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第一章

時は秋、始まりも明日もない。

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 僕は非道徳で愛に歪んだ人と化し、欲望を隠せぬ世の中と見分けも付かなくなっている。


 湿るアスファルトの匂いは失せ、久しぶりの小春日和を迎えた。僕は最適な引っ越し日和、新しい日々を迎えるのにはとても良好といえるこの日を憂鬱に思うのであった。高校一年生のここまでを別の街で暮らしていたため、そう思うのも苦ではないと思う。一年の後半の十一月で越すのは気が重い。しかし、父の警官の仕事上、仕方のないことだった。
 車内で見知らぬ名の木々を横目で流しては、それが離れた友のように見えてくる。大小異なり個性が出ている。
 ふと、正義感が強く、堅い印象の父が口を開き「ごめんな、こんな時期に」と申し訳なさそうに言った。母を亡くし、父と妹と暮らしているということに父は僕たちを心配してくれている。妹の穂乃果は「そんなことない!」と元気に答えた。まだ小学三年生だ。新しい生活をさぞ楽しむことだろう。しかし、僕はやはりいい気はしなかった。それでも今まで愛してくれた父だ。当然のように「心配しなくていいよ」と落ち着いて答えた。
 やがて、僕が通うことになる高校が見えた。周りは木々と住宅。田舎……というとそこまでではないが、僕が以前住んでいた場所より明らかに木が鬱蒼としている。住宅街もあり、少し小洒落た店もあるようだが、夜は暗そうだ。
 父が車を走らせていくと、引っ越し業者の人が動き始めていた。父は「ここだよ」と一言言うと、白い壁で清潔感のある二階建ての家が見えた。車を止め僕らが降りると、業者の人が明るく「おはようございます、いい天気ですね」と言うものだから、つい「お疲れ様です、晴れて良かったです」と口に出す。そして一礼をした青い作業着の業者の人は、そそくさと家具を運んでいった。一緒に父も穂乃果も家の中に入っていき、内装を評価している。僕は周囲を見渡し、横に同じように立ち並ぶ家の数々を見て、道路を挟んだ前にある八百屋と郵便ポストを見た。その後、空を見上げて、改めてこの町で住むことを実感させられる。本当にいい天気だ……前の町の友はどうしているのか、亡き母は見守ってくれているだろうか。車通りの少ない町で、北のほうにあるこの町で何が待っているのだろう。思うことは山々で、青く澄んだ空から目が離せなくなっていた。


 引っ越し業者が帰り、新居を穂乃果と“探検ごっこ”と称し、見回った。すると父に「荷物の整理を始めなさい」と言われる。気怠い。今日は日曜日で明日からは新しい学校で過ごさねばならない。この時期転校生が来たところで、あちらではもうクラスでの塊が出来上がってるんだろう。そしたら僕の入る隙はない。荷物を整理し、物を置いていくと考え疲れたのか次第に全てがどうでもよくなってきた。
 家具は大体置け、日が暮れている。あたりは住宅街の街灯しかついておらず、大変寂しい情景だった。前は店やビルが立ち並び、夜を知らぬ景色であったのに……思うたび以前が恋しくなる。そして顔が自然と暗くなる。浮かない顔をした僕の前に、父が穂乃果と手を繋ぎ立っていた。「秋真、散歩しに行かないか?まだ周りを把握しきれていないだろう」としわが合間見える顔を明るくして言った。ーー玄関で履き慣れた靴を履き、新居についた“神酒“という表札に違和感を覚え、軽く触れてあてもなく歩き出す。父は「絶対離れるな」と念を押す。穂乃果は「暗いね」と白い息を出す。僕は手をポケットに入れ、二人の後を追っていった。今は十七時。疲れも出て、少々腹が空いた。上を見上げると朝同様に雲は見られなく、太陽の代わりに月が出ている。もしここにいなくとも、あの場で同じ夜空を見上げていたんだろうと悲しみの念に追われる。
 父に付いていくと山の方へ向かっていった。散歩と聞いたものだから、てっきり五分ほど冷風に当たるだけかと思っていた。しかし父は僕らより先の何かに目を向けて必死に上を目指している。その背中は無邪気な子供と形容するに丁度良い姿であった。本性も裏も見せない父にも、昆虫を採ろうとした時代があったんだろうなと微笑ましくなる。穂乃果は「山登りするの?」と寒そうに手と手をこすり合わせた。父は「見せたいものがあるんだよ、ここに越してしたかったこと」と前ばかり見る。暗さが増していき寒さも増す。父は「あと少しだ」と言うから僕も黙って前だけを見る。やがて、山頂と称するには低く物寂しい広場を見つけた。そこを目掛けて僕らは歩を進めると「ここだよ」と町を下にし見る。そこには住宅街や僕が通学する学校などの建物が点々と光を灯していた。まだ寝ていない人達が何かを作業し町に明かりを灯す。それは人数の問題は関係なくして以前の町も同じだった。しかし、空には多くの星があり美しかった。そこに既視感を覚える。それと同様に「二人とも覚えているか不安なんだが、一回此処に来たことあるんだ。まだ妻も生きているにな、その後に亡くなってしまったから此処が最後の出かけた場という訳だが。穂乃果なんて言葉すらをも理解していないような状況だったからどうだろう、覚えているかい?」と父は僕らに問いかける。ああ、言われれば分かるものか。思い出した。夜のドライブだなんて硬派な父が許すものじゃなかったんだ。だからあの時は最初で最後であった。しかしそれは新しく記憶と思い出の中に登録された。夜、ドライブなんかじゃないけど立派な夜遊びをここで果たした。
「思い出したよ、今も変わらないな。景色は。どうも心を揺るがす。寒くて悴んだ手も蘇るほどだ。ここだったんだね。」
 父は僕を見て「覚えていて良かった」と笑顔になった。僕を見る瞳は何かと重ねてみるように、僕を見ているのに僕を見ていない。僕は良く母に似ていると言われた。少し年齢にしては幼い顔をしてい、可愛らしいと。きっと父は僕と母を重ねてみているのか。
 穂乃果は不満そうに「それじゃあ分かんないよ!穂乃果の小さいときの記憶はありませんっ!」と気を張って言うと、僕も父も笑った。もう明日がどうとか以前がどうとかどうでも良くて、ただここに来て家族と一緒にいて母の話をして……それだけで嬉しいと感じれる、そんな僕はなんて幸せ者なんだろう!
 それがどう長く続かなかろうと今は幸せ。先がどうであろうと、いつか死んでしまうかなんて誰にも分かりやしない。それなら今を存分に楽しめばいいのだ!
 そう考えてみればなんだっていいんだ……明日なんて分からなくて当然だ、その場その場を大切に生きてみよう。
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