32 / 101
第一部 owner&butler
第三十一話 【もっと素直に】
しおりを挟む
早く帰ろうとは思ったものの、いつもより安全運転でハンドルを握る。ゆっくり走るジュリエッタなんてカッコ悪いけど、運転手の体調がイマイチなんだから仕方がない。
「お酒お酒……コンビニ……と……あっ……」
そうか──もう仕事帰りにコンビニに寄って夕食を買うことも、お酒を買う必要もないんだ。今のわたしには、夕食を作りお酒を冷やして待ってくれている人が──執事がいるのだ。そう考えるとなんだか嬉しくなり、小さく笑ってコンビニを通りすぎた。
家の駐車場に車を止め、自室を見上げる。部屋の明かりが灯っているのを見て、言い様のない嬉しさが込み上げてきた。早足で階段を駆け上がり、鍵を開けて無事帰宅。ドアを開けると心地よい冷房のひんやりとした空気が顔を撫でた。
「ただいま……あれ?」
玄関を入ってすぐ右手の靴箱の上には、わたしがセバスチャンに渡した合鍵が置かれていた。外出したのだろうか、今朝まではついていなかったキーホルダーが鍵にぶら下がっている。鉢の中で泳ぐ、可愛らしい金魚のキーホルダーだった。ひょっとすると出先で購入したのかも知れない。
「あ! お帰りなさい、ほたるさん。お疲れ様です」
腰に巻いたエプロンで手を拭きながら、燕尾服姿のセバスチャンがぱたぱたと駆け寄ってきた。ニコニコと笑みを浮かべ、なんだか嬉しそうだ。
「お弁当、いかがでした?」
「美味しかったです、とっても」
「それはよかった!」
「でも少し豪華すぎましたね」
「それは……すみません、反省しております」
しゅん、と項垂れる執事。お弁当に添えられていた彼が書いてくれた手紙は、わたしのポーチの中に入っている。後でこっそり取り出して、花柄のお手紙ケースに入れておくのだ。
「……はっ!」
玄関で靴を脱ごうとするわたしの鞄を受け取ると、何故だろう、セバスチャンの顔付きが変わった。ニコニコ笑顔は何処へやら、キリッと凛々しい顔付きになり口を真一文字に結ぶ。
「どうしたんですか?」
「いえ……あの、その……」
「セバスさん?」
「私、執事だというのに……主であるあなた様と少し馴れ合いすぎていたな、と反省中でして」
咳払いをし、唇の端を少し上げてわたしから目を逸らすセバスチャン。
(──ああ、だからか。今朝感じた違和感はそのせいだったのか)
「……いいのに」
「えっ?」
「そんなの……そんなの今まで通りでいいのに!」
「ほたるさん? あっ……」
怒気の籠った声でわたしは叫んでいた。言葉尻は震え、目の端から涙が溢れた。急な感情の乱れだったので自分でも驚いたが、セバスチャンはもっと驚いたはずだ。
「ごめんなさい……」
ヒールを脱ぎ捨て、逃げるように部屋に駆け上がる。セバスチャンを追い抜こうとしたその時、手首を掴まれ引き止められた。
「申し訳ありません」
「セバスさんが……セバスさんが悪い訳じゃ、ないんです」
掴まれた手首は引き寄せられる。セバスチャンの手が──腕が──わたしの背を這い、腰に回された。刹那、二人の体が密着する。
「何かあったのですか?」
「……あの」
「……あっ! すみません」
わたしの体を包み込んでいたセバスチャンの腕が、パッと離れた。突き飛ばされるように解放され、互いの体が後退した。
「反省中だと言ったばかりだというのに、申し訳ありません。思わず抱き締めてしまいました……」
「……嫌じゃないですよ」
「え」
「わたしは──」
スッと持ち上がったわたしの腕は、セバスチャンのエプロンの裾を掴む。一歩足を踏み出せば互いの息がかかるほど、二人の距離は近くなった。
(もう一度、抱き締めて欲しい。でないと、わたしは、)
「やはり駄目です」
ゆるりと首を横に振ったセバスチャンは、膝を曲げて目線をわたしに合わせた。涙で揺れるわたしの視界の真ん中で、蒼い瞳の男が悲しそうに眉を下げた。
「駄目って……」
「ぎゅー、は駄目です。何かあったのならば、お話を聞かせて下さい……さ、座りましょう」
そう言ってくるりと背を向けリビングへ向かうセバスチャン。
(ねえ、待って。どうして──)
その言葉を口にする勇気は、沸いてこなかった。
溢れ落ちた涙も、揺れる心も、核村が原因というよりも寧ろ──寧ろ、セバスチャンの余所余所しい態度にあるというのに。
そんなことをセバスチャンが知る由もないのに、わたしは何を期待し、彼に何を求めているというのだろう。
考えてみれば身勝手な話だった。自分の都合で男を求めるなんて。一度押し倒された時にはあれほどこの人に恐怖したというのに、今の────わたしは彼に──。
(馬鹿みたい)
しっかりしろと己を叱責する。そう、彼はわたしの執事。ただの執事なのだから。
「お酒お酒……コンビニ……と……あっ……」
そうか──もう仕事帰りにコンビニに寄って夕食を買うことも、お酒を買う必要もないんだ。今のわたしには、夕食を作りお酒を冷やして待ってくれている人が──執事がいるのだ。そう考えるとなんだか嬉しくなり、小さく笑ってコンビニを通りすぎた。
家の駐車場に車を止め、自室を見上げる。部屋の明かりが灯っているのを見て、言い様のない嬉しさが込み上げてきた。早足で階段を駆け上がり、鍵を開けて無事帰宅。ドアを開けると心地よい冷房のひんやりとした空気が顔を撫でた。
「ただいま……あれ?」
玄関を入ってすぐ右手の靴箱の上には、わたしがセバスチャンに渡した合鍵が置かれていた。外出したのだろうか、今朝まではついていなかったキーホルダーが鍵にぶら下がっている。鉢の中で泳ぐ、可愛らしい金魚のキーホルダーだった。ひょっとすると出先で購入したのかも知れない。
「あ! お帰りなさい、ほたるさん。お疲れ様です」
腰に巻いたエプロンで手を拭きながら、燕尾服姿のセバスチャンがぱたぱたと駆け寄ってきた。ニコニコと笑みを浮かべ、なんだか嬉しそうだ。
「お弁当、いかがでした?」
「美味しかったです、とっても」
「それはよかった!」
「でも少し豪華すぎましたね」
「それは……すみません、反省しております」
しゅん、と項垂れる執事。お弁当に添えられていた彼が書いてくれた手紙は、わたしのポーチの中に入っている。後でこっそり取り出して、花柄のお手紙ケースに入れておくのだ。
「……はっ!」
玄関で靴を脱ごうとするわたしの鞄を受け取ると、何故だろう、セバスチャンの顔付きが変わった。ニコニコ笑顔は何処へやら、キリッと凛々しい顔付きになり口を真一文字に結ぶ。
「どうしたんですか?」
「いえ……あの、その……」
「セバスさん?」
「私、執事だというのに……主であるあなた様と少し馴れ合いすぎていたな、と反省中でして」
咳払いをし、唇の端を少し上げてわたしから目を逸らすセバスチャン。
(──ああ、だからか。今朝感じた違和感はそのせいだったのか)
「……いいのに」
「えっ?」
「そんなの……そんなの今まで通りでいいのに!」
「ほたるさん? あっ……」
怒気の籠った声でわたしは叫んでいた。言葉尻は震え、目の端から涙が溢れた。急な感情の乱れだったので自分でも驚いたが、セバスチャンはもっと驚いたはずだ。
「ごめんなさい……」
ヒールを脱ぎ捨て、逃げるように部屋に駆け上がる。セバスチャンを追い抜こうとしたその時、手首を掴まれ引き止められた。
「申し訳ありません」
「セバスさんが……セバスさんが悪い訳じゃ、ないんです」
掴まれた手首は引き寄せられる。セバスチャンの手が──腕が──わたしの背を這い、腰に回された。刹那、二人の体が密着する。
「何かあったのですか?」
「……あの」
「……あっ! すみません」
わたしの体を包み込んでいたセバスチャンの腕が、パッと離れた。突き飛ばされるように解放され、互いの体が後退した。
「反省中だと言ったばかりだというのに、申し訳ありません。思わず抱き締めてしまいました……」
「……嫌じゃないですよ」
「え」
「わたしは──」
スッと持ち上がったわたしの腕は、セバスチャンのエプロンの裾を掴む。一歩足を踏み出せば互いの息がかかるほど、二人の距離は近くなった。
(もう一度、抱き締めて欲しい。でないと、わたしは、)
「やはり駄目です」
ゆるりと首を横に振ったセバスチャンは、膝を曲げて目線をわたしに合わせた。涙で揺れるわたしの視界の真ん中で、蒼い瞳の男が悲しそうに眉を下げた。
「駄目って……」
「ぎゅー、は駄目です。何かあったのならば、お話を聞かせて下さい……さ、座りましょう」
そう言ってくるりと背を向けリビングへ向かうセバスチャン。
(ねえ、待って。どうして──)
その言葉を口にする勇気は、沸いてこなかった。
溢れ落ちた涙も、揺れる心も、核村が原因というよりも寧ろ──寧ろ、セバスチャンの余所余所しい態度にあるというのに。
そんなことをセバスチャンが知る由もないのに、わたしは何を期待し、彼に何を求めているというのだろう。
考えてみれば身勝手な話だった。自分の都合で男を求めるなんて。一度押し倒された時にはあれほどこの人に恐怖したというのに、今の────わたしは彼に──。
(馬鹿みたい)
しっかりしろと己を叱責する。そう、彼はわたしの執事。ただの執事なのだから。
0
お気に入りに追加
380
あなたにおすすめの小説
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
〈社会人百合〉アキとハル
みなはらつかさ
恋愛
女の子拾いました――。
ある朝起きたら、隣にネイキッドな女の子が寝ていた!?
主人公・紅(くれない)アキは、どういったことかと問いただすと、酔っ払った勢いで、彼女・葵(あおい)ハルと一夜をともにしたらしい。
しかも、ハルは失踪中の大企業令嬢で……?
絵:Novel AI
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
【R18】幼馴染がイケメン過ぎる
ケセラセラ
恋愛
双子の兄弟、陽介と宗介は一卵性の双子でイケメンのお隣さん一つ上。真斗もお隣さんの同級生でイケメン。
幼稚園の頃からずっと仲良しで4人で遊んでいたけど、大学生にもなり他にもお友達や彼氏が欲しいと思うようになった主人公の吉本 華。
幼馴染の関係は壊したくないのに、3人はそうは思ってないようで。
関係が変わる時、歯車が大きく動き出す。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
マッサージ
えぼりゅういち
恋愛
いつからか疎遠になっていた女友達が、ある日突然僕の家にやってきた。
背中のマッサージをするように言われ、大人しく従うものの、しばらく見ないうちにすっかり成長していたからだに触れて、興奮が止まらなくなってしまう。
僕たちはただの友達……。そう思いながらも、彼女の身体の感触が、冷静になることを許さない。
明智さんちの旦那さんたちR
明智 颯茄
恋愛
あの小高い丘の上に建つ大きなお屋敷には、一風変わった夫婦が住んでいる。それは、妻一人に夫十人のいわゆる逆ハーレム婚だ。
奥さんは何かと大変かと思いきやそうではないらしい。旦那さんたちは全員神がかりな美しさを持つイケメンで、奥さんはニヤケ放題らしい。
ほのぼのとしながらも、複数婚が巻き起こすおかしな日常が満載。
*BL描写あり
毎週月曜日と隔週の日曜日お休みします。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。
海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。
ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。
「案外、本当に君以外いないかも」
「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」
「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」
そのドクターの甘さは手加減を知らない。
【登場人物】
末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。
恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる?
田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い?
【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる