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第三章

似た漆黒の瞳

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 月曜日の授業は億劫で、ただ手を動かす作業が大半だ。
 国語の授業を終えて次の授業が数学だった。初めて数学の教師を見たときは、茶の瞳が輝かしく肌は陽の光を浴びて、張りのある肌に浮き上がる傷跡が印象的だった。学生時代に何かやらかしをしてしまったのか。
 女性教師加えて若いということもあり、男子生徒からの人気を誇っている。僕も彼女を美しい女性だと思っている。僕の年齢から言うのも何だが、良い年齢だ。離れすぎていなく近過ぎていなく……佐城さんも同じくそのくらいの年齢であろうが、彼女とは距離を感じる。人間味のないその性格からだと思う。しかし僕はその人に恋をしているのか。
 頭の中から彼女はたちまち離れなくなり僕に笑いかけている。その笑みは何なのだ。僕を嘲笑っていると言うのか。それとも僕への好意の笑みか。それならばどれほど嬉しいだろうか。
 僕の心に創られた“彼女”が浮かんでいる。人間離れした絹のような白く輝く手。ほんのり紅梅色に色付く頰。机の淵をなぞってゆく細長い指。長く毛先の整った滑らかな黒髪、吸い込まれるような黒鳶の眼。美しい。美しいのだけれど骨董屋の内観が共に思い浮かぶ。あまり見たくない生々しい死体の資料がそこにはあるのだ。いくら彼女とはいえ今まで正当な道を歩み進めてきた僕にそれは衝撃だった。
 ふと、名前を呼ばれて気付く。先生に指名をされていたようだ。ああ、今日は十一月二十五日だったか。きっと十一と二十五を足した数字を僕の出席番号にあてたのだろう。
 黒板には百八十二ページの問題一と表記してあり、きっとこの答えが求められているのだろう。先生は「分からないの?ずっとぼーっとしてるけど。黄昏も程々にお願いしますね」とチョークを何度かトントンと音を鳴らしている。沸々と湧き上がっているようだ。
 僕は数学が苦手なほうではなく、どちらかというと得意な方だったため、ノートに乱雑な計算を書いた。数分は黙っていたものの、先生は何となく察知してくれたようでその場で待っていた。そして答えを述べると先生が溜息をついて「もういいよ、座って頂戴」と呆れているご様子だ。座る瞬間斜めのほうにいた宮野が呆れた顔でこちらを見ていた。多分僕が何をしていたのかは気付いている。入学から1ヶ月しか経ていないというのに悪い印象がつくのは父の面に関しても良くない。挽回のチャンスを得られると良いのだがそういう機会もなし、ただ今をその場しのぎである。
 授業はその後数十分ほど続き退屈もいいところだ。お経のように頭を流れゆく数字の数々をノートに書き写している。空のような授業の受け方をするのはここに越してからが初めてである。理由は明らか。またループして佐城さんの話題に頭が変えようとしていく。随分と面倒な人間に成り下がってしまったようで仕方がない。
 自分で自分を否定しても、脳内で鳴り止むことのない心奥底の叫び声がどうしても死にゆく彼女の声に聞こえた。

 今日は昨夜や今朝の彼女の話題からも店によるのが気まずかった。そのまま放課後をだらけて過ごそうと思い、鞄に荷物を詰めてマフラーを巻いて帰ろうとしたところ、宮野と岩崎に呼び出された。
 「転校してからもう一ヶ月も経つんだし、そろそろ部活のことも考えた方がいいんじゃない?」
 岩崎はこの学校の部活表を見せてくれた。弓道部であった岩崎は自分がいた部活の人数危機に晒され焦っているようだ。しかし、宮野は「うちのサッカー部もどうかな?というよりか、神酒は運動とか得意なのか?体育でも特に目立ったこともなかったが」と根本的なところから聞いてくる。運動はそこそこ出来ていたつもりだ。勉強も社会以外ならばそれなりである。それでも運動部と文化部共に入る気にはなれなかった。この学校に来てからは学校生活というよりかは別のところに目がいってしまい中々趣味や部活の向上には励むことができなかったからである。
 「部活は何も考えていなかったな。運動も微妙だ。別に特化している訳でもないし……」
 部活表を眺めると、野球部、サッカー部、バスケ部、バレー部、バドミントン部、テニス部、弓道部、剣道部、茶道部、美術部、吹奏楽部、科学部……ありがちなものが多く特にどこにも入りたくはなかった。無理矢理入って何になる。時間の無駄ではないのか?
 「そうだ!同好会とかだけでも入ったらどう?」
 岩崎が思いつきで言う。同好会なら身が軽そうだ。そしてまた差し出された同好会の紙には、『掛け持ち可』というのが大々的に。一覧には『図書、哲学、音楽、将棋、写真』とあった。僕は図書に目をつける。これなら僕にも楽そうだ。もともと本は好きで、父によく読まされていた。同好会の中身はよくわからないが、試しに入るという手もあるかと思い「図書に入ってみたい」と二人に言った。すると「そうと決まれば今から会長に申し込まなきゃ」と岩崎が呼んでくるらしく廊下をかけていった。僕と宮野は残され、暇だったためにただじゃんけんをして待っていた。五勝十二敗、自分が弱いということを思い知らされる。人生此の先何か役にたつ訳でもないが何となく悔しい。宮野にハンデをつけてもらい、次勝ったら十ポイントが入ることにした。そして今までにないくらいの熱を込めて思い切りグーを差し出した。宮野はパー。ああ、負けた!くだらない遊びにどうしようもない悔しさが湧き上がって消えなかったため、絶対に勝つと思ったあっち向いてホイをして勝ってやった。負けず嫌いというか、面倒な性格だというか。今よく知ることができた。
 岩崎が会長である三年生の本田 静香さんという人を連れてきた。どうやら同好会は今の時期三年生も入会が許可されているらしい。
 本田さんは、肩ぐらいまで髪の毛を伸ばし、結んでいないようだったために、失礼ながらも座敷わらしと思ってしまう。しかし、シルエットがそうにしても近くで見るとシャイだがとても可愛らしい人であると分かった。頑是なく、美しいと言うよりも可愛らしい。眼鏡の奥に潜めた漆黒の瞳がこちらを向いていたが、顔を赤らめては下を向いてしまう。反応が妙に突っかかったが、触れておくでないと思いあえて何も言わず挨拶を交わした。
 事は着々と進んで行き、自分もすぐに入会を勧められるとは思わなかった。一応の所今日は仮という事で、図書同好会の体験を行うことにした。宮野は部活へ、岩崎は先に帰るらしく、僕は本田さんに連れられて図書室へと向かう。然程使用したことがないために、本の種類も把握できていない。しかし部活の時間を使ってそれが把握できたら良いと思う。本は勉強に勝るとも言うようだ。読めば理想の自分を導き出せるであろう。
 図書室は教室四つ分くらいだろうか。以前の学校よりは少し大きい。そして入室した時、幾らかの人から驚嘆の眼差しを向けられた。僕は軽く一礼を済ますと本田さんは「体験に来てくれた神酒さんです」と掌をこちらに向けた。皆良い人そうであった。軽く向こうも一礼してくれ、僕は長椅子に座ることになった。
 まず、同好会の仕組みからという。
 基本出入りは自由、欠席なども関係がない基本的に自由な仕組みのようだ。部活終了時刻と同じ時刻で解散。そして図書同好会としての仕組み。放課後は基本使用不可である図書室を水曜日を除き借りさせていただき、調べ物や図書室の本を読むといったところらしい。緩い感じだが、知識や情報は相当つきそうである。これなら父にも堂々と公表できそうだ。
 この日は体験というよりかは説明だけで終わり、冬季になると部活終了時刻を短くなっていくために特に何もできなかった。
 門の前で宮野と岩崎を待っていた。途中、一年生と思われる女の子に声をかけれられた。僕の肩ぐらいの位置にいる。漆黒の瞳である。彼女は「私、先輩のことが好きなんです」と声を張った。僕は自分への言葉ではないのではないかと疑い、周りを見回してみたがやはり僕へのようだった。唐突なことであるし、ましては関わったことのない人だったが為に少し黙って返事を返す。
 「僕に好意を寄せてくれてありがとう。でも、まだ君のことをよく知らない。申し訳ないけど君の気持ちは受け取れない。」
 笑顔を彼女に向けると唖然し、少し瞳が潤んでその奥で揺れ動いていた。深々と一礼をして帰る彼女に「寒いから気をつけて」と僕は思わず声をかけてしまう。これが彼女にとって苛つきに繋がってしまったらいけないと思ったがどうも聞こえてなさそうだ。
 すると、くすくすと堪えた笑いが二つ程背後から聞こえてきた。僕は直ぐに宮野と岩崎だと気付く。宮野は僕の肩に手をかけ「転校早々告白とは羨ましいね」とにやけが止まらず、岩崎は「本田静香ちゃんの妹だよ。今日体験行ってきたんでしょ?」と。僕が「本田さんのか?確かに瞳の色が一緒だった」と、風が吹き荒れ寒さが一層増していった。僕好みではない漆黒の瞳は僕を真っ直ぐ見つめていて、どうも目を離すことができなかった。
 宮野は「帰ろうぜ」と先を歩いていく。
 その日はとにかく早く家に帰りたかった。
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