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12 単純にセックスが上手いんだろうな

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 絵の具の香りが充満するこの玄関に立ち入ったのは何度目だろうか。こういう言い方をするのは聞こえが悪いかもしれないが、ただ単に食事や菓子のお裾分けをする際に何度かお邪魔したことがある、というだけのことだった。

「ちょっと待っててな。暑いだろ、扇風機持ってくる」
「すみません、ありがとうございます」

 右手に扇風機。左手に二人分の麦茶の乗った盆を器用に運んできた樹李さんは、玄関にどかりと腰を下ろした。俺もそれにならって彼女の隣に腰を下ろす。

「あの、樹李さん」
「なんだい?」
「訊かれたことには出来るだけ答えます。その代わり、最後で構いませんので俺にも一つ……訊きたいことがあります」
「いいぜ、一つでいいのかい?」
「はい」

 麦茶を一口含み、ポケットからメモ帳とペンを取り出した樹李さんは「早速だけど」と切り出した。

「ほたるはアレ飲んでどんな感じになったん?」
「そうですね……」

 俺の脳裏に浮かぶのは、乱れきったほたるの顔。苦しげに寄せられた眉、泣き出しそうなほど揺れる瞳、甘い声を漏らす半開きの唇、揺れる胸にあの美しい乳頭。それに細い手首や、長く厭らしく動く舌、鎖骨の下の色っぽいほくろに、張りのある太股、小さな足──とまずい。色々と思い出しすぎてしまい、身体がカッと熱を孕んでしまった。

 落ち着くために麦茶を半分ほど頂き、口を開く。

「そうですね……ほたるは基本的に恥ずかしがって淫らな言葉を口にすることは絶対にありません。けれどアレを飲んでからは……」
「何か言ってた?」
「俺の物を指して、その……」

 流石に女性の前でそういった言葉を、しかも朝っぱらから口にするのは憚られた。樹李さんは手元のメモにを指す言葉をいくつか書くと「どれかな?」と俺に差し出した。

「……これ、ですね」
「ふうん、ふむふむっ! 可愛いじゃないか、流石はほたる!」

 言いながら樹李さんは、その単語をペンでぐるぐると囲う。麦茶を一口頂くと、「それで」と身を胡座をかいた彼女はさも嬉しそうに俺に問う。

「君自身は?」
「俺、ですか?」
「身体の変化!」
「……飲んだ量が半分以下だったからかもしれませんが、興奮状態はいつもより少し高かった程度でしたね……。ただ、ちと状態はよかったように思います」
「いつもよりガチガチに勃起した状態が、長く保ったてこと?」
「え……あ、はい」

 無遠慮な言葉が樹李さんの口から零れ、無意識の内に一瞬引いてしまった。こういう場合ほたるだったら「勃起」などと言わず「おっきくなった」と恥じらいながら言うので、樹李さんの言葉は俺にしてみれば爆弾のように思えた。

 溜め息を一つ、麦茶を頂く。

「立石君も、ほたるにフェラされるのやっぱり好きなん?」
「ええ、そりゃあ……まあ」
「それは、男性視点からくる征服感かな? それとも快感の方が強い?」
「両方ありますが……快感は、強いですね。ほたるは……その、本当に上手くて」
「いいなあ、あたしも男だったらやってもらいたいくらいだよ」

 会話をしながら器用にメモをとる樹李さん。身を乗り出しながらさながらレポーターのように俺に視線を向けた。

「立石君は単純にセックスが上手いんだろうな。ほたるの雰囲気からして」
「ほたるも、同じようなことを言っていました」
「『柊悟くんは……上手だから』って?」
「まあ、そんなとこです」
「経験豊富なイケメンは、女体を知り尽くしてるってか」
「別に……そういうのじゃないです。樹李さんが思ってるほど、経験なんてないです」

 世話焼きな兄が過去に何人もの女性を俺の前に連れてきた。「選べ」と言われて交際に発展した女性も何人かいたが、一般的な数の女性しか俺は抱いていない。

「人数聞訊いたら教えてくれる? これは単純にあたしの好奇心」
「それは……勘弁してもらえますか」
「ふふん。まあ、いいけどね。因みに、ほたるにとって君が何人目か知りたい?」
「遠慮しておきます」
「知りたくないんだ?」
「ええ」

 ほたるが俺以外の男と──なんて、考えて気持ちが良いわけがない。現に俺は昨夜、ほたるが以前交際していた男の記憶を消すのに必死だったというのに。

「だいぶ話が逸れましたが、いいのですか?」
「あー、ごめんごめん。そろそろ時間があれだろ?」

 促されて腕時計を見ると、そろそろ家を出ねばならない時間だ。「おお、そうだ」と、立ちあがった樹李さんは、持ってきた白い皿を俺にも差し出す。これは、先日俺がお裾分けしたパウンドケーキの乗っていた皿だ。

「美味しかったよ、ご馳走さま。話も含めてな」
「いえ」
「それで、訊きたいことってなんだい?」
「……ほたるが、桃哉とうやさんと別れた理由を知りたいのです」

 ほたるが俺と交際をする以前に付き合っていた男──大家おおや 桃哉とうや。彼女の幼馴染みであり、このアパートの大家さんの一人息子だ。ほたると実家は隣同士。昨夜ほたるの実家でバーベキューをしたときには、勿論彼の姿もあった。

 去年の夏頃、俺がほたると交際を開始する以前に一悶着あった相手だ。

「それ訊いて……自分は同じ過ちを冒さないようにってか」
「そうです」
「うーん……君と桃哉君はタイプが全然違うから、同じことにはならないと思うけど。それでも、訊きたい?」
「はい」
「……いいよ」

 グラスの麦茶を飲み干すと、樹李さんは溜め息混じりに口を開いた。

「桃哉君はさ、ガキの頃からほたるが好きだったんだよ。そのせいか、彼は独占欲が凄く強かった。ほたるは彼のこと何とも思ってなかったらしいんだが、彼に押されて……ね。
ほたるも……時間が経つにつれてけっこう彼に惚れ込んでいったから、桃哉君は『ほたるは絶対に俺から離れない』っいう自信があったんだよ。だから……」
「だから?」
「……ほたるを、無下に扱うことが増えていった」
「……」

 言葉が出てこず、扇風機の動作音だけが静まり返った空間に響く。

 樹李さんは続ける。

「桃哉君も、君程じゃないけどあのツラだからさ、けっこうモテるんだよ。ほたると付き合っていても寄ってくる女の子はいたみたいで。だから調子に乗っちゃったんだろうね──『ほたるは俺から離れるわけがない。だからちょっとくらい大丈夫だろう』って」
「彼は浮気でもしたのですか」
「どうだろうね? 本人曰く、肉体関係を持った子はいなかったらしいけど、女の子と遊びに行くことはけっこうあったみたいだし。ほたる自身がそれを浮気と捉えたから、信頼関係が崩れていったみたいだしね」
「……」
「でもなあ、桃哉君はほたるに突っぱねられても、ほたるを忘れられなかったんだよな。だからがあったんだよな」

 前みたいなこと、というのは──去年の夏、俺とほたるが付き合う以前のこと。俺が風呂に入っている間にやって来た桃哉さんが、ほたるに襲いかかった、あの出来事のことだった。

「ま、桃哉君のあの感じからしたら、もう大丈夫だと思うよ。けど……」
「けど、なんですか?」
「……ほたるに、桃哉君との昔のことを訊くのはやめてやってくれ。あの子は……あの時、だいぶ傷付いたからな。相当参ってたし」
「はい」

 他の男とどうだったかなんて、訊きたいわけがない。が、何かの弾みでそういった話が出てくる可能性もゼロではない。──しっかりと、肝に命じておかねばなるまい。

「君にはほたるを大切にして欲しいから話した。あの子は良い子だよ。だから……頼んだよ」

 お礼を述べて麦茶を飲み干し、皿を抱えて玄関を出る。部屋に戻って戸締まりを済ますと、スーツの上着を抱えて俺は職場へと向かった。



 ほたるを大切にするし、絶対に幸せにする。もう傷付けない。誰に言われずとも、俺は彼女と手を取り合って生きていく──そう、誓っているのだから。








────────────

これにて完結です。

樹李の話している内容が「こんなに好きになるつもりなんて、なかったのに」で描かれてきます。
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