90 / 101
第ニ部 loves
第八十八話 【火花散る】
しおりを挟む
いつもならば、「ただいま」という声の後、洗面所から手を洗う水音が聞こえ、柊悟さんはリビングへと姿を現すのだが、今日は違った。きっと玄関に男物の革靴があるのを見て、戦慄したに違いない。ドスドスと急ぎ足でこちらへと近寄ってくる足音が荒い。
「ただいまほたる。お客さ──」
「おかえりなさい、柊悟さん」
「……桃哉さん」
「……よぉ」
通勤鞄を床に投げ出し、柊悟さんは早足でベッドへと歩み寄る。スーツ姿のままわたしを抱き締めると、歯を食い縛った後、桃哉を睨み付けた。
「……どうして」
「お願い柊悟さん、話を聴いて」
このままでは彼は桃哉を殴りかねない。善意でここに留まってくれた桃哉に対して、それはあまりにも酷い話だった。
「わかった」
深呼吸をして立ち上がった柊悟さんは、上着を脱いで一旦洗面所へと姿を消した。少し落ち着きを取り戻したのか、わたしの隣へ腰を下ろす頃には、つり上がっていた眉はいつもの優しげな形へと戻っていた。
「……遥臣さんが来たの」
「遥が?」
「うん……それで、樹李さんを追い出して、自分が看病をするからって言って……」
パジャマの前側を隠すように、わたしは自分の身体を抱き締めた。その手を掴んだ柊悟さんの顔が、少しだけ青い。
「何かされたの?!」
「何かって訳じゃないけど……」
「言うのが辛いなら、言わなくていい」
「うん……」
パジャマを脱がされそうになっただなんて言えば、きっと兄弟の間に亀裂が入ってしまう。何かされたのであれば話さなければならないかもしれないが、未遂である以上は被害者ぶっておかしなことを言うのも気が引けた。
「そこに偶然桃哉が来てくれたの。いつもの野菜を持って……それで、助けてくれて」
「…………」
「樹李さんはバイトに行かなきゃだし……遥臣さんは『自分がほたるさんの看病をするから』って言ったんだけど、桃哉が残ってくれて」
「ごめん……嫌な思いをさせたね」
桃哉が盛大な溜め息を吐いた。そんな彼を振り返った柊悟さんは、深々と頭を下げて謝罪と感謝を口にした。
「気にすんな」
「しかし……」
「俺だって、どうこう言える立場じゃねえし。それに昔こいつにもっと辛い思いをさせた。だから、何も言わない」
隣に柊悟さんがいるというのに──桃哉の言葉に、昔の事を少しだけ思い出してしまう。それを頭の隅に追いやって、桃哉へと視線を移した。
「ありがとね、桃哉。助かったよ」
「別に…………早く風邪治せよ。もう帰るから」
「うん、気を付けて」
約束通りチャーリーを桃哉に差し出すと、柊悟さんは「あげるの?」と不思議そうに首を傾げた。そんな中、立ち上がろうとするわたしを制し、桃哉は玄関へと向かう。柊悟さんは玄関まで桃哉を見送ると、早足でベッドへと戻ってきた。
「ほたる、熱は?」
筋張った大きな手が、わたしの額にぺたりと押し当てられる。その冷たさに一瞬肩が縮こまったが、すぐに抱き寄せてくれた温かな腕の中に、すっぽりと包まれてしまった。
「さっき計ったら37.6℃だったよ」
「よかった、だいぶ下がったね。ところで、チャーリーはよかったの?」
「うん……なんかね、桃哉ったら一人で寂しいらしくて。それで、あげたんだ」
本当のことなど話せるわけがない。柊悟さんが嫌な思いをすることは、わかりきっている。小さなことだけれど、さっきから彼に隠し事や嘘ばかり吐いている。わたしの自己満足で、彼の為にと話していないことだが、胸の奥がチクチクと傷んで仕方がなかった。
*
「樹李さん、昨日はありがとうございました」
朝になって更に熱は下がり、37.3℃。ある程度動けるので、「大丈夫だから」と言って柊悟さんには仕事に行ってもらった。今日は土曜日だが、お昼まで仕事が入っているとのことだった。
お昼前になって、昨夜お世話になった樹李さんにお礼を言う為、彼女の部屋へと向かった。柊悟さんが昨夜作った特製パウンドケーキを片手にチャイムを鳴らすと、樹李さんはすぐにドアを開けてくれた。
「おー、ほたる! 大丈夫だったか?」
「はい……」
「悪かったな……傍にいてやれなくて」
「いえ、こちらこそすみませんでした」
「そんなことないって」
パウンドケーキを見て樹李さんは嬉しそうに顔を綻ばせた。ここ一年で何度か振る舞ったことがあり、彼女のお気に入りの味になってしまったようだ。
「立石君と桃哉君は喧嘩にならなかった?」
「ええ、なんとか」
「それならよかった」
「それで……あの、この前相談したことなんですけど……」
「どうした?」
先日、わたしは樹李さんに「柊悟さんとの将来に対する不安」という漠然なことについて相談をしていた。将来を約束してくれたのに、自分に自信がないゆえにそれを信じて待つことが出来ないと。
「ひょっとしてプロポーズされて解決したん?」
「いえ、プロポーズはされてないんですけど……わたし、馬鹿みたいに焦りすぎていたかもしれません」
樹李さんはわたしを玄関に招き入れ、扉を閉めた。話の内容を外に漏らさぬようにという彼女なりの配慮なのだろう。狭い玄関に腰を下ろした彼女に促されるまま、膝を立てて隣に座った。
「寝込んでいる間に、色々考えたんです。別に結婚にこだわる必要なんてないんですよね。わたしはただ、彼と一緒にいられればそれで幸せなのに、そんなこともわかっていなかった」
「……そっか」
樹李さんはどこか安心したような声色で相槌を打つ。視線を左手の薬指──柊悟さんが贈ってくれた指輪に落としながら、わたしは続ける。
「わたしだって……色々と思うことはありますけど……そんなことばかり一人で考えていもどうにもならないって、気がついたんです」
ただ恋人同士で同棲しているのと、婚姻を交わして夫婦に──家族になるのとではやはり意味合いが違う。最近ではそんなことに拘らないカップルも増えているようだから、ひょっとしたら柊悟さんもそちらの考えなのかもしれない。彼がそういう考えであるのならば、それに靡くのも悪くはないかなと考えるようになったのだ。
「まあ何にせよ、落ち着いたみたいでよかったよ。安心してこれを食べられるな」
嬉しそうにパウンドケーキの載った皿を抱き抱える樹李さんにもう一度お礼を述べ、わたしは彼女の部屋を後にしたのだった。
「ただいまほたる。お客さ──」
「おかえりなさい、柊悟さん」
「……桃哉さん」
「……よぉ」
通勤鞄を床に投げ出し、柊悟さんは早足でベッドへと歩み寄る。スーツ姿のままわたしを抱き締めると、歯を食い縛った後、桃哉を睨み付けた。
「……どうして」
「お願い柊悟さん、話を聴いて」
このままでは彼は桃哉を殴りかねない。善意でここに留まってくれた桃哉に対して、それはあまりにも酷い話だった。
「わかった」
深呼吸をして立ち上がった柊悟さんは、上着を脱いで一旦洗面所へと姿を消した。少し落ち着きを取り戻したのか、わたしの隣へ腰を下ろす頃には、つり上がっていた眉はいつもの優しげな形へと戻っていた。
「……遥臣さんが来たの」
「遥が?」
「うん……それで、樹李さんを追い出して、自分が看病をするからって言って……」
パジャマの前側を隠すように、わたしは自分の身体を抱き締めた。その手を掴んだ柊悟さんの顔が、少しだけ青い。
「何かされたの?!」
「何かって訳じゃないけど……」
「言うのが辛いなら、言わなくていい」
「うん……」
パジャマを脱がされそうになっただなんて言えば、きっと兄弟の間に亀裂が入ってしまう。何かされたのであれば話さなければならないかもしれないが、未遂である以上は被害者ぶっておかしなことを言うのも気が引けた。
「そこに偶然桃哉が来てくれたの。いつもの野菜を持って……それで、助けてくれて」
「…………」
「樹李さんはバイトに行かなきゃだし……遥臣さんは『自分がほたるさんの看病をするから』って言ったんだけど、桃哉が残ってくれて」
「ごめん……嫌な思いをさせたね」
桃哉が盛大な溜め息を吐いた。そんな彼を振り返った柊悟さんは、深々と頭を下げて謝罪と感謝を口にした。
「気にすんな」
「しかし……」
「俺だって、どうこう言える立場じゃねえし。それに昔こいつにもっと辛い思いをさせた。だから、何も言わない」
隣に柊悟さんがいるというのに──桃哉の言葉に、昔の事を少しだけ思い出してしまう。それを頭の隅に追いやって、桃哉へと視線を移した。
「ありがとね、桃哉。助かったよ」
「別に…………早く風邪治せよ。もう帰るから」
「うん、気を付けて」
約束通りチャーリーを桃哉に差し出すと、柊悟さんは「あげるの?」と不思議そうに首を傾げた。そんな中、立ち上がろうとするわたしを制し、桃哉は玄関へと向かう。柊悟さんは玄関まで桃哉を見送ると、早足でベッドへと戻ってきた。
「ほたる、熱は?」
筋張った大きな手が、わたしの額にぺたりと押し当てられる。その冷たさに一瞬肩が縮こまったが、すぐに抱き寄せてくれた温かな腕の中に、すっぽりと包まれてしまった。
「さっき計ったら37.6℃だったよ」
「よかった、だいぶ下がったね。ところで、チャーリーはよかったの?」
「うん……なんかね、桃哉ったら一人で寂しいらしくて。それで、あげたんだ」
本当のことなど話せるわけがない。柊悟さんが嫌な思いをすることは、わかりきっている。小さなことだけれど、さっきから彼に隠し事や嘘ばかり吐いている。わたしの自己満足で、彼の為にと話していないことだが、胸の奥がチクチクと傷んで仕方がなかった。
*
「樹李さん、昨日はありがとうございました」
朝になって更に熱は下がり、37.3℃。ある程度動けるので、「大丈夫だから」と言って柊悟さんには仕事に行ってもらった。今日は土曜日だが、お昼まで仕事が入っているとのことだった。
お昼前になって、昨夜お世話になった樹李さんにお礼を言う為、彼女の部屋へと向かった。柊悟さんが昨夜作った特製パウンドケーキを片手にチャイムを鳴らすと、樹李さんはすぐにドアを開けてくれた。
「おー、ほたる! 大丈夫だったか?」
「はい……」
「悪かったな……傍にいてやれなくて」
「いえ、こちらこそすみませんでした」
「そんなことないって」
パウンドケーキを見て樹李さんは嬉しそうに顔を綻ばせた。ここ一年で何度か振る舞ったことがあり、彼女のお気に入りの味になってしまったようだ。
「立石君と桃哉君は喧嘩にならなかった?」
「ええ、なんとか」
「それならよかった」
「それで……あの、この前相談したことなんですけど……」
「どうした?」
先日、わたしは樹李さんに「柊悟さんとの将来に対する不安」という漠然なことについて相談をしていた。将来を約束してくれたのに、自分に自信がないゆえにそれを信じて待つことが出来ないと。
「ひょっとしてプロポーズされて解決したん?」
「いえ、プロポーズはされてないんですけど……わたし、馬鹿みたいに焦りすぎていたかもしれません」
樹李さんはわたしを玄関に招き入れ、扉を閉めた。話の内容を外に漏らさぬようにという彼女なりの配慮なのだろう。狭い玄関に腰を下ろした彼女に促されるまま、膝を立てて隣に座った。
「寝込んでいる間に、色々考えたんです。別に結婚にこだわる必要なんてないんですよね。わたしはただ、彼と一緒にいられればそれで幸せなのに、そんなこともわかっていなかった」
「……そっか」
樹李さんはどこか安心したような声色で相槌を打つ。視線を左手の薬指──柊悟さんが贈ってくれた指輪に落としながら、わたしは続ける。
「わたしだって……色々と思うことはありますけど……そんなことばかり一人で考えていもどうにもならないって、気がついたんです」
ただ恋人同士で同棲しているのと、婚姻を交わして夫婦に──家族になるのとではやはり意味合いが違う。最近ではそんなことに拘らないカップルも増えているようだから、ひょっとしたら柊悟さんもそちらの考えなのかもしれない。彼がそういう考えであるのならば、それに靡くのも悪くはないかなと考えるようになったのだ。
「まあ何にせよ、落ち着いたみたいでよかったよ。安心してこれを食べられるな」
嬉しそうにパウンドケーキの載った皿を抱き抱える樹李さんにもう一度お礼を述べ、わたしは彼女の部屋を後にしたのだった。
0
お気に入りに追加
380
あなたにおすすめの小説
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
〈社会人百合〉アキとハル
みなはらつかさ
恋愛
女の子拾いました――。
ある朝起きたら、隣にネイキッドな女の子が寝ていた!?
主人公・紅(くれない)アキは、どういったことかと問いただすと、酔っ払った勢いで、彼女・葵(あおい)ハルと一夜をともにしたらしい。
しかも、ハルは失踪中の大企業令嬢で……?
絵:Novel AI


【R18】幼馴染がイケメン過ぎる
ケセラセラ
恋愛
双子の兄弟、陽介と宗介は一卵性の双子でイケメンのお隣さん一つ上。真斗もお隣さんの同級生でイケメン。
幼稚園の頃からずっと仲良しで4人で遊んでいたけど、大学生にもなり他にもお友達や彼氏が欲しいと思うようになった主人公の吉本 華。
幼馴染の関係は壊したくないのに、3人はそうは思ってないようで。
関係が変わる時、歯車が大きく動き出す。

マッサージ
えぼりゅういち
恋愛
いつからか疎遠になっていた女友達が、ある日突然僕の家にやってきた。
背中のマッサージをするように言われ、大人しく従うものの、しばらく見ないうちにすっかり成長していたからだに触れて、興奮が止まらなくなってしまう。
僕たちはただの友達……。そう思いながらも、彼女の身体の感触が、冷静になることを許さない。
明智さんちの旦那さんたちR
明智 颯茄
恋愛
あの小高い丘の上に建つ大きなお屋敷には、一風変わった夫婦が住んでいる。それは、妻一人に夫十人のいわゆる逆ハーレム婚だ。
奥さんは何かと大変かと思いきやそうではないらしい。旦那さんたちは全員神がかりな美しさを持つイケメンで、奥さんはニヤケ放題らしい。
ほのぼのとしながらも、複数婚が巻き起こすおかしな日常が満載。
*BL描写あり
毎週月曜日と隔週の日曜日お休みします。

甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。
海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。
ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。
「案外、本当に君以外いないかも」
「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」
「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」
そのドクターの甘さは手加減を知らない。
【登場人物】
末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。
恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる?
田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い?
【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】

社長室の蜜月
ゆる
恋愛
内容紹介:
若き社長・西園寺蓮の秘書に抜擢された相沢結衣は、突然の異動に戸惑いながらも、彼の完璧主義に応えるため懸命に働く日々を送る。冷徹で近寄りがたい蓮のもとで奮闘する中、結衣は彼の意外な一面や、秘められた孤独を知り、次第に特別な絆を築いていく。
一方で、同期の嫉妬や社内の噂、さらには会社を揺るがす陰謀に巻き込まれる結衣。それでも、蓮との信頼関係を深めながら、二人は困難を乗り越えようとする。
仕事のパートナーから始まる二人の関係は、やがて揺るぎない愛情へと発展していく――。オフィスラブならではの緊張感と温かさ、そして心揺さぶるロマンティックな展開が詰まった、大人の純愛ストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる