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第一部 owner&butler
第五十八話 【毒と蜜】
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帰宅したのは何時だったのか、時間をあまり気にしていなかったので覚えていない。ただ、途中からぽつり、ぽつりと雨が降り始めたので、車からアパートまでは浴衣が少しだけ濡れてしまった。
家に上がるといつものようにセバスチャンが「おかえりなさいませ」と言って手を引いてくれる。タオルを取りに向かい、戻ってきた彼からそれを受けとると、わたしは浴衣を拭きながらその背中に声をかけた。
「セバスさん」
「はい?」
「あなたはいつまでセバスチャン・クロラウト──わたしの執事なんですか」
好きだと、愛していると言葉にはしてくれたし、何度も唇も重ねてくれたが、結局わたしたちの立ち位置は変わらない。帰宅してもわたしは主で彼は執事のままだ。
「ほたるさん、あの……」
セバスチャンがわたしの正面に向き直る。そもそも、セバスチャンって何なのだろう。わたしはまだ彼の本当の名前すら知らないのだ。
髪を拭こうとし、頭の簪を抜く手が震えてしまった。簪はぽとりと床に落ちて、拾おうとしたが爪先がぶつかりベッドの下に入り込んでしまった。
「拾います」
「あ…………待って!」
「……あれ?」
全身の血がサッと引いていく。セバスチャンが手にしているのは黒い箱。あの箱はわたしの恋敵 珠緒 彩芽さんからの贈り物──嫌味の込められた黒い箱。蹴り飛ばしてそのままにしておいたのをすっかり忘れていたが、まさかこんなことになるなんて。
「えっと、ほたるさん……これ」
「それ……は……」
こんな状況で、こんな──こんないい雰囲気になりかけていたところで。珠緒さんを呪いたくなったが、悪いのはきちんと片付けておかなかったわたしなのだ。
「ほたるさん、衛生用品をこんなところにしまっては駄目ですよ。ちゃんとここになおさないと……」
ベッド脇のチェストの引き出しを開け、その中に黒い箱を丁寧にしまうセバスチャン。待って、待って待って! その引き出しには──。
「使いかけの仲間もいますし、ここでいいですかね」
「…………っ! っ!!」
(恥ずかしい! 恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい!!)
今まで色んなことがあったけれど、今のが一番恥ずかしい。どうして他の男──というか、桃哉なのだが──との使いかけのそれを、執事に整頓されなければならないのか。
「ほたるさん?」
「も……もぉぉぉぉぉーっ!! やめて下さいっ!」
「え? ちょ、ほたるさん!?」
居たたまれなくなり、駆け足で玄関へと向かう。このまま同じ空間にいるのは無理だ、一人で頭を冷やさなければならない。
「何処へ行くのです!」
「頭を冷やしてきます!」
靴を履くのさえ煩わしくて、車のキーを掴むと裸足のまま外へと飛び出した。というか、のろのろと靴なんて履いていたら、セバスチャンに追い付かれてしまう。車に乗ってしまえされされば、裸足でも関係ない。
「待って! ほたるさん! 危ないですから!」
「大丈夫だもん!」
階段を一気に駆け下りると、外はどしゃ降り一歩手前。構うことなく車に向かうと、そこでセバスチャンに追い付かれた。
「ほたるさん、ほたるさん落ち着いて」
引かれる手を振り解くと、無理矢理横抱きにされた。そのままアパートの屋根のある所まで抱えられて行く。
「だって、わたし……あんなの見られたら……あれは、あの黒い箱は珠緒さんが……」
珠緒さんの名前にセバスチャンの肩が一瞬跳ねる。わたしを下ろした彼は、彼女は仕事を辞め地元に帰ったのだと教えてくれた。わたしも彼に黒い箱があんな所にあった経緯を彼に説明した。
「そんなことが」
「……はい。お恥ずかしながらそんなことがありまして」
「もう過ぎたことですし、私は気にしません。それより、頭は冷えましたか?」
「はい……」
言ったものの全く落ち着いていない。落ち着け、落ち着けと心の中で唱えて深呼吸。隣に立つセバスチャンを見上げると、目が合った。
「ほたるさん、改めて言わせて下さい」
「はい……」
ザアザアと激しくなり始めた雨音にかき消されぬよう、セバスチャンは声を張り上げる。
「ほたるさん、私と……いえ、俺と結婚を前提にお付き合いして下さい」
「け、結婚を前提に……?」
「あ、わ、えっとすみません、大胆すぎました! 恋人からお願いします!」
頭を下げて差し出された彼の手を取り、わたしは指を絡めた。
「結婚が前提でも、いいかもしれません」
「え……本当に?」
「嫌なんですか?」
「そんなわけありません!」
「じゃあ……」
顔を上げたセバスチャンと目が合うと、先程お預けをくらってしまった抱擁を求めた。その胸にしばらく顔を埋め、首筋に唇を押し当てた。
「あの、ほたるさん、あの……」
「なに」
「もう、これ以上は……ここでは駄目です。我慢出来なくなってしまいます」
「あ……ごめんなさい」
体を離して後退し、自分が裸足であることを思い出した。怪我はしていないが、本当に馬鹿なことをしたなと思う。駐車場のアスファルトの上を走るのはなかなか足が痛かった。
「謝ることではありません」
ひょい、とわたしを横抱きにしたセバスチャンは、そのままアパートの階段を上る。下から見上げる彼の顔にどきどきと胸が高まってしまう。
「じゃあ、部屋に戻ったら……その……」
「……はい」
互いに、それ以上は何も言えなかった。
部屋へと戻り、セバスチャンがそのままお風呂場まで運んでくれるので、わたしは汚れた足を洗った。
「寒くはありませんか? シャワーを浴びますか?」
手を洗っている背中に声をかけられる。わたしは振り返りもせず、首をふるふると横に振った。
「セバスさんこそ、寒くないんですか?」
場所を交代し、今度はわたしがその背に声をかけた。彼も振り返らずに首を横に振る。
「あの、セバスさん」
「はい」
「さっきの……さっきの言葉は、嘘じゃない……ですよね」
「さっきの、というのは?」
気持ちが不安定なせいで、意地の悪いことを言われると涙目になってしまう。それに気が付いた彼は「すみません」と言ってわたしを優しく抱きしめた。
「嘘なわけがありません」
「本当に、ですか」
「ええ」
「本当に……?」
「……私だって、ずっとこうしたかった」
「そんなの……わたしだって……」
声を振り絞り、彼の胸から顔を上げた。目が合うや否や、彼の唇が下りてくる。口の端から甘い声が漏れ、わたしたちの足は自然とベッドへと向かった。
────────────
◆お知らせ◆
こちらの続きとして、R18の話が6話分あります。
URLはこちら
https://www.alphapolis.co.jp/novel/140702312/770348713
または
https://novel18.syosetu.com/n1457fs/
家に上がるといつものようにセバスチャンが「おかえりなさいませ」と言って手を引いてくれる。タオルを取りに向かい、戻ってきた彼からそれを受けとると、わたしは浴衣を拭きながらその背中に声をかけた。
「セバスさん」
「はい?」
「あなたはいつまでセバスチャン・クロラウト──わたしの執事なんですか」
好きだと、愛していると言葉にはしてくれたし、何度も唇も重ねてくれたが、結局わたしたちの立ち位置は変わらない。帰宅してもわたしは主で彼は執事のままだ。
「ほたるさん、あの……」
セバスチャンがわたしの正面に向き直る。そもそも、セバスチャンって何なのだろう。わたしはまだ彼の本当の名前すら知らないのだ。
髪を拭こうとし、頭の簪を抜く手が震えてしまった。簪はぽとりと床に落ちて、拾おうとしたが爪先がぶつかりベッドの下に入り込んでしまった。
「拾います」
「あ…………待って!」
「……あれ?」
全身の血がサッと引いていく。セバスチャンが手にしているのは黒い箱。あの箱はわたしの恋敵 珠緒 彩芽さんからの贈り物──嫌味の込められた黒い箱。蹴り飛ばしてそのままにしておいたのをすっかり忘れていたが、まさかこんなことになるなんて。
「えっと、ほたるさん……これ」
「それ……は……」
こんな状況で、こんな──こんないい雰囲気になりかけていたところで。珠緒さんを呪いたくなったが、悪いのはきちんと片付けておかなかったわたしなのだ。
「ほたるさん、衛生用品をこんなところにしまっては駄目ですよ。ちゃんとここになおさないと……」
ベッド脇のチェストの引き出しを開け、その中に黒い箱を丁寧にしまうセバスチャン。待って、待って待って! その引き出しには──。
「使いかけの仲間もいますし、ここでいいですかね」
「…………っ! っ!!」
(恥ずかしい! 恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい!!)
今まで色んなことがあったけれど、今のが一番恥ずかしい。どうして他の男──というか、桃哉なのだが──との使いかけのそれを、執事に整頓されなければならないのか。
「ほたるさん?」
「も……もぉぉぉぉぉーっ!! やめて下さいっ!」
「え? ちょ、ほたるさん!?」
居たたまれなくなり、駆け足で玄関へと向かう。このまま同じ空間にいるのは無理だ、一人で頭を冷やさなければならない。
「何処へ行くのです!」
「頭を冷やしてきます!」
靴を履くのさえ煩わしくて、車のキーを掴むと裸足のまま外へと飛び出した。というか、のろのろと靴なんて履いていたら、セバスチャンに追い付かれてしまう。車に乗ってしまえされされば、裸足でも関係ない。
「待って! ほたるさん! 危ないですから!」
「大丈夫だもん!」
階段を一気に駆け下りると、外はどしゃ降り一歩手前。構うことなく車に向かうと、そこでセバスチャンに追い付かれた。
「ほたるさん、ほたるさん落ち着いて」
引かれる手を振り解くと、無理矢理横抱きにされた。そのままアパートの屋根のある所まで抱えられて行く。
「だって、わたし……あんなの見られたら……あれは、あの黒い箱は珠緒さんが……」
珠緒さんの名前にセバスチャンの肩が一瞬跳ねる。わたしを下ろした彼は、彼女は仕事を辞め地元に帰ったのだと教えてくれた。わたしも彼に黒い箱があんな所にあった経緯を彼に説明した。
「そんなことが」
「……はい。お恥ずかしながらそんなことがありまして」
「もう過ぎたことですし、私は気にしません。それより、頭は冷えましたか?」
「はい……」
言ったものの全く落ち着いていない。落ち着け、落ち着けと心の中で唱えて深呼吸。隣に立つセバスチャンを見上げると、目が合った。
「ほたるさん、改めて言わせて下さい」
「はい……」
ザアザアと激しくなり始めた雨音にかき消されぬよう、セバスチャンは声を張り上げる。
「ほたるさん、私と……いえ、俺と結婚を前提にお付き合いして下さい」
「け、結婚を前提に……?」
「あ、わ、えっとすみません、大胆すぎました! 恋人からお願いします!」
頭を下げて差し出された彼の手を取り、わたしは指を絡めた。
「結婚が前提でも、いいかもしれません」
「え……本当に?」
「嫌なんですか?」
「そんなわけありません!」
「じゃあ……」
顔を上げたセバスチャンと目が合うと、先程お預けをくらってしまった抱擁を求めた。その胸にしばらく顔を埋め、首筋に唇を押し当てた。
「あの、ほたるさん、あの……」
「なに」
「もう、これ以上は……ここでは駄目です。我慢出来なくなってしまいます」
「あ……ごめんなさい」
体を離して後退し、自分が裸足であることを思い出した。怪我はしていないが、本当に馬鹿なことをしたなと思う。駐車場のアスファルトの上を走るのはなかなか足が痛かった。
「謝ることではありません」
ひょい、とわたしを横抱きにしたセバスチャンは、そのままアパートの階段を上る。下から見上げる彼の顔にどきどきと胸が高まってしまう。
「じゃあ、部屋に戻ったら……その……」
「……はい」
互いに、それ以上は何も言えなかった。
部屋へと戻り、セバスチャンがそのままお風呂場まで運んでくれるので、わたしは汚れた足を洗った。
「寒くはありませんか? シャワーを浴びますか?」
手を洗っている背中に声をかけられる。わたしは振り返りもせず、首をふるふると横に振った。
「セバスさんこそ、寒くないんですか?」
場所を交代し、今度はわたしがその背に声をかけた。彼も振り返らずに首を横に振る。
「あの、セバスさん」
「はい」
「さっきの……さっきの言葉は、嘘じゃない……ですよね」
「さっきの、というのは?」
気持ちが不安定なせいで、意地の悪いことを言われると涙目になってしまう。それに気が付いた彼は「すみません」と言ってわたしを優しく抱きしめた。
「嘘なわけがありません」
「本当に、ですか」
「ええ」
「本当に……?」
「……私だって、ずっとこうしたかった」
「そんなの……わたしだって……」
声を振り絞り、彼の胸から顔を上げた。目が合うや否や、彼の唇が下りてくる。口の端から甘い声が漏れ、わたしたちの足は自然とベッドへと向かった。
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