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プロローグ

理不尽な八つ当たり

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  八月某日。夏季休暇明けの社内はどこか緩んだ空気が漂っていた。クールビズやらSDGsやらのせいだろうか。フロアの空調が26度に設定されておりやや暑い。ついさっき戻ってきた営業が首掛け扇風機をかけながら冷房の風が直当たりする場所でうちわで扇ぐぐらいの猛暑だ。

 それなのに私を含め3人しかいない6名掛けの会議室が凍えるぐらい寒いのはどうしてだろう。私は恐る恐る対面に座る千秋柾哉ちあきまさや先生を見つめていた。

 ナチュラルなダークブラウンの髪は緩やかなウェーブヘア。シルバーフレームの奥の目元は優しげで、綺麗に整えられた眉から繋がる鼻筋はとても知的な印象を受けた。つまり非常に好印象。第一印象は「知的で優しげで穏やかそう(そのまま)」だった。さすが精神科を専門にされているだけあり、まとう空気も柔らかく何でもぺろっと話してしまいそうだ。

 しかし和かな空気は長くもたなかった。弊社、フィックスの状況を話し、今後の展望を説明していれば彼から発せられるブリザードに身も心を竦んでしまった。段々と口数が少なくなり優しげな目元が冷ややかに変わる。最後は呆れたように小さく溜息を吐いてにこりと笑みを作った。

 「私以外にも産業医は沢山います。失礼ですが、貴社のような状況では誰がやっても同じでしょう。でしたら私ではなくてもよろしいですよね」

 表面上は微笑んでいるのに目が全然笑っていない。むしろ咎めるニュアンスすらある。思わず背筋がシャンと伸びた。ブァアアアと汗が止まらない。

 「あの、」
 「あなたのせいではありませんよ。こういう状況なのに、会社の方針に口出しできる管理者が同席していないことが問題です。つまり、その程度の意識でしょう。他をあたってください」

 言い訳の隙もなく、千秋先生は椅子を引くと「お見送りは結構です」と冷淡な言葉と共に立ち上がった。出したお茶に一切手もつけず、会議室の扉を開ける。

 「ち、千秋先生!」

 それに慌てたのは、千秋先生を紹介してくださった人材紹介会社の営業担当である宇多川うだがわさん。額の汗拭いながら「いただきます!」と大急ぎでお茶を飲み干して追いかけた。

 いくらお見送りはいらないと言われても鵜呑みにするのは良くないことぐらいわかっている。背中の汗が引かないまま、一歩遅れて慌てて追いかけた。会議室を出てオフィスのエントランスからエレベーターホールに向かう。ちょうどエレベーターが到着するベルの音が聞こえた。

「福原さん、後ほどご連絡します!」
「は、はい!」

 ご足労いただいたことに関する感謝の言葉も伝えられないままエレベーターの扉が閉まる。慌てて頭を下げてなんとか体裁だけでも取り繕うことには成功したと思う。

 しかし。

 「…なにがどうなの」

 千秋先生が怒った理由がわからない。一般社員、しかも営業部から人事労務部に異動してまだ一ヶ月の私にそんなこと言われても、と思う。

 「なんだか腹が立ってきた」

 お互い良い大人だ。ちゃんと怒った理由を説明してほしい。うちの何がダメだったのか理由が分からないと直しようもない。とりあえず宇多川さんからの連絡を待とうと、ずっと下げていた頭を上げる。エレベーターの階表示のランプはすでに1階に到着していた。

 宇多川さんから連絡があったのはそれからすぐのことだった。
 千秋先生とはすでに別れてまだビル内にいるとのことだったので再びオフィスまでご足労いただいた。そして今、先ほどの会議室で話をしている。

 「いやー、すみませんでした。先生が少々というかかなり熱量のある方で」

 宇多川さんの説明によれば、千秋先生からは元々「意識の低い企業の紹介はしないで欲しい」と言われていた。
 しかし、宇多川さんが私の話を聞いて紹介してしまったという。

 「先月異動されたばかりで他にも業務がある中、産業保健の重大さに気づき問題提起されて行動された福原さんに感銘いたしまして、そのお話しを千秋先生にさせていただいたんです。福原さんからお電話頂く前にちょうど千秋先生とお話ししていたのもありまして、”これはもう千秋先生案件だ”と貴社の状況をきちんと把握せずにお話ししてしまいました」

 この国で企業が企業活動を継続していくためにはあらゆる法律を遵守しないといけない。

 その中で、従業員の健康管理も企業が守るべく法令のひとつだと随分昔から法律で決まっている。しかし、近年国内でメンタル不調による休職者や自殺者が増え続けていた。

 その傾向から国は“ストレスチェックの実施義務”や“パワハラ防止法”などあらゆる政策が大企業だけでなく中小企業でも義務付けられはじめた。

 これらはすべて従業員が心身共に健康で長く働けるように配慮するためのもの。「働き方改革」「健康経営」「メンタルヘルス」なんて言葉は大人なら誰もが耳にしたことのある言葉だろう。

 それでも現実問題、法令でそのように制定されているにも関わらず遵守できていない企業が多い、と宇多川さんからつい先日聞いたばかりだ。
 
 ちなみに法令を守っていない企業には労働基準監督署から指導が入り、時には罰則や罰金などの処罰対象になる。

 そして、弊社、フィックスはその法令の遵守ができているようでできていなかったグレーゾーンにいることがつい先日発覚した。

  具体的に言えば、法律上、常時使用する従業員が50人以上いる事業場では必ず“産業医”を選任しないといけない。弊社は一応産業医は選任されてはいたものの、ただそれだけで実際に機能されていない状態だった。

 産業医は原則月に一度は企業を訪問し職場内を巡視したり、衛生委員会を開催し健康教育をしたり、不安や悩みのある従業員と面談をしたりとあらゆる健康管理業務に対応することが必要とされている。

 それなのに、訪問もなければ面談もしていない。健康診断の就業判定は辛うじてしてくれているようだけど、それも忘れた頃に返事があるぐらいのいい加減さ。フィックスは大阪と名古屋にも支社があるけど本社がこのような状態なので当然のごとくこちらも何もされていない。

 「これはダメなのでは?」と前任者から引き継いだ方に確認したところ、彼女は忙しくてそこまで手が回っておらず引継ぎ書も目を通さないまま私に引継いだ。「私に聞かれてもわからないから自分で調べてね」と言って。

 よくも今まで労基署から指導が入らなかったもんだと内心恐々としながら情報をかき集め、直属の上司でありフィックスの代表である獅々原真央ししはらまおさんにこの件を報告した。

 彼に現行の産業医のことを訊ねてみると「そう言えば」と言った風な様子で「付き合いで紹介されてそのまま選任したんだったな…」と眉間に皺を寄せながら教えてくれた。

  私が情報収集に走り回っている間に獅々原さんは今の産業医と連絡をとってくれたものの「臨床医としての仕事が忙しく、今以上の業務を求められても対応できない。それなら辞める」と言われた。
 
 つまり辛うじて首の皮一枚繋がっていたものが繋がらなくなってしまう。慌てて複数の紹介会社に資料請求をして電話で状況を説明する。

 そのどの会社からも「すぐにでも産業医の交代した方がいい」とのことだったので本日産業医の先生を実際に紹介してもらうに至った、のだけど。

 千秋先生は怒って帰ってしまわれたのだ。

「これは推測ですが、千秋先生の中で事前情報だけでハードルが上がってしまっていたんだと思います。千秋先生も仰っていましたが福原さんに落ち度はありません。それに企業様によってフローは異なりますので先生のご理解もまだまだ浅かった、といいますか…」

 つまり要約すると、宇多川さんが千秋先生に説明したことにより先生の期待値が上がり、実際に話してみて中身がそぐわなかったことでガッカリしたということだ。

 私も「このままじゃ処罰の対象になるかも」という恐怖のまま突き動かされただけだったので具体的に産業医の先生が交代された後のことまで考えていなかったのも悪かった。

 でもその辺りは実際に契約が始まってからでもよかったのでは?なんて思ったりもしたんだけど千秋先生はそれが気に食わなかったようだ。

 「勝手に期待して失望されてもって思いますよね。あはははは」

 どんどんと頭が下がる私を見て宇多川さんの声がうわずった。半分はあなたのせいでしょう!と言いたいのを堪えたけど、私はどちらかというとあんな凄い人に期待してもらって応えられなかったことに落ち込んだのだ。
 
  千秋柾哉ちあきまさや、33歳。日本最高峰の大学の医学部を卒業後同大学病院の精神科に勤務し、今は複数の企業を受け持つ人気の産業医。

 この若さでいくつもの学会で論文を発表し、賞を受賞したり、講演会に登壇している。見た目が整っていることもあり、最近は雑誌の取材も受けメディアの露出も増えているらしい。つまりこの業界ではまあまあ有名な先生だ。

 そんな殿上人のスケジュールにたまたま空きが出た。アグレッシブでフットワークの軽い先生らしく「何か良い求人があれば」と宇多川さんに連絡をくれた直後に私から連絡があったという。

 「宇多川さん、千秋先生のスケジュールはそのまま抑えておいてもらうことはできないでしょうか」

 ______貴社のような状況では誰がやっても同じ。

 そう言われてちょっとというかだいぶ悔しかった。だって勝手に期待して失望されるなんて腹が立つ。
 
 童顔で背も低いせいで舐められやすい私だけど負けん気だけはある。見返してやりたい。

 「それは…申し訳ございません。お約束いたしかねます。ちょうどこれからの時期、依頼が増えてくるので千秋先生の希望する条件に合う企業案件がありましたら私以外の担当が紹介しますので」
 
 宇多川さんの正論に項垂れる。

 そりゃ、うちよりもポジティブな案件が入ったら紹介するよね。
 だってビジネスだし。感情じゃないよね。
 
「そ、そうですよね…」
「でも、もし福原さんがその気でしたら千秋先生と再度お時間調整することはできますよ」

 宇多川さんの言葉に下を向いた頭が上がる。

「先生をギャフンと言わせませんか?そのためのお手伝いなら喜んで引き受けます」

 そもそも私の早とちりと言いますか、伝え方が…とモニョモニョ言っていたのは聞かなかったことにする。

 だってそれってうちが予想以上にやる気がなかったと聞こえるから。


  

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