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第ニ部 loves
第六十五話【災難】
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いつもより従業員達の視線が痛いのは、俺が通常よりも早く出勤したせいだと、そう思っていた。けれど、どうやらそういうわけではないようだった。
「おはようございます、マスター」
「おはよう」
俺が客席でピアノの調律をしていると、一人の従業員──ウエイトレスの花邑さんが現れた。盆に載せたマグカップにはコーヒーが入っているようで、彼女はすぐ傍のテーブルへとカップを置いた。
「コーヒーです、よかったら」
「ありがとうございます」
「珍しいですね、マスターが私服で出勤なさるなんて……おまけに、眼鏡で」
花邑さんは盆を腹に抱え、そわそわと体を揺すっている。どうしたのだろうか。
「……ええ」
「朝も早かったですし、何かあったんですか?」
女性という生き物は、どうしてこう他人のことを詮索したがるのだろうか。俺が私服でいつもより早く出勤したことで、彼女達の仕事に影響を与えてしまったのだろうか。
「すみません、驚かせてしまって」
「い……いいえ!」
「フロアの掃除は俺に構わずしてもらって構わないので」
「……俺?」
「…………」
「マスター……?」
「すみません、私に構わずしてもらって構わないので」
しまった──やってしまった。ほたると出勤してそのままの調子でここに来たものだから、ついうっかり『俺』だなんて溢してしまった。
「事務所で仕事をしていますので、何かあったら呼んでください」
「わかりました」
ピアノの調律を終えて立ち上がると、コーヒーの入ったマグカップを片手に客席を去る。俺がバックヤードに消える寸前、花邑さんが「ちょっとー!マキーっ!」と、月山さんを呼ぶ声が耳に届いた。どうやら、俺が「俺」と言ったこと、それに私服出勤について、きゃあきゃあと話に花を咲かせているようだ。
(よくわからん……)
事務所に籠り、溜まっていた事務仕事に徹する。ここの所式場の手伝いばかりで、仕事は山積みだ。
「……はぁ」
眼鏡を外し、眉間を揉む。午後はピアノの演奏が入っているから、キリの良いところまで仕事を片付けてしまわないと。
(お弁当も楽しみだしな)
デスクの脇に置いた、青色の巾着袋。ほたるお手製の昼食だ、楽しみで仕方がない。
スマートフォンの画像フォルダに保存している彼女の写真を見て気合いを入れると、俺は仕事に取りかかった。
「失礼します、マスター」
十一時の開店間近。事務室入口のドアがノックされた。返事をするとそこに立っていたのは調理師の月山さんだった。
「どうかしました?」
俺がパソコンの画面から顔を上げると、月山さんは「ええっと……」と口籠った。不思議に思い再び声をかけると、彼女は消え入るような声を漏らした。
「あの……副支配人が」
「副支配人?」
「いらっしゃってます……」
「今どこに?」
「よぉマスター」
月山さんの後ろからひょっこりと顔を出したのは、兄の夏牙──当式場とホテルの副支配だった。兄と入れ違うように、月山さんは頭を下げて去って行く。姿は消えたが黄色い叫び声が廊下に反響しているのは、嫌なほど耳に届いた。
「相変わらずの人気だな」
「何が?」
「お前はもう少し、自分の魅力について理解した方がいい」
「意味がわからない。忙しいんだ、何の用だよ」
椅子に腰掛け、パソコン画面を睨む。兄が近寄ってきた気配はあったが、気にせず仕事を再開した。
「お前が眼鏡で出勤したせいで、カフェレストランの女の子達が皆キャーキャー言ってたぞ」
「誰のせいで眼鏡だと思ってるんだ」
昨夜酒を飲まされて眠ってしまわなければ、うちに帰ってほたると二人で夕食を食べれたのに。そうしていれば私服と眼鏡で出勤することもなかったというのに。
「このハンバーグ、旨いな」
「……は? ちょ、何勝手に食べてるんだよ!」
食べ物の香りがするとは思ったが、キッチンから漂う料理の香りではなかったようだ。顔を上げると隣に立つ兄の手には俺のお弁当箱。
「痛い痛い! 何すんだ柊悟!」
「勝手に食べるな!」
「怒るなよ、あ、ひょっとしてほたるちゃんお手製?」
「そ! う! だ!」
行儀は悪いが、お弁当箱の中からハンバーグを指で摘まんで口に放り込む。うん、旨い。
「卵焼き全部食べたの?」
「甘かったな」
「俺は甘い卵焼きが好きなんだよ!」
お弁当箱を覗き込むと、もう殆ど空っぽだった。俺もそうだが、兄も職業柄食べる速度が早いようだ。
「ったく……人の昼飯食べやがって」
「口が悪いぞ柊悟。キッチンに頼んで賄《まかな》いでも作ってもらえ」
「俺が賄いを頼むと大変なことになるから、嫌なんだよ」
「あ~、想像はつく」
完食したお弁当箱の蓋を閉じ、ソファに腰を下ろす兄。本当にこの人は一体何をしに来たんだ。
存在を無視し、デスクに向き直り仕事を再開する。
「しかし、可愛かったなほたるちゃん」
「まあね」
「惚気かよ」
「ほたるは、俺には勿体ないくらい可愛いからな」
「ベッドでも?」
「ああ、可愛い…………って、何言わせるんだよ!」
仕事に集中するあまり、つい本音が零れ落ちた。恥ずかしさのあまり、顔が熱を持ち始めた。
「へえ~。動画とかないの?」
「え、は……? あ……あるわけないだろこの変態!! 用が無いならさっさと仕事に戻れよ副支配!」
「マスター怖~い! ウエイトレスの子達に言ってやろ~」
「好きにしろよ」
吐き捨てるように言うと、にこりと嫌な笑みを浮かべた兄は、俺の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「そうだ柊悟、帰りちょっとこっちに寄ってくれ。花のアレンジメントのことを相談したいんだ」
「わかったよ」
「さ、仕事行くかー」
天井に向けて腕を伸ばすと、意気揚々と声を上げ事務所から出ていく兄。その背中を一睨みすると、俺はデスクに向き直り仕事を再開した。
「おはようございます、マスター」
「おはよう」
俺が客席でピアノの調律をしていると、一人の従業員──ウエイトレスの花邑さんが現れた。盆に載せたマグカップにはコーヒーが入っているようで、彼女はすぐ傍のテーブルへとカップを置いた。
「コーヒーです、よかったら」
「ありがとうございます」
「珍しいですね、マスターが私服で出勤なさるなんて……おまけに、眼鏡で」
花邑さんは盆を腹に抱え、そわそわと体を揺すっている。どうしたのだろうか。
「……ええ」
「朝も早かったですし、何かあったんですか?」
女性という生き物は、どうしてこう他人のことを詮索したがるのだろうか。俺が私服でいつもより早く出勤したことで、彼女達の仕事に影響を与えてしまったのだろうか。
「すみません、驚かせてしまって」
「い……いいえ!」
「フロアの掃除は俺に構わずしてもらって構わないので」
「……俺?」
「…………」
「マスター……?」
「すみません、私に構わずしてもらって構わないので」
しまった──やってしまった。ほたると出勤してそのままの調子でここに来たものだから、ついうっかり『俺』だなんて溢してしまった。
「事務所で仕事をしていますので、何かあったら呼んでください」
「わかりました」
ピアノの調律を終えて立ち上がると、コーヒーの入ったマグカップを片手に客席を去る。俺がバックヤードに消える寸前、花邑さんが「ちょっとー!マキーっ!」と、月山さんを呼ぶ声が耳に届いた。どうやら、俺が「俺」と言ったこと、それに私服出勤について、きゃあきゃあと話に花を咲かせているようだ。
(よくわからん……)
事務所に籠り、溜まっていた事務仕事に徹する。ここの所式場の手伝いばかりで、仕事は山積みだ。
「……はぁ」
眼鏡を外し、眉間を揉む。午後はピアノの演奏が入っているから、キリの良いところまで仕事を片付けてしまわないと。
(お弁当も楽しみだしな)
デスクの脇に置いた、青色の巾着袋。ほたるお手製の昼食だ、楽しみで仕方がない。
スマートフォンの画像フォルダに保存している彼女の写真を見て気合いを入れると、俺は仕事に取りかかった。
「失礼します、マスター」
十一時の開店間近。事務室入口のドアがノックされた。返事をするとそこに立っていたのは調理師の月山さんだった。
「どうかしました?」
俺がパソコンの画面から顔を上げると、月山さんは「ええっと……」と口籠った。不思議に思い再び声をかけると、彼女は消え入るような声を漏らした。
「あの……副支配人が」
「副支配人?」
「いらっしゃってます……」
「今どこに?」
「よぉマスター」
月山さんの後ろからひょっこりと顔を出したのは、兄の夏牙──当式場とホテルの副支配だった。兄と入れ違うように、月山さんは頭を下げて去って行く。姿は消えたが黄色い叫び声が廊下に反響しているのは、嫌なほど耳に届いた。
「相変わらずの人気だな」
「何が?」
「お前はもう少し、自分の魅力について理解した方がいい」
「意味がわからない。忙しいんだ、何の用だよ」
椅子に腰掛け、パソコン画面を睨む。兄が近寄ってきた気配はあったが、気にせず仕事を再開した。
「お前が眼鏡で出勤したせいで、カフェレストランの女の子達が皆キャーキャー言ってたぞ」
「誰のせいで眼鏡だと思ってるんだ」
昨夜酒を飲まされて眠ってしまわなければ、うちに帰ってほたると二人で夕食を食べれたのに。そうしていれば私服と眼鏡で出勤することもなかったというのに。
「このハンバーグ、旨いな」
「……は? ちょ、何勝手に食べてるんだよ!」
食べ物の香りがするとは思ったが、キッチンから漂う料理の香りではなかったようだ。顔を上げると隣に立つ兄の手には俺のお弁当箱。
「痛い痛い! 何すんだ柊悟!」
「勝手に食べるな!」
「怒るなよ、あ、ひょっとしてほたるちゃんお手製?」
「そ! う! だ!」
行儀は悪いが、お弁当箱の中からハンバーグを指で摘まんで口に放り込む。うん、旨い。
「卵焼き全部食べたの?」
「甘かったな」
「俺は甘い卵焼きが好きなんだよ!」
お弁当箱を覗き込むと、もう殆ど空っぽだった。俺もそうだが、兄も職業柄食べる速度が早いようだ。
「ったく……人の昼飯食べやがって」
「口が悪いぞ柊悟。キッチンに頼んで賄《まかな》いでも作ってもらえ」
「俺が賄いを頼むと大変なことになるから、嫌なんだよ」
「あ~、想像はつく」
完食したお弁当箱の蓋を閉じ、ソファに腰を下ろす兄。本当にこの人は一体何をしに来たんだ。
存在を無視し、デスクに向き直り仕事を再開する。
「しかし、可愛かったなほたるちゃん」
「まあね」
「惚気かよ」
「ほたるは、俺には勿体ないくらい可愛いからな」
「ベッドでも?」
「ああ、可愛い…………って、何言わせるんだよ!」
仕事に集中するあまり、つい本音が零れ落ちた。恥ずかしさのあまり、顔が熱を持ち始めた。
「へえ~。動画とかないの?」
「え、は……? あ……あるわけないだろこの変態!! 用が無いならさっさと仕事に戻れよ副支配!」
「マスター怖~い! ウエイトレスの子達に言ってやろ~」
「好きにしろよ」
吐き捨てるように言うと、にこりと嫌な笑みを浮かべた兄は、俺の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「そうだ柊悟、帰りちょっとこっちに寄ってくれ。花のアレンジメントのことを相談したいんだ」
「わかったよ」
「さ、仕事行くかー」
天井に向けて腕を伸ばすと、意気揚々と声を上げ事務所から出ていく兄。その背中を一睨みすると、俺はデスクに向き直り仕事を再開した。
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