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りんごジュース

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 夕食後、客室のバスルームでいつものようにノアに髪を洗ってもらい、スキンケアまですっかり終えたところで、部屋の扉がノックされた。

「ノア様へご伝言だそうです」

 扉の外で取り次いでくれたレヴィが、そう言ってノアを呼んだ。

「わたくしですか?」

 怪訝に眉をひそめたノアが、手にしていたりんごジュースのボトルを置いて扉のほうへ向かう。そこに立っていたのは、エレインの侍従だった。

「エレイン様がお呼びです」
「エレイン様が?」
「晩酌に付き合えと仰せで……」
「……困ります、まだ勤務中ですよ」

 そこをなんとか、と頼み込むエレインの侍従のほうも、無茶を言っていることはわかっているのだろう。だいぶ心苦しそうな顔をしている。他のあるじに仕えている侍従を私的な目的で呼び出すなど、いくら王妃であっても相当に無礼な振る舞いだ。
 とはいえ、リトはもういつでもベッドへ潜り込める状況だし、ノアに頼みたい仕事もない。

「ノア。おれのことは大丈夫だから、もう下がっていいよ」
「しかし……」
「たまには、ノアものんびりお酒飲んできなよ。せっかく旅行に来てるんだしさ」

 ノアは仕事として付いてきているので行楽気分のリトとは違うだろうが、どうせなら息抜きしてほしい。エレインのほうも、ノアに酌をさせるためにわざわざ呼び付けたわけではないだろうし、積もる話があるのかもしれない。
 ノアは逡巡したのち、リトに向かってきれいに頭を下げた。

「……ご配慮痛み入ります。それでは、本日はこれで下がらせて頂きます」
「うん、楽しんできてね」

 困った顔でほほ笑んだノアは、去り際、レヴィにそっと声をかけた。

「あとのことはお願いいたします」
「はい」

 ノアが部屋を出て行くのと入れ替わりに、レヴィが部屋に入ってきた。扉の横に背を伸ばして立つ。

「ひとりでも平気なのに」
「おひとりになられたいのであれば、廊下へ出ていますが……」
「そういうわけじゃないけど」

 真面目なレヴィに苦笑して、リトはテーブルの上に置かれていたりんごジュースのボトルを手に取った。りんごジュースを気に入ったリトのために、邸の執事が届けてくれたのだ。ラベルが違うものが二本あるのだが、作っているところが違うのだろうか。

(どっちでもいいか)

 リトは特に気にせず、手前にあったボトルの封を切った。ふわんといい香りがする。ノアがグラスと氷を用意してくれていたので、自分で注いだ。

「レヴィも飲む?」
「いえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」

 色味は先ほど食堂で飲んだりんごジュースとよく似ていたが、飲んでみるとこちらのほうが濃厚だった。かすかに蜂蜜のような味もする。後味がほんのりと苦くて、それもリトの好みだった。

(おいしい)

 こくこくとあっという間に飲んでしまって、リトは二杯目を注いだ。

「レヴィはどこで寝るの?」
「ここの隣に部屋を頂いています」
「そうなんだ。クルトゥラには来たことあるんだよね」
「はい。陛下の護衛として何度か」

 国王が王宮にいるときは、ワイン祭りにも参加していたらしい。国王の護衛は、騎士団から選抜された近衛騎士たちが務めることになっている。レヴィは十代のうちから近衛騎士に選ばれるほど優秀な騎士だった。

「レヴィはすごいね。おれとそんなに年齢変わらないのに」

 リトは早生まれの二十一歳で、レヴィは今年二十五歳になるらしい。ゲームのほうの『マグナルク』はキャラクターの詳細なプロフィールを公表していなかったので、誕生日もわからなかったし、二十代であることしか知らなかった。

「いえ……俺には、剣しかなかったので」
「そんなことないよ。レヴィは強いし、かっこいいし、きれいだし、すてきな騎士さまだよ」

 二杯目も飲み干したグラスをテーブルの上へと置いたところで、リトはふと自身の異変に気がついた。

(あれ? なんかふわふわする)

 心なしか顔も熱い。おかしいな、と思いはしたのだが、ふわふわするのが気持ちよくて、なんでもよくなってしまった。




 エレインの客室のテラスからは、丘の裾野に広がる街の明かりがよく見えた。

「そんな顔すんなよ」

 琥珀色の液体がたゆたうロックグラスを手に、エレインは向かいの椅子に腰を下ろしている元侍従へ目を遣った。

「……どのような顔ですか?」
「リトとの甘~い夜を邪魔されてものすごく不機嫌ですって顔」

 勤務時間外のノア・チェンバレンは、それでも使用人の顔を崩さずに「ご冗談を」とほほ笑んだ。

「王宮じゃ堂々と呼び付けることもできないだろ。こういうときくらい、元あるじに付き合えよ」
「わざわざわたくしなど呼ばずとも、あなた様と酒を酌み交わしたいと思っている者は大勢いるでしょうに」
「俺と寝たいだけのご機嫌取りと飲むくらいなら、そのへんの石ころと飲んだほうがマシだよ」

 王妃たちは、愛人を持つことを国王から許されている。王族には数えられないし、手許で育てることもできないが、それでもよければ子を持つことも可能だ。エレインはその経歴もあって、息をしているだけで愛人希望者が湧いて出てくる。巷では四の妃には愛人が五百人いるとか言われているが、まったくそんなことはなく、唯一愛人と呼べるのは聖獣ヴォルフだけだった。

「リトんとこでは、うまくやれてるみたいだな」
「はい」

 ノアは素直に頷いた。その穏やかな顔を見れば、彼がいま満ち足りた暮らしを送れているのだとわかる。よい主人に巡り会えてよかった、とエレインは心の底から思った。
 よく可愛がって育ててやった彼を生まれたばかりの第十王子の宮へ送り出したときは、まさかあんなことになるとは思いもしなかった。

「……悪かったな。なんにもしてやれなかった」
「いいえ。すべて、自分で決めたことですから」

 エレインが手ずから作ってやった水割りを、ノアはしずかな横顔で飲み干した。




「……リト様?」

 ふと、レヴィに名を呼ばれた。扉の横に立っていた彼が、つかつかと足速に近付いてくる。

「失礼いたします」
「ん~?」

 おぼつかない手つきで三杯目を注ごうとしていたリトの手から、レヴィがボトルを奪い取った。ラベルを確認したその顔が険しくなる。

「レヴィ、もっと飲みたい」
「だめですリト様。これはリキュールですよ。お酒です」
「お酒でもいいよお」
「お顔が真っ赤ですよ。あまりお強くないのでしょう? これ以上はよくありません」

 こんなに飲みたいと言っているのに、どうして意地悪するのだろう。レヴィはいつもリトにやさしいのに、リトのことを好きなはずなのに。
 リトはこの時点で相当酔っていたのだが、本人にはまったく自覚がなかった。

「おれがえっちでだめなやつだから、レヴィはおれのこときらいになっちゃったんだ」
「えっ?!」
「子宮だってできちゃったし、おしりいじられていっぱいいっちゃうし」

 ヴォルフが邸にやってきたあの日、脱衣場にいたレヴィにはしたない声を聞かれていたことを、実のところリトはずっと気にしていたのだ。酔って理性の箍が外れてしまったことで、リトはいつも抑えこんでいる後ろ向きで自信のない己の本音を制御できなくなってしまった。

「おれ、おれがっ、淫乱だから……っ」

 みるみるうちに涙が込み上げてきて、一瞬で決壊してしまった。子どものようにしゃくり上げて泣き始めたリトの両肩を、レヴィの両手がやさしく包み込んだ。

「俺があなたを嫌いになるなど、あり得ません」

 穏やかな、けれど真摯な声がそう言った。剣だこのある手のひらが、リトの濡れた頬をそっと拭ってくれる。

「ほんとに……?」
「本当ですよ」

 やさしいそのほほ笑みをじっと見つめて、リトはこてんと首をかしげた。

「じゃあ、おれのこと、すき?」
「す……っ」

 びくっと肩を跳ね上げたレヴィの顔が、あっという間に真っ赤になった。

「す……好き、です」

 レヴィの言葉に、リトはたちまちうれしくなってはにかみながら笑った。頭がふわふわして気持ちがいいし、嫌われていなくてほっとしたのだ。

「えへへ」
「り、リト様……っ?!」
「ぎゅ~しよ、ぎゅ~」

 両腕を伸ばして、腰を屈めているレヴィの首の後ろへ両手を回す。あからさまにうろたえながら、レヴィはリトをおずおずと抱きしめ返してくれた。
 酔っているせいでひと肌恋しくなっているリトは、遠慮なくレヴィに命じた。

「もっとぎゅってして」
「こ、こうですか……?」
「うん……レヴィ、あったかいね」

 リトが抱きついているせいで彼の体温が上がっているのだが、盛大に酔っ払っているリトにはわかるはずもなかった。
 そうして、頬を赤く染めたあどけない聖獣は、自らの騎士に身体をすり寄せながら無邪気に言った。

「ね、レヴィ。いっしょに寝よ?」



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