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第一部 owner&butler
第四十八話 【side:she→side:heⅣ】
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「……ほたるさん?」
俺の呼び掛けに、彼女はゆっくりと振り返った。
(────!!)
瞳いっぱいに涙を溜めた彼女は、目の前で肩を揺らしている。何か言いたげに口を開いたが、そのまま固く閉ざされてしまった。涙を堪えようとしているのか、結んだ唇がわなわなと揺れている。
俺がつい今しがた触れてしまった、彼女の唇。
「あの、ほたるさ──」
肩に触れようと、手を伸ばした。びくりと跳ね上がった小さな肩は、そのまま後退してしまう。
「ちょっと! ほたる!」
彼女の友人──葵さんの制止も聞かず、彼女は部屋を飛び出した。追えるはずなどなかった。この後再び披露宴で演奏をしなければならないのだ。
仮にそれがなかったとしても、今の俺に彼女を追うことは出来なかったと思う。
「おい、立石」
ヒールの踵を鳴らしながら、葵さんが俺との距離を詰める。シャツの襟首を掴まれ、ぐいと引き寄せた。
「なんで名前を知ってるかって? あんたが乳女と話してる間に、この式場についてググったんだよ。創業者の名前くらい載ってるだろうからね」
彼女の方が二十センチ近く背が低いだろうに、圧倒されるのはその眼光。ぎらぎらと鈍く光るそれは、さながら獣のようだった。──そうだ、昔からこの人はこういう人だった。
「名前見て思い出したよ、あんた」
襟首から手を離され、伸びてきた彼女の手は俺の首を掴み、締めた。呼吸の苦しさよりも、食い込んだ爪の方が非常に痛い。
「どっかで見たことある面だと思ったんだよ。ほたるが『セバスさんはわたしに恩があるみたいだ』って言ってたから、それで思い出した」
「ほたるさんに……言うのですか」
「やっと口開いたと思ったらそれ? 言わないわよ」
ここでようやく俺は彼女の暴力から解放された。首に触れると血が滲んでいた。通りで痛いわけだ。
「私が口挟むことじゃないし。あんたがちゃんとほたるに謝りなさいよ」
「わかっています」
「本当にわかってんの? なんでほたるが泣いたかわかってんの?」
俺は、自惚れていた。
裸で抱き付かれ『あなたが望むのであればなんだってする』──そう言われて、ひょっとしたらそういうことなのかもしれない、なんて思い上がっていた。彼女は俺に少なからず好意を抱いてくれているのかもしれないと思っていた。
でも、違った。
人前で突然、しかも二度もキスをして、彼女を泣かせた。大切な俺の恩人──最愛の女を泣かせた。
「しばらくほたるは私が預かるから」
そう言って部屋を後にする葵さんの背中を見送ると、俺は崩れるようにその場にうずくまった。
*
翌日から珠緒さんは有休を使って二日程休みをとった。三日後に出勤してきた時には「退職させて下さい」と。それから「地元に帰って、あなたよりもいい人を見つけます」と。
正直、どこか安心している自分がいた。あんなことがあっては一緒に働くのは苦行だったし。勤務態度はそこそこ真面目だったが、俺に対する態度や御客に手を出そうとする所は如何なものかと頭も痛かった。
不思議とこのカフェレストランは、求人を出していないにも関わらず、求人の問い合わせの電話が後をたたない。珠緒さんの代わりはすぐに見つかるだろう。
三日経っても四日経っても──ほたるさんは帰ってこなかった。
あの日俺が仕事から帰ると、車とそれから荷物一式がなくなっていた。テーブルの上に「しばらく葵のところにお世話になります」と書き置きを残して。
いつ帰ってくるかわからないから──夕食は毎晩、二人分作った。勿論食べるのは俺一人だ。残った食事は翌朝の朝食になった。
毎晩、実家から持ち帰ったミシンの前に座った。ほたるさんは約束を破るような人ではない。だから俺は、毎晩──毎晩ミシンの前で作業を続けた。
そしてあの日曜日から六日後──花火大会当日の土曜のお昼過ぎ。部屋の掃除を一通り終えた時だった。
──ガチャリ。
玄関の扉の鍵を外側から解錠する音。
「ほたるさん!」
「……セバスさん」
俺が駆け寄るとそこには────桃哉さんに手を引かれ、気まずそうに顔を伏せるたほたるさんの姿があった。
俺の呼び掛けに、彼女はゆっくりと振り返った。
(────!!)
瞳いっぱいに涙を溜めた彼女は、目の前で肩を揺らしている。何か言いたげに口を開いたが、そのまま固く閉ざされてしまった。涙を堪えようとしているのか、結んだ唇がわなわなと揺れている。
俺がつい今しがた触れてしまった、彼女の唇。
「あの、ほたるさ──」
肩に触れようと、手を伸ばした。びくりと跳ね上がった小さな肩は、そのまま後退してしまう。
「ちょっと! ほたる!」
彼女の友人──葵さんの制止も聞かず、彼女は部屋を飛び出した。追えるはずなどなかった。この後再び披露宴で演奏をしなければならないのだ。
仮にそれがなかったとしても、今の俺に彼女を追うことは出来なかったと思う。
「おい、立石」
ヒールの踵を鳴らしながら、葵さんが俺との距離を詰める。シャツの襟首を掴まれ、ぐいと引き寄せた。
「なんで名前を知ってるかって? あんたが乳女と話してる間に、この式場についてググったんだよ。創業者の名前くらい載ってるだろうからね」
彼女の方が二十センチ近く背が低いだろうに、圧倒されるのはその眼光。ぎらぎらと鈍く光るそれは、さながら獣のようだった。──そうだ、昔からこの人はこういう人だった。
「名前見て思い出したよ、あんた」
襟首から手を離され、伸びてきた彼女の手は俺の首を掴み、締めた。呼吸の苦しさよりも、食い込んだ爪の方が非常に痛い。
「どっかで見たことある面だと思ったんだよ。ほたるが『セバスさんはわたしに恩があるみたいだ』って言ってたから、それで思い出した」
「ほたるさんに……言うのですか」
「やっと口開いたと思ったらそれ? 言わないわよ」
ここでようやく俺は彼女の暴力から解放された。首に触れると血が滲んでいた。通りで痛いわけだ。
「私が口挟むことじゃないし。あんたがちゃんとほたるに謝りなさいよ」
「わかっています」
「本当にわかってんの? なんでほたるが泣いたかわかってんの?」
俺は、自惚れていた。
裸で抱き付かれ『あなたが望むのであればなんだってする』──そう言われて、ひょっとしたらそういうことなのかもしれない、なんて思い上がっていた。彼女は俺に少なからず好意を抱いてくれているのかもしれないと思っていた。
でも、違った。
人前で突然、しかも二度もキスをして、彼女を泣かせた。大切な俺の恩人──最愛の女を泣かせた。
「しばらくほたるは私が預かるから」
そう言って部屋を後にする葵さんの背中を見送ると、俺は崩れるようにその場にうずくまった。
*
翌日から珠緒さんは有休を使って二日程休みをとった。三日後に出勤してきた時には「退職させて下さい」と。それから「地元に帰って、あなたよりもいい人を見つけます」と。
正直、どこか安心している自分がいた。あんなことがあっては一緒に働くのは苦行だったし。勤務態度はそこそこ真面目だったが、俺に対する態度や御客に手を出そうとする所は如何なものかと頭も痛かった。
不思議とこのカフェレストランは、求人を出していないにも関わらず、求人の問い合わせの電話が後をたたない。珠緒さんの代わりはすぐに見つかるだろう。
三日経っても四日経っても──ほたるさんは帰ってこなかった。
あの日俺が仕事から帰ると、車とそれから荷物一式がなくなっていた。テーブルの上に「しばらく葵のところにお世話になります」と書き置きを残して。
いつ帰ってくるかわからないから──夕食は毎晩、二人分作った。勿論食べるのは俺一人だ。残った食事は翌朝の朝食になった。
毎晩、実家から持ち帰ったミシンの前に座った。ほたるさんは約束を破るような人ではない。だから俺は、毎晩──毎晩ミシンの前で作業を続けた。
そしてあの日曜日から六日後──花火大会当日の土曜のお昼過ぎ。部屋の掃除を一通り終えた時だった。
──ガチャリ。
玄関の扉の鍵を外側から解錠する音。
「ほたるさん!」
「……セバスさん」
俺が駆け寄るとそこには────桃哉さんに手を引かれ、気まずそうに顔を伏せるたほたるさんの姿があった。
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