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第ニ部 loves
第七十話 【地獄の月曜日⑤】
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「山岡さん、それから……月山さん、河根田さん、遠山さん、お疲れ様です」
夏牙さんに名前を呼ばれた女性陣は、口元を手で抑え感極まった様子。それを見た四十代くらいの男性は、腰に手をあて呆れた様子でそれを見つめていた。女性三人の小声での会話を聞くと、どうやら夏牙さんが自分達の名前を把握してくれていたことに感動しているようだ。
「ご来店ありがとうございます。しかし珍しいですね、山岡さん」
「ええ、ちょっと……先日臨時収入がありまして」
「馬ですか? 船ですか?」
「馬です」
山岡さんと呼ばれた四十代くらいの男性が、白い歯を見せて頬笑む。臨時収入……競馬で勝ったらしく、本日出勤していたレストランの調理師三人を連れて食事に来たとのことであった。
(……調理師?)
わたしの表情を読み取ったのか、夏牙さんが咳を払って四人を見据えた。
「ほたるさん、こちら緑の楽園のチーフシェフを務める山岡さん。それに調理師の月山さん、河根田さん、遠山さん」
四人は順番に名乗りぺこりと頭を下げる。うっすらと微笑んだ女性達の浮かべる笑顔は皆魅力的だ。
「で……彼女は真戸乃ほたるさん、柊悟の婚約者です」
「こんばんは、初めまして。柊悟さんがいつもお世話になっております」
「しゅう、ご?」
わたしが頭を下げると、山岡さんと呼ばれた男性以外が固まってしまった。三人の女性達は互いに視線を合わせては、ちらりとわたしを見る。そして舐めるように全身を見つめてはまた互いに視線を合わせ、混乱しているようだ。
「山岡さん……『しゅうごさん』ってどなたですか?」
河根田と名乗った背が高くグラマラスな女性が、山岡さんの耳元でそっと囁く。月山と名乗ったスレンダーな女性と、遠山と名乗った更に痩せた短髪の女性も、それに倣って身を傾けている。
「え? ああ……君たち知らないの?」
「何がですか?」
「立石君……マスターの名前」
「「「え?」」」
声が重なり、一瞬場の空気が凍りつく。ぎぎぎ、と音がしそうな三人の首の動き。向けられる視線が痛い。
(なに……? 何なの……?)
唇は弧を描き、愛想の良い笑みを浮かべていた彼女たちの顔が一変し、凄まじい殺気を放ち始める。飲酒をして火照っていた体から、熱がスッと抜けていく。
「しゅうご……さんというのですか、マスターの名前は」
「そしてこの人が婚約者……」
「こんな人が、婚約者……」
「夏牙様……そうか、ご家族の決められたお相手なのですね?」
「違うよ? あいつが自分で連れてきた子だよ」
「うそ……」
そうか──。この人達は皆、柊悟さんに好意を抱いているのか。だからこんな視線を、わたしに。
「そういば、今日賄いを作ったのは一体誰だったのかな?」
場の空気を入れ替えるように、唐突に夏牙さんが言えば、月山さんが「私です」と静かに名乗りを上げた。
「月山さんか。柊悟は喜んでいた?」
「ええ、とても」
「それはよかった」
答えた彼女の声は未だ冷たい。他の二人から向けられる視線も刺さるように痛い。山岡さんがどうしたものかと困惑した顔で夏牙さんをちらちらと見ている。
(──って……賄い? 柊悟さんはわたしの作ったお弁当を食べずに、この女性が作った食事をお昼に食べたってこと?)
お酒の回った頭では、何故柊悟さんがお弁当を食べてくれなかったのか、深く思考することが出来なかった。どうして、どうして──という考えが、頭の中を支配する。
「そ……そろそろ、失礼しようか? みんなお腹空いてるだろう?」
山岡さんが三人の肩を順に叩く。我に返った彼女達は氷のような視線はそのまま、「そうですね、失礼しました」と、夏牙さんに頭を下げる。周りの空気がなんとなく張り詰めたままのように感じ、居たたまれなくなったわたしは思わずワイングラスを呷ってしまった。
「あんな風だけど、とても優秀な子達だよ。柊悟からは何も仕事の話は聞いてないの?」
「柊悟さんは……あまり仕事の話はうちでしないので……」
「大丈夫? 顔色悪いよ?」
「すみません……ちょっと、お手洗いに」
夏牙さんがわたしの背中に声をかけているが、全く耳に入ってこない。先程向けられた彼女達の視線、それにお弁当のことだって。
(やっぱりわたしは──周りから見てもあの人とは不釣り合いなんだ)
ふらつく足で一歩一歩絨毯を踏みしめ、レストランの外へと向かう。お手洗い側へとショートカット出来る通路があるとの表示が目に入り、ガラス張りの個室側へと足を向けた。
「──え?」
席に座ったとき目に入った、角の個室。その個室内で並んで席に座る若い男女。露出度の高いワンピースを身に纏ったロングヘアーの女性と、見覚えのあるスーツ姿の男性。
(あれは──柊悟さん?)
「なんで……どうして」
背を向けている彼はわたしの存在に気が付く筈もなく、女性と食事を楽しんでいる様子だった。
(わたしがこんな目にあっているっていうのに──助けに来てほしいのに──どうして……どうして)
足が止まり、涙が頬を伝う。不思議に思ったのか、近くにいたウエイターの男性が近寄って来る。
「あ……お客様!」
捕まるまいと、気が付けば走り出していた。フラフラとよろけながらトイレに駆け込むと、手洗い場の前でうずくまり、動けなくなってしまった。
「うっ…………うぅ…………」
泣いては駄目だと己に言い聞かせれば言い聞かせるほど、どんどん惨めになってゆく。さっきの女性は一体誰だったのだろう。横に並んで食事ををするなんて、余程親密でないとしないはずだ。
「寒い……気持ち悪い……」
目を瞑ってしまえばそこで、全てから逃げられるような気がした。この場で許されることではないと分かっていても、夏牙さんのいるあの場所に戻る心の余裕など、今のわたしにはこれっぽっちも残っていなかった。
溢れた涙が作ったスカートの染みが、どんどん面積を広げて行く。誰かがわたしの名前を呼び、駆け寄ってくる気配があるが、顔を上げ振り返ることが出来ない。
(疲れた──もう、どうでもいい。嫌だ、無理だよ……)
全てから逃げてしまえ、と瞼を下ろす。柊悟さんとの仲を引き裂かれまいと、わたしは夏牙さんに言われるがままここまでやって来たというのに。柊悟さんには別の女性がいたのだ。それならばこれ以上、嫌な思いをしてまで夏牙さんに従う理由もない。
(ここで少しだけ目を閉じて……休んで、夏牙さんに話をして、帰って──それから────)
瞼を持ち上げねばという意思も虚しく、睡魔にのみ込まれてしまったわたしの意識はそこで──途絶えた。
夏牙さんに名前を呼ばれた女性陣は、口元を手で抑え感極まった様子。それを見た四十代くらいの男性は、腰に手をあて呆れた様子でそれを見つめていた。女性三人の小声での会話を聞くと、どうやら夏牙さんが自分達の名前を把握してくれていたことに感動しているようだ。
「ご来店ありがとうございます。しかし珍しいですね、山岡さん」
「ええ、ちょっと……先日臨時収入がありまして」
「馬ですか? 船ですか?」
「馬です」
山岡さんと呼ばれた四十代くらいの男性が、白い歯を見せて頬笑む。臨時収入……競馬で勝ったらしく、本日出勤していたレストランの調理師三人を連れて食事に来たとのことであった。
(……調理師?)
わたしの表情を読み取ったのか、夏牙さんが咳を払って四人を見据えた。
「ほたるさん、こちら緑の楽園のチーフシェフを務める山岡さん。それに調理師の月山さん、河根田さん、遠山さん」
四人は順番に名乗りぺこりと頭を下げる。うっすらと微笑んだ女性達の浮かべる笑顔は皆魅力的だ。
「で……彼女は真戸乃ほたるさん、柊悟の婚約者です」
「こんばんは、初めまして。柊悟さんがいつもお世話になっております」
「しゅう、ご?」
わたしが頭を下げると、山岡さんと呼ばれた男性以外が固まってしまった。三人の女性達は互いに視線を合わせては、ちらりとわたしを見る。そして舐めるように全身を見つめてはまた互いに視線を合わせ、混乱しているようだ。
「山岡さん……『しゅうごさん』ってどなたですか?」
河根田と名乗った背が高くグラマラスな女性が、山岡さんの耳元でそっと囁く。月山と名乗ったスレンダーな女性と、遠山と名乗った更に痩せた短髪の女性も、それに倣って身を傾けている。
「え? ああ……君たち知らないの?」
「何がですか?」
「立石君……マスターの名前」
「「「え?」」」
声が重なり、一瞬場の空気が凍りつく。ぎぎぎ、と音がしそうな三人の首の動き。向けられる視線が痛い。
(なに……? 何なの……?)
唇は弧を描き、愛想の良い笑みを浮かべていた彼女たちの顔が一変し、凄まじい殺気を放ち始める。飲酒をして火照っていた体から、熱がスッと抜けていく。
「しゅうご……さんというのですか、マスターの名前は」
「そしてこの人が婚約者……」
「こんな人が、婚約者……」
「夏牙様……そうか、ご家族の決められたお相手なのですね?」
「違うよ? あいつが自分で連れてきた子だよ」
「うそ……」
そうか──。この人達は皆、柊悟さんに好意を抱いているのか。だからこんな視線を、わたしに。
「そういば、今日賄いを作ったのは一体誰だったのかな?」
場の空気を入れ替えるように、唐突に夏牙さんが言えば、月山さんが「私です」と静かに名乗りを上げた。
「月山さんか。柊悟は喜んでいた?」
「ええ、とても」
「それはよかった」
答えた彼女の声は未だ冷たい。他の二人から向けられる視線も刺さるように痛い。山岡さんがどうしたものかと困惑した顔で夏牙さんをちらちらと見ている。
(──って……賄い? 柊悟さんはわたしの作ったお弁当を食べずに、この女性が作った食事をお昼に食べたってこと?)
お酒の回った頭では、何故柊悟さんがお弁当を食べてくれなかったのか、深く思考することが出来なかった。どうして、どうして──という考えが、頭の中を支配する。
「そ……そろそろ、失礼しようか? みんなお腹空いてるだろう?」
山岡さんが三人の肩を順に叩く。我に返った彼女達は氷のような視線はそのまま、「そうですね、失礼しました」と、夏牙さんに頭を下げる。周りの空気がなんとなく張り詰めたままのように感じ、居たたまれなくなったわたしは思わずワイングラスを呷ってしまった。
「あんな風だけど、とても優秀な子達だよ。柊悟からは何も仕事の話は聞いてないの?」
「柊悟さんは……あまり仕事の話はうちでしないので……」
「大丈夫? 顔色悪いよ?」
「すみません……ちょっと、お手洗いに」
夏牙さんがわたしの背中に声をかけているが、全く耳に入ってこない。先程向けられた彼女達の視線、それにお弁当のことだって。
(やっぱりわたしは──周りから見てもあの人とは不釣り合いなんだ)
ふらつく足で一歩一歩絨毯を踏みしめ、レストランの外へと向かう。お手洗い側へとショートカット出来る通路があるとの表示が目に入り、ガラス張りの個室側へと足を向けた。
「──え?」
席に座ったとき目に入った、角の個室。その個室内で並んで席に座る若い男女。露出度の高いワンピースを身に纏ったロングヘアーの女性と、見覚えのあるスーツ姿の男性。
(あれは──柊悟さん?)
「なんで……どうして」
背を向けている彼はわたしの存在に気が付く筈もなく、女性と食事を楽しんでいる様子だった。
(わたしがこんな目にあっているっていうのに──助けに来てほしいのに──どうして……どうして)
足が止まり、涙が頬を伝う。不思議に思ったのか、近くにいたウエイターの男性が近寄って来る。
「あ……お客様!」
捕まるまいと、気が付けば走り出していた。フラフラとよろけながらトイレに駆け込むと、手洗い場の前でうずくまり、動けなくなってしまった。
「うっ…………うぅ…………」
泣いては駄目だと己に言い聞かせれば言い聞かせるほど、どんどん惨めになってゆく。さっきの女性は一体誰だったのだろう。横に並んで食事ををするなんて、余程親密でないとしないはずだ。
「寒い……気持ち悪い……」
目を瞑ってしまえばそこで、全てから逃げられるような気がした。この場で許されることではないと分かっていても、夏牙さんのいるあの場所に戻る心の余裕など、今のわたしにはこれっぽっちも残っていなかった。
溢れた涙が作ったスカートの染みが、どんどん面積を広げて行く。誰かがわたしの名前を呼び、駆け寄ってくる気配があるが、顔を上げ振り返ることが出来ない。
(疲れた──もう、どうでもいい。嫌だ、無理だよ……)
全てから逃げてしまえ、と瞼を下ろす。柊悟さんとの仲を引き裂かれまいと、わたしは夏牙さんに言われるがままここまでやって来たというのに。柊悟さんには別の女性がいたのだ。それならばこれ以上、嫌な思いをしてまで夏牙さんに従う理由もない。
(ここで少しだけ目を閉じて……休んで、夏牙さんに話をして、帰って──それから────)
瞼を持ち上げねばという意思も虚しく、睡魔にのみ込まれてしまったわたしの意識はそこで──途絶えた。
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