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第三章

広くなれば狭さは絶えぬ

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 後日、姉の方の本田さんが恥じらいながらも謝ってきた。妹がいきなり告白をしてしまって申し訳ないとのことだった。しかし僕が言うことでもない、むしろ僕こそ言うべきでないと思うのだが、告白という行為に罪はない。姉の方の本田さん……いや、静香さんと呼ぼう。静香さんとしては、僕と既に関わっている以上、気まずさには勝てなかったのだろう。それは同情する。
 そして、学校の人達とも友好関係を築きあげてきたころ、僕のクラスの女子生徒の兄が殺されたと言った。

 その日は少し遅れて学校に行った。前夜、美術の課題を終わらすにも終わらせられず、父に内緒で部屋でそれを仕上げていたのだ。佐城さんは美術は得意そうだ。何度か芸術について語っていたことがあった。確か、ガストン・ビュシエールさんだった気がする。絵を拝見したところ、女性が此方を向いているのだがその瞳が少し怖い。僕の心の奥底を何処を見ているかも分からない恐怖も重なった。しかし、色の鮮やかさと幻想的なところは美しいと感じる。彼女が言うには、ガストンさんは様々な作品から霊感を得ていたとか。佐城さんはやはり死人などにしか目がいかないのかと少し心配にもなる。それを真似てというのも可笑しいが、その気持ちを僕も参考にして今回課題を無事に終えた。深夜三時にまで及ばなかったのは彼女のおかげである。
 そして本題。下駄箱までは平和ないつも通りの会話を耳に流していたが、僕の学年の階に行くと変わった。廊下で騒めく男子達と不安げな女子達の顔を覗くと、教室から泣き声が高く響いている。僕は自分の荷物を机上に置き、同じクラスの女子が泣いているのをただ見つめていた。彼女は顔がぐちゃぐちゃになるまで泣き崩れている。いつもなら可愛く着飾ろうと必死になるところが、今ではそれすらをも出来ずにただ手で顔を覆う事しか出来ないようだ。周囲の人は肩に手を回して「大丈夫?」と声をかけていた。が、大丈夫な訳なかろう。その女子は兄が殺されたと言っているのだから。家族が一人殺されて、しかも兄となると産まれたころから一緒だろう。その存在が一人いなくなってしまうなんてたまったものじゃない。そして犯人は、やはりあの連続殺人に関わった犯人だと。
 僕は殺人事件と、死と隣り合わせ……或いは死を間近に迎えた知り合い達が周りにいる。佐城さんは犯人を自分の客かもしれないと言った。父は警察として殺人事件に関わっている。僕は穂乃果を守らねばならない。そして僕自身だって……ああ、なんて恐ろしいんだろう。今迄只の傍観者であった筈なのに、いつからかこんな所に来てしまってどうしようもない。この時初めて父という存在を軽く憎んだ。父は僕等に謝り、仕事の都合上仕方のないことなのだけれど、自分の醜さと守らねばいけない人が浮かべば浮かぶ程、僕の心に押し潰されそうな自分への嫌悪の念が増していった。

 この日、学校では皆午前中に帰宅をし、夜遅くの外出を禁じられた。
 家に帰り穂乃果も父も家にはいず、ただ一人で昼ご飯を作る。弁当をスーパーで買ってき、味噌汁を作るだけだが。味噌汁には豆腐を入れて味は薄めにする。それが僕のいつもだった。
 席に着き、テレビを付けると昼の特番が流れてくる。今話題の芸人俳優を存分に使ってどうでも良い事に時間と金が発生する。それが彼らの仕事。以前まではその“どうでもいい”が僕の娯楽で、至福の時だったのに。僕は随分と変わり果ててしまったようだ。佐城さんに出会って何もかもが鮮やかに見えた。自分の影は僕の悩みを吸い取ってくれるよう、そして今迄嫌いだった鬱蒼とした木々ですら好きになれたのだ。その反面、佐城さんが離れない。誰か彼女以外の人を見たとき、どうしてもくだらないと思ってしまう。僕自身は醜く拙くとやかく汚く見えた。
 暖房をつけてから数分経ち、生暖かい風が部屋に循環した頃。味噌汁が喉に温かさがじんわりと広がり、味噌の風味が漂う。冷めぬうちに全て飲み干し身体が温まってくる。弁当には唐揚げが四つ入っている。その一つに手をつけ、こんな時に殺人を思い出してしまう。佐城さんが殺されたらどんなだろう。思いたくもないけれど、怖いものに踏み入れてしまいたい感覚が僕を襲った。
 恐らくこんな風だろうか。
 店にやって来た犯人がカウンターに身を乗り出し、佐城さんの首元にナイフを当てる。鮮やかな赤色が彼女を覆い、首からは少し肉片が飛ぶ。美しい黒鳶の瞳が命を失いかけたとき、彼女が好んだ死人の様になるだろう。
 思えば思うほど手元は震え、鳥の“肉”を食べているという事に恐ろしさを覚えた。脳内にテレビの笑い声が流れている。耳から入り、脳で少し突っかかってそのまま反対の耳に流れていく。どっと食欲が失せ箸も殆ど付けぬまま側にあるソファに横たわった。静香さんの妹に告白されただなんて只の情景描写の様なものに過ぎなく、もっと大きな事情がたゆめいている。それは僕が存在する場所から遠ざけたい事情。考えたくもない事。寝て何もかも軽くしてしまえばいいんだ。それで少しでも遠ざける事が可能なら。

 起きたのは三時間後、穂乃果の「ただいま」が聞こえた時だった。穂乃果は「早いね、今日は」と腕で僕の腰を叩いてランドセルを自分の部屋へと持っていった。僕はテーブルにのっていた弁当を見、少し腹が減っている事に気づき唐揚げを二個だけ食べる。そしてビニール袋に戻しキッチンに置く。もう十五時か。何も出来ずにただ睡眠を取っていただけということに後悔し、風呂にゆっくり入れるよう今のうちから洗っておこうと思う。穂乃果は無邪気に「今日、宿題が出たんだ!」と家族の作文を書くようだった。そして風呂場掃除をしている際に「お兄ちゃんの好きなものってなあに?」と手を鉛筆で黒く汚して笑う。僕は「何でもいいの?じゃあ、お兄ちゃんは綺麗なものが好きだな」としゃがんで人差し指を穂乃果の眉間にあてた。少し濡れてるせいか穂乃果は大きく首を横に振り、リビングへ走っていった。
 綺麗なものとは、家族のように輝かしいものであり佐城さんの美しい存在である。決して宝石という訳ではない。その様な綺麗なものに価値があるようだが、僕としては僕にしか手に入れることのできないものを綺麗なものと称したい。そして、それを守り抜くために現在を生きなければいけない。
 そうして掃除を進めている中、自分が少し可笑しくなっているような気がした。此の間から家族と佐城さんを守る事しか考えられない。自分は?自分は死んでも構わないのか?愛する人を守れれば。宮野と岩崎も放ったらかしで……?さっき寝て心を軽くできたはずなのにここで全て振り出しに戻ってしまった。しかし今はゆっくりと風呂に入るのが優先として、深く考えない時間を作るべき。

 時間は経て、夕飯を作り出す。僕は食べ損ねた昼ご飯を自分のお皿に取り分ける。穂乃果と父にはオムライスを……子供っぽいだろうか?まあいいか、それ程手間もかからないし。
 すると穂乃果がリビングで大きく「出来た!」と言った。こちらに走って「出来たよ、お兄ちゃん!題名は私の家族!今度土曜授業で発表するから来てね!楽しみにしてて!」とバレエをするように一回転し、さくらんぼをモチーフにしたスカートがふわりと舞った。嬉しそうな穂乃果は顔にも鉛筆のかすが付き黒くなって笑っている。僕は「じゃあそんな穂乃果には夕ご飯オムライスだよ」と言うとはちきれそうなほどの笑顔でジャンプする。そして飛び回る。僕もその期待に答えねば。走っていく穂乃果に対し、僕は炊けたご飯をよそっていく。クラスの女生徒はどうしただろうか、今はご飯も喉を通らないだろう。この町を引っ越すだろうか、というよりかそもそも犯人は何故分からないんだ?この小さな町ならば、此間の町内会の時に佐城さんを予想していたように誰かすぐに分かるものじゃないか?それは全て父達にかかっている。僕らはそれを待ち望むことしかできない。今日の父の帰りは遅い。穂乃果の分だけ取り分けた。

 穂乃果が部屋で眠りにつき、僕が軽くソファでバラエティー番組を見ていると玄関から音がした。父が帰ったのだ。玄関に向かい、「父さん、荷物持つよ。今日も事件が起こって疲れているだろう?風呂も湧いてる」と険しい表情の父が口を開く。最初に溜息を、次に「犯人を捕まえた。しかし、黒幕がいるみたいだ。これで……これで全て被害者も出ないで安心した平和な日常を過ごせると思っていたのに!」といつも冷静な父と思わせぬ感情を露わにした。目は鋭く何処も見ていぬよう。しかし、犯人を捕まえたとは?捕まったのか?でも黒幕がいる!?僕がそれを聞こうと瞬間父から「感情的になってすまない、秋真。今日、犯人を捕まえたんだ。性別は男、恐らく三十代前半。彼は殺人をしていた者だったのだが、殺人を指示した人がいるらしい。しかしこれ以上何も話してくれない。これからは少し安心できるにせよ黒幕が捕まっていないのならば元も子もない。まだ穂乃果には黙っておいてくれ」と言う。まだ先は暗そうだ。
 そして一旦父に風呂に入ってもらっている間、父の分のオムライスをよそいテーブルに並べておく。僕の髪が乾き始めた頃、心がほんの少しだけ安心したような気がする。黒幕は殺人しないんだろう?ならば後は指示を受けていた犯人が言えばいいじゃないか。
 今日ずっと心の奥底で揺れ動いていた不安の花は枯れつつある。それに代わって佐城さんと愛を育みたいという未来溢れる希望の花が咲きかけようとした。明日佐城さんの元へ向かおう。捕まったという報告も兼ねて。
 彼女も家族も僕だって殺されまい。僕には幸せな生活を過ごすという亡き母との約束があるんだ。ああ、佐城さん。待っていてくれよ。
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