私が小説を書くときは

富升針清

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黄金の臆病風

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「先輩っ!」

 私は、窓の近くで青ざめた顔で呆然と立っている子を払い除けて窓へ身を乗り出す。

「せん、ぱい……っ!」

 私の原稿のせいで、先輩がっ!
 ここは三階の教室。いくら下が土であっても怪我は免れない。もし、運悪く花壇ではない場所に落ちてしまっていたら。
 そんなことっ!
 
「……先輩?」

 祈る気持ちで下を見れば先輩の姿がない。
 どこにもないのだ。
 え? 何で!?
 まさか、もう誰かに運ばれて!? 大怪我してるから!?
 最悪な可能性が頭をよぎる。そう思ってしまえば他のことはなにも考えられない。
 いても立ってもいられなくて、私は教室を飛び出して外に出た。靴を履き替えることも忘れ、ただただ先輩の無事を願って走った。疲れていることも、何もかも全て忘れて。
 既に私が振り向いた時は誰も教室にいなかったことすら、今の私にはどうでもよかった。
 あの子達がどこに行ったのかなんて、今の私には関係がなかったし、興味すらなかった。
 あの子達への激しい怒りなんてどうでもいいことのように思えて、その気持ちすら一瞬で吹き飛んでいく。
 先輩っ!
 ただ、私は先輩のことだけをひたすらに考えていたのだ。

「やっぱり、いない……」

 あの教室の真下についても、先輩の姿はなかった。
 誰に、誰に聞けばいい? 誰に話せば、教えてもらえる?
 人影のない周りを見渡しても、聞ける人物すらどこにもいない。
 運ばれたら、保健室? 保健室よりも、職員室? 職員室なら、先生たちがいる。
 もう、職員室に行くしかない。
 先生を呼ばなきゃ。私では、何もできない。
 私が急いで校舎に戻ろうと振り返った時だ。

「伊鶴っ! 原稿無事だぞ!」

 先輩の声がする。

「……っ」

 振り返ると、あの窓の前に立っていた木から先輩が飛び降りてきた。

「先輩っ!」
「木の枝にひっかかって汚れでもないっ! 出せるぞっ! これっ!」
「今は原稿なんて、どうでも……っ! 私、先輩が……」

 先輩が窓から飛び出した方が、何倍も、何百倍も怖かった!

「いいわけないだろっ! あれだけ戦ったんだ、伊鶴が頑張ったんだっ! 急げばまだ間に合う。行くぞっ!」

 強く手を引かれ、先輩が走り出す。

「せ、先輩、怪我は!?」
「え!? ないけど!?」
「何で!? 三階から飛び降りましたよね!?」
「降りたけど、落ちたってよりは飛び移ったって感じ! あのまま枝の間に挟まってたら取るのも時間がかったし、結果的には良かったよ」
「良くないですよ! 私、先輩が死んだと思ったじゃないですかっ!」

 姿が見えない時、もしかして死んだのかって思ったじゃないか!
 飛躍してるし、あり得ないって笑われるかもしれないけど、そうなってもおかしくなかったし、この人はそれだけ危険なことをしたんだっ! それが分かってるの!? 信じられないっ!

「それはごめん。でも、俺が取り返すって言ったから! 伊鶴の頑張った結果のこの原稿だけは守りたかったんだよっ!」

 なんだ、それ。まったくもって、うれしくない。うれしくなんて、ない。

「私は、先輩が危ない方がやだぁ……」
「それは、本当にごめんな。後でいっぱい怒られてやるから、取り敢えず走れっ! 郵便局行くぞ!」
「えっ!? でも、私財布とか何も持ってないですよ!」
「俺が持ってるから安心しろ! 今ならまだ間に合うからっ!」

 私達は走る。夕陽が迫る向こう側に。
 二人とも校内スリッパのままだし、私なんて何一つ持ってないのに。ただ、原稿を出す。それだけのために、こんなに必死に。 

「間に合わせるぞっ」

 私が書いた小説が、羽ばたくために。

「はいっ!」

 先輩に手を引かれ、私達は走り抜けた。

 ✳︎ ✳︎ ✳︎

「あと、五分っ! 間に合った!」

 走り切った。やっと、私達は最終目的地まで手が届いたのだ。
 後は、原稿を出すだけ。それだけで、いままで頑張ってきた全てが終わる。
 そんな時、人は感慨無量に胸が躍り感極まるのかもしれない。今までの努力を思い出しで、やりっきったことに心震えるかもしれない。それとも、今まで多くの時間を共に過ごした寂しさを、空に例えて感動を覚えるかもしれない。
 でも、私はどれも違った。感慨無量に感極まらないし、努力をおも思い出して、奮う気持ちもない。まして、寂しさを空に例えるなんて気持ちすら、何一つ起きなかった。
 私におきたのは、そんな心地のいい風ではなかった。
 ただのジメジメとした、仄暗く鬱憤とする信じられないほど、それは見知った顔だった。

「伊鶴?」

 先輩が私の名前を呼んでくれる。
 けど、返事を返す声が出ない。
 私に巻き起こったのは、臆病風だ。
 こんなに、こんなにも努力したのに!? こんな所で!?
 頭の中ではわかっている。もう、出すだけ。ここに怯えることなんて何もないだろ!? 振り返ることなんて、何一つないだろ!? そう言って私が私に正論を振りかざしているけど、私の体は動いてくれない。
 頭が何度呼びかけようとしても、心が何も答えてくれない。
 蹲って、顔を伏せて、耳を塞ぎ、奥歯を食いしばるだけで、動こうともしない。
 今まで、結局のところ私は現実味を何一つ感じていなかったのだ。本当に、小説を賞に出すという事を。誰かに必ず読まれて、何らかの評価を与えれられる事を。
 直前になって、現実が私に追いついてきたのだ。
 いや、違う。私が、現実に追いついてしまったのだ。

「どうした? もう時間が……」

 先輩が、私の肩を掴む。
 一瞬、呼吸が引き攣った。
 この感覚は覚えがある。私が小説を書いてるとクラスにバレた瞬間に覚えた感覚だった。
 あの時、私自身が恥ずかしいよりも先に自分小説が笑われるんじゃないかと思った恐怖。

「わ、私、自信がなくて……」

 怯えた手が、何とか先輩の袖を掴む。
 これは、否定される恐怖だ。
 私の作品を、否定される事に今更ながら心が怖がってるんだ。

「やっぱり、ダメで……、自信がなくて……」

 あれだけ、自信を持っていたのに。あれだけ変わったと思っていたのに。
 臆病風がたちまち気まぐれで一吹きしてしまえば、薄く脆い自信達が音を立ててカラカラと飛ばされてしまう。

「本当に、私なんかが出していいんですか……? 気持ち悪いとか、あの子達も言ってたし、こんなことが合った後なのに……。酷い話を書いてるかもしれない、醜悪な文章かもしれない。読む価値もないものを、私は……」

 頭がぐるぐるする。目の前が歪む。
 現実が、目の前にある。私の小説を否定されるかもしれない現実が。
 怖さが、足元から背中に這いあがり、何て無駄なことをしているんだと嘲笑う声が聞こえる。そして、耳元で囁くのだ。
 ああ、こんな話、読まなければよかった!
 面白くもなんともない! 皆んな身内だから褒めるんだよ!
 あーあ。まだ私の方が上手く書ける。これを何で人に読ませようと思ったの!?
 嫌な汗が噴き出してくる。
 ネトリネトリと、私を閉じ込める膜のように。

「伊鶴」
「ごめんなさい……っ」
「自信を持てとは言わない。けど、もう私なんかとか、言わないでくれよ。俺は、主人公が自分の気持ちに向き合いきれなかったところ好きだったよ。あの時の諦めさえも前向きに持って行ったのは、流石だと思った。あれだけの恋愛を、いつも優しく丁寧に見守る様に書き表せるのは伊鶴だけだと思う。俺は、読めて良かったよ。ただのアンズのファンとして。俺がそう思うくらいなんだから、自信がなくても出してみなよ。アンズの小説通さない奴は見る目ない奴って、言っただろ?」

 え?
 何で……?
 何で、先輩が……?

「ほら」

 先輩が、私に原稿の入った封筒と財布を渡す。

「小説書いてる奴は単純で嫌になるよな。苦悩とか、戸惑いとか、絶望とか、諦めとか全部、読者の反応一つで吹き飛んで全部が覆るんだから。伊鶴、お前もだろ?」

 先輩が、私の背中を押す。

「行ってこいよ。ここに伊鶴が言う私なんかのの大ファンが待ってるんだから」

 押し出された一歩が、地面を力強く蹴る。
 そうだ。いつもよ、読んでくれていた。読んでくれていたあなたは、一度も私に読まなければ良かったなんて、言わなかった。
 先輩の言う通り、臆病風が黄金色の風に色を変えていく。
 この小説を好きなってくれた人が、ここに一人いる。それだけで。それだけで、小説を書いている自分には十分だった。

「い、行ってきます!」
「うん。待ってる」

 もう一歩、もう一歩と。
 私は、また、走った。

 ✳︎ ✳︎ ✳︎

 郵便局に入れば、後は流れるように出す作業はすぐに終わった。
 実に呆気なかった。何で私は怖がっていたんだろう。全て終わって、自動ドアが開いた時にそう思くらいに。
 そこに高揚感も悲壮感も何もなかった。本当に、何もなかった。それはそうだ。私は、小説を書いて出しただけなんだから。急に霧が晴れて、当たりを見渡しても何もないに決まってる。

「お、おかえり。出せた?」
「はい」
「お疲れ様」

 そう言って、郵便局の向かいあるバス停のベンチに座った先輩が私にココアの缶を差し出した。

「ココア……」
「よく飲んでたじゃん。冬にだけど」
「ああ……。言ってましたね。モモちゃんに」

 私は、ココアの缶を受け取り、先輩の隣に座る。

「……先輩は、モモちゃんなんですか?」

 先輩の方を向かずに、私は口を開いた。
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