる。チラッと視線を向けるとイアンからガン見されていて、ビクついた。

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