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第一章

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「ねぇ、イアン。結婚記念日の朝に目が覚めてすぐ貴方に言いたい事があるの」

 グゥイン公爵夫妻の夕食の席。
 メインディッシュを食べ終わって食後のデザートのプリンが置かれるのを待つだけだ。デザートを待っている僅かな時間にオリヴィアは意を決して自分の計画の核心に触れずに、イアンへ伝えた。
 オリヴィアは、結婚記念日の朝に突然告白をするのではなく、前もって「言いたい事がある」と告げる事にした。そうしてイアンに無事に言う事が出来てオリヴィアは満足していた。オリヴィアの胸にあるのはやり遂げた達成感だ。

(花冠、リンゴは揃える事ができたわ。黒い犬はもう諦めたわ)
 
 どうやら計画通りに事が進んでいるようで、オリヴィアは心が弾む。
 イアンの前で自分が「どれだけイアンを愛しているか」というプレゼンが上手く行きそうでオリヴィアは口元を歪ませた。
 オリヴィア本来の性格は甘え上手で無邪気、活発で好奇心に溢れていた。サラが生きていた頃は、子供らしくおもいっきし甘えたし、笑顔が絶えない女の子だった。アンにはしょっちゅう止められたが、犬と庭を走り回って地面を転がって遊んでいたし、好奇心旺盛だから夜中に抜け出して一人で舞踏会へ行こうとした。そんな女の子が姉妹と皇帝から虐げられたせいで、本来の性格が封印されてしまう。それがイアンとの生活で徐々に戻りつつある。イアンへの告白計画が上手く行きそうで喜んでいるオリヴィアのしたり顔はイタズラが成功した子供のようだった。
 イアンの背後に並ぶ給士の使用人二名はオリヴィアのその表情をバッチリと目撃していた。いつもは静かに微笑み、お淑やかな奥様が今はニヤニヤ笑っているのだから混乱するに決まっている。彼らは、オリヴィアの背後に並ぶ同僚二人へこの状況を知らせたくて、彼らの顔を見たのだが……彼らは逆に青褪めていた。口を固く閉ざし、誰にも視線を合わせないように俯いている。オリヴィアの真後ろに立つアンは鬼のような形相だ。イアンの背後に立つ使用人は、この状況が飲み込めなかった。
 オリヴィア側の給士の使用人二名も飲み込めていなかった。イアンの表情は今にも死にそう──絶望に打ちひしがられていたのである。そして自分らの隣に立つアンは、何故だか憤怒していて顔面が怖い。
 喜と憂と怒が入り混じった食堂は歪な空気となっていた。

「あっ」

 空気を壊すように声を上げたのはオリヴィアだった。口元に手を当てて叫んだオリヴィアだけが、まだ状況が掴めていなかった。

(私、イアンのジョギング前か後か決めてなかったわ……)
 目が覚めてから、っていうのはイアンが、なのか、私の目が覚めてからなのか、はっきりさせてない。
(詰めが甘いわ……)

 拳でコツンと自分の頭を小突いた姿は可愛らしくて、見た人間にほっこりさせる。しかしながらこの感情を抱くのはイアン公爵の背後に立つ我々だけのようだ、と二人は視線だけ交わして無言を貫き通した。オリヴィア奥様の愛らしさだけ目にしておこう、俺ら。

「ねぇ、イアン! イアンがジョギングをする前が良いわ。だから私早起きをするわね。私の事、起こしてくれる? イア……ンに早く……言いた……いも……の……?」
 
 語尾が段々ゆっくりとした口調になって、疑問形になる。
 オリヴィアはここで初めてイアンの顔を真正面からちゃんと捉えた。どうしてか、思い詰めた表情をしていて、オリヴィアは「どうしたの、イアン?」と首を傾げてイアンを覗き込んだ。
金色の双眸が一瞬だけ見開いたと思ったら、ギュッと閉じられた。
 
「なんだか顔色が悪いわ」
 
 いつから、こういう状態だったのかしら、とオリヴィアはイアンを心配した。自分の計画を成し遂げる事に一生懸命で具合が悪そうにしている事に食事中気が付かなかった。
 まるで、苦しんでいるように瞼を閉じるイアンに、オリヴィアは体温を測ろうと思って彼の額に掌を当てた。

「熱はなさそ」

 うね、と続けようとしたら、イアンが急に立ち上がって最後まで言えなかった。
 立ち上がったイアンを視線で追ってイアンをオリヴィアは見上げた。

「すまない、オリヴィア……具合が悪いようだから先に寝る事にするよ」
「イアン……デザートは?」

(デザートの心配をしているわけじゃないのに……)
 
 いつもと違う様子のイアンにオリヴィアは面食らってしまって、ついイアンの背後に給士の従僕がプリンを運ぶ姿が目に入って口に出てしまった。
 
「オリヴィアが食べてくれ」
「イアン、違うの。プリンじゃなくて」

 誤解を解こうとして、立ち上がったイアンの手を掴もうと手を伸ばすと、オリヴィアの細い指が掠っただけで、その手を捕らえる事は出来なかった。イアンが後に一歩後退ったからだ。
 
「オリヴィアに風邪をうつすといけないから──今日は別々に寝よう」

 目を合わせずに、イアンからそう言われたオリヴィアはキュッと唇を噛み締める。夕立の前触れのように瞳が潤み出だした。
「別々に寝よう」とオリヴィアに背を向けたせいで、イアンは知る由もなかった。

「ど、どうしてそういう事言うの……?」
(結婚してから一日たりとも欠かさずに同じベッドで眠っていたのに。私がイアンじゃなくてプリンを心配したから怒っているの……?)

 オリヴィアの悲痛な叫びはイアンの耳には入らなかった。
 彼は、オリヴィアから「別れの挨拶」を「結婚記念日の朝に告げる」と宣言をされたと勘違いをしているのだ。あれもこれもユングがイアンの誤解を解くのを面倒臭がって、意気消沈したイアンを追い出すように経理課へ追い返したせいである。
 嬉々とオリヴィアから高々に「お別れ宣言発表日」を通知されるとは思ってもおらず、何も頭に入らなかった。
 このまま、ここに居てはオリヴィアに理由を問い詰めてしまいそうで、イアンはオリヴィアと同じ空間に居る事を拒絶する──イアンはオリヴィアは振り返る事はせずに食堂を後にした。

 オリヴィアはその後ろ姿を呆然と見つめたまま動く事が出来なかった。
 オリヴィアはポツンと食堂に取り残されてしまって、彼女の左目から一筋の涙が零れ落ちる。
 いたずらっ子のオリヴィアの面影は消えてしまっていた。

 
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