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第1章 子犬編
7 新しい生活
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借家での暮らしは思っていた以上に快適だった。
不便なのは、日当たりが悪いため昼間でも電気をつけなければならないのと、階段が急なことくらいで、他には特に問題はない。
古い家だが必要なところはリフォームされているし、日当たりが悪いわりに湿気でカビが生えているようなこともなく、過ごしやすい家なのだ。
駅からは少し遠いのだが、商店街が近く、日常の買い物はそこで済んでしまうので、それほど不便は感じない。
商店街は昔ながらの対面販売の店が多くて店内に入らなくても買い物ができるので、タロが散歩に行けるようになってからは、タロの散歩がてら商店街に行って、八百屋や肉屋や弁当屋で買い物をして帰ってくることも多い。
不動産屋がやっかいな条件だと言っていた、月2回の庭の稲荷神社の祭りも、俺にはむしろちょっとした楽しみになっていた。
何しろ、神主さんがお祭りをしているところを見られる機会など、そうはない。
最初の時は見るもの全てが珍しくて、資料用に山ほど写真を撮らせてもらったほどだ。
15分ほどの短い祭りには俺とタロも毎回参列させてもらえて、特に信心深いわけでもない俺でも、何となくありがたい気持ちになる。
そして大家の宮司さんはやっぱり見た目通りのいい人で、祭りの後で余裕がある時には、大家さんとお茶を飲みながら話をするのも楽しみになっていた。
生活環境が良くなれば、仕事の方も充実する。
環境が変わったことで新鮮な気持ちになっているうえに、タロという絶好のモデルを得た俺は、次々と新しい絵を完成させていった。
子犬の成長は早い。
もらって来た時はちょっと折れていた耳はしばらくするとピンと立つようになり、鼻筋は伸びてきて、コロコロと丸かった体つきも少しほっそりしてきた。
子犬の特有のかわいさがうしなわれて行くのは寂しくもあったが、柴犬らしいキリッとした顔つきとしなやかな体つきにもまた別の種類のよさがあって、それはそれでかわいいのだ。
俺は日々成長していくタロの変化から目が離せず、毎日写真を撮りまくり、スケッチしまくり、そしてそれらを元に絵を仕上げていった。
あまりにもタロの絵ばかり何枚も描いてしまったので、絵を引き取りにきた元橋さんにはすっかり呆れられてしまった。
それでも元橋さんは「動物の絵は人気があるし、お前の画風にも合っているから、まあいいだろう」と言って全部持って帰ってくれた。
元橋さんは画商として確かな目を持っているので、元橋さんのOKが出ると毎回ほっとするのだが、今回はそれだけでなく、タロのかわいい姿を描いた絵を元橋さんのギャラリーに飾ってもらえるのが、単純に嬉しくもある。
出来ることならタロの絵が売れて、毎日誰かの心を和ませることが出来ればもっといいと思う。
――――――――――――――――――――
そしてそのタロだが、一緒に暮らしていると、見た目のかわいさだけではなく、本当にいい子だと実感する。
タロと過ごす日々は幸せで、俺はタロと出会えて本当によかったと、毎日喜びを噛みしめている。
タロは人なつっこく、基本的に誰にでも愛想がいいが、飼い主である俺には特になついてくれている。
家の中でもよく俺について歩いているし、夜も毎晩自分から俺の布団に入って来て一緒に寝てくれる。
俺が一階のアトリエで絵を描いている時、タロは俺の近くで一人遊びしていたり、お気に入りのクッションで寝ていたりすることが多いのだが、ふと気付くと俺が描いている絵をじっと眺めていたりもする。
きっとタロは絵を見ているというわけではなく、俺の手の動きが気になっているだけなのだろうとは思う。
それでもタロが絵を描いているところを見てくれていると、何となくタロが俺の絵を気にいってくれているような気がして、胸がほんのりと暖かくなる。
そして、タロはかわいいだけではなく、賢くもある。
飼い主のひいき目かもしれないが、他の犬に比べてかなり賢いのではないかと思う。
子犬がやりがちな物をちらかしたり噛んだりといったイタズラは全くしなかったし、俺が教えたことはすぐに覚えるので躾も苦労しなかった。
それに、気のせいでなければ、俺が言っていることを、かなり理解しているのではないかとも思う。
――――――――――――――――――――
例えば、こんなことがあった。
その日の俺は、副業の挿絵の仕事で、修羅場の真っ最中だった。
いつも仕事を依頼してくれる編集さんから、他のイラストレーターが急病になったので何とか代わりに描いて欲しいと頼み込まれ、かなり厳しい締め切りの仕事を引き受けたからだ。
食事はこういう時に備えて買い置きしてある非常食で済ませ、風呂にもろくに入らず、外出はタロの散歩にダッシュで行って帰ってくるだけという生活を何日も続けていたのだが、気がつけばうっかりトイレットペーパーを切らしてしまっていた。
「あー……仕方がない。買いに行くか。
タロ、散歩行くぞ」
「ワン!」
俺が呼ぶと尻尾をふりふり走ってきたタロを散歩用ロープでつなぎ、俺とタロは商店街までダッシュした。
商店街にあるドラッグストアの前に着くと、タロを店の前につながせてもらう。
本当はこんなふうに犬をつないでおくのはイタズラや誘拐される可能性があるのでよくないのだが、ドラッグストアの向かいの店は、犬好きで商店街に散歩に来る犬と飼い主はみな顔見知りと豪語する肉屋のおばちゃんのところなので、犬の飼い主たちはみな安心して、ここにつながせてもらっているのだ。
それでもタロを待たせたくなかったのと締め切りが気になっていたこともあって、俺は大急ぎでドラッグストアでトイレットペーパーとすぐ食べられる食料と栄養ドリンクを買うと店を出た。
「よし、帰るぞ、タロ」
尻尾を振っているタロのロープをほどき、コロッケを揚げる肉屋の匂いに後ろ髪を引かれながら、俺とタロはまたダッシュで家に向かった。
そしてもうすぐ家に着くという頃、困ったことに俺はトイレ(大きい方)に行きたくなってきてしまった。
慌てて家に戻り、鍵を開けるのももどかしく家に入ると、荷物を放り出して玄関脇のトイレに入る。
「タロ!
トイレ出たら足拭いてやるから、上がらずに待ってろよ!」
「ワン!」
トイレの中から叫ぶと、タロの元気な返事が玄関から聞こえたので、俺は安心してトイレで用を足す。
そしてほっと一息ついたところで、俺はまずいことに気付いてしまった。
「しまった。紙切れてるんだった……」
トイレットペーパーを買うために買い物に行ったのに、肝心のそれを玄関先に放り出してトイレに入ってしまった自分の間抜けさ加減には呆れるしかない。
ペーパーホルダーにはもう芯しか残ってないので、何とかして外のトイレットペーパーを取らなければならない。
どうしようと思っていたその時、トイレのすぐ外で「ワン」と声がした。
「タロ〜、待ってろって行っただろう〜」
この上、床掃除もしなければいけないのかと肩を落としながら、お尻を浮かせてドアを開けると、そこにはなぜか、さっき買ってきた12個入りのトイレットペーパーが横になって転がっていた。
「ワン」
そしてそのトイレットペーパーのすぐ後ろには、タロが立っていた。
そうしてタロは、トイレットペーパーを自分の鼻でぐいぐいとこちらに押してきた。
どうやらタロは、俺が紙がないと嘆いているのを聞きつけて、自分の体より大きいトイレットペーパーの袋をここまで押して来てくれたらしい。
「わ、タロ、ありがとう!
助かったよ〜」
そうして俺は無事、トイレットペーパーを使うことが出来たのだった。
俺がトイレから出た後、タロの足と床を拭いてから、タロにちょっと高いオヤツをお礼にあげたのは言うまでもない。
不便なのは、日当たりが悪いため昼間でも電気をつけなければならないのと、階段が急なことくらいで、他には特に問題はない。
古い家だが必要なところはリフォームされているし、日当たりが悪いわりに湿気でカビが生えているようなこともなく、過ごしやすい家なのだ。
駅からは少し遠いのだが、商店街が近く、日常の買い物はそこで済んでしまうので、それほど不便は感じない。
商店街は昔ながらの対面販売の店が多くて店内に入らなくても買い物ができるので、タロが散歩に行けるようになってからは、タロの散歩がてら商店街に行って、八百屋や肉屋や弁当屋で買い物をして帰ってくることも多い。
不動産屋がやっかいな条件だと言っていた、月2回の庭の稲荷神社の祭りも、俺にはむしろちょっとした楽しみになっていた。
何しろ、神主さんがお祭りをしているところを見られる機会など、そうはない。
最初の時は見るもの全てが珍しくて、資料用に山ほど写真を撮らせてもらったほどだ。
15分ほどの短い祭りには俺とタロも毎回参列させてもらえて、特に信心深いわけでもない俺でも、何となくありがたい気持ちになる。
そして大家の宮司さんはやっぱり見た目通りのいい人で、祭りの後で余裕がある時には、大家さんとお茶を飲みながら話をするのも楽しみになっていた。
生活環境が良くなれば、仕事の方も充実する。
環境が変わったことで新鮮な気持ちになっているうえに、タロという絶好のモデルを得た俺は、次々と新しい絵を完成させていった。
子犬の成長は早い。
もらって来た時はちょっと折れていた耳はしばらくするとピンと立つようになり、鼻筋は伸びてきて、コロコロと丸かった体つきも少しほっそりしてきた。
子犬の特有のかわいさがうしなわれて行くのは寂しくもあったが、柴犬らしいキリッとした顔つきとしなやかな体つきにもまた別の種類のよさがあって、それはそれでかわいいのだ。
俺は日々成長していくタロの変化から目が離せず、毎日写真を撮りまくり、スケッチしまくり、そしてそれらを元に絵を仕上げていった。
あまりにもタロの絵ばかり何枚も描いてしまったので、絵を引き取りにきた元橋さんにはすっかり呆れられてしまった。
それでも元橋さんは「動物の絵は人気があるし、お前の画風にも合っているから、まあいいだろう」と言って全部持って帰ってくれた。
元橋さんは画商として確かな目を持っているので、元橋さんのOKが出ると毎回ほっとするのだが、今回はそれだけでなく、タロのかわいい姿を描いた絵を元橋さんのギャラリーに飾ってもらえるのが、単純に嬉しくもある。
出来ることならタロの絵が売れて、毎日誰かの心を和ませることが出来ればもっといいと思う。
――――――――――――――――――――
そしてそのタロだが、一緒に暮らしていると、見た目のかわいさだけではなく、本当にいい子だと実感する。
タロと過ごす日々は幸せで、俺はタロと出会えて本当によかったと、毎日喜びを噛みしめている。
タロは人なつっこく、基本的に誰にでも愛想がいいが、飼い主である俺には特になついてくれている。
家の中でもよく俺について歩いているし、夜も毎晩自分から俺の布団に入って来て一緒に寝てくれる。
俺が一階のアトリエで絵を描いている時、タロは俺の近くで一人遊びしていたり、お気に入りのクッションで寝ていたりすることが多いのだが、ふと気付くと俺が描いている絵をじっと眺めていたりもする。
きっとタロは絵を見ているというわけではなく、俺の手の動きが気になっているだけなのだろうとは思う。
それでもタロが絵を描いているところを見てくれていると、何となくタロが俺の絵を気にいってくれているような気がして、胸がほんのりと暖かくなる。
そして、タロはかわいいだけではなく、賢くもある。
飼い主のひいき目かもしれないが、他の犬に比べてかなり賢いのではないかと思う。
子犬がやりがちな物をちらかしたり噛んだりといったイタズラは全くしなかったし、俺が教えたことはすぐに覚えるので躾も苦労しなかった。
それに、気のせいでなければ、俺が言っていることを、かなり理解しているのではないかとも思う。
――――――――――――――――――――
例えば、こんなことがあった。
その日の俺は、副業の挿絵の仕事で、修羅場の真っ最中だった。
いつも仕事を依頼してくれる編集さんから、他のイラストレーターが急病になったので何とか代わりに描いて欲しいと頼み込まれ、かなり厳しい締め切りの仕事を引き受けたからだ。
食事はこういう時に備えて買い置きしてある非常食で済ませ、風呂にもろくに入らず、外出はタロの散歩にダッシュで行って帰ってくるだけという生活を何日も続けていたのだが、気がつけばうっかりトイレットペーパーを切らしてしまっていた。
「あー……仕方がない。買いに行くか。
タロ、散歩行くぞ」
「ワン!」
俺が呼ぶと尻尾をふりふり走ってきたタロを散歩用ロープでつなぎ、俺とタロは商店街までダッシュした。
商店街にあるドラッグストアの前に着くと、タロを店の前につながせてもらう。
本当はこんなふうに犬をつないでおくのはイタズラや誘拐される可能性があるのでよくないのだが、ドラッグストアの向かいの店は、犬好きで商店街に散歩に来る犬と飼い主はみな顔見知りと豪語する肉屋のおばちゃんのところなので、犬の飼い主たちはみな安心して、ここにつながせてもらっているのだ。
それでもタロを待たせたくなかったのと締め切りが気になっていたこともあって、俺は大急ぎでドラッグストアでトイレットペーパーとすぐ食べられる食料と栄養ドリンクを買うと店を出た。
「よし、帰るぞ、タロ」
尻尾を振っているタロのロープをほどき、コロッケを揚げる肉屋の匂いに後ろ髪を引かれながら、俺とタロはまたダッシュで家に向かった。
そしてもうすぐ家に着くという頃、困ったことに俺はトイレ(大きい方)に行きたくなってきてしまった。
慌てて家に戻り、鍵を開けるのももどかしく家に入ると、荷物を放り出して玄関脇のトイレに入る。
「タロ!
トイレ出たら足拭いてやるから、上がらずに待ってろよ!」
「ワン!」
トイレの中から叫ぶと、タロの元気な返事が玄関から聞こえたので、俺は安心してトイレで用を足す。
そしてほっと一息ついたところで、俺はまずいことに気付いてしまった。
「しまった。紙切れてるんだった……」
トイレットペーパーを買うために買い物に行ったのに、肝心のそれを玄関先に放り出してトイレに入ってしまった自分の間抜けさ加減には呆れるしかない。
ペーパーホルダーにはもう芯しか残ってないので、何とかして外のトイレットペーパーを取らなければならない。
どうしようと思っていたその時、トイレのすぐ外で「ワン」と声がした。
「タロ〜、待ってろって行っただろう〜」
この上、床掃除もしなければいけないのかと肩を落としながら、お尻を浮かせてドアを開けると、そこにはなぜか、さっき買ってきた12個入りのトイレットペーパーが横になって転がっていた。
「ワン」
そしてそのトイレットペーパーのすぐ後ろには、タロが立っていた。
そうしてタロは、トイレットペーパーを自分の鼻でぐいぐいとこちらに押してきた。
どうやらタロは、俺が紙がないと嘆いているのを聞きつけて、自分の体より大きいトイレットペーパーの袋をここまで押して来てくれたらしい。
「わ、タロ、ありがとう!
助かったよ〜」
そうして俺は無事、トイレットペーパーを使うことが出来たのだった。
俺がトイレから出た後、タロの足と床を拭いてから、タロにちょっと高いオヤツをお礼にあげたのは言うまでもない。
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