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第一部 owner&butler
第九話 【ちょっとした契約】
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「ごめんなさい、わたし……」
目の端から溢れ始めていた涙が次々にシーツの上に落下し、少しずつその染みを大きくしてゆく。
「わたし、びっくりして、怖くて……ごめんなさい。何かされるんじゃないかって思うと、怖くて……本当に、ごめんなさい」
言葉が震えた。目を見てきちんと彼に謝りたいのに、抱き締められたままなので、顔を見ることも出来ない。
「……私の方こそ、申し訳ありませんでした」
ぎゅうっ、と腕に力を込められ、わたしたちの体は更に密着する。わたしが下着姿のままだとか、セバスチャンにわたしの胸が押し当てられているとか、そんなこと今のわたしにはどうでもよかった。
「言葉が足りませんでした。始めから私がはっきり言っていれば……こんなことには」
「いいえ、それは違います。悪いのはわたし……お酒を飲み過ぎて風呂場で倒れてしまった、わたしが悪いんです」
「確かに」
ふふっと小さく笑い、顔を上げて上半身を起こすセバスチャン。長い黒髪がさらりと垂れ、わたしの肩に触れた。
「あ…………す、すみません!」
「どれが、ですか?」
こうなった原因を謝っているのか、それとも下着姿のわたしを抱き締めていたことを謝っているのか、それとも──その主張している下半身を謝っているのか。
(性欲は捨て置いたんじゃなかったの……?)
気になりはしたが、この状況でそれを指摘するのは「犯して下さい」と頼んでいるようなものだろうと判断し、わたしは口を噤み目を反らす。
起き上がって背を向け、ベッドの上で正座をしているセバスチャンを尻目に、わたしは寝間着を手早く着た。
「どどどど、どれって……全部です」
「全部?」
大きな背中だ。近寄って、ぴたりと体を寄せた。
「ほたる、さん?」
「お願い……何も言わないで」
やはりまだ彼のことが怖い。あんなことの直後なのだ──普通に接するまでに、ひょっとしたら時間がかかってしまうかもしれない。
いくらわたしの思い違いだったとはいえ、こんな下着姿の女の口と手を封じ、押し倒したセバスチャンはいかがなものかと思う。
いやまあ……謝ってはくれているし、実際わたしも悪かったわけだから……その……うん……しかし……。
なんとなく気不味い空気が流れ、セバスチャンから離れるタイミングを逃してしまった。顔を背けて落ち着こうと、自分から彼の背に抱きついたが、一体どうしたらいいのかわからない。行き場をなくした手が彼の太股に触れてしまった。途端にびくん、と飛び上がる彼の肩。
(あ……これ、駄目なやつだ)
スッと手と体を放し深呼吸をしてみたが、どうやら駄目らしい。触れてしまった場所が悪すぎた。一旦眠ってしまえば、多分大丈夫なはずだ──ならば。
「ね、寝ますね!」
「えっ、急!」
「眠たくなったんです。おやすみなさ……って、何ですか?!」
パタンとベッドに倒れ込もうとしたのと同時に、セバスチャンがわたしの体を受け止めた。
「ほたるさん。寝る前に一つ……いや、二つしなければならないことがあります」
背中でセバスチャンの声を受け止める。彼の手はわたしの二の腕を掴んだままだ。
「……何をするんですか?」
お願いだから早く寝かせて欲しい。この欲求を我慢するこっちの身にもなって欲しい。
──いや、我慢しているのは、あちらも同じか……?
「一緒に生活をしていく上でのルール決めです」
「ルール?」
「はい」
セバスチャンは長い髪を軽く纏めて右肩に流すと、咳払いをして何故かベッドの上で正座。そして真っ直ぐにわたしを見据える。
「よかった……」
「何か仰いました?」
「いいえ、何も!」
深く息を吐いて、胸を撫で下ろした。なんだか真面目そうな話でよかった。とりあえずは一安心だ。
「あ……ちょっと待って! わたし……」
「どうされました?」
両手で顔を覆い、下を向く。わたしはこのタイミングで気が付いてしまったのだ。
「わたし……スッピン……」
当然と言えば当然だった。一緒にお風呂に入ったときにばっちりメイクも落としたではないか。あの時は気が動転していて全く気にとめていなかったが、わたしは現在ノーメイク状態だ。
「無理! スッピンとか無理っ!」
「今更何を。もうしっかり見ております」
「やだあああ……」
首をぶんぶんと横に振るわたし。眉毛もきれいに生え揃ってないし、ファンデーションものっていない肌は毛穴が開いて汚い所ばかり。
「可愛らしいお顔ですよ?」
「なななななっ! なにを言い出すんですか!」
「まあまあ、とりあえず一番大切なお金のことについてです」
手品のように、何処からともなくノートとペンを取り出したセバスチャンは、ベッドにそれを置いてサラサラと文字を書き始めた。
「私もこちらで衣食住を共に致しますので、生活費は納めますね……そうですね、このくらいで如何でしょう?」
そう言ってノートに書いた物をわたしに向ける。
「え……多すぎます、そんなに貰えませんよ!」
「ええ……でもー」
「じゃあ、間をとってこのくらいで!」
「ふむ」
提示された金額から折半して食費や光熱費を出すことが決まった。
「家事は全てわたしが行います。勿論買い出しにも行きますので、食費は預けて頂く形になりますが……それがご不満であれば、一緒に買い物に行って頂かなければなりませんが、如何ですか?」
「セバスさんにお任せします」
「かしこまりました」
そう言って胸に手をあて、セバスチャンは頭を下げた。実に執事らしい所作だった──パジャマだけどね。
目の端から溢れ始めていた涙が次々にシーツの上に落下し、少しずつその染みを大きくしてゆく。
「わたし、びっくりして、怖くて……ごめんなさい。何かされるんじゃないかって思うと、怖くて……本当に、ごめんなさい」
言葉が震えた。目を見てきちんと彼に謝りたいのに、抱き締められたままなので、顔を見ることも出来ない。
「……私の方こそ、申し訳ありませんでした」
ぎゅうっ、と腕に力を込められ、わたしたちの体は更に密着する。わたしが下着姿のままだとか、セバスチャンにわたしの胸が押し当てられているとか、そんなこと今のわたしにはどうでもよかった。
「言葉が足りませんでした。始めから私がはっきり言っていれば……こんなことには」
「いいえ、それは違います。悪いのはわたし……お酒を飲み過ぎて風呂場で倒れてしまった、わたしが悪いんです」
「確かに」
ふふっと小さく笑い、顔を上げて上半身を起こすセバスチャン。長い黒髪がさらりと垂れ、わたしの肩に触れた。
「あ…………す、すみません!」
「どれが、ですか?」
こうなった原因を謝っているのか、それとも下着姿のわたしを抱き締めていたことを謝っているのか、それとも──その主張している下半身を謝っているのか。
(性欲は捨て置いたんじゃなかったの……?)
気になりはしたが、この状況でそれを指摘するのは「犯して下さい」と頼んでいるようなものだろうと判断し、わたしは口を噤み目を反らす。
起き上がって背を向け、ベッドの上で正座をしているセバスチャンを尻目に、わたしは寝間着を手早く着た。
「どどどど、どれって……全部です」
「全部?」
大きな背中だ。近寄って、ぴたりと体を寄せた。
「ほたる、さん?」
「お願い……何も言わないで」
やはりまだ彼のことが怖い。あんなことの直後なのだ──普通に接するまでに、ひょっとしたら時間がかかってしまうかもしれない。
いくらわたしの思い違いだったとはいえ、こんな下着姿の女の口と手を封じ、押し倒したセバスチャンはいかがなものかと思う。
いやまあ……謝ってはくれているし、実際わたしも悪かったわけだから……その……うん……しかし……。
なんとなく気不味い空気が流れ、セバスチャンから離れるタイミングを逃してしまった。顔を背けて落ち着こうと、自分から彼の背に抱きついたが、一体どうしたらいいのかわからない。行き場をなくした手が彼の太股に触れてしまった。途端にびくん、と飛び上がる彼の肩。
(あ……これ、駄目なやつだ)
スッと手と体を放し深呼吸をしてみたが、どうやら駄目らしい。触れてしまった場所が悪すぎた。一旦眠ってしまえば、多分大丈夫なはずだ──ならば。
「ね、寝ますね!」
「えっ、急!」
「眠たくなったんです。おやすみなさ……って、何ですか?!」
パタンとベッドに倒れ込もうとしたのと同時に、セバスチャンがわたしの体を受け止めた。
「ほたるさん。寝る前に一つ……いや、二つしなければならないことがあります」
背中でセバスチャンの声を受け止める。彼の手はわたしの二の腕を掴んだままだ。
「……何をするんですか?」
お願いだから早く寝かせて欲しい。この欲求を我慢するこっちの身にもなって欲しい。
──いや、我慢しているのは、あちらも同じか……?
「一緒に生活をしていく上でのルール決めです」
「ルール?」
「はい」
セバスチャンは長い髪を軽く纏めて右肩に流すと、咳払いをして何故かベッドの上で正座。そして真っ直ぐにわたしを見据える。
「よかった……」
「何か仰いました?」
「いいえ、何も!」
深く息を吐いて、胸を撫で下ろした。なんだか真面目そうな話でよかった。とりあえずは一安心だ。
「あ……ちょっと待って! わたし……」
「どうされました?」
両手で顔を覆い、下を向く。わたしはこのタイミングで気が付いてしまったのだ。
「わたし……スッピン……」
当然と言えば当然だった。一緒にお風呂に入ったときにばっちりメイクも落としたではないか。あの時は気が動転していて全く気にとめていなかったが、わたしは現在ノーメイク状態だ。
「無理! スッピンとか無理っ!」
「今更何を。もうしっかり見ております」
「やだあああ……」
首をぶんぶんと横に振るわたし。眉毛もきれいに生え揃ってないし、ファンデーションものっていない肌は毛穴が開いて汚い所ばかり。
「可愛らしいお顔ですよ?」
「なななななっ! なにを言い出すんですか!」
「まあまあ、とりあえず一番大切なお金のことについてです」
手品のように、何処からともなくノートとペンを取り出したセバスチャンは、ベッドにそれを置いてサラサラと文字を書き始めた。
「私もこちらで衣食住を共に致しますので、生活費は納めますね……そうですね、このくらいで如何でしょう?」
そう言ってノートに書いた物をわたしに向ける。
「え……多すぎます、そんなに貰えませんよ!」
「ええ……でもー」
「じゃあ、間をとってこのくらいで!」
「ふむ」
提示された金額から折半して食費や光熱費を出すことが決まった。
「家事は全てわたしが行います。勿論買い出しにも行きますので、食費は預けて頂く形になりますが……それがご不満であれば、一緒に買い物に行って頂かなければなりませんが、如何ですか?」
「セバスさんにお任せします」
「かしこまりました」
そう言って胸に手をあて、セバスチャンは頭を下げた。実に執事らしい所作だった──パジャマだけどね。
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