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第一章
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「まずは教会から離婚届を用意しなければいけませんね。今から教会へ向かえばあの男が帰ってくるまでに余裕でオリヴィア様はサイン出来ますよ」
「何を言うの、アン! 離婚はしないわ」
「そろそろあの男が気持ち悪くなってきた頃かと思いまして」
毎日毎日、オリヴィアへ愛の言葉を囁く姿を見て吐き気しか催さない。
『俺は君と毎日過ごせて本当に幸せ者だ』
『君に首ったけだ』
『今日のオリヴィアは昨日のオリヴィアよりも美しいね。毎日美しさを更新している』
『今日も愛らしいね』
『俺の隣に女神がいるかと思った』
『貴女の美しさは宝石が霞んでしまう程の美しさだ』
砂を吐くレベルだ。
(オリヴィア様が愛らしいのは分かり切った事なのに、それをいちいち変な言葉を付け加えなくても良い)
忌々しいイアンの顔を思い浮かべるアンをオリヴィアは見て「もう」と困り顔で見つめるも、アンは悪びれる様子を見せない。
「……アンも、似たような事を言っているわ」と呟いたが、オリヴィアの耳には届いていない様子だ。
「いつ入ってきたの?」
「ノックはしました。返事がなかったので倒れていないか心配でしたので入った次第です」
「そう……」
十九歳にもなって落ち着きがないように動き回っていた事が急に恥ずかしくなって、背中に流した髪を胸の前に流す。一房手に取って、指で梳きながらオリヴィアは椅子に腰かけた。鏡越しにアンを見る。
騎士服からメイド服に変わっただけで、彼女の役割は何も変わらない。アンはいつだってオリヴィアの傍に居てくれる。
私の傍に居続ける為、アンは自ら辺境伯令嬢という身分と貴族の籍を抜いた。新帝国を新たに築きあげている彼らの娘なのに、アンは家族ではなく私を選んだ。
(私はアンの幸せの妨げになっていないかしら?)
つい、そんな事を考えてしまう。
「ターニャのお話は終わったの?」
「はい。まぁ……頭を叩かれました」
「大丈夫なの?」とオリヴィアは心配して振り向いた。
アンは「何ともありません」と肩を竦め、オリヴィアに近付いて、彼女の後頭部にそっと触れて顔を鏡の方向へ向けた。櫛を手に取ってオリヴィアの長い髪を優しく、梳いた。それはアンの日課で、オリヴィアはアンに身を任せた。
「どうして叩かれたの?」
「私があー言えばこう言うので、ペシっと」
鏡越しでアンの頭を叩くような手の仕草にオリヴィアはクスっと笑った。
「公爵様を『旦那様』呼びしない事を怒られたんです。そうしたら、いい加減大人になれと言われまして」
アンはイアンとの結婚を賛成しなかった唯一の人間だ。
『オリヴィアが何者からも襲われないようにするには最強の後ろ盾を得た方が、彼女の為にもなるんだよ』
という言葉にアンは何も言えなかった。この言葉をイアン本人が言っていれば刺し違えてでも結婚を止めた。そうしなかったのは、これをアンに進言したのは元将軍のサーレンだからである。
『万が一、帝国派が生き残っていれば、唯一の皇族の生き残りであるオリヴィアを政治的に利用しようとする輩が出てくる筈だ。それを阻止するには君一人では役不足だ』
穏やかな口調で紳士的な態度だというのに、人の心を抉ってくる有無を言わせない男の発言でアンは渋々、イアンとオリヴィアの結婚を許した。彼が言う通り、自分一人の力ではどうしようも出来なかった。
「あいつの金から私たちの給料を払っている訳ではないのに、何故、奴の事を旦那様と呼ばなきゃならないのか、とも思いまして」
「何を言うの。グェイン家のお金はイアンの給料から、イアンの不動産業からの収益とかから支払われているのよ」
「元を辿れば、そのお金は国のお金ですよね? 公爵様の給料を払っているのは国軍で、国軍の予算は国と議会が決定してますよね? 地代はイアンのお金ではなく住んでいる住民のお金であって、不動産業の収益だって元は公爵様のお金ではないんですし、それに王族として国から支払われる収入もありますよね? 私たちは公爵様からではなく、国と住民からお給与を貰っているんです。感謝するならスェミス大国国王と国民です。それに公爵様は王家の人間ですから税金を納めなくて良いですからね。なんの苦労をしていると言うんですか」
「それをターニャに言ったのね?」
「はい」
しれっと言ったアンの手は落ち着いたままだ。変わらずにオリヴィアの髪を優しく梳いていた。
「私はあの男を、『旦那様』なんて呼びませんよ」
忌々しい表情を浮かべたアンにオリヴィアは息を吐いた。
二人とも同じ波長だと思うのに、どうして水と油のような関係なのかしら……?
同族嫌悪、という単語があるが、イアンとアンはそういう類である。二人ともオリヴィアが幸福でいる事が一番だが、どうも「どちらがオリヴィアを想っているか」マウントを取るせいで上手くいかないのだ。
「本当に、あの男に告白をするつもりですか?」
「えぇ、する」
鏡越しのアンは眉を寄せていた。それから、櫛を置いてオリヴィアの両肩に手を置いて、真っ直ぐにオリヴィアの目を見た。
「私は反対です」
「アン」
「あの男の金を吸い取るだけ吸い取って、傍にいるだけでは駄目なんですか?」
イアンへの気持ちに気が付いた時、真っ先に相談した相手はアンだった。
彼女がイアンを嫌っている事をオリヴィア知っている。それでも彼女に相談したのは、ずっと傍に居てくれたアンに知って欲しいと思ったからだ。
帝国で傷つき、「死にたい」「殺して欲しい」とアンに口走った事がある。そんな自分が、今、「生きたい」と願い、そう思わせてくれたイアンに感謝し、想いを伝えたい。それをアンにも知って欲しいし、また、何があっても傍に居れくれたアンに「私は大丈夫」と安心させたかった。
でも、アンは私が傷つく事は何があっても許可を出さない。イアンに想いを伝える事で、私が傷つくと思っている。
「私は、傷付かないわ」
(信じるって決めたもの……揺らいではしまうけど、でも信じるわ)
「オリヴィア様は、告白した先に待つ"何か"の事を考えておいでですか?」
「"何か"? 何かって?」分からない、と首を傾げるとアンはハッキリと告げた。
「セックスです。あの男は獣のようにお嬢様を襲います。間違いありません」
「イアンはそんな人じゃないわ!」
オリヴィアは頬を染め、思わず振り返ろうとするもアンから後頭部を固定されてしまって身動きが出来なかった。鏡に映るアンに視線を送った。
「男とはそういう生き物です」
「イアンはそんな人じゃないわ、だって、私と一緒に寝ても、彼の手が上にも下にも移動した事なんで一度もない。私のお腹の上でいつも固定されているの」
彼と腕を組んで歩いた事はある、結婚式でダンスを踊り、身体が密着した事だってある。手を繋いで歩いた事だってある。手繋ぎも指を絡めるものではなく、掌同士を合わせて繋ぐシンプルなものだった。一緒のベッドで抱き締めて眠ってくれて、身体は密着していても、自分の身体を擦り付けてくるような事は一切しない。彼から性的な事を一度だって受けた事がなかった。
それでも、アンは疑っている。
「イアンは私を傷付けることは絶対にしない」
「でも、奴は男です。そういう生き物です」
「イアンは」違う、と言葉を続けようとすれば、アンはそれを遮った。
「オリヴィア様が身を持って体験されていますよね。男はそういう生き物、って」
ヒュッとオリヴィアの喉が鳴った。彼女は無意識にレースで隠された首に手をやり、喉元を力強く締め付ける。過去の傷に触れ、これを目にする度に、あの記憶が鮮明に蘇る──綺麗な思い出まで黒く塗り潰してしまう程の。
「申し訳ございません、オリヴィア様……失言でした」
鏡に映るオリヴィアの顔色が青褪め、唇まで青く色を変えているのを目撃して、アンは自分の失言に顔色を失くした。
更に謝罪の言葉を述べ、床に跪こうとしたアンをオリヴィアは止めた。肩に置いたアンの手に触れて、首をゆっくりと左右に振った。
「……大丈夫よ、アン」
顔色がまだ青いままのオリヴィアはどう見ても平気には見えなかった。それでも彼女は「大丈夫」としか繰り返さない。
「昔のように悪夢は見ないから」
「私の髪を編んで」と、ニコッと微笑んだ笑みは弱々しいものだったが、これ以上謝罪を続ければ更に暗い出来事を思い出させてしまうかもしれないと、アンは再度櫛を手にとって、オリヴィアの髪を梳く。
「……今日は髪を高く上げましょうか。外は暑いですから」
「少しでも涼しくなるように」とアンは白銀の髪を器用に頭上で高く結んで、シニヨンスタイルにした。横から流れる前髪が色っぽさを演出する。
オリヴィアは満足したように笑った。アンもそんなオリヴィアを見て、「お似合いです」と笑みを浮かべた。顔色が若干戻ったようでアンは胸を撫で下ろす。
「まるで、女神が地上に降りて、下層の人間達を慈愛に満ちた目で見つめるような、お佇まいです」
「フフッ」と吹き出したオリヴィアが、あまりにも綺麗に笑うから。
アンは目頭が熱くなり、涙の跡を頬に残さないために、俯いた。
アンは心の中で理解していた。
オリヴィアが今こうして穏やかに過ごせているのは、大嫌いなあの男のお陰だと……あの男が、オリヴィア様を昔のように、笑う子に戻したのだ。
昔、自分の手だけで守れると思った。それはただの傲慢で、いつしか、オリヴィアが人質ではなく自身が人質とってしまい、立場が逆転された。
『お前の騎士と離されたくなければ、言う事を聞きなさい』
『この白髪を庇ったりしたら、二度と騎士になれないようにしてやるわ』
それを何度無視して、あのクソ皇女たちと母親達を殺そうとしたか分からない。でも、ここで手を出してしまえば、誰がオリヴィア皇女を守るのか、という葛藤が生じた。奴らを殴れば気は晴れる。でもそれは一瞬で、その後永遠にオリヴィア皇女の傍に居る事は出来なくなる。
『絶対に何があってもあの子の傍を離れないでね』
生前に私にそう言ったのはサラ女皇だった。
私が少しでも助けてしまえば、この約束は破られる事になってしまう。
例え、父が皇帝の弟でも、嫌われて辺境伯に婿入りした父の立場は弱く、それ同様に私の立場は弱かった。守り抜くと息巻いて、彼女の騎士になっても、完璧に守り抜く事は出来なかった。ただ影のように傍に居ただけ。
あの男なら、自分の身分を最大限に利用して守っただろう──私にはない身分だ。辺境伯という身分よりも高い、第二王子という身分。
あの男なら、オリヴィア様があの日あいつにされた事を防げた筈だ。私は、防ぐ事が出来なかった。ただ、あの悲鳴を聞いただけ──……。
それでも、オリヴィアはイアンという男を信用できなかった。
あの男の正体は凶暴だ。いくら国の安全の為とは言え、本人から直接痛めつけられたのだ。その矛先がいずれ、オリヴィア様に向かいはしないかとアンは恐れていた。
それがいくら、自分の任務だからと言って、家族にはしない、家族は弁える、とかそんな器用な人間、この世に存在しない。他の人間に出来るのだから──身内にも出来る筈だ。その矛先がもしオリヴィア様に向くような事があったら私は、あの男を殺す。
それが、サラ女皇との約束を反故してしまう結果だとしても。
今度こそオリヴィアを救う為に。
「何を言うの、アン! 離婚はしないわ」
「そろそろあの男が気持ち悪くなってきた頃かと思いまして」
毎日毎日、オリヴィアへ愛の言葉を囁く姿を見て吐き気しか催さない。
『俺は君と毎日過ごせて本当に幸せ者だ』
『君に首ったけだ』
『今日のオリヴィアは昨日のオリヴィアよりも美しいね。毎日美しさを更新している』
『今日も愛らしいね』
『俺の隣に女神がいるかと思った』
『貴女の美しさは宝石が霞んでしまう程の美しさだ』
砂を吐くレベルだ。
(オリヴィア様が愛らしいのは分かり切った事なのに、それをいちいち変な言葉を付け加えなくても良い)
忌々しいイアンの顔を思い浮かべるアンをオリヴィアは見て「もう」と困り顔で見つめるも、アンは悪びれる様子を見せない。
「……アンも、似たような事を言っているわ」と呟いたが、オリヴィアの耳には届いていない様子だ。
「いつ入ってきたの?」
「ノックはしました。返事がなかったので倒れていないか心配でしたので入った次第です」
「そう……」
十九歳にもなって落ち着きがないように動き回っていた事が急に恥ずかしくなって、背中に流した髪を胸の前に流す。一房手に取って、指で梳きながらオリヴィアは椅子に腰かけた。鏡越しにアンを見る。
騎士服からメイド服に変わっただけで、彼女の役割は何も変わらない。アンはいつだってオリヴィアの傍に居てくれる。
私の傍に居続ける為、アンは自ら辺境伯令嬢という身分と貴族の籍を抜いた。新帝国を新たに築きあげている彼らの娘なのに、アンは家族ではなく私を選んだ。
(私はアンの幸せの妨げになっていないかしら?)
つい、そんな事を考えてしまう。
「ターニャのお話は終わったの?」
「はい。まぁ……頭を叩かれました」
「大丈夫なの?」とオリヴィアは心配して振り向いた。
アンは「何ともありません」と肩を竦め、オリヴィアに近付いて、彼女の後頭部にそっと触れて顔を鏡の方向へ向けた。櫛を手に取ってオリヴィアの長い髪を優しく、梳いた。それはアンの日課で、オリヴィアはアンに身を任せた。
「どうして叩かれたの?」
「私があー言えばこう言うので、ペシっと」
鏡越しでアンの頭を叩くような手の仕草にオリヴィアはクスっと笑った。
「公爵様を『旦那様』呼びしない事を怒られたんです。そうしたら、いい加減大人になれと言われまして」
アンはイアンとの結婚を賛成しなかった唯一の人間だ。
『オリヴィアが何者からも襲われないようにするには最強の後ろ盾を得た方が、彼女の為にもなるんだよ』
という言葉にアンは何も言えなかった。この言葉をイアン本人が言っていれば刺し違えてでも結婚を止めた。そうしなかったのは、これをアンに進言したのは元将軍のサーレンだからである。
『万が一、帝国派が生き残っていれば、唯一の皇族の生き残りであるオリヴィアを政治的に利用しようとする輩が出てくる筈だ。それを阻止するには君一人では役不足だ』
穏やかな口調で紳士的な態度だというのに、人の心を抉ってくる有無を言わせない男の発言でアンは渋々、イアンとオリヴィアの結婚を許した。彼が言う通り、自分一人の力ではどうしようも出来なかった。
「あいつの金から私たちの給料を払っている訳ではないのに、何故、奴の事を旦那様と呼ばなきゃならないのか、とも思いまして」
「何を言うの。グェイン家のお金はイアンの給料から、イアンの不動産業からの収益とかから支払われているのよ」
「元を辿れば、そのお金は国のお金ですよね? 公爵様の給料を払っているのは国軍で、国軍の予算は国と議会が決定してますよね? 地代はイアンのお金ではなく住んでいる住民のお金であって、不動産業の収益だって元は公爵様のお金ではないんですし、それに王族として国から支払われる収入もありますよね? 私たちは公爵様からではなく、国と住民からお給与を貰っているんです。感謝するならスェミス大国国王と国民です。それに公爵様は王家の人間ですから税金を納めなくて良いですからね。なんの苦労をしていると言うんですか」
「それをターニャに言ったのね?」
「はい」
しれっと言ったアンの手は落ち着いたままだ。変わらずにオリヴィアの髪を優しく梳いていた。
「私はあの男を、『旦那様』なんて呼びませんよ」
忌々しい表情を浮かべたアンにオリヴィアは息を吐いた。
二人とも同じ波長だと思うのに、どうして水と油のような関係なのかしら……?
同族嫌悪、という単語があるが、イアンとアンはそういう類である。二人ともオリヴィアが幸福でいる事が一番だが、どうも「どちらがオリヴィアを想っているか」マウントを取るせいで上手くいかないのだ。
「本当に、あの男に告白をするつもりですか?」
「えぇ、する」
鏡越しのアンは眉を寄せていた。それから、櫛を置いてオリヴィアの両肩に手を置いて、真っ直ぐにオリヴィアの目を見た。
「私は反対です」
「アン」
「あの男の金を吸い取るだけ吸い取って、傍にいるだけでは駄目なんですか?」
イアンへの気持ちに気が付いた時、真っ先に相談した相手はアンだった。
彼女がイアンを嫌っている事をオリヴィア知っている。それでも彼女に相談したのは、ずっと傍に居てくれたアンに知って欲しいと思ったからだ。
帝国で傷つき、「死にたい」「殺して欲しい」とアンに口走った事がある。そんな自分が、今、「生きたい」と願い、そう思わせてくれたイアンに感謝し、想いを伝えたい。それをアンにも知って欲しいし、また、何があっても傍に居れくれたアンに「私は大丈夫」と安心させたかった。
でも、アンは私が傷つく事は何があっても許可を出さない。イアンに想いを伝える事で、私が傷つくと思っている。
「私は、傷付かないわ」
(信じるって決めたもの……揺らいではしまうけど、でも信じるわ)
「オリヴィア様は、告白した先に待つ"何か"の事を考えておいでですか?」
「"何か"? 何かって?」分からない、と首を傾げるとアンはハッキリと告げた。
「セックスです。あの男は獣のようにお嬢様を襲います。間違いありません」
「イアンはそんな人じゃないわ!」
オリヴィアは頬を染め、思わず振り返ろうとするもアンから後頭部を固定されてしまって身動きが出来なかった。鏡に映るアンに視線を送った。
「男とはそういう生き物です」
「イアンはそんな人じゃないわ、だって、私と一緒に寝ても、彼の手が上にも下にも移動した事なんで一度もない。私のお腹の上でいつも固定されているの」
彼と腕を組んで歩いた事はある、結婚式でダンスを踊り、身体が密着した事だってある。手を繋いで歩いた事だってある。手繋ぎも指を絡めるものではなく、掌同士を合わせて繋ぐシンプルなものだった。一緒のベッドで抱き締めて眠ってくれて、身体は密着していても、自分の身体を擦り付けてくるような事は一切しない。彼から性的な事を一度だって受けた事がなかった。
それでも、アンは疑っている。
「イアンは私を傷付けることは絶対にしない」
「でも、奴は男です。そういう生き物です」
「イアンは」違う、と言葉を続けようとすれば、アンはそれを遮った。
「オリヴィア様が身を持って体験されていますよね。男はそういう生き物、って」
ヒュッとオリヴィアの喉が鳴った。彼女は無意識にレースで隠された首に手をやり、喉元を力強く締め付ける。過去の傷に触れ、これを目にする度に、あの記憶が鮮明に蘇る──綺麗な思い出まで黒く塗り潰してしまう程の。
「申し訳ございません、オリヴィア様……失言でした」
鏡に映るオリヴィアの顔色が青褪め、唇まで青く色を変えているのを目撃して、アンは自分の失言に顔色を失くした。
更に謝罪の言葉を述べ、床に跪こうとしたアンをオリヴィアは止めた。肩に置いたアンの手に触れて、首をゆっくりと左右に振った。
「……大丈夫よ、アン」
顔色がまだ青いままのオリヴィアはどう見ても平気には見えなかった。それでも彼女は「大丈夫」としか繰り返さない。
「昔のように悪夢は見ないから」
「私の髪を編んで」と、ニコッと微笑んだ笑みは弱々しいものだったが、これ以上謝罪を続ければ更に暗い出来事を思い出させてしまうかもしれないと、アンは再度櫛を手にとって、オリヴィアの髪を梳く。
「……今日は髪を高く上げましょうか。外は暑いですから」
「少しでも涼しくなるように」とアンは白銀の髪を器用に頭上で高く結んで、シニヨンスタイルにした。横から流れる前髪が色っぽさを演出する。
オリヴィアは満足したように笑った。アンもそんなオリヴィアを見て、「お似合いです」と笑みを浮かべた。顔色が若干戻ったようでアンは胸を撫で下ろす。
「まるで、女神が地上に降りて、下層の人間達を慈愛に満ちた目で見つめるような、お佇まいです」
「フフッ」と吹き出したオリヴィアが、あまりにも綺麗に笑うから。
アンは目頭が熱くなり、涙の跡を頬に残さないために、俯いた。
アンは心の中で理解していた。
オリヴィアが今こうして穏やかに過ごせているのは、大嫌いなあの男のお陰だと……あの男が、オリヴィア様を昔のように、笑う子に戻したのだ。
昔、自分の手だけで守れると思った。それはただの傲慢で、いつしか、オリヴィアが人質ではなく自身が人質とってしまい、立場が逆転された。
『お前の騎士と離されたくなければ、言う事を聞きなさい』
『この白髪を庇ったりしたら、二度と騎士になれないようにしてやるわ』
それを何度無視して、あのクソ皇女たちと母親達を殺そうとしたか分からない。でも、ここで手を出してしまえば、誰がオリヴィア皇女を守るのか、という葛藤が生じた。奴らを殴れば気は晴れる。でもそれは一瞬で、その後永遠にオリヴィア皇女の傍に居る事は出来なくなる。
『絶対に何があってもあの子の傍を離れないでね』
生前に私にそう言ったのはサラ女皇だった。
私が少しでも助けてしまえば、この約束は破られる事になってしまう。
例え、父が皇帝の弟でも、嫌われて辺境伯に婿入りした父の立場は弱く、それ同様に私の立場は弱かった。守り抜くと息巻いて、彼女の騎士になっても、完璧に守り抜く事は出来なかった。ただ影のように傍に居ただけ。
あの男なら、自分の身分を最大限に利用して守っただろう──私にはない身分だ。辺境伯という身分よりも高い、第二王子という身分。
あの男なら、オリヴィア様があの日あいつにされた事を防げた筈だ。私は、防ぐ事が出来なかった。ただ、あの悲鳴を聞いただけ──……。
それでも、オリヴィアはイアンという男を信用できなかった。
あの男の正体は凶暴だ。いくら国の安全の為とは言え、本人から直接痛めつけられたのだ。その矛先がいずれ、オリヴィア様に向かいはしないかとアンは恐れていた。
それがいくら、自分の任務だからと言って、家族にはしない、家族は弁える、とかそんな器用な人間、この世に存在しない。他の人間に出来るのだから──身内にも出来る筈だ。その矛先がもしオリヴィア様に向くような事があったら私は、あの男を殺す。
それが、サラ女皇との約束を反故してしまう結果だとしても。
今度こそオリヴィアを救う為に。
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