愛する妻が置き手紙一つ置いて家出をしました。~旦那様は幼な妻を溺愛したい~

猫原

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第一章

答え合わせ②

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 長い沈黙があった。
 イアンはオリヴィアを抱き締めたままで、オリヴィアはイアンの腕の中から動く気配がない。
 最初に動いたのはイアンだった。オリヴィアから腕を解こうとしたら、背中のシャツをオリヴィアからギュッと力強く握り締められて、イアンはオリヴィアを抱き締めたまま動けなくなった。
 腕の中のオリヴィアは肩が僅かに震えている。男性が苦手なオリヴィアを体格が彼女の倍ある自分が力任せに抱き締めてしまった事を今更ながらにイアンは後悔した。しかし、彼女から離れようと思っても、背中のシャツをしがみ付くように引っ張られている為、動けない。
 長過ぎる沈黙を破ったのはオリヴィアだった。
 
「…………私の事、嫌いになったの?」
 
 掠れる声でそう訊ねられたイアンの肩が強張った。「そんな事ある筈ないだろ」と咄嗟に返せば、オリヴィアがイアンの腕の中で顔を上げる。お互いの目が合い、オリヴィアの表情が怒りを含んでいて、イアンは口を噤んだ。

「わ、わたしに一生を賭けて、忠誠を誓うって言ったわ! 傷つけるもの全てから守るとも言った! 私の前で跪いて、わ、わたしは剣を、イアンの肩に置いて、裏切る事なく誠実であれって、許すって言った! イアンは剣にキスをした! 騎士の誓いは破られてはいけない誓いなのよ! 自らの意思で破るなら、死ななきゃならないのよ!」

 ハァハァと呼吸を乱しながら、オリヴィアはイアンを睨みつけた。
 そんなオリヴィアからイアンは視線を逸らす事なく凝視した。
 六年前に怯えるオリヴィアを安心させる為にした騎士の誓いは、あの時確かにオリヴィアへ忠誠を誓う為に捧げたものだ。再会したオリヴィアを、何があっても自分が守ると誓った.。傷付けるもの全てから守ると。
 
『騎士の誓いはこれから出会う大事な人にとっておくべきだよ』と幼い頃、ロイドから言われたものの、イアンは王に忠誠を誓う騎士となり、国王となった兄へ忠誠を誓おうと思っていた。しかし彼が選んだ道は国の防衛を司る軍人である。
 
『兄上をお守りするには力を身に着けただけでは守れないし、反逆者を捻じ伏せられない』
 と、イアンがロイドへ言ったのは本音でもあったが──建て前だった。
 人は好き勝手に物を言う。
 いくらイアンとロイドの兄弟仲が良くても、部外者はそんな事知った事ではない。正当な王族の血を引いていて知性派の『ロイド派』につくか、平民の血が流れていても兄とは違う武闘派の『イアン派』につくか──を勝手に酒の席で妄想を振り広げるような輩がいる。しかも新国王が誕生した戴冠式を終えた宴の席で。
 
 
「陛下はまだ十五歳だ、若過ぎる。ネロペイン帝国に舐められやしないか?」
「サーレン将軍が阻止する、と仰られたぞ」

 と壮年の貴族が言うと「それは安心だ」と皆が声を揃えて言った。
 
「前王が急死され、十五歳で国王となられた事は嘆かわしいな。我々が支えてやらねば」

 とある貴族が言えば、うんうん、そうだな、と賛同する中で一人の貴族が声を上げた。

「しかし、新国王は大人し過ぎないか? 見た目からして優男だ。そんな男が大国を引っ張って行けると思うか?」

 自国の王を非難した男を非難する声が上がったが中にはそれに賛同する声が上がった。「その通りだ」「儂も思っていた」そんな声もちらほら上がった。

「そこで、俺は第二王子を推薦したい」
「まだ十歳だし、平民の血だ」
「いやいや、十歳でも王となる素質を持ってらっしゃるぞ。半分は王族の血だ。金色の瞳がその証拠だ。それに陛下と違って血の気が多い」
 
「子供にしては眼つきが悪い」と非難の声が飛び「その通りだ」と馬鹿にした声が響いた。

「今まで虐げられた恨みを晴らす為に国家転覆を謀り、腹違いの兄の首を獲り国王になる、なんぞ良くある話じゃないか」

 男が酒瓶を持って立ち上がった。
 
「突然王宮に連れて来られ厳しくされ、しかもあやつの母親は使用人にとことん虐められ心を病んだ、恨んでいるに決まっている。それに優しさに飢えている筈だ。ちょっとでも優しくしてやれば、イチコロだ」
 
「陛下は帝王学を学ばれていらっしゃるから、私の思惑に気付いてしまわれそうだが、弟の方はどうだ! 騎士に混じって彼らに武術を習ってばかりで勉強などしておらんと聞く。この私が傍で支えてやらなきゃな!」
「それで、お前が国王に成り代わる、って意味か……!」
 
 ガハハハっという耳障りな笑い声──……。
 
 
 ただの酒の席のツマミになる話としては、不躾な内容だった。これを柱の影で聞いていた十歳のイアンは、自分がそういった政治的な思惑に利用されお家騒動をでっち上げられる恐れがある事をこの時初めて知った。そして国王が王妃以外の女と成した子は、王位継承権の火種になる事をイアンは知った。
 このまま、十五歳になって騎士団へ入団し、兄の右腕として王宮に居続ければ何者かの策略に嵌り、兄を失うかもしれない──その策略に嵌ってしまわないような人間になる為には、イアンは王城へ居てはいけないという考えに至って国軍へ入隊した。王城を離れる事で、少しでも国家転覆の火種を減らしたくて。それから、「平民の血」「穢れた血」だと苛められた弟を守ってくれていた兄を守る力を手に入れる為に。
 イアンが国軍へ入隊してすぐにした事は、秘密裡で宴の席で国家反逆の話をしていた貴族とその話に乗った男達をとことん調べ上げた。結果横領や売春斡旋という罪状が次々と明るみに出、イアンは全員を投獄、身分を剥奪した。
 イアンが裏でした事は誰も知る由なく、ただ騎士団ではなく国軍へ入隊した事で『兄に反旗を翻す危険分子』と呼ばれてしまうのだが、兄と勝手に仲違いされ反逆罪にされるよりましだと思った。
 イアンは国軍へ入隊しても、一人前になったらいずれはロイドへ忠誠を誓うつもりだった──が、イアンは出会ってしまった──儚げで美しい初恋の少女に。
 オリヴィアの正体を知り、彼女と再会してしまった。
 再会した日、窓から漏れる月光に照らされたオリヴィアの姿を目に焼き付けた時、「騎士の誓いはオリヴィアに捧げるべきだ」とイアンは悟った。──『大事な人にとっておくべき』は、オリヴィアこそふさわしい相手だ。
『簡単に破れてしまう約束はするな』とジェシカから言われていたイアンは、オリヴィアとの約束を破るつもりは毛頭なかったし、オリヴィアを守る権力王族の血を彼女の為に使うべきだと考えた。権力とスェミス大国の軍事力全てを使ってネロペイン帝国の革命軍を焚きつけて、内部を壊し、それで弱っているところを外部から完膚なきまでに打ちのめした。

 全てはオリヴィアの為に。
 スェミス大国の犠牲者が皆無だったのは、ただ運が良かっただけだ。
 もし、犠牲が多くても俺は後悔しない。
 ──オリヴィアを毒する人間がこの世に存在しないのだから。
 もし、オリヴィアを傷付けた国がスェミス大国で、ロイドがイアンの道を妨げるとしたら──イアンは躊躇なく兄の心臓に剣を差した。

 全てはオリヴィアの幸せの為に。
 その為なら、大好きな兄が死体で転がっていても否めない。
 
 それだけの覚悟がイアンにはあった。
 自国を裏切ってでも、全てを敵に回してもオリヴィアを傷付けた全てを壊す。
 その覚悟でイアンはオリヴィアに騎士の誓いを捧げた。
  
 しかし。
(オリヴィアの言う通り、俺は自らそれを放棄しようとしている──……)
 簡単に破れる誓いを俺はオリヴィアにしてしまったのか──なんて、情けない。こんな俺は──

「オリヴィアとの誓いを破る俺は──死ぬべきだ」
 
(騎士の誓いを破った人間に相応しい最期だ)

「イアンは私とのプロポーズも破る気なの! 私を一人にしないって、私より先に死なないって言ったくせに、それさえ破るの!?」
 
 オリヴィアは顔を赤く染めカッとなった。
 イアンがプロポーズで言った言葉を破ったからだ。──その言葉を聞いて、どんなに自分が安心したか、イアンは知らないんだわ。
 
「嘘吐き! 嘘吐き!」とオリヴィアは叫びながらイアンの胸を力一杯叩く。ドンドンと叩いて、力が弱まっていき、何れは叩くのを止めた。拳をイアンの胸に当てたまま、オリヴィアはイアンの胸に顔を埋め、蚊の鳴くような声で呟いた。

「さっき、わたしと、ずっと一緒に同じベッドで寝てくれる、って言ったのに……それも破るの……」

 何故、イアンから「離婚しよう」と言われたのかオリヴィアは理解が追い付けない。イアンは「怒っていない」と言ったのは嘘で本当は怒っていたのか。それとも、本当に怒っていなかったけど、私の何かに怒ったからそんな事を言ったのか──……。
 
 声を荒げたせいで、肩で息をしていたオリヴィアの呼吸が落ち着いてきてからイアンは重い口を開いた。

「オリヴィアから……離婚を切り出される前に俺から別れを告げようと思ったんだ」

 重苦しい空気は一変した。イアンの腕の中に居るオリヴィアが顔を上げ、思いっきり間が抜けような表情を浮かべたからである。
 イアンと言えば、「そんな顔も可愛いのか……!」という感情に飲み込まれそうだった。
 まずイアンは「離婚しよう」という発言にオリヴィアが顔を真っ赤にしてまで反論するとは思っていなかった。
 怒ると言っても、仔猫が威嚇するような可愛らしさがある。しかし、それに悶えている場ではない。イアンは「騎士の誓い」もプロポーズの約束も何一つ守れていない、そんな自分が本当に情けないし「俺、死ねばいいのに」と心の底から思った。結果オリヴィアから「嘘吐き!」と叫ばれてしまうのだが……。

「もしかして……アン? アンがイアンにそう言ったの?」
「アンは俺に何も言っていない」
「そうよね。アンはイアンと離婚しろって私には言うけど、私が求めていない事は勝手にイアンに言ったりしないもの」

(期待を裏切らないな、アン)
 ショックというよりも、アンらしくてむしろ安心する。

「じゃあ、私がイアンに離婚を切り出すって誰が言ったの? 私には完璧なプレゼンをする使命があるのに、どうして離婚をするの!? 誰が私の邪魔をしようとしているの!?」

 グイっと顔面を近付いてきて、顏にオリヴィアの息が当りイアンは頭が真っ白だった。そのせいで「完璧なプレゼン」という不思議ワードがイアンの頭に入ってこなかったし、オリヴィアの態度で「離婚をしたがっているわけではない」という考えが浮かばなかった。
 オリヴィアはイアンから抱き締められて夜は眠っている為、イアンの吐息は肌に感じた事はあるが、イアンは一度たりともないのである。しかもオリヴィアの睫毛の本数を数える事が出来そうなまでに近い距離だ。きめ細やかな肌さえ目視出来て、何処を見れば良いというのか。
 しかも、だ。
 さっきまで意識していなかったが……。

(胸が、当たってるんだよ!!)
 それに良い匂いがする……!

 オリヴィアの熱や感触を楽しむ為に抱き締めた訳ではなかったものが、時間が経つに連れてオリヴィアの体温が自分の身体に伝わってくるし、身体が密着しているせいで己の胸に柔らかい感触さえ伝わってしまう。

(コルセット……してないな、これ)

 オリヴィアの格好は食堂の時とは違い、首から足元をすっぽり覆い隠す淡いレモン色のナイトドレスに身を包んでいて、彼女からは夜眠る時に香る石鹸とシャンプーの匂いがする。

(風呂上り……!)
 いや、そんな時間ではあるが……!
(アンは俺が嫌いなくせに、どうして俺の部屋に、無防備な恰好で送るんだっ)

 ──簡単な話、アンは男心なんぞ知らないからである。
 そんな事、露知らずなイアンはアンを人知れず呪った。
 
「イアン、聞いてる?」

 背中にあるオリヴィアの手に力が入り、今よりもっとグイっと近寄られてしまい、今度は下半身に力を入れた。つまりが反応してしまったのである。

(まずい、非常にまずい)
 
 初めてオリヴィアを抱き締めて眠った日は、まさかオリヴィアに「一緒のベッドで寝て」なんて言われるなんて夢にも思ってもいなかった為、イアンは咄嗟に断ったものの……オリヴィアの反応を見て、イアンはその提案を飲んでしまった。イエスマンイアンは、発揮された。
 しかしだ、好きな女相手にそれはもう、普通で居られる訳がない。抱き締めて眠り、手はオリヴィアの腹の上にあるがオリヴィアに嫌われたくなくて、精神力で理性を押さえていた。しかし、下半身が反応していない、なんて言っていない。ばっちり勃起している。
 それをイアンはオリヴィアに悟らせない為に、イアンのナイトウエアの上着は丈が長く下半身を覆える長さだ。それからきつめの下着を履いて目立たなくする。それに加え太腿で押さえつける。これを毎晩続けてきた。もうすぐ四年になろうとしている汗と努力の結晶である。

 しかし、その努力が音もなく崩れそうだった。

 オリヴィアに抱き締められているイアンは身動きしたくてもできない。それにイアンが履いているトラウザーズは自分にあったサイズで大き目なサイズではない為に、太腿で挟んで隠そうにも出来なかった。現に今見事にテントを張って、主張している。
 
(これがバレたら、俺は終わりだ……!)

 イアンがとった行動──それはオリヴィアを視界から遮断し刺激から逃げるという行動である。イアンはをぎゅっと閉じた。熱の原因であるオリヴィアを少しでも遮断しようと思ったのだ。
 しかし、オリヴィアは非情だった。

「誰がそんなこと言ったの……!?」
 ぎゅうううううっと力を込められてイアンはやけくそに大声で叫んだ。

「オリヴィアの態度が可笑しかったから、俺と離婚したがっていると思ったんだ!!」
「そんな態度、私してないわ!」

 オリヴィアは目を丸くして両目を閉じたイアンを見上げた。

「私がいつ、離婚を切り出すの!?」
「い、いつって」
「結婚記念日の朝。俺がジョギングへ行く前」
「えぇ~~?」

 イアンはゆっくりと目を開けて、オリヴィアの様子を見る。すると彼女は顎を擦りながら記憶を辿っている様子だ。
 そして、イアンは此処に来きてやっと全て自分の勘違いではないか、という疑惑を持った。
 短い沈黙後にオリヴィアは「やっぱり、私はそんな態度を取った記憶はないわ」と片眉を上げた。
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